少年プリズン

まさみ

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九十八話

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 手首を掴まれひきずられる。
 お袋と立場が逆転した。廊下に膝をついて取り残されたお袋が放心状態で見守る前で、客は俺の意志なんかはなから無視して、拒否権なんか完全無視で、肩が抜けそうな勢いで寝室にひきずりこもうとしてる。
 スダレ一枚で仕切られたお袋の仕事場、日常俺が足を踏み入れるのを極力避けている、薄暗がりに生臭い臭気がただよう男と女の情事の現場。首根っこを掴まれて軽軽と寝台に放り出される。
 お袋がいつも男と乳くりあうのに使ってる粗末な寝台だが、さすがに寝心地は悪くないなと混乱した頭の片隅で漠然と考える。
 俺は寝台に寝たことがない、寝台はお袋専用で物心ついた頃に俺に与えられた寝具は汚い毛布と枕だけ。
 眠くなったらお袋の目の届かない部屋の隅に行って毛布にくるまれば事足りる、こんな寝心地がいい贅沢なもの使わせてもらったことはない。風邪をひいたときでも。
 外から帰った直後でまだ脱いでもいなかったジャンパーを鼻息荒く男が剥がしにかかる。ようやく俺もこれから何されようとしてるのかわかった、わかりたくなかったけどそれしか考えられない。くそ!
 手足を振りまわして死に物狂いで抵抗、ジャンパーをひっぺがしにかかる男の手から逃れようと無我夢中でつま先を跳ね上げる。顎に命中。顎を蹴られた男が大きく仰け反った瞬間を逃さずにベッドから転がり落ち、膝這いの姿勢から立ち上がり廊下にかけだしかけ……襟首を掴んで引き戻される。
 「お前でいいっつってんだろうが、暴れるんじゃねえ!」
 「俺はよくねえ!!」
 「風邪ひいたお袋助けてえんだろ?やり方はお袋と男がヤッてるとこ見て知ってんだろ、ベッドで目え閉じて足開いてりゃいいんだよ、なあに突っこむ穴がちがうだけでヤるこた一緒だ、大人しくじっとしてりゃいいんだよお客様の機嫌を損ねねえようにな!あんな淫乱女を母親にもってんならヤり方くらいわかるだろ、娘じゃねえのが残念だが我慢してやる。お前くれえの年ならどっちにしろ処女にゃちがいねーしな!」
 下品に哄笑する男の股間を、襟首を掴まれた姿勢から足でおもいきり蹴り上げる。捨て身の反撃が効いたらしく男が魂ぎる悲鳴をあげてうずくまり、襟首を締め上げていた手がゆるむ。しめた。 
 「死心奇的変人(あきらめろ変態)」
 伊達に喧嘩慣れしてない、こういう場合どうすりゃいいか、相手が男の場合どこを狙えばいいかは体に刷り込まれてる。挑発的な笑みで絶縁状を叩きつけ廊下に駆け出し、あたり一面に散乱した肉粽を素早く拾い上げて紙袋につめなおす。今は家にいないほうがいい、どこか適当なところで時間を潰そう。今晩の夕飯を抱いて履きつぶしたスニーカーに足をつっこみかけ、廊下にお袋の姿が見当たらないことに気付く。
 「お袋?」
 いた。お袋は廊下奥の台所にいた、椅子にも座らずに板張りの床にうずくまって何かごそごそやってる。お袋の手元に注目する。片手に握り締めているのはプルトップを立てた缶ビール、もう片方のてのひらに握り締めているのは白い錠剤……正気かあの女、どこの世界にビールで風邪薬を流しこむ馬鹿がいる!
 「なにやってんだよアル中!!」
 スニーカーを蹴り捨てて台所にとって返す。転がるようにとびこんできた俺の方を見もせず、今まさに顔をあお向け、ビールで風邪薬を流しこもうとしていた女にとびかかる。紙袋を手近の椅子に置き、お袋の手から缶ビールと風邪薬をむしりとり、肩で息をしながら説教する。
 「んなことしたら風邪がなおるどころか悪化するだろうが、常識で考えりゃわかるだろ」
 「あんたまだいたの」
 ひどい言い草だ。苦しげに咳き込みながらも俺の手から缶ビールを奪い返そうとしてくる執念深いお袋、その手の届かないところに缶ビールを投げて部屋の隅に駆け戻る。俺が寝るときに羽織ってる薄汚い毛布でもないよりはマシだ、体をあたためることぐらいはできるだろう。手に持って引き返してきた毛布をむきだしのお袋の肩に掛けようとして突き飛ばされる。
 足がよろけ、尻餅をつく。毛布を体に巻いたお袋が般若の形相で吐き捨てる。
 「でてって」
 何?
 なんで俺がでてかなきゃいけないんだ、叫ぶ相手がちがうだろう。客に言えよ。正論の反論が喉元まででかけ、つっかえる。比喩じゃない、そのままの意味で。お袋が無造作に俺の胸ぐらを掴んで廊下をひきずり、家にあがりこんだ図々しい捨て猫でもつまみだすようにポイと玄関に放り出したのだ。鈴の鳴るような涼やかな美声をつぶし、嗄れた咳をしながらノブを押しては引き押しては引き、それを二度くりかえしてドアを開ける。合板のドアの隙間、外廊下から吹き込んだ刺すように冷たい冬風が顔を叩く。
 「でてけ」
 厄介者か疫病神を見る目で言い捨て、有無をいわせず俺を押し出す。
 「なんで……、」
 なんで俺が自分ちを追い出されなきゃいけないんだよ、こんな寒空の下。外側のノブを引っぱりドアの隙間に片足をつっこみ、施錠しようと頑張るお袋に抵抗する。状況はおれが優勢、男と女じゃ腕力に歴然とした差がある。大柄な客には歯向かえなくても細腕のお袋が相手ならドアを押し開くことぐらいたやす……
 舌を噛みそうな衝撃。
 駄々をこねるようにノブを引いていたお袋に加勢が入ったのだ、股間を痛打された衝撃から回復した客がにやにや笑いながら閉まりゆくドアの向こうに消えてゆく。ドアが閉まりきる前におれが見たのは勝ち誇ったように冷笑する男、その腕にしなだれかかるお袋。
 「再見(じゃあな)」 
 見せ付けるようにお袋を抱き、嫌味たらしく片手を挙げた男の姿が完全にドアの向こうに消え、
 ドアが閉じた。追い討ちをかけるように施錠の音が響き、ご丁寧に二重のチェーンまでかけられ、11月の寒空の下、俺は完全に閉め出された。呆然と外廊下に立ち尽くした俺は、台所の椅子の上に肉粽入り紙袋を置いてきたことを今になって思い出す。
 椅子の上に置き忘れた肉粽。立ち去り難い思いで外廊下にたたずんでいた俺はドア越しに聞こえてきた艶っぽい嬌声に身を竦ませる。
 「あんなでかいガキがいるなんて知らなかった」
 「かわいげない子でしょう。大嫌い」

 大嫌い。  

 「だってあの子、中国人の血が半分入ってるのよ。ぞっとしない?それにこんな汚い毛布、どうせ持ってくるなら寝台のきれいなやつを持ってくればいいのに気がきかないったらありゃしないわ。きっと父親に似たのね、ろくな大人にならないわよ。見てなさい、今に刑務所送りになるから」
 「ずいぶんな言い草だな、てめえが腹痛めて産んだガキだろう。もうちょっとやさしくしてやれよ」
 「なによ、やっぱり私よりあの子のほうがいいの?」
 「んなわけあるか、男より女がいいに決まってる。さっきのは悪ふざけ、ほんの冗談だよ。まあ顔は似てたし、下の口はともかく上の口で試してみようと思ったのは事実だけどさ」
 耳をふさぎたくなる下劣な冗談に頬がひきつる。
 「そうなの、じゃあさっさとヤッちゃえばよかったのに。仕込んでないから私ほど上手くないだろうけど」
 「そう拗ねるなって、お前がつれなくするからだよ」
 お袋も本気で拗ねてるわけじゃないんだろう、その証拠にドアの向こう、おそらくお袋の寝室兼仕事場からもれてくるのだろう会話は陽気に弾んでいた。
 「本当に使えないわ、あの子。女の子ならよかったのに、そしたら客とらせることもできたのに……」
 「男だってできないこたないだろ?」
 「特殊な環境と資質がそろわなきゃ無理よ。だいたい、」
 衣擦れの音、男と女の荒い息遣い。なにをしてるのかだいたい想像できる。
 「だいたいこんなイイ女が目の前にいるのに男に手をつける意味がないでしょう」
 「だな」
 男の首に腕を回し、服を脱がせるままにしてるお袋の白い背中が目に浮かぶ。
 沸々と、やり場のない怒りがこみあげてくる。
 風邪はどうしたんだよ。帰って欲しいって頼んだのはだれだよ。だから追い返そうとしたのに、本当に調子が悪そうだから今日は無理だって客を止めようとしたのに、酒かっくらって気が変わったのかよ。
 『かわいげない子でしょう。大嫌い』
 『だってあの子、中国人の血が半分入ってるのよ。ぞっとしない?それにこんな汚い毛布、どうせ持ってくるなら寝台のきれいなやつを持ってくればいいのに気がきかないったらありゃしないわ。きっと父親に似たのね、ろくな大人にならないわよ』
 『見てなさい、今に刑務所送りになるから』
 こめかみの血管が熱く膨張し、俺の中の何かが切れた。
  
 合板のドアを蹴り上げる。俺の存在を知らせるように、思い出させるように。

 ドアが震撼し、足が痺れた。
 片足を抱えて外廊下にうずくまりたくなるのを堪え、ドアの真ん中を睨みつける。無関心な沈黙。お袋があられもない半裸姿で出てくる気配はない。衣擦れの音に混ざって聞こえてきたのはかんだかい喘ぎ声、一定のリズムで寝台が軋む音。
 急速に馬鹿らしくなった、なにもかもが。
 ドアの前で踵を返し、お袋の喘ぎ声から逃げるように外廊下を抜け、足早に階段を駆け下りる。どうせ事が済むまでドアは開かない、何時間後かわからないがお袋が気まぐれを起こして鍵を開けてくれないかぎり俺は自分ちに入れない。
 断言してもいいが、俺が帰ってくる頃には俺が買い込んできた肉粽はお袋と客の胃の中で消化されてるだろう。
 未練があるとしたら椅子に置き忘れた肉粽だけだ、それ以外に何の未練もない。寒さを凌ごうとジャンパーのポケットに突っこんだ手がなにか柔らかいものに触れる。はっとしてポケットを探る。
 肉粽があった。
 これ一個きり。ひもじい夕飯になるのは覚悟したが、ないよりはいい。ずっとマシだ。アパートを後にしたその足で適当な路地にもぐりこみ、乾いた地べたを選んで腰をおろす。俺は空腹だった、家で味わって食べる予定だった肉粽をこんな寒空の下で頬張ることになった我が身を省みるとやりきれなくなるが食欲には勝てない。
 大口あけて肉粽を頬張ろうとして、猫と目が合う。
 いつのまに現れたんだろう、いや、最初から路地にいたのか。
 みすぼらしく薄汚れた毛並みの野良猫が物欲しそうに俺を、俺の手の中の肉粽を見ている。肉粽と野良猫を見比べ、唸るように言う。
 「やんねーぞ」
 だれが大事な夕飯を畜生にやるかってんだ。
 肉粽の笹をひっぺがし、ぽいとむこうに放る。待ってましたというように猫がやってきて地面に落ちた笹にへばりついた飯粒を舐める。
 そのさまがあんまりみじめでしみたれてたもんだから、肉粽を指でちぎり、ひとかけらを猫に投げてやる。思ったとおり猫はとびついてきて、殆ど一口で胃の中におさめてしまう。肋骨の浮いた、全身傷だらけの老いぼれ猫だ。
 「…………」
 肉粽を指でこまかくちぎり、投げる。くりかえし。あっちへ投げればよろよろと、こっちへ投げればよろよろと、ひとかけらの飯粒が投げられた方向に右往左往する猫の歩き方が面白くて笑っちまう。よぼよぼの爺さんだ、コイツ。ガキっぽいと自覚しつつ、ちぎっては投げ、ちぎっては投げを夢中でくりかえしてるうちに遂には何も掴めなくなった。
 手の中の肉粽が消失していた、跡片もなく。
 「……………………………………………………」
 俺は馬鹿だ。自分のぶんまで猫にやっちまってどうするよ、おい。
 投げ与えられる餌が尽きたことを野生の勘で悟った野良猫が悠揚と尻尾を振って路地の奥へ去ってゆく。
 「飯がなくなりゃ用なしかよ、愛想のない猫」
 畜生相手に呪詛を吐き、空腹から来るため息をつく。陰鬱な曇り空から吹いてきた風が頬をなぶり、ジャンパーの襟元をかきあわせる。肺が凍りそうに空気が冷たい。高さの不揃いな高層アパートが猥雑に密集し、不規則かつ無秩序な摩天楼の要塞と化したスラムの路地裏にうずくまって空を仰いでいたら頬にひんやりした薄片が触れる。

 六角形の雪の結晶だった。

 「マジかよ」
 マジだった。
 重苦しく雲が被さった曇天から音もなく雪が舞い落ちてくる、次から次へとひっきりなしに。両手を意味なく空にかざして雪を受け、ゆっくりと五指を畳む。開く。てのひらの体温があっというまに雪を溶かしてただのぬるい水へと変えてゆく。
 これ呑めば腹の足しになるかな。
 試しに舐めてみたら塩辛かった、水より汗の塩分のほうが勝っていたからだ。雪に降られ、舌先で塩辛い水を舐めとりながらお袋の捨て台詞を反芻する。
 『だってあの子、中国人の血が半分入ってるのよ。ぞっとしない?それにこんな汚い毛布、どうせ持ってくるなら寝台のきれいなやつを持ってくればいいのに気がきかないったらありゃしないわ。きっと父親に似たのね、ろくな大人にならないわよ』
 『見てなさい、今に刑務所送りになるから』
 「不可能把握」
 まさか。ありえない。だれが刑務所送りになるようなヘマをするか。
 俺は犯罪者にはならない、男娼にもならない。お袋の二の舞はごめんだ。不幸にも顔はお袋に似ちまったけど生き方と身の処し方まで似るつもりはない、顔も見たことない、愛着もわかない親父と同じ人生を送るつもりもない。まっぴらごめんだ。
 俺は少なくとも親父やお袋よりはマシな人生を送るつもりだ。
 好きな女にガキができたら放り出したりしないでちゃんと面倒を見る、気に入らないことがあるからって女とガキを殴ったりしない。
 立派な大人になれなくてもいいから、普通の大人になりたい。
 幸福な人間は平凡を嫌うけど不幸な人間は平凡に憧れる、好きな女と友人に囲まれた毎日なら平凡だってそう悪くない。俺は自分を不幸だと思いたくないが、腹の足しにもならない自己憐憫にひたる趣味もないが、殴らない母親と気楽に馬鹿騒ぎできる友達がいたら少なくとも今よりマシな毎日が過ごせる気がする。

 前者はもう手遅れだとしても、後者が俺にできる日は来るのだろうか。

 人けのない路地で膝を抱え、ジャンパーの肩に雪を積もらせながら自嘲の笑みを浮かべる。
 「まさか、刑務所でダチができるわけねえよな」
 お袋の言う通り俺が近い将来なにかへまをして刑務所に送られたとして、そこで俺に友達ができる可能性は万に一つもないだろう。当たり前だ、刑務所はやあやあで馴れ合って友達を増やす場所じゃない、目的のためには手段を問わずに生き残るための場所だ。
 
 でも。
 もし刑務所でダチができたとしたら、そいつはろくな奴じゃないと断言できる。
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