少年プリズン

まさみ

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九十五話

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 爆音と錯覚したのは都心を網羅した雨水管が下水道に合流し、すべてを押し流す濁流がコンクリートの堰から解き放たれた音。
白い水飛沫を撒き散らし、うねるように凶暴な流れとなって一挙に押し寄せてきた水を頭から被る。遅かった、間に合わなかった。少し離れた場所で足元を水にすくわれ、半狂乱の死に物狂いで逃げ回っているユアンたち。リョウの姿はなかった、一足先に逃げたのだろうか?
 「なんだよこれ、聞いてねえぞ!?」
 「リョウ、あのクソガキャどこ行ったんだ、俺たち見捨てて自分だけ逃げたのかよっ」
 「くそっ、あとで殺っ……」
 口汚く毒づいたユアンが濁流に呑まれて押し流される、ユアンの足が、胴が、胸が、首から上が水流に没してやがて見えなくなり、しばらくは頭上に突き出してもがいていた手が白濁した水に巻かれながら沈んでゆく。 
 僕は梯子にすがりついてそれを見ていた、肩を打つ濁流の水圧に耐えながら、なす術なく。
 「鍵屋崎!」
 頭上からの声で我に返る。サムライに叱咤されて梯子をよじのぼろうとした僕の視界の隅を何かがかすめる。 
 木刀だ。
 その瞬間、僕は片手で梯子を掴み、もう片方の手で木刀を掴んでいた。木刀を無事掴めて安堵したのも束の間、奥から押し寄せた水流の威力が一段と強まり梯子にかけた指がちぎれそうになる。
 だめだ、片手では限界だ、もうこれ以上梯子を握っていられない。
 でも両手は使えない、そんなことをしたら木刀が、サムライの木刀が―――――
 上に進むことも下に降りることもできない僕の顔面に大量の水が被さり、呼吸ができなくなる。苦しい、息がつづかない、大量の水を呑んで胃が膨張する。視界が暗く翳ってきた、もう限界だ、めぐみ――――――――サムライ。
 梯子から手が外れる。
 狭窄しつつある視界と意識の中、無数の泡を吐いて水中に没していた僕の顔が上方に引き上げられ呼吸が復活。梯子から離れかけた僕の片手を痛いほど握り締めていたのはサムライだった、あと少し、もう少しでマンホールどけられた出口へ達する地点にありながら単身脱出するのをよしとせず、渾身の力で僕の手を握り締めている。
 「手を放せ!」
 口を開くと水が流れこんでくる。喉に逆流した水にむせながら、叫ぶ。
 「巻き添えで溺死したいのか!?」
 「お前こそ手を放せ、両手で俺の手を掴め!」
 サムライが叫び返す、必死の形相と声音で。僕が見たこともない必死な顔で。
 できない。
 そんなことはできない、今手をはなせばサムライの木刀は流されていってしまう、サムライが朝夕丹念に磨いていた木刀が……それにサムライの手はひとを、大切なものを守るためにあるんだ。僕が、僕なんかが握っていていいはずがない。妹にさえ死ねばいいと願われている僕のような人間がすがっていていいはずがない、この手を握り返す権利がある人間は……
 『なえ』。サムライの大切なひと。今は亡き女性。
 水圧で腕がもぎとられそうになるのに歯を食いしばり抵抗、少しでも気を抜けば木刀を持っていかれそうになりながら刃を握る五指に力をこめ…

 「木刀よりお前が大事だ、直!!」

 頬をぶたれた気がした。
 サムライを見上げる。頭から水をかぶり、全身びしょ濡れになったサムライが、梯子の段に足と手をかけ、もう片方の手で僕の手を掴んでいる。必死の形相で、目に思い詰めた光を浮かべ。サムライの手が、指が、ますます強く食いこむ。けっして離さないという意志をこめ、たとえ水に呑まれ流れに没してもこの手を離すものかというように。
 木刀を握る手から力が抜けてゆく。
 ほどけた指の間を木刀がすり抜け、瞬く間に下水道の奥へと流れ去り、見えなくなる。
 「本当に、救いようのない馬鹿だなきみは……」
 強い眼光に魅入られるようにサムライの手に手を重ねる。指と指を絡め、固く固く握り締める。サムライが強く強く握り返してくる、すがるような一念をこめて、もうけっして離さないと誓うように。
 あの夜、『なえ』の名を呼んだときと同じ強さで。
 否、それ以上の強さで。 
 サムライに片腕をひきずられて梯子を這い上がる。丸く切り抜かれた明かりの面積が次第に大きくなる。下方で響いているのはコンクリートの壁を渦巻く濁流が削る轟音、ユアンたちの悲鳴は水音にかき消されて聞こえない。全員水に押し流されてしまったらしい、運がよければ途中の梯子にひっかかっているかもしれない……運がよければ。
 一足先に地上に出たサムライの腕を掴まれて引き上げられる。
 たった今自分たちが決死の思いで脱出してきたマンホールを覗きこめば泥濘の飛沫をとばしながら濁流が渦巻いていた。巻き込まれたらひとたまりもないだろう、地上に生還できたのが奇跡に近い。
 サムライがマンホールの鉄蓋を移動させ、円い空洞に嵌めこむ。
 耳元で響いていた轟音が薄れ、ようやく助かった実感が沸いてくる。こうして人心地がついた今も下方の下水道では凄まじい勢いで濁流が渦巻いている事実には変わりないがマンホールに転落して溺死する危険性はなくなった。
 安堵の息を吐く僕の眼前、妙に堅苦しく地面に正座したサムライが声をかける。
 「大丈夫か?」
 サムライがふいに手をのばし、僕の顎にふれる。僕の口を開けさせ、顔を近づけて中を覗きこむ。逆らう気は起きなかった、僕は気力体力ともに消耗していて指一本動かすのも億劫だった。そのままサムライのしたいようにさせる。
 「……口の中が切れてる。当分汁物は飲めないな」
 「べつにかまわない、この刑務所の味噌汁は味が薄すぎる」
 受け答えが微妙に噛み合わなかったのは頭が朦朧としていたからだ。長時間水に漬かっていたせいで疲労と衰弱がはげしい、微熱をおびたように体がだるい。ひょっとしたら熱があるかもしれない、体の表層は冷えているのに芯は火照っている。
 僕の顎に手をかけたサムライがじっと目を覗きこんでくる。
 「きみは握力が強いな」
 サムライの目を見ながら、ふと関係ないことを言う。
 「仮にボルトが緩んでいたとしても片手でやすやすと鉄パイプを引きはがすなんて最低80キロの握力がなければ無理な芸当だ。痩せて見えるが、着やせするタイプなだけか?」
 「配管の接着はもとから弱かった。俺がブルーワークの強制労働終了後も下水道に降りて修理していたからな」
 なるほど、腑に落ちた。最近サムライが房を留守にすることが多かったのはブルーワークの時間外労働のせいか。
 「だからお前が目測を見誤って木刀が配管に激突したとき、ひょっとしたらと……」
 「ちょっと待て、だれが目測を誤っただと?僕の計算は完璧だ、1ミリだって狂うことない、狂うはずがない。今ここで証明してみせよう、数字に強いと証明するには円周率の暗唱がいちばんだな。3.1415926535 8979323846 2643383279 5028841971……」
 「知っている、お前の計算はいつも完璧だ」
 それ以上僕にしゃべらせまいというように苦笑したサムライの目を見る。
 どこか気遣わしげな色を湛えた双眸には最前まで漲っていた殺気はない、在るのはただ、一途で真摯ないたわりの色。
 『木刀よりお前が大事だ、直!』 
 直……なお。それが僕の名前だ。僕が僕につけた、僕が僕である証。ずっと自分以外のだれかに認めて呼んでほしかった僕の名前。
 サムライは名前を呼んでくれた。
 必死の形相で、必死の声音で。
 顔を伏せる。手を握り締める。
 「……………………………………悪かった」
 自分でも全く意図しなかった台詞が口をついてでた。サムライが驚いた顔をする。虚を衝かれた顔のサムライと向き合っているうちに動揺が大きくなる。
 「……………………………………いや、僕がどうかしてた、忘れてくれ」
 何をうろたえてるんだ僕は、他人に謝罪するなんて僕らしくない。自慢じゃないが生まれてからこれまで恵以外の人間に謝罪を口にしたことなど一度もないのに、当たり前だ、僕はこれまでの人生で恵以外の人間に対して罪悪感をおぼえたことなど一度もないのだから。
 それなのにサムライの目を見ているうちに、顔を見ているうちに、どうしてもこの言葉を口にしたくなって、口にしなければいてもたってもいられない衝動にかられて。手紙を盗み読んで悪かった?過去を暴こうとして悪かった?そういう意味なのか、僕はそのことを気に病んでいたのか?だから自分でもはっきりそれと自覚しないで、でも、口にしなければいてもたってもいられない衝動をかきたてられてこんなみっともない、恥ずかしい台詞を吐いてしまったのか?
 羞恥で頬が熱くなる。失言を吐いたせいでサムライの顔が見られない、サムライの反応を確かめることができない。おかしい、顔だけじゃなくて体中が熱くなってきた、全身が火照っている。サムライが何かを叫んで体を起こす、聞こえない、なにを言ってるんだ……
 瞼が落ちるのと、均衡を失った体がだれかの両腕に受け止められるのは同時だった。

                              +


 子供の頃、風邪をひいたことがある。                                
 鍵屋崎夫妻は子供の体調の良し悪しなどにあまり関心を示さなかった、風邪をひいたら抗生物質を投与されて寝かされていた。……と言えば聞こえはいいが、実質放っておかれた。僕の看病は家政婦任せにして自分たちは研究を続けていたのをはっきりと覚えている。鍵屋崎夫妻は多忙だった、自分たちの長男が風邪で寝込んだとしてもわざわざ時間を割いて様子を見にきたりはしない。
 『私達がいても何もならないだろう』
 なぜ様子を見にこないのかと聞けば上のような答えが返ってくるだろう。正論だ。たしかに彼らがそばにいても何もならない、何もできないだろう実際的には。だから一度も見舞いに来なかったとしても彼らを責める気にはなれない、否、責めようなどという発想がはなからなかった。
 僕の家ではそれが普通だったから。
 彼らが心配するとしたら僕の頭の中身だけで、僕自身はどうでもよかったのだ。風邪をこじらせても肺炎を併発して死亡しないかぎりは頭の中身は正常に保存されるのだから。
 高熱と悪寒にさいなまれて意識朦朧とまどろんでいた僕は、その間ずっと誰かに手を握られていた。
 家政婦ではない。彼女には他に仕事がある、鍵屋崎由佳利が夫の研究助手として家を不在にしている間の家事は彼女の役目だった。額にぬれタオルを乗せたり錠剤を投与したり必要最低限の看病はしてくれたがやることを終えたあとはよそよそしく部屋を出ていってしまった。だから家政婦ではない、そもそも家政婦は僕が潔癖症だと自覚している。ドアノブの指紋さえ見過ごせないような病的に神経質で口うるさい、異常に扱いにくい子供の手をベッドの傍らに付き添ってずっと握っているはずがない。
 手を握っているのはだれだろう。
 薄目を開ける。
 その頃の僕はまだそれほど視力が低下してなかった、裸眼でもぼんやり物を見ることができた。ベッドの傍ら、僕の枕元にだれかがいる。毛布から突き出た手を握り締め、心配そうに顔を覗きこんでいるのは……
 恵。僕の妹。
 『おにいちゃんだいじょうぶ?』 
 僕が起きたことに気付いた舌ったらずな声が問いかけてくる。そうか、ずっと手を握っていたのは恵か。僕が起きるまでずっと……
 潔癖症の僕が、恵の手だけは何の抵抗もなく握り返すことができた。恵の手はちっとも汚くない、不潔じゃない。爪は清潔だ、肌はなめらかで少しも傷がない。やわらかくあたたかい、握り返すだけで安心感を与えてくれる手。
 人肌の体温が心地いいことを、僕はあの時はじめて知った。
 僕には恵がいればそれでよかった、恵の手があればそれでよかった。僕が安心して握り返すことができたのは恵の手だけだ。その手も今はない、失ってしまった。遠くへ行ってしまった。
 『さしのべられた手を取ることはできても握り返すのは無理か』 
 だれの手をとれというんだ?
 だれの手を握り返せというんだ?僕にはもうだれもいないのに。
 そうだ、僕にはもうだれもいない。だれも、だれも……
 じゃあ今この瞬間、ぼくの手を握っているのはだれだ?ぼくの手を握って離さないでいてくれるのは?
 僕よりひとまわり大きい、がっしりした造りの手。骨ばった指がやさしく手を握り締めている。
 恵の手じゃない。抉れたような刀傷のある男の手。
 「……………………」
 ゆっくりと瞼を持ち上げる。
 最初に目に映ったのは白く清潔な天井だ。絶え間なく汚水が滴る不衛生な房の天井とは全然違う綺麗な天井、壁紙の眩い白さが目に痛い。壁に沿って視線を下降させる。白い天井、白い壁。部屋中が白い。正方形の枠が縦横に交差した床には塵ひとつない。左右二列、等間隔に配置されたベッドを仕切っているのは病院でよく目にするカーテンの衝立だ。整然と並んだベッドとベッドの間に存在しているのは包帯や消毒液の瓶がきちんと整頓されて収納された中型の棚だ。
 そうか、ここは……医務室だ。
 以前東京プリズンに来たばかりの頃、左手薬指の怪我を診てもらいに訪れたことがある。僕が案内されたのは医務室の扉を開けた付近でそこには回転式の椅子が一脚と簡素な机、患者を寝かせる診療用の台があるだけだった。医師は人がよさそうな、しかしあまり腕はよくなさそうなメガネの老人で僕の左手の怪我を「たいしたことはない」と故意か善意かは知らないが自信ありげに断言してくれた。
 以来、僕は医務室を訪れてない。完治に二ヶ月を要した薬指のヒビを「たいしたことはない」の一言で済ませる医者など信用できるわけがない。
 にもかかわらず、今僕が寝かされているのは医務室のベッドの上だ。そうとしか考えられない。医務室以外に清潔なシーツと枕が用意されてる場所など東京プリズンに存在するはずがない。
 何故ここにいるのだろうと訝りながら視線を手前に戻せば、毛布の上に出た右腕に真新しい包帯が巻かれている。ちょうど痣を覆うように巻かれた包帯を目で辿れば、僕の右手を握り締め、メガネのおかれた枕元で熟睡している人物を発見する。
 サムライだ。
 瞬間、すべての謎が解けた。何故ぼくが医務室にいるのか?答えはひとつしかない、サムライが運んできたからだ。その証拠に枕元に上体を突っ伏してかすかな寝息をたてるサムライ、その背中の広範囲が生渇きの状態だった。全身ぬれそぼった僕をおぶって運んできたからにちがいない。
 霧が晴れるように頭が覚醒し、すべてを思い出した。
 リョウに呼び出されて下水道に赴いたこと、思い出すのも嫌な、おぞましい苦痛の再現。現れたサムライ。土下座。人質の首筋に擬したフォーク、鉄パイプを武器にユアンらを一掃するサムライ、そして……
 ひとつひとつ記憶を整理していた僕を現実に戻したのはサムライの呟き。僕の枕元に顔を伏せたサムライがくぐもった声で寝言を呟く。
 また『なえ』の名を呼んでいるのだろうか?
 なにげなく耳を澄ましてみる。サムライの唇がかすかに動き、開き、明瞭な声で。
 「……直」
 聞き間違いじゃない。
 サムライが呟いたのは僕の名前だった。東京プリズンに来た最初の日に僕がサムライに教えた名前……「なお」。「なえ」と一字ちがいの、サムライの大切な人と一字ちがいの名前。
 サムライが薄く瞼を開けた。 
 「………起きていたのか」
 「きみは寝ていたな、ぐっすりと。引き続き睡眠を要求するならこのベッドを譲るが?」
 指摘されたサムライはばつが悪そうな顔でぼくの手を解放する。折りたたみ式のパイプ椅子に背筋をのばして腰掛けたサムライが妙に堅苦しい口調で質問する。
 「気分はどうだ?」
 「優れない」
 「熱は?」
 「推定38.5分」
 「明日の強制労働は」
 最後の質問に重いため息がでた。
 「砂漠に出たら死ぬか倒れるのは間違いないが左手の指を骨折しようが風邪を肺炎にこじらせようが強制労働は休めないんだろう?なら出るしかない」
 「いや、休ませる」
 サムライがきっぱりと断言する。   
 「休ませるって……囚人の一存でそんなことできるわけ、」
 「ないだろう」と続けようとした僕をさえぎりサムライが背後を振り返る。パイプ椅子の背もたれにたてかけられていたのはベッドの仕切りの衝立……正確にはその残骸で骨組み。カーテンを取り除かれて分解された衝立の骨組みの片方、円筒形の棒の片割れ。
 「これで医師を脅して診断書を書かせた。一日ゆっくり寝ていろ」
 まさか、この棒を振り回して暴れたというのか?医務室で。よく看守に取り押さえられなかったものだとあきれ半分感心半分の脳裏に次々と疑問が浮かぶ。
 『なえってだれだよ?』
 『サムライの恋人』
 リョウの声が頭蓋裏に反響する。
 『幼い頃から剣の修行一筋に励んできたサムライは年頃になってひとりの女性と恋に落ちた、それが『なえ』。サムライの遠縁にあたる親戚の娘だけど幼い頃に両親を亡くして本家に引き取られてきた女の子。ところがこの『なえ』ちゃんは目が見えなかった、生まれつきかどうかは知らないけどね、それに同情した本家当主…つまりサムライのお父さんだけど…がお情けで引き取ってあげたみたい』
 『『なえ』はきみのお母さん代わりでお姉さん代わりで唯一の安らぎ……心の支えだった。ふたりが恋に落ちるのは自然な成り行きだった。でも、上手くいかないよね。使用人と本家の跡継ぎじゃ立場が違いすぎる、ましてや相手は目が見えない、両親を早くに亡くした天涯孤独な女の子。サムライのお父さんは厳しい人だった、大事な跡取り息子が色恋沙汰にうつつをぬかして剣の修行をおろそかにするのが許せなかった、絶対に。だからサムライに命じた、『なえ』とは縁を切れって』
 『きみは言う通りにした。『なえ』より剣を選んだんだ』
 「サムライ」
 サムライが顔を上げる。聞きたいことはたくさんある、知りたいこともたくさんある。「芽吹かない苗」の謎はまだ解けてない、あの一文に秘められた本当の意味はサムライにしかわからない。サムライが父親を含めた十二人もの人間を斬殺した理由がなえの自殺を逆恨みしたせいだとはどうしても思えない、サムライは逆恨みで殺人を犯すような安直な男じゃない。たしかに殺人の動機にはなえが関係してるんだろう、なえの死が起因してるんだろう。
 他にも何かがあるはずだ。リョウも知らない、僕も知らない重大な秘密が……。
 遅かれはやかれ「なえ」について詰問されると覚悟していたのだろう、サムライの反応は迅速だった。顔を引き締め、唇を結び、目に悲痛な色を湛えてまっすぐに僕を見る。揺るぎない悲哀の目、哀しみをこらえることに慣れすぎて感情をおもてにだすことさえなくなった……
 「話さなくていいぞ」
 サムライがかすかに目を見開いたが、無視して続ける。一息に。
 「今考えれば何故ああも執拗にきみの過去にこだわっていたのか本当にわからない、きみの過去知りたさにリョウに呼び出されて下水道にでむいて酷い目に遭った。もう散々だ、きみの過去など知りたくないし興味もない。突飛な行動が習慣化したモルモットには愛想が尽きた、もういい、きみの観察と研究は打ち切りだ。僕はまた明日からあらたな観察対象をさがす、東京プリズンは奇人変人の巣窟だから心配には及ばない、きっとすぐにあらたなモルモットが見つかる、骨のある研究材料が見つかる、だから……」
 だから?
 そこで言葉を切り、口を噤む。
 「だから、きみの生態観察はやめた。データをとる必要はない。きみの過去を暴くような真似は、手紙を盗み読むような真似はもうしない。する意味と必要性がない」
 膿んだ傷口を抉るような真似をしてまでサムライの過去を暴く意味はない。したくない。一息つき、殊更軽い口調で続ける。
 「この四ヶ月、なかなか貴重な体験ができた。それというのもきみという退屈しないモルモットが身近にいたからだ。礼を言う」
 これ以上サムライの足手まといになりたくない。
 僕が居れば、僕が窮地に陥ればサムライは助けに来る。我が身をかえりみずに助けに来る、絶対に。僕が頼まなくても命じなくても自分の意志で、木刀があってもなくても絶対に助けに来る。来てしまう。
 僕を助けるためにサムライは土下座した。あの誇り高い男が武士の矜持を捻じ曲げてまで、僕みたいな人間を、妹にさえ軽蔑された人殺しを助けるために土下座を強いられるなんて嫌だ。サムライのあんな姿は二度と見たくない、あんな姿は『なえ』だって見たくないはずだ。
 僕はもうサムライをモルモット扱いすることができない。ここではっきりと別れを告げるべきだ、もうサムライを解放するべきだ、そうだ、そうすべきだ。サムライに二度と土下座なんかさせないために、『なえ』が愛した男をこれ以上貶めないために。僕が生まれて初めて自分と妹以外に認めた人間を貶めないために。
 サムライと対等になれないなら、いっそー……
 「直」
 下の名前を呼ばれ、顔が強張る。姿勢を正して椅子に腰掛けたサムライがまっすぐに僕を見据え、言う。
 「お前に礼を言われるのは気持ち悪い。そんな遺言じみた台詞、俺は金輪際聞きたくない」
 遺言。芽吹かない苗。サムライの顔が苦く歪む。
 「俺に礼を言うのはここを出るときでいい。だからそれまでは礼など言わずに…」
 苦く歪んでいた顔が一転し、笑みを浮かべる。笑うのに慣れてないことが如実にわかる、どこかぎこちなく、不器用な笑みだけれど。
 これがサムライの、『なえ』の死を乗り越えたサムライが今浮かべることができる、精一杯の笑顔だ。
 「生き残るために俺を頼れ」

 『生き残るために友人をつくれ』

 いつか、いつだったか、安田はそう言った。東京プリズンで生き残る秘訣は友人を作ることだと、苦しい時に助けてくれる友人を作ることだと。僕は即座に否定した、友人など必要ない、恵がいればそれでいいと。
 「……サムライ」
 腕で目を覆い、かすれた声で呟く。何事かと顔をのぞきこんできたサムライに、手で顔を覆い、言う。
 「やっぱり気持ち悪いから、上の名前で呼んでくれないか」
 サムライが砕顔した。その笑顔からは先刻のぎこちなさが大分抜けていた。
 「奇遇だな。ちょうど俺もそう思っていたところだ」
 口元に自然と笑みが浮かび、瞼が熱くなる。
 辛い時、苦しい時にそばにいてくれるのが友人なら。
 認めたくはないが、サムライはどうやら僕の友人らしい。
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