少年プリズン

まさみ

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七十二話

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 「うーしっ、終了――」
 椅子の後ろ脚でバランスをとったレイジが便箋とボールペンを放り出し大きく伸びをする。
 重労働から解放されたように肩のコリを揉みほぐすレイジの対面席、間接の痛くなった指を開閉する。レイジは自分ひとりで手紙の返信作業を完遂したような顔をしているがその半分以上は僕がやった。退屈したレイジが大口あけてあくびしたり果ては辞書にヨダレをたらして熟睡している間も黙々と手を動かして鉛筆を走らせていたのだから報われてしかるべしだろう。
 彼がサボッている間の代筆を一手に引き受けた僕はタコのできた指を見下ろして顔をしかめる。いまどき長時間鉛筆を握っていたせいでタコなど作って格好が悪い、手書きでものを書くことすら珍しくなった現代にまた随分と時代錯誤な代筆業を引き受けてしまったものだと自分に飽きれる。しかし、目的のものを入手するためには背に腹は変えられない。
 完成した手紙を鼻歌まじりに封筒に詰めてゆくレイジの前に片手を突き出す。
 「約束だ」
 鼻歌が途切れ、封筒を糊付けしていたレイジがわずかに顔を上げる。愉快げな企みが宿った目。
 「いいともいいとも、役に立ってくれた礼だ」
 気楽に頷いたレイジがポケットに手をつっこんで中身を漁るさまを眺めていた僕の手に乗せられたのは便箋と鉛筆、そして消しゴム。
 「………なんだこれは」
 意図せず声が低くなる。沸々とこみあげてきた怒りを理性で押さえ込んでレイジに問えば、当の本人は至って涼しい顔をしている。
 「だから鉛筆と便箋と消しゴム」
 「ぼくは便箋とボールペンが欲しいと言ったんだが」
 「だめだ」
 しゃんと背筋を伸ばしたレイジが厳格な裁判官のように顎を引き、深刻ぶった面持ちで宣言する。
 「ボールペンはこれ一本しかないからくれてやるわけにはいかねえ、鉛筆で我慢しろ」
 「約束がちがうじゃないか」
 「約束なんかしてない。これは取引だろ?」
 便箋を机上に叩きつけて立った僕を見上げしてやったりとレイジがほくそ笑む。頬杖の肘を崩して身を乗り出したレイジは僕と額を付き合わせる格好で前傾するや、意地悪い笑みを含ませた下目遣いで飄々と言い放つ。
 「王様と庶民が対等だとか勘違いするなよ?俺はお前に頼まれて代筆させてやったんだ、交換条件を提示しなけりゃ無闇に高いプライドが邪魔してお前が目当てのブツ手に入れられないと思ったから」
 「それが人に半分以上手紙を押し付けて自分は辞書で『三角関係』とかひいていた人間の言い草か?」
 「こまかいとこまでよく見てるな」
 他人事めいた口ぶりで感心したレイジにもう少しで声を荒げそうになるが、低脳相手にムキになるだけ時間と体力の無駄だと考え直してこの場は大人しく引き下がることにする。不承不承便箋と鉛筆を受け取った僕にレイジがなんら己に恥じることなく爽快に笑いかける。まったく人を馬鹿にした男だ、もう同じ空気を吸うのだって嫌だ。受け取るものを受け取ってあとはもう用がないと席を立ちかけた僕の背中にレイジが声をかける。
 「がんばれよ」
 「なにをだ?」
 キッと振り向く。椅子の背もたれに腕をかけて前後に揺らしながらレイジが意味ありげに笑う、すべてを把握したような全能の笑顔。
 「妹への手紙。今度は失敗するなよ」
 『今度は失敗するなよ』
 その言葉が脳裏で不吉に反響し、我知らず便箋を握る手に力がこもる。レイジは見抜いてたんだろうか、見透かしてたんだろうか。道化じみた言動の裏で怜悧な観察眼を働かせて僕の動揺や心の迷いまで見抜いていたんだろうか?もう失敗するな、ということは僕が過去に失敗したことを知っているのだ。
 大事な妹を守ろうとして僕が失敗したことを。 
 「………きみこそ」
 内心の動揺などおくびにも出さず、声の温度を下げてレイジに嫌味を言う。
 「自分に気のない女性の歓心を手紙で買おうなんて安い真似はよすんだな、あまりにも前時代的だ」
 「スタンダードと言ってくれ」
 僕のアドバイスを聞き入れる気は毛頭ないらしく椅子に体重を預けたレイジがしれっと言い放つ。付き合ってられない。甚大な徒労感を募らせてレイジの前を去る。整然と書架が並んだ図書室を足早に突っ切りカウンターの前を通過して廊下にでる。東棟へと帰る渡り廊下を憤然と歩きながら手の中の鉛筆と便箋を見下ろす。長期的な保存性を考慮したらボールペンに軍配が上がる、すぐに劣化して消えてしまう鉛筆では長期的な保存に適さない。水にぬれたり汚れたりして字が読めなくなる可能性だって否定できない。どうにも心許ないものを感じつつ、それでも鉛筆で代用させるしかないとため息をついて決意を固める。実際にはペンと便箋を所持しているのはレイジだけではない。レイジには「面識のある人間で便箋とペンを所持してるのはきみだけだ」と嘘をついたが、僕はこの目でリョウが手紙を持って房から出てきたのを目撃している。手紙を書くために必要な道具の一式はリョウも持っているはずなのだ。
 ただ、恵を侮辱した人間に頭を下げてものを借りるなんて真似は言語道断だからまえもって選択肢から外していただけだ。
 思いだす。小箱の中に保管されていた手紙、毛羽だちの目立ちはじめた古い便箋、ひらがなばかりの手書きの文字。
 サムライ宛の手紙に使われていた筆記具も鉛筆だった。今思い起こせばずいぶんと拙い文面だった、はっきり読み取れたのは一文だけだが筆跡もずいぶんと乱れていた。まるで生まれてからこの方ろくな教育を受けず、読み書きも満足にできない人物が書いたような……
 あの手紙の差出人はだれだろう。
 サムライの肉親という線はあるだろうか。本人が語ったところによればサムライは既に両親を亡くしている、母親は幼少期に他界して父親は彼自ら伝家の宝刀で惨殺した。サムライの家族構成は知らないがもし兄弟がいると仮定して、両親を殺害して刑務所に服役中の身内の身を案じて手紙を送ってくる可能性は考えられるだろうか……皆無とは言い切れないが、どうしても釈然としないものが残る。
 サムライに手紙を送るくらいなのだから、差出人はサムライの身を真摯に案じているのだろう。
 おそらくその人物は外の世界で彼の帰りを待ち続けているのだろう。彼が東京プリズンで元気にしているか案じ、その身を慮り、一日でも早く顔が見たいと狂おしく焦がれているのだろう。
 誰だ、それは?
 あのサムライにそんな奇特な人物がいるとは思えない、絶対にありえない。あの無愛想でとっつきにくい男に、レイジ以上になにを考えてるかわからない謎めいた男にそんな人間がいるなんて。
 胸が疼く。
 あのサムライにだって出所の日を待っててくれる人間がいるのに、刑務所に入れられた今でも身を案じて手紙をくれるような人間がいるのに僕にはだれもいない―否、だれもいないなんて思いたくない。そんなはずがない、僕には恵がいる。外では必ず恵が待っててくれると無根拠に思いこんでいられた、これまでは。
 それが盲目的かつ一方的な思いこみに過ぎないとわかったのは、あの日、冷たい雨の中で恵に拒絶されたことを思い出した時だ。
 妹に死ねと願われてる人間のもとに本人から手紙が届くわけがない。
 常識的に考えればすぐにわかることだ―……わかることなのに。
 それでも僕は手紙を書こうとしている。恵をさらにさらに苦しめると予期していながら、それでも手紙を書こうとしている。
 唾棄すべき人間だ。見下げ果てた人間だ。
 そして何よりも、酷い兄だ。

                               +

 
 

 腕が疲れた。
 レイジの代筆を手伝ってから早いもので一週間が経過する。この一週間というもの殆ど寝不足の徹夜続きでイエローワークの作業中もシャベルによりかかってうつらうつらしていることが多い。ほんの二・三分、長くても五分の居眠りを見逃してくれるような寛容な看守にあたればいいのだが、どこかのタジマのように短気な看守に目をつけられたときは最悪だ。容赦なく警棒で殴られて地に這わされる。砂に膝をついてもすぐさま立ち上がらなければそのまま事故を装って埋められるから、一瞬たりとも気を抜くことはできない。
 もっとも入所二ヶ月が経過し、僕もだいぶ要領が呑みこめてきた。
 炎天下での肉体労働は相変わらず辛く過酷だが、看守が目をはなした隙にシャベルにもたれて休む余裕はでてきた。周囲の囚人を見渡せば、現場監督の看守が他のエリアを見に立ち去ったそのすぐ後に休憩をとっている。露見しない程度に手を抜くコツさえ掴めればイエローワークの現場でも貧血と熱中症を併発して倒れるような最悪の事態は防げるのだ。
 腕が疲れているのは何もシャベルを振りすぎたからではない、夜通し鉛筆を握っているからだ。恵への手紙は冒頭からつまずいた。なにを書けばいいのか皆目見当がつかない、だいたい僕は手紙を書いた経験など一度もない。なにをどう書き出せばいいのかわからずに途方に暮れた僕は、長い長い逡巡の末にサムライに下読みを頼んだ。
 誤解しないで欲しい。自分の手に余る事態が発生したからといって無闇やたらと他人を頼るのは本意ではない、自分の力と頭脳で解決できることならとっくにそうしている。
 僕は天才だ、天才に不可能はない。
 しかし、僕が今から手紙を書こうとしているのはこの世でいちばん大事な妹なのだ。
 絶対に恥をかきたくない、恵に弱味を見せたくない。なんでもできる完璧な兄という理想像を崩したくない。不可能を可能にするのが天才なら書いたことない手紙も完璧に書けるはずだ、書き遂げることができるはずだ。
 よって僕は客観性を重視する。純粋なる第三者の視点からでなければ果たして自分が書き上げた手紙が完璧と形容できる物か否か判断できないからだ。
 手紙の下読みをレイジではなくサムライに頼んだのは彼がいちばん近くにいたというのは勿論だが、単純な消去法の帰結でもある。口の軽いレイジよりは口の固いサムライのほうが信用できる、僕が下読みを頼んだことは第三者には絶対口外しないと事前に誓わせた。
 手紙の初稿が出来上がったのはつい三日前だ。
 『どうだ』
 ベッドに腰掛け、少しばかり緊張してサムライの感想を仰ぐ。念のため何度も読み返して確認したが誤字脱字はない。
 問題は内容だ。
 向かいのベッドに腰掛けたサムライは無表情に初稿を黙読していたが、やがて、抑揚に乏しい声で言う。
 『鍵屋崎』
 『なんだ』 
 便箋から顔を上げたサムライが、怪訝そうな目で僕を見る。
 『なぜ延延とゴキブリの生態が書いてあるんだ?』
 ベッドから腰を上げ、サムライのもとまで歩き、手前で立ち止まる。サムライの手元を覗きこみ、苦心惨憺して書き上げた文章を目で辿る。
 「前略 
  恵、元気にしているか。僕は元気とはいえないが、ようやく刑務所での生活にも慣れた頃だ。
  この刑務所にきてまず驚いたのはゴキブリがでることだ。掃除が行き届いた世田谷の実家ではほとんど見かけることがなかったあの忌まわしい生き物だ。
  知っているか恵。
  東京少年刑務所に生息しているのはクロゴキブリ、学名Periplaneta fuliginosa ゴキブリ科。分布:全国 体長:30~35mm 特徴:本州では最も代表的な家屋性害虫種。ただし、南方ではコワモンゴキブリやトビイロゴキブリ等の方が優勢らしい。若齢幼体時は黒い体色で、中胸部全体や触覚の先端が白く、腹部にも一対の白い斑紋がある。成長とともに赤褐色になり、白い部分は目立たなくなる。成虫は全身黒褐色。いうまでもなく雑食性で……」
 『これしか書くことがなかったからだ』
 あっさりと本音を述べる。
 『他に何かないのか』
 『強制労働中に看守に三回警棒で殴られたとか同じ班の囚人に足をひっかけられて転んだとか?』
 皮肉げに自嘲する。いちばんプライドを保ちたい妹への手紙にそんなこと書けるはずがない、兄の面目丸つぶれだ。サムライは何か言いたげにゴキブリの生態について三十行にも及ぶ説明文と僕の顔とを見比べていたが、軽く咳払いして口を開く。
 『鍵屋崎、俺がお前の妹だったら』
 『僕の妹を貴様と一緒にするな』
 恵の方が百万倍かわいい。
 なにを突然突拍子もないことをと非難めいた眼差しを向けた僕を『まあ聞け』と制し、サムライが厳かに断言する。
 『俺がお前の妹だったら延延ゴキブリの生態など語られても迷惑だ』
 『……………………………………じゃあ、なにを書けばいいんだ』
 およそ便箋一枚を費やして記述されたゴキブリの生態を般若心境を読む時と同じ生真面目さで読み返しつつ、サムライが助言する。
 『今の気持ちをありのままに書けばいい』
 今の、恵に対する気持ちをありのままに?それがいちばん難しいのに簡単に言ってくれる。 
 三日前のやりとりを回想し、苛立ちながらシャベルを振るう。今の気持ち、恵に対する罪悪感や呵責の念を上手く言葉にすることができるだろうか。字に置き換えて便箋に書き写すことができるだろうか。この矛盾した気持ち、相反する葛藤をどう表現すればいい?
 伝えたいが、伝えたくない。
 哀しませたくないが、哀しませてしまう。
 恵が現在どうしているか知りたいという欲求は確かに根底にあるが、それ以上に手紙を書くという行為に僕をかりたててるのは気が狂いそうになるほどのはげしい渇望。 
 書かなければ、吐き出さなければ。体の底に沈殿した黒い澱を洗いざらい吐き出してしまわなければ限界だ、これまで辛うじて危うい均衡を保ってきた僕の精神まで狂気と絶望に蝕まれて瓦解してしまう……東京プリズンに収監されたほかの囚人とおなじように。
 ほかの囚人と同じ、狂気の深淵に堕ちてしまう。
 そうなる前に恵に伝えなければ、僕がまだ正気を保っている間にどうしても恵に伝えなければ。
 たとえ恵を哀しませるとわかっていても。
 僕がまだ、恵の兄でいられる間に。
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