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六十九話
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『拾わなきゃいいじゃん』
レイジはああ言ったが、拾ってしまった以上届けなければならない。
手の中の写真を見下ろしながら点々と蛍光灯のともる廊下を歩く。夕食終了後の自由時間もあと三十分で終了、無駄に元気のありあまった囚人が取っ組み合いの喧嘩や賭けポーカーに興じる喧騒を遠くに聞きながら展望台へと向かう。さすがにこの時間帯、展望台にでる物好きはいない。当たり前だ、今は夜だ。暗くてなにも見えやしねえし闇の帳ですっぽり包まれた場所にふらふら出てくなんて自殺行為だ、そうじゃなくても隙を見せれば物陰にひきずりこまれてカマ掘られるのが日常化してる東京プリズンだ。貞操を奪われたくないなら軽率な行いは慎むに限る。
じゃあ何故ひとりで廊下をぶらついてるのかというと答えは単純、凱の失物を届けるためだ。台湾・中国の血が流れる薄汚い半半、即ち俺を目の敵にして、ねちねちいびるのを生き甲斐にしている凱のことだ。イエローワークの作業中に看守の目を盗んで接触するのは危険すぎる、万一見つかったら写真を返そうとした俺まで警棒の餌食になりかねない。直接凱の房を訪ねるのはもっとやばい、みすみすヤられに行くようなもんだ。飢えた虎の檻の中に身一つで殴りこむような馬鹿な真似はしたくない。
まあ、そんな危険策をとらなくても俺の予想が正しければ凱は展望台への道中にいるはずだ。
この写真が、いや、この写真のガキが凱にとって大事な存在なら絶対に捜しにもどってくるはずだ。
『ついてってやろうか』
房を出てくとき、レイジにそう言われた。奴なりに俺のことを心配してるんだろうとは思ったが、レイジと一緒にいるところを見られたらまたややこしくなる。東棟最大の勢力を誇る中国系派閥のトップたる凱は、長きに渡り東棟の王様として君臨するレイジを目障りで目障りでしょうがない目の上のたんこぶとして意識してるのだ。
だから俺は言ってやった。
『いらねえ。絶対についてくんな』
念を押して凄むとレイジは残念そうな顔をした。
『ひとの好意を足蹴にしやがって、心配してやってんじゃねーか』
『下心と見分けがつかねえお前の好意なんか信用できるか。いらねー心配しなくても速攻で戻ってくるよ』
『だといいけどな』
ノブを捻って出てゆく間際、ベッドに腰掛けたレイジが『ロン!』と俺を呼んで振り向かせる。反射的に振り向いた俺めがけて投げられたのは銀の光沢のライター。不審顔で手の中のライターとレイジのにやにや笑いとを見比べる。
『さがしてたんだろ』
見られてたのか。
察するにレイジは俺が展望台で煙草を吸おうとしてライターをさがしていたところを意地悪く眺めていたらしい。今生の餞別とばかりに投げ渡されたライターを受け止め、尻ポケットに手をやる。さっき吸おうとして諦めた煙草がいれっぱなしの尻ポケット。
『謝謝』
仏頂面で軽く礼を言い、今度こそ房を後にしようとノブに手をおいた俺にレイジが追い討ちをかける。
『燃やしていいんだぜ』
『あん?』
レイジが顎をしゃくる。おもわず手の中を見下ろす。凱にそっくりの女の子が口のまわりを飯粒だらけにしてレンゲをくわえた写真。
『凱にはこれまでさんざん痛い目にあわされてきたんだ、写真一枚燃やしてもバチあたりゃしねえよ。ささやかな報復ってやつ?現実にはだれも痛がらないしだれも気付かない、灰にして便所に流しちまえばお前が拾ったなんて証拠はどこにもねえ。安上がりな復讐だろ』
本気で言ってんのか、コイツ。
いまさらながら俺を試すような笑顔を浮かべたレイジの正気を疑う。俺が次にどうでるかたのしみにしてるような人を食ったツラ。右手に握り締めた写真とライターとを見下ろし、銀のライターを尻ポケットにすべりこませる。
『だれがするかよ、そんなこと』
逡巡を断ち切るようにレイジを睨む。おどけて首をすくめたレイジが白い歯を見せ、嬉しそうに笑う。
『知ってる。お前はしないよな、そういうこと』
『じゃあ言うな』
乱暴に扉を閉じ、胸糞悪いレイジに別れを告げる。なんだアイツ、なんなんだ一体。あれで試してるつもりかよ、調子に乗りやがって。むかむかしながら房を出て、囚人で賑わう廊下を突っ切る。そうして展望台へと抜ける廊下に足を踏み出したが思ったとおり人気はなし、物陰に人がひそんでる気配もない。周囲をよく確認し、用心して歩を進める。どこから迷いこんできたのか、頭上の蛍光灯には蛾がたかっている。蛍光灯に群がる蛾を眺めながら、なんとなく手持ち無沙汰になってライターと煙草をとりだす。人影なし、看守の姿なし。廊下で喫煙してるところを看守に見咎められたらただじゃ済まない、全治三日ぐらいの怪我は覚悟しなければ。歩きながら煙草を口にくわえ、ライターで点火する。ボッと青い火が燃え上がり、煙草の穂先にオレンジ色の光点がともる。
手首を振る。蓋が落ち、パチンと火が消える。用済みになったライターをポケットに戻そうとして思い留まる。
少し一服したい気分になり、そのまま壁に背中を預けてうずくまる。
紫煙を肺に吸い込み、床に足を投げ出し、頭上にかざして蛍光灯に透かした写真を見上げる。椀に顔をつっこむようにして飯をかっこんでるのはまだヨダレかけもはずれてない女の子、凱とそっくりの顔をした凱のガキ。
『お前には来たのかよ、手紙』
うるせえ。
『ああ、悪いこと言っちまったなあ。字の読み書きは関係ねえか、肝心のお前にダチや女がいないだけか。だから手紙がもらえねーのか、そりゃすまなかったなあ気付かなくてよ』
余計なお世話だ。
『娑婆でもココでも独りぼっち、誰にも待たれていねえ台湾の半半。不憫すぎて泣けてくるぜ』
だからなんだってんだ。
凱の得意げな面がよみがえり、紫煙が苦くなる。
俺の懲役は十八年。でも、十八年経って出所したところで待っててくれる人間なんていやしねえ。今だって娑婆で俺を待ってる人間なんてだれもいない、ひとりもいない。家族はいないも同然だ、十一のときにアパートを飛び出してからお袋とは会ってない。けど、俺が十一でアパートを飛び出してお袋を袂を分かったからってそれがなんだ?お袋とふたりで暮らしてた時だってなにも状況は変わらなかった、お袋にとって俺はいないも同然の人間だった。厄介者で疫病神で、自分を捨てた憎い中国人の血が半分流れるガキ。
冷たい壁面に後頭部を付け、じっと写真を見る。
無我夢中で飯をがっつくガキ、それを写真に撮る女、その写真を刑務所で受け取る男……凱。あんな最低野郎でも娑婆にはちゃんと家族がいる、一日千秋の思いで出所の日を待ちわびてる女とガキがいる。刑期が明ければ凱もこの写真の中に入って家族団欒の食事風景に混ざるんだろう、行儀悪いガキを叱り飛ばすか殴り飛ばすか、それともヨダレかけでやさしく顔を拭ってやるかはわからない。女はそれを見てどうするんだろう、泣くか笑うか窘めるか……どの表情もうまく想像できない、家族団欒に縁のない暮らしをしてきた俺には親父とお袋とガキが揃った食卓がうまく想像できない。
お袋とふたりきりの食卓。通夜みたいに辛気くさい、飯も喉を通らないような。
「……娑婆にいる間にガキ作っとくんだったな」
東京プリズンに入ってしまったら再び外に出られる可能性はかぎりなく低い。懲役が終了するか他の刑務所に移る前に死ぬか殺されるか発狂するかの究極の三択。十八年後、俺が無事懲役を終えて生きて外に出られるという保証はどこにもない。最も現時点で俺は十三歳だし童貞だって東京プリズンに入る一週間前に捨てたばっかで、女とねんごろになってガキを作る機会なんてそもそもなかったんだけど……何言ってんだ俺、相当ヤキが回ってるな。
凱のガキの写真なんてもんをいつまでも持ち歩いてるからこんなくだらないことばっか考えちまうんだ、と激しくかぶりを振って雑念を追い散らす。そんなに帰りを待っててくれる人間が欲しいのかよ、そんなに凱が羨ましいのかよ。強いて自嘲の笑みを浮かべようとしたが、写真の女の子と目が合って失敗する。
『娑婆でもココでも独りぼっち、誰にも待たれていねえ台湾の半半。不憫すぎて泣けてくるぜ』
勝ち誇ったような凱の憫笑が瞼の裏側によみがえり、フィルターを強く強く噛み締める。
『燃やしていいんだぜ』
これはレイジの声だ。
心の動揺をすくいあげるような、愉快犯めいた悪魔のささやき。
『凱にはこれまでさんざん痛い目にあわされてきたんだ、写真一枚燃やしてもバチあたりゃしねえよ。ささやかな報復ってやつ?現実にはだれも痛がらないしだれも気付かない、灰にして便所に流しちまえばお前が拾ったなんて証拠はどこにもねえ。安上がりな復讐だろ』
そうだ、これまで凱にはさんざん酷い目に遭わされてきた。何度薄汚い混血だって馬鹿にされた、イエローワークの仕事場でシャベルを脛にぶつけられた、食堂で肘をぶつけられた?アイツさえいなければ俺はもっと平和に暮らせたはずだ、東京プリズンでの暮らしもずっとマシになったはずだ。人ごみでアイツの姿を目にしてもびくつくことなく貞操の心配をすることもなく心おだやかに毎日を過ごせたはずなのだ。
「…………」
自分でも制御できない感情に突き動かされ、ライターの蓋を開ける。固唾を呑み、ライターの火を写真に近づける。写真の真ん中では凱とそっくりの顔をしたガキが脇目もふらずに飯をかっこんでる、カメラを構えた女の笑い声が聞こえてきそうな微笑ましい写真。
写真の角にライターの火を近づける。
『燃やしてもいいんだぜ』
レイジはそう言った。俺も同感だ。たかが写真一枚燃やしたから何だってんだ、たかが写真一枚―……
大事な、ガキの写真。
「!」
口にくわえた煙草の灰がぽろりと先端からこぼれおち、あろうことか女の子の顔の真上に落ちる。ジジジ、と早速不吉な音をたて始めた灰を考えるより早く両手で払いのける。あちっ。煙草を口から外す。よかった、間に合った。少し焦げ目がついたが、ガキの顔に穴が開くのはなんとか防げた。
必死になって灰を払いのけてから一連の行動の矛盾を自覚し、発作的に笑い出したくなる。
煩死了。うんざりだ。
あんまり馬鹿らしくなって腰を上げる。こんな疫病神とっとと凱に返しちまうにかぎる、また気の迷いを起こさないうちに。写真をポケットに押し込み、大股に歩き出した俺は十五メートルも行かないうちに前方の異変に気付く。
割れた蛍光灯の下、薄暗がりの廊下に這いつくばっているのは巨大な影。
どうやらその影は脇目もふらずに何かを探しているらしい。警察犬のように鼻面をひくつかせ、目を皿のようにして廊下の隅々まで視線を走らせる。こっちに尻を向けた四つん這いの姿勢にはいつも撒き散らしてる威圧感のかけらもない。額に汗した必死の形相に縋るような悲哀の色さえ浮かべた情けない面のコイツは―……
見ちゃいけねーもんを見ちまった。
が、いまさら引き返すわけにもいかないと腹を括り、人影の頭上、廊下の真ん中で立ち止まる。いつも見下ろされるのに慣れていた俺は、こうしてコイツを見下ろせる日がくるなんて考えたこともなかった。
「なにやってんだお前」
あきれて声をかける。
人影がびくりと震え、顔を上げる。まずい奴にまずいところを見られたといわんばかりの狼狽の表情が次の瞬間には虚勢をむきだした憤怒の相に変じる。
「お前こそ何やってんだ、半半。またヤられにきたのかよ」
凱だった。
いつも引き連れてる取り巻き連中の姿がないことから、適当な理由をでっちあげてひとりでここにきたのだろう。どれくらいの間ここでそうやって写真をさがしてたかは知らないが、ふと目をやったズボンの膝はどす黒く汚れていた。
ズボンの膝で床を擦り、両手を床につき、徘徊する獣のような姿勢で何往復、ひょっとしたら何十往復も廊下を行ったりきたりしてたのだろう。
憎悪の対象を俺へと転じた凱が今にも掴みかからんばかりの形相でこっちによってきたのを、すかさず写真を掲げて制す。
凱の顔色が豹変した。
「さがし物はこれだろ」
「返せ!!」
礼も言わず、俺の手から写真をひったくる。手中に奪還した写真を見つめ、長々と安堵の息を吐く。頬を緩め口元を緩め、ぬくんだ眼差しを写真に注ぐ凱は俺が見たこともないツラをしていた。
一人前の父親のツラ。
……………腹が立つ。
何時間ぶりかで手元に戻ってきた写真に見入る凱をひとり廊下に残し、用は済んだとばかりに立ち去りかけた俺に声がかかる。
「待てよ」
今度はなんだ。
うんざりしながら振り向いた俺をうしろめたげに盗み見た凱が、威圧的に顎を引き、写真へと視線を促す。
「かわいいだろ」
「…………………………………………………………………………ああ」
すさまじい葛藤を克服し、我が身可愛さに嘘をつく。いや、大人げないぞ俺。凱はともかく凱のガキに罪はない、鍵屋崎の言い分じゃないが親から貰った遺伝子には文句のつけようがない。自分を殺して嘘をついた俺の存在など音速で忘れ去り、こっちに背中を向けてじっと写真に見入る凱。
やってらんねえ。
馬鹿馬鹿しくなって足早にその場を立ち去る。凱が追ってくるかと警戒したがいつまでたっても靴音は響かず、不安になって振り向いたら凱はまだ同じ場所に突っ立っていた。うつむき加減の横顔がちらりと目に入る。えらの張ったごつい顔には似つかわしくない腑抜けた笑み、節くれだった指には似合わない細心さで写真を撫でる手。
角を曲がり、完全に凱の視線が届かなくなってから口にくわえた煙草を吐き捨て、靴裏で揉み消す。凱の腑抜けヅラを踏みにじるようにあらんかぎりの憎しみと行き場のない怒りをこめて。
凱のあんなツラ見たくなかった。
どいつもこいつも反吐がでる、手紙をもらって浮かれまくってる連中はみんな。
みんな死んじまえ、畜生。
壁に額を預け、呟く。
「……どうせ俺には、だれもいねーよ」
凱にもレイジにもリョウにも待っててくれる人間がいる、首を長くして出所の日を待っててくれるだれかがいる。
じゃあ、俺にはだれがいるんだ?
「…………これでいいのか」
そう、これでいいのかもしれない。
俺はくそったれの人殺しだ。いくら自分の身を守るためとはいえ、追いつめられてたとはいえ、手榴弾の栓を抜いて三人の人間を肉片に変えたのはまぎれもない事実だ。そんな人間のところに手紙なんてくるわけない、そんな人間がなにかを図々しく期待すること自体間違ってる。
俺が殺した奴らにだって親がいた、女やガキだっていたかもしれない。
でも、地獄には手紙が届かない。
俺が地獄送りにした連中には永遠に手紙が届かないのに、地獄送りにした張本人の俺に手紙がこないからって……だからなんだってんだ?当然の罰じゃないか、人を殺した報いじゃないか。
自業自得だよ。
「不需要、信」
プーシュイヤォ、シン。
手紙なんか必要ない。そんなもんいらない、そんなもん届かなくても生きていける。だれかに生きてて欲しいなんて望まれなくてもしつこく生きてのびてやる、だれかに出てきてほしいなんて望まれなくても絶対に生きてここを出てやる。
他人にどう思われてるかなんて関係ない。
俺は生きたいんだ。
だれにも喜ばれなくたって、だれもいなくたって、生きてここを出たいんだよ。悪いかよ畜生。
レイジはああ言ったが、拾ってしまった以上届けなければならない。
手の中の写真を見下ろしながら点々と蛍光灯のともる廊下を歩く。夕食終了後の自由時間もあと三十分で終了、無駄に元気のありあまった囚人が取っ組み合いの喧嘩や賭けポーカーに興じる喧騒を遠くに聞きながら展望台へと向かう。さすがにこの時間帯、展望台にでる物好きはいない。当たり前だ、今は夜だ。暗くてなにも見えやしねえし闇の帳ですっぽり包まれた場所にふらふら出てくなんて自殺行為だ、そうじゃなくても隙を見せれば物陰にひきずりこまれてカマ掘られるのが日常化してる東京プリズンだ。貞操を奪われたくないなら軽率な行いは慎むに限る。
じゃあ何故ひとりで廊下をぶらついてるのかというと答えは単純、凱の失物を届けるためだ。台湾・中国の血が流れる薄汚い半半、即ち俺を目の敵にして、ねちねちいびるのを生き甲斐にしている凱のことだ。イエローワークの作業中に看守の目を盗んで接触するのは危険すぎる、万一見つかったら写真を返そうとした俺まで警棒の餌食になりかねない。直接凱の房を訪ねるのはもっとやばい、みすみすヤられに行くようなもんだ。飢えた虎の檻の中に身一つで殴りこむような馬鹿な真似はしたくない。
まあ、そんな危険策をとらなくても俺の予想が正しければ凱は展望台への道中にいるはずだ。
この写真が、いや、この写真のガキが凱にとって大事な存在なら絶対に捜しにもどってくるはずだ。
『ついてってやろうか』
房を出てくとき、レイジにそう言われた。奴なりに俺のことを心配してるんだろうとは思ったが、レイジと一緒にいるところを見られたらまたややこしくなる。東棟最大の勢力を誇る中国系派閥のトップたる凱は、長きに渡り東棟の王様として君臨するレイジを目障りで目障りでしょうがない目の上のたんこぶとして意識してるのだ。
だから俺は言ってやった。
『いらねえ。絶対についてくんな』
念を押して凄むとレイジは残念そうな顔をした。
『ひとの好意を足蹴にしやがって、心配してやってんじゃねーか』
『下心と見分けがつかねえお前の好意なんか信用できるか。いらねー心配しなくても速攻で戻ってくるよ』
『だといいけどな』
ノブを捻って出てゆく間際、ベッドに腰掛けたレイジが『ロン!』と俺を呼んで振り向かせる。反射的に振り向いた俺めがけて投げられたのは銀の光沢のライター。不審顔で手の中のライターとレイジのにやにや笑いとを見比べる。
『さがしてたんだろ』
見られてたのか。
察するにレイジは俺が展望台で煙草を吸おうとしてライターをさがしていたところを意地悪く眺めていたらしい。今生の餞別とばかりに投げ渡されたライターを受け止め、尻ポケットに手をやる。さっき吸おうとして諦めた煙草がいれっぱなしの尻ポケット。
『謝謝』
仏頂面で軽く礼を言い、今度こそ房を後にしようとノブに手をおいた俺にレイジが追い討ちをかける。
『燃やしていいんだぜ』
『あん?』
レイジが顎をしゃくる。おもわず手の中を見下ろす。凱にそっくりの女の子が口のまわりを飯粒だらけにしてレンゲをくわえた写真。
『凱にはこれまでさんざん痛い目にあわされてきたんだ、写真一枚燃やしてもバチあたりゃしねえよ。ささやかな報復ってやつ?現実にはだれも痛がらないしだれも気付かない、灰にして便所に流しちまえばお前が拾ったなんて証拠はどこにもねえ。安上がりな復讐だろ』
本気で言ってんのか、コイツ。
いまさらながら俺を試すような笑顔を浮かべたレイジの正気を疑う。俺が次にどうでるかたのしみにしてるような人を食ったツラ。右手に握り締めた写真とライターとを見下ろし、銀のライターを尻ポケットにすべりこませる。
『だれがするかよ、そんなこと』
逡巡を断ち切るようにレイジを睨む。おどけて首をすくめたレイジが白い歯を見せ、嬉しそうに笑う。
『知ってる。お前はしないよな、そういうこと』
『じゃあ言うな』
乱暴に扉を閉じ、胸糞悪いレイジに別れを告げる。なんだアイツ、なんなんだ一体。あれで試してるつもりかよ、調子に乗りやがって。むかむかしながら房を出て、囚人で賑わう廊下を突っ切る。そうして展望台へと抜ける廊下に足を踏み出したが思ったとおり人気はなし、物陰に人がひそんでる気配もない。周囲をよく確認し、用心して歩を進める。どこから迷いこんできたのか、頭上の蛍光灯には蛾がたかっている。蛍光灯に群がる蛾を眺めながら、なんとなく手持ち無沙汰になってライターと煙草をとりだす。人影なし、看守の姿なし。廊下で喫煙してるところを看守に見咎められたらただじゃ済まない、全治三日ぐらいの怪我は覚悟しなければ。歩きながら煙草を口にくわえ、ライターで点火する。ボッと青い火が燃え上がり、煙草の穂先にオレンジ色の光点がともる。
手首を振る。蓋が落ち、パチンと火が消える。用済みになったライターをポケットに戻そうとして思い留まる。
少し一服したい気分になり、そのまま壁に背中を預けてうずくまる。
紫煙を肺に吸い込み、床に足を投げ出し、頭上にかざして蛍光灯に透かした写真を見上げる。椀に顔をつっこむようにして飯をかっこんでるのはまだヨダレかけもはずれてない女の子、凱とそっくりの顔をした凱のガキ。
『お前には来たのかよ、手紙』
うるせえ。
『ああ、悪いこと言っちまったなあ。字の読み書きは関係ねえか、肝心のお前にダチや女がいないだけか。だから手紙がもらえねーのか、そりゃすまなかったなあ気付かなくてよ』
余計なお世話だ。
『娑婆でもココでも独りぼっち、誰にも待たれていねえ台湾の半半。不憫すぎて泣けてくるぜ』
だからなんだってんだ。
凱の得意げな面がよみがえり、紫煙が苦くなる。
俺の懲役は十八年。でも、十八年経って出所したところで待っててくれる人間なんていやしねえ。今だって娑婆で俺を待ってる人間なんてだれもいない、ひとりもいない。家族はいないも同然だ、十一のときにアパートを飛び出してからお袋とは会ってない。けど、俺が十一でアパートを飛び出してお袋を袂を分かったからってそれがなんだ?お袋とふたりで暮らしてた時だってなにも状況は変わらなかった、お袋にとって俺はいないも同然の人間だった。厄介者で疫病神で、自分を捨てた憎い中国人の血が半分流れるガキ。
冷たい壁面に後頭部を付け、じっと写真を見る。
無我夢中で飯をがっつくガキ、それを写真に撮る女、その写真を刑務所で受け取る男……凱。あんな最低野郎でも娑婆にはちゃんと家族がいる、一日千秋の思いで出所の日を待ちわびてる女とガキがいる。刑期が明ければ凱もこの写真の中に入って家族団欒の食事風景に混ざるんだろう、行儀悪いガキを叱り飛ばすか殴り飛ばすか、それともヨダレかけでやさしく顔を拭ってやるかはわからない。女はそれを見てどうするんだろう、泣くか笑うか窘めるか……どの表情もうまく想像できない、家族団欒に縁のない暮らしをしてきた俺には親父とお袋とガキが揃った食卓がうまく想像できない。
お袋とふたりきりの食卓。通夜みたいに辛気くさい、飯も喉を通らないような。
「……娑婆にいる間にガキ作っとくんだったな」
東京プリズンに入ってしまったら再び外に出られる可能性はかぎりなく低い。懲役が終了するか他の刑務所に移る前に死ぬか殺されるか発狂するかの究極の三択。十八年後、俺が無事懲役を終えて生きて外に出られるという保証はどこにもない。最も現時点で俺は十三歳だし童貞だって東京プリズンに入る一週間前に捨てたばっかで、女とねんごろになってガキを作る機会なんてそもそもなかったんだけど……何言ってんだ俺、相当ヤキが回ってるな。
凱のガキの写真なんてもんをいつまでも持ち歩いてるからこんなくだらないことばっか考えちまうんだ、と激しくかぶりを振って雑念を追い散らす。そんなに帰りを待っててくれる人間が欲しいのかよ、そんなに凱が羨ましいのかよ。強いて自嘲の笑みを浮かべようとしたが、写真の女の子と目が合って失敗する。
『娑婆でもココでも独りぼっち、誰にも待たれていねえ台湾の半半。不憫すぎて泣けてくるぜ』
勝ち誇ったような凱の憫笑が瞼の裏側によみがえり、フィルターを強く強く噛み締める。
『燃やしていいんだぜ』
これはレイジの声だ。
心の動揺をすくいあげるような、愉快犯めいた悪魔のささやき。
『凱にはこれまでさんざん痛い目にあわされてきたんだ、写真一枚燃やしてもバチあたりゃしねえよ。ささやかな報復ってやつ?現実にはだれも痛がらないしだれも気付かない、灰にして便所に流しちまえばお前が拾ったなんて証拠はどこにもねえ。安上がりな復讐だろ』
そうだ、これまで凱にはさんざん酷い目に遭わされてきた。何度薄汚い混血だって馬鹿にされた、イエローワークの仕事場でシャベルを脛にぶつけられた、食堂で肘をぶつけられた?アイツさえいなければ俺はもっと平和に暮らせたはずだ、東京プリズンでの暮らしもずっとマシになったはずだ。人ごみでアイツの姿を目にしてもびくつくことなく貞操の心配をすることもなく心おだやかに毎日を過ごせたはずなのだ。
「…………」
自分でも制御できない感情に突き動かされ、ライターの蓋を開ける。固唾を呑み、ライターの火を写真に近づける。写真の真ん中では凱とそっくりの顔をしたガキが脇目もふらずに飯をかっこんでる、カメラを構えた女の笑い声が聞こえてきそうな微笑ましい写真。
写真の角にライターの火を近づける。
『燃やしてもいいんだぜ』
レイジはそう言った。俺も同感だ。たかが写真一枚燃やしたから何だってんだ、たかが写真一枚―……
大事な、ガキの写真。
「!」
口にくわえた煙草の灰がぽろりと先端からこぼれおち、あろうことか女の子の顔の真上に落ちる。ジジジ、と早速不吉な音をたて始めた灰を考えるより早く両手で払いのける。あちっ。煙草を口から外す。よかった、間に合った。少し焦げ目がついたが、ガキの顔に穴が開くのはなんとか防げた。
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煩死了。うんざりだ。
あんまり馬鹿らしくなって腰を上げる。こんな疫病神とっとと凱に返しちまうにかぎる、また気の迷いを起こさないうちに。写真をポケットに押し込み、大股に歩き出した俺は十五メートルも行かないうちに前方の異変に気付く。
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見ちゃいけねーもんを見ちまった。
が、いまさら引き返すわけにもいかないと腹を括り、人影の頭上、廊下の真ん中で立ち止まる。いつも見下ろされるのに慣れていた俺は、こうしてコイツを見下ろせる日がくるなんて考えたこともなかった。
「なにやってんだお前」
あきれて声をかける。
人影がびくりと震え、顔を上げる。まずい奴にまずいところを見られたといわんばかりの狼狽の表情が次の瞬間には虚勢をむきだした憤怒の相に変じる。
「お前こそ何やってんだ、半半。またヤられにきたのかよ」
凱だった。
いつも引き連れてる取り巻き連中の姿がないことから、適当な理由をでっちあげてひとりでここにきたのだろう。どれくらいの間ここでそうやって写真をさがしてたかは知らないが、ふと目をやったズボンの膝はどす黒く汚れていた。
ズボンの膝で床を擦り、両手を床につき、徘徊する獣のような姿勢で何往復、ひょっとしたら何十往復も廊下を行ったりきたりしてたのだろう。
憎悪の対象を俺へと転じた凱が今にも掴みかからんばかりの形相でこっちによってきたのを、すかさず写真を掲げて制す。
凱の顔色が豹変した。
「さがし物はこれだろ」
「返せ!!」
礼も言わず、俺の手から写真をひったくる。手中に奪還した写真を見つめ、長々と安堵の息を吐く。頬を緩め口元を緩め、ぬくんだ眼差しを写真に注ぐ凱は俺が見たこともないツラをしていた。
一人前の父親のツラ。
……………腹が立つ。
何時間ぶりかで手元に戻ってきた写真に見入る凱をひとり廊下に残し、用は済んだとばかりに立ち去りかけた俺に声がかかる。
「待てよ」
今度はなんだ。
うんざりしながら振り向いた俺をうしろめたげに盗み見た凱が、威圧的に顎を引き、写真へと視線を促す。
「かわいいだろ」
「…………………………………………………………………………ああ」
すさまじい葛藤を克服し、我が身可愛さに嘘をつく。いや、大人げないぞ俺。凱はともかく凱のガキに罪はない、鍵屋崎の言い分じゃないが親から貰った遺伝子には文句のつけようがない。自分を殺して嘘をついた俺の存在など音速で忘れ去り、こっちに背中を向けてじっと写真に見入る凱。
やってらんねえ。
馬鹿馬鹿しくなって足早にその場を立ち去る。凱が追ってくるかと警戒したがいつまでたっても靴音は響かず、不安になって振り向いたら凱はまだ同じ場所に突っ立っていた。うつむき加減の横顔がちらりと目に入る。えらの張ったごつい顔には似つかわしくない腑抜けた笑み、節くれだった指には似合わない細心さで写真を撫でる手。
角を曲がり、完全に凱の視線が届かなくなってから口にくわえた煙草を吐き捨て、靴裏で揉み消す。凱の腑抜けヅラを踏みにじるようにあらんかぎりの憎しみと行き場のない怒りをこめて。
凱のあんなツラ見たくなかった。
どいつもこいつも反吐がでる、手紙をもらって浮かれまくってる連中はみんな。
みんな死んじまえ、畜生。
壁に額を預け、呟く。
「……どうせ俺には、だれもいねーよ」
凱にもレイジにもリョウにも待っててくれる人間がいる、首を長くして出所の日を待っててくれるだれかがいる。
じゃあ、俺にはだれがいるんだ?
「…………これでいいのか」
そう、これでいいのかもしれない。
俺はくそったれの人殺しだ。いくら自分の身を守るためとはいえ、追いつめられてたとはいえ、手榴弾の栓を抜いて三人の人間を肉片に変えたのはまぎれもない事実だ。そんな人間のところに手紙なんてくるわけない、そんな人間がなにかを図々しく期待すること自体間違ってる。
俺が殺した奴らにだって親がいた、女やガキだっていたかもしれない。
でも、地獄には手紙が届かない。
俺が地獄送りにした連中には永遠に手紙が届かないのに、地獄送りにした張本人の俺に手紙がこないからって……だからなんだってんだ?当然の罰じゃないか、人を殺した報いじゃないか。
自業自得だよ。
「不需要、信」
プーシュイヤォ、シン。
手紙なんか必要ない。そんなもんいらない、そんなもん届かなくても生きていける。だれかに生きてて欲しいなんて望まれなくてもしつこく生きてのびてやる、だれかに出てきてほしいなんて望まれなくても絶対に生きてここを出てやる。
他人にどう思われてるかなんて関係ない。
俺は生きたいんだ。
だれにも喜ばれなくたって、だれもいなくたって、生きてここを出たいんだよ。悪いかよ畜生。
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