少年プリズン

まさみ

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六十話

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 雨の音じゃない。
 「……………」
 のろのろと目を開ける。霞がかった視界にぼんやり映るのは灰色の風景、コンクリートに四囲を塞がれた殺風景な部屋。圧迫感を与える低い天井と汚水の流れた床の狭間、洗面台にもたれて膝をついているのは僕だ。
 栓を開放した蛇口から水滴が滴り落ちている。雨音の正体はこれだ。
 思い出した。すべて思い出した。
 なんで今まで忘れていたんだろうという自嘲の念が意識の表層に浮上するが、すぐに答えはでた。忘れたかったからだ。人は都合よい生き物だ、あまりに負担となる記憶や苦痛となる体験を蓄積すると大脳の自己防衛機構が働き、自分でもそうとは知らず過去が書き換えられてしまうことがある。僕の身の上に起こったのもそれだ。まったく人間とは便利にできている、忘れたいと強く念じたことは速攻で忘れられるのだから。
 でも思い出してしまった。タジマの一言が引き金となり、あの日のことを隅々まで鮮明に。
 あの日、玄関で別れた恵はたしかに僕にむかってああ言ったんだ。おにいちゃんが死ねばよかったのに、おとうさんとおかあさんじゃなくておにいちゃんが死ねばよかったのに。意志薄弱な人形のように無表情に、目には底知れぬ絶望を焼き付けて。
 恵に拒絶されたという厳然たる事実が、腐臭漂う下水のように体の隅々まで染みてくる。
 今まで僕は何を勘違いしてたのだろう。
 自分が恵に必要とされてると、恵にとっていなくちゃならない存在だと何の根拠もなく信じこんで思い上がっていたが、そう思っていたのは僕だけだった。無理もない、僕は恵の目の前で両親にとどめをさしたのだから。怯えて口もきけない状態の恵の前で返り血を浴びながら両親を刺し殺したのだから。
 そんな僕のことを、恵が以前のように無邪気に慕ってくれるわけがないじゃないか。
 当たり前のことだ、考えるまでもないことだ。パトカーの中で刑事に言われたとおり、僕は薄汚い人殺しだ。人間として最下等の部類に入る最低の親殺しだ。それがたとえどんな両親でも、どんなに酷い両親であったとしても恵にとってはこの世にただふたりのかけがえのない親だ。そして、そのかけがえのない両親を無力に立ち尽くした恵の前で刺し殺したのは僕なのだ。
 僕なんだ。
 『お前の妹な、精神病院にいるぞ』
 嘘であってほしいという願いはまだ捨てきれないが、心のどこかではそれが愚かなことだとわかりきっている。たぶん、恵は本当に仙台の小児精神病棟にいるのだろう。確証はない、タジマの口からきいたことだけがすべてだが直感的にわかった。タチの悪い嘘をついて僕をなぶろうとしてるんじゃないか、そう信じきれたらどれだけラクだったろう。救われただろう。
 でも、わかってしまった。恵に関することならだれが嘘を言おうが真実を言おうが直感的にわかってしまうのだ。
 『お前の妹。引き取られた親戚んちじゃだれとも口をきかず部屋に閉じこもって過ごして、一日中こう呟いてたそうだぜ』
 タジマのにやにや笑いが脳裏に浮かぶ。その顔がぐにゃりと熔け崩れ、歪み、恵の顔に変貌する。
 『おにいちゃんが死ねばよかったのに』
 僕のせいだ。
 僕のせいで恵はだれとも口がきけなくなった、精神病院にいれられた。僕のせいで恵はひとりぼっちになった。
 そうだ。恵をひとりぼっちにしたのは僕なのだ。
 ちがう、ちがうんだ。僕は妹を守りたかっただけだ、無神経で俗物の両親から、自分たちの遺伝子を受け継いだ実の子供でさえ優劣でしか判断しないいかれた両親から恵を守り抜きたかっただけだ。だからあの場で最も適した行動をとった、あの場で最も適した判断をくだした。
 僕の判断はまちがってない、すべては恵を守るために選択した結果だ。恵の人生を、妹の将来を守るために選択した結果。
 僕は今でも自信をもって断言できる、あの時自分がした行為は決して間違っていなかったと。
 
 でも、正しかったのだろうか。
 間違ってないということが正しいということになるのだろうか。

 僕の選択は本当に正しかったのだろうか。
 あの時も今もこれからも正しいのだろうか、正しかったのだろうか。今まで自分のしたことに疑問を持ったことなど一度もなかった、でも今は……わからない。僕は恵を守ることを最優先して両親を刺殺したのに現状では恵を守れてない。ばかりか、僕が両親を刺し殺す現場を目撃した恵は精神の安定を崩して病院に送られたという。
 どこで間違えたんだ、どこで判断を誤ったんだ、どこで計算が狂ったんだ?
 あの日書斎に足を踏み入れたとき、革張りの椅子に座った父の背後に立ったとき、書斎に恵がやってきたとき、そして……引き出しが落下する音、ひっくりかえったインク壷と万年筆、ばらばらに舞い散る原稿用紙。怒鳴り声、悲鳴、泣き声―恵の泣き声。床に落ちたナイフを掴む小さな手、だめだ、行くな、そっちに行くなー
 どこで計算が狂ったんだ。あの時、恵を止めようとしたときか?間に合わなかったときか?どこまで引き返せばやりなおせる、軌道修正できる。何をどうすればやりなおせるんだ、教えてくれ。
 教えてくれ?僕はだれに教えを乞うてるんだ?
 この刑務所にIQでぼくに優る者などひとりもいない、僕より高性能な頭脳を持つ者などひとりもいない。だれも教えてくれなどしない。僕は選ばれた人間、優れた人間のはずだ。そういうふうに設計されて完成されて生まれてきた人間なんだ、群れるしか脳のない低脳の凡人どもとは違うんだ。
 なのに、どうしてわからないんだ。いちばん肝心なことが考えても考えてもわからないなら頭なんていらないじゃないか、こんな脳みそいらないじゃないか。でも、僕から脳みそをとったら何が残る?恵を失った今の僕になにが残る?なにも残らない、残りはしない。
 まてよ、そもそもなんで脳みそが必要だったんだ。人より良くできた優秀な脳みそ、完成度された遺伝子。そうだ、思い出した。腕力に自信がない僕がこの刑務所で生き残るためには頭を使うしかない、僕を搾取しようとよってくる人間の常に先手を読んで行動しなければならない。でも、なんでそうまでして生き残りたかったんだろう。
 恵。
 外には恵がいる、大事な妹がいる。僕のかわいい妹、大事な家族。一日でもはやくこの刑務所をでて恵に会いたい、恵のそばにいきたい、恵を守ってやりたい。ただそれだけを目的に今日まで必死に生きてきたのに……
 『おにいちゃんが死ねばよかったのに』
 恵は僕がでてくることを望んでない、僕を待ってなどいない。それどころか、僕に死んでほしいと願っている。
 じゃあ、そうまでして生き残る意味なんてどこにもないじゃないか。頭を働かせて吐き気を我慢して苦しい思いをして寝不足になりながら、ほかの囚人に蔑まれ罵られ虐げられ、そんな思いまでして生きつづける意味なんてどこにも存在しないじゃないか。
 『ありがとう』
 リュウホウの死に顔は安らかだった。うっすらと笑みさえ浮かべているように見えたのは目の錯覚だろうか。僕は死後の世界など信じない、死んだら人間はタンパク質のカタマリになるだけだ。自殺したリュウホウが天国に行けたはずがない、リュウホウはタンパク質のカタマリになっただけだ。
 無。
 僕のせいで恵はひとりぼっりになり、リュウホウは死んだ。それなのに僕だけがのうのうと生き残っている、生きながらえている。僕が生き残ることなんてだれも望んでないのに、だれも喜んでないのに。

 だれのために生きてるんだ?
 なんのために生きてるんだ?

 だれからも歓迎されないのに、だれからも必要とされないのに、これ以上呼吸しつづける意味があるんだろうか。存在しつづける意味があるのだろうか。

 無い。
 なにも無い。

 恵に必要とされることだけが僕の生き甲斐だった、恵を守ることだけが僕の存在意義だった。生き甲斐と存在意義を同時に失った今の僕には何もない、だれもいない。

 友人はいなくても生きていける。でも、家族がいなければ生きていけない。

 恵がいたから今まで生きてこれた、恵がいたからこそ今まで生き残れた。
 でも。
 『こんなこと頼んでないのに!』
 恵が泣きじゃくる声が耳にこびりついてはなれない。悲痛な嗚咽。恵を泣かせたのは僕だ、恵の両親を奪ったのは僕だ、恵の家族を奪ったのは僕なのだ。
 僕は恵の家族じゃなかった。一方的にそう思いこんでいただけで、恵から見れば家族じゃなかった。
 恵からすれば僕が、僕のほうこそ、一つ屋根の下で暮らしている他人だったのだ。
 
 友人に必要とされなくても生きていける、でも、家族に必要とされなければ生きていけない。

 少なくとも僕はそうだ。恵に必要とされてこそ僕の存在はあった、今日この日まで生き続けてこれた。恵に拒絶された今、僕の居場所はどこにもない。刑務所の外にも恵の隣にも他の所にもない、この刑務所にだってそんなものは存在しない。この房だってぼくの居場所じゃない。
 「結局、僕の居場所は試験管の中だけだったな」
 十五年前も、今も。
 もっと早く気付けばよかった。そうすれば恵を苦しませずに済んだのに、恵を傷つけずに済んだのに。なにが天才だ、こんな頭脳なんの役にも立たないじゃないか。妹ひとり幸せにできなかったじゃないか。
 『シネバヨカッタノニ』
 そう叫んだのは恵だろうか、リュウホウだろうか。どっちでもかまわない。後ろに手をまわし、手ぬぐいを抜き取る。もっと早くこうすればよかったのだ。洗面台の縁に掴まり、なんとか体を支えて立ち上がる。

 そうか、死ねばよかったんだ。

 この手ぬぐいで首を締めるだけで済む、簡単なことじゃないか。手ぬぐいを首にまわし、首の後ろで交差させる。目を閉じる。虚無。静謐。暗闇。手ぬぐいを握り締めた手に徐徐に力をこめてゆく。
 首に手ぬぐいが食いこみ、気道が圧迫され、呼吸が苦しくなり……

 暗闇に閃光が爆ぜた。
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