少年プリズン

まさみ

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五十三話

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 どうやって房に帰り着いたか覚えてない。
 鉄扉を開け、中にすべりこみ、素早く扉を閉めて施錠。薄暗い房内を見回し、人気がないことを確かめる。サムライはまだ帰ってないらしい。そのことに深く安堵しながら豆電球の下を通り過ぎ、奥の洗面台へと向かう。わざわざ明かりをつけて輪郭を明確にするまでもない、ほとんど十歩で歩みきれてしまう狭い房だ。どこになにがあるかなんて感覚でわかる。
 足音をたてずに暗闇の中を横切り、洗面台の前で立ち止まる。
 「げほっ、」
 吐く。くりかえし吐く。
 食道をさかのぼり喉にこみあげてきたものを全部吐く。たった今食べたものを残らず全部吐き尽くしてもまだ吐き気は止まず、苦い胃液しかでなくなっても胃の痙攣は止まらない。口腔にわだかまった胃液の酸味が不快だ。体を二つに折り、洗面台に顔を突っ込んで繰り返し嘔吐していると無理な体勢が祟ったのか背骨が軋む。手をさまよわせて蛇口を捻る。蛇口を掴んで呼吸が鎮まるのを待つ無為な時間に脳裏に去来するのは先刻の廊下の光景、僕の耳の後ろでささやかれた言葉。
 『リュウホウが死んで嬉しいでしょ』 
 瞬間、理性が蒸発した。気がついたらリョウに殴りかかっていた。
 どうかしている。僕は理性的な人間だったはずだ。たとえどんな状況でも冷静な判断に基づいて行動する人間だったはずだ。そんな僕があんな一言でみっともなく動揺して我を忘れるなんて、なんてザマだ。
 無様だな。
 蛇口を握り締めた前傾姿勢で自嘲する。耳に響くのは流しにたまった水が排水溝へと吸い込まれてゆく音だ。視覚の働かない暗闇では聴覚が異常に冴える。遠い廊下を歩く囚人たちの足音から衣擦れの音、扉の向こうで弾ける笑い声を別世界の雑音のように朦朧と聞きながら嘔吐を伴う胸焼けと必死に戦う。
 「あの日」から何も喉を通らない。連日の強制労働で体は疲れているのに、空腹の絶頂のはずなのに、一切の固形物を胃が受け付けないのだ。食道では人目を避けて隅に座り、ひとりで食事をとる。食事を終えたら房に直帰し、その足で洗面台に直行し、胃がからになるまで吐き続ける。ちゃんと夕食をとらなければいけないと頭ではわかっている。理解している。東京プリズンの食事は朝と夜の二食、一食でも抜いたら強制労働に支障がでる貴重な栄養源なのだ。でも、明日の強制労働を念頭において無理矢理口につめこんでも胃で消化される前に全部吐いてしまうのだ。
 昔、ここに来る前、心理学の本で摂食障害の女性の事例を読んだことがある。
 摂食障害とは主に若い女性によく見られる症状で食事の摂取を拒む拒食症と食べても食べても満たされない過食症に分類できるが、この二つを併発してる患者が最も多い。すなわち、暴飲暴食を繰り返しては延延と吐き続けるという悪循環に陥っている患者が占める割合が最も多いのだ。
 摂食障害の原因としては歪んだマザーコンプレックスから来る成熟の拒否などが挙げられる。食事をとるということは成長することだ。食事をとれば太る、女性の場合は体の線がまるくふくよかになり厚い脂肪層は端的に母性を象徴するようになる。若い女性が食事を拒んで嘔吐を繰り返すのは自分が嫌悪する母親に近づきたくない、母親のように子供が産める体になりたくないという無意識の叫びだと一説にはある。
 もう一つ仮説がある。
 摂食障害の患者が食べては吐く、食べては吐くという不毛な行為を繰り返すのは嘔吐に伴う苦しみによって自分を罰しているからだそうだ。この仮説には二通りの解釈がある。本当に罰したい相手はべつにいるが、その相手に危害をくわえるのが難しい場合に懲罰の対象を自己に転化するのが一つ。もう一つはもっと単純に駄目な自分、周囲の期待に応えられない未熟な自分に罪悪感を感じ、そんな自分を罰するためにひたすら吐き続けるというものだ。
 罪悪感。
 なぜ僕がそんな不条理な感情に苛まれなければならない?なぜ僕が罪悪感を感じて自分で自分を罰しなければならない?
 リョウに言ったことは嘘じゃない。僕は一方的にまとわりついてくるリュウホウに迷惑していた。彼が視界から消えてくれるのを心の底から祈っていた。それが現実になっただけじゃないか、直接手を下したわけでもない僕が罪悪感を感じる必要はどこにもないだろう。 
 リュウホウに迷惑してたのは本当だ。誓って真実だ。一方的に友達扱いされて親近感を持たれて僕は迷惑していたのだ。人前での自慰を慎むぶん猿より少しマシな羞恥心しか持ち合わせてない低脳どもと馴れ合って自分の知能指数を低下させるのはお断りだ、たとえ東京プリズンに収監されて輝かしい未来への希望が断たれたとしても最低限のプライドだけは失わずにいきたい。
 そうだ。
 他人が首を吊ろうがどうしようが、僕には関係ないはずじゃないか。恵以外の人間がどんなくだらない理由で自殺しようが自滅しようが僕にはまったく興味がない、僕がこの世界で大事なのは妹の恵だけだ。あとの人間はいてもいなくても同じとるにたらない存在だ。どうでもいい人間が首を吊ったところで、だから何だと言うのだ。
 リュウホウ。
 彼の死は僕自身に何の影響も及ぼさないはずだ。僕はこうして生きている、これからも生き続ける。リュウホウとダイスケは死んで僕は生き残った。それはただの偶然だ、神の采配でもなんでもない。だが、僕はこの偶然に感謝する。僕には東京プリズンを出て外に残してきた恵と再会するという目的がある。この目的を達するまではリンチされようがレイプされようがみじめに死ぬわけにはいかないのだ。
 わかってる。頭ではわかっている。
 何度も何度も自分に言い聞かせて忘れようとした。頭から抹消しようとした、リュウホウのことを。強制労働中も頭に浮かぶのはリュウホウのこと、うっすらと笑みを浮かべた安らかな死顔と生前のおどおどした表情、エレベーターのドアが閉まる直前に見た気弱げな笑顔と「ありがとう」と動いた唇。
 一週間前、リュウホウの首吊り現場に立ち会ってからの記憶はひどく曖昧で飛び飛びに抜け落ちている。僕はたしかにあの場に居合わせて、ブラックワークの囚人たちの手によりリュウホウの死体がおろされる一部始終を目撃していたはずだ。看守に指揮されててきぱきと死体をおろし、ゴルフバッグを開いてまだ死後硬直の始まってない死体の間接を曲げてゆく。死後硬直が始まってないということは、リュウホウが死んでからまだそんなに時間が経過してないということだ。
 リュウホウが首を吊ったのは夜明け前だ。
 夜明け前ということは、あの時リュウホウを追っていれば自殺を防げたはずなのだ。あの時、レイジとサーシャの対決に第三者として立ち会った僕がリョウやレイジの制止を無視してリュウホウを捜しに行ってればもしかしたら彼は死ななくても済んだかもしれない。あの晩リュウホウを掴まえて彼の誤解を解くことができれば自ら命を断つという最悪の道を選ばせずにすんだかもしれない。
 直接的に手を下したのは僕じゃないが、間接的に手を下したのは僕だ。
 リュウホウは殺されたんだ。他のだれでもない、この僕に。
 『きみが殺したのか』 
 暗闇に包まれた階段の踊り場、段差を経て向かい合ったリュウホウの顔が蘇る。
 僕に拒絶されたリュウホウは絶望したまま死んだ。友達だと思っていた僕に裏切られたショックから発作的に首を吊ったのだ。僕が殺したも同然だ。僕がリュウホウを追いつめたんだ。あの時手ぬぐいなんか貸さなければ、リュウホウを期待させるようなことをしなければ良かったのに。
 他人に興味がないなら興味がないままでいればよかった。中途半端に関心を持って、介入した結果がこれだ。
 あの時、僕はなにをしたかったんだろう。わからない。一週間前のあの晩、リュウホウを追いかけて掴まえて何をしたかったんだろう。
 寝ても覚めてもそのことばかり考えている。夢の中でも考えている。浅い眠りの中で自問自答しても答えは見えない。毎晩のように訪れる悪夢の中、僕に背中を向けて天井からぶらさがっているのはリュウホウの首吊り死体だ。僕が貸した手ぬぐいを輪に括って、その間に首を突っ込んで前後に体を揺らしている。
 引き寄せられるようにリュウホウに近づいてゆくうちに手ぬぐいが軋み、リュウホウの体がゆっくりとこちらに向く。ぎこちなくこちらを向いたリュウホウの顔は安らかな笑みさえ浮かべー
 その顔が、いつのまにか恵に変わっている。
 『おにいちゃん、なんで殺したの』 
 違う。
 『なんで恵を殺したの』
 僕が殺したのは恵じゃない。僕が恵を殺すわけがない。たった一人の大事な妹だ。たとえ血がつながってなくても、たった一人の大事な家族だ。恵を殺したら僕はひとりきりになってしまう。僕にはだれもいなくなってしまう。
 僕が、僕が殺したのは―
 恵の顔にリュウホウの顔が重なる。今、僕の目の前で首を吊ったのはリュウホウなのか?恵なのか?混乱する。
 『なんでぼくを殺したの』
 声のトーンが変わり、はっと顔をあげる。底なしの絶望を塗りこめた、救いがたい悲哀の目をしたリュウホウが僕を見下ろしている。声を荒げて責めるでも詰るでもなく、ただただ哀しげな黒い目で僕を見つめている。
 『『なんで殺したの?』』
 声と声が重なり、顔と顔が溶け合う。恵とリュウホウが完全に一体化し、どこまでも純粋に問いかけてくる。
 違う。殺したくて殺したわけじゃない、あの二人のときとは違うんだ。僕はリュウホウが憎かったわけじゃない、殺したいほど憎かったわけじゃない。むしろ―
 何と言おうとしたんだ?
 悪夢の沼へと落ち込んでいた思考をすくいあげたのは衣擦れの音、廊下を叩く足音。洗面台にもたれたまままどろんでいた僕は、廊下を接近してくる何者かの気配に弾かれたように振り向く。瞼を閉じていたほんの短い間にひどくうなされていたらしく、全身に嫌な汗をかいていた。鋭敏に冴えた聴覚で廊下を歩いてくる足音を拾い上げ、腕を支えにして体を起こす。膝から下の力が抜け、バランスを崩す。洗面台の縁を掴んで立ち上がり一歩ずつ足をひきずるように歩き出す。途中、眩暈に襲われた。熱に浮かされたように歪む視界の中、自分のベッド目指して足を運ぶ。そう離れてないベッドまでの距離がはてしなく遠く思えた。
 こんな情けない姿、アイツにだけは見せるわけにいかない。
 それだけを一心に念じ、鉛のように重たい足を運ぶ。ようやくベッドに辿り着き、固く湿ったマットレスの上に倒れこむ。黴臭い匂いが鼻腔にもぐりこむ。毛羽立った毛布を掴み、頭の上まで引き上げる。
 視界に闇の帳がおりるのと、房に光が射すのは同時だった。
 鉄扉が軋み、だれかが入ってくる気配。見なくてもだれが入ってきたのかはわかっていた。房の合鍵を持ってるのはひとりしかいない。
 サムライだ。
 毛布越しの暗闇にドアの閉じる音が響く。そのまま房を横切り、豆電球を捻って明かりをつけるかと予想していたがいつまでたってもサムライが歩き出す気配はない。不審に思い、耳をそばだてていると―
 「鍵屋崎」
 ふいに名を呼ばれ、心臓が大きく鼓動を打った。
 勘の鋭いサムライのことだ、なにか気付いたのかもしれない。サムライの視線が僕の上に注がれているのがわかる。頭から毛布をかぶり息をひそめ、身動ぎひとつせずに沈黙した僕をしばらく凝視し、サムライが続ける。
 「寝ているのか」
 「………………」
 馬鹿な男だ。本当に寝ているならどのみちその質問には答えられないだろう。
 サムライの視線が早く逸れてくれるのを祈り、毛布の下で息を殺す。心臓の動悸が速まり、喉が異常に渇く。何が言いたいんだ?なんで僕に声をかけたんだ?脳裏で膨れ上がる疑問符。この一週間、僕は徹底してサムライを無視してきた。もし一言でも口をきけば、異常に勘の鋭いサムライに体調が悪いことを悟られてしまう危険性がある。
 よりにもよってこの男に、観察対象のモルモットに体の不調を悟られるなんて、僕のプライドが許さない。
 不均衡な沈黙。
 それ以降サムライは一言も発することなく、黙って僕を見つめていた。こうして毛布の下で身を縮めていても、サムライの存在感は無視できない。意識しないよう努めれば努めるほど、その圧倒的な存在感が大気を伝播してひしひしと伝わってくるのだ。
 自己暗示も役に立たない。サムライを無視するのは不可能だ。
 いつまでこの気詰まりな沈黙が続くのかと叫びだしたい衝動にかられた僕の耳朶に衣擦れの音が届く。サムライが踵を返し、房をでてゆく気配。ドアが閉じる音が素っ気なく響き、闇に沈んだ房に重たい余韻を残す。
 サムライの足音が廊下を遠ざかるのを待ち、胸郭にためていた息を吐き出す。毛布の下で寝返りを打ち、壁と向き合う。サムライが消えてくれてよかったと安堵した次の瞬間、僕にとってはいやな、非常に不愉快な想像が頭に浮かぶがはげしくかぶりを振って打ち消す。
 サムライが僕に気を遣って出ていったんじゃないかなんて、馬鹿らしいにも程がある。
 再びひとりきりで取り残された僕の耳に、あの声が響きだす。
 『なんで殺したの』
 問いかけているのは恵だろうか、リュウホウだろうか。瞼の裏側に浮かび上がった顔は曖昧にぼやけ、どちらとも判別しがたい。
 『リュウホウが死んで嬉しい?』
 混沌とした色彩の渦の中から浮かび上がってきたのはリョウの顔だ。リョウに呑まされたクスリはさっき食べたものと一緒に吐き出したから胃洗浄の必要はないだろうと頭の片隅で他人事のように考える。まだ唇の感触が残ってるようで気持が悪い。手首で唇を擦る。擦る。唇の皮が破けそうになるまで。
 『嬉しいはずがない』
 これは僕の声だ。あの時僕は我を忘れてリョウに殴りかかっていた。嬉しいはずがない。当たり前だ、僕はリュウホウに死んで欲しくなどなかった。
 リュウホウを死なせたくなんて、なかった。
 枕の下に手をさしいれ、布の切れ端を掴む。毛布の下に引き入れたのは例の手ぬぐいだ。リュウホウの命を奪ったあの手ぬぐい。リュウホウの死体がおろされたとき、この手ぬぐいもはらりと床に落ちた。リュウホウの死体が運び出され、野次馬が散り、房が無人になった。閑散とした死体発見現場にひとりとり残された僕は、気付いたらその手ぬぐいを拾い上げ、角と角を1ミリの狂いもなく重ね合わせてポケットにしまっていた。
 なぜそんな行動をとったのかわからない。死体の首に巻きついていた手ぬぐいなんて常識で考えれば触れるのも厭わしい、汚らわしいものなのに。
 なぜ僕は、一週間たった今も手ぬぐいを握り締めているんだ?
 薄く瞼を閉じる。急速に眠気が押し寄せてきた。強制労働で体はぐったり疲れていた。今は何も考えずに眠りたい、悪夢も見ずに眠りたい。リュウホウのことを忘れ、自分が殺した人間のことを忘れ、自分の本当の名前も忘れ。
 僕が覚えていたいのはただ一つ、恵のことだけだ。恵さえいれば十分だ、他に何も要らない。
 だから、笑ってくれ、恵。
 せめて夢の中で、途切れがちな浅い夢の中で、はにかむように笑いかけてくれ。
 それ以外は何もいらないから。

 今だけでいいから、僕を許してくれ。
 頼む。
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