少年プリズン

まさみ

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三十二話

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 目を開く。
 足もとにナイフが落ちていた。
 ナイフの横に落ちていたのは酷使が祟り、背表紙が剥がれかけた血染めの聖書。
 返り血を吸って赤黒く膨張した聖書のページが開き、指の間から滴りおちた血が褪色した活字に染みる。
 『どうか、契約に目を留めてください。地の暗い所には暴虐が横行しています』
 インクと血が溶けてまざりあい、その一行が不吉に浮かび上がる。

 地の暗い所―ここだ。
 暴虐が横行する所―ここだ。東京プリズンだ。

 何かの啓示のように鮮明に目に焼きついた詩篇の警句から顔をあげ、振り返る。
 聖書を投げてサーシャの手からナイフを弾き飛ばした張本人は、細緻な装飾が施されたナイフを腰にさし、手ぶらの状態で笑っていた。
 「サーシャ。お前、ほんとうに陰険」
 一歩ひいて聖書を投擲した姿勢を立て直し、余裕ぶって体の脇に両手をたらしたレイジが笑う。笑みより苦味が勝った笑顔だ。興をそがれたサーシャは僕にはもう関心を失ったように腰を曲げてナイフを拾い上げるや、凍えた目でレイジを一瞥する。
 「東の王の名は伊達ではない、ということか」
 独白じみた呟きには、複雑な感慨がこもっていた。肉の薄い手でナイフを弄びながらレイジへと向き直ったサーシャは抑揚を欠いた口調で続ける。
 「東棟の人間を盾にとられれば、いかなお前といえど手をだせないだろう。この中国人がお前の弱味だとはリョウから聞いていたが、それだけでは心許ない。念のためにもう一人人質を確保しておいてよかった」
 「まあ、メガネくんが夜中にふらふらほっつき歩いてるとこにでくわしたのは偶然だったけどね。結果オーライってやつ?ぼくの機転に感謝してほしいな、なんてね」
 コンクリート塀に腰掛けて片ひざを抱いたリョウが悪戯っぽく片目を瞑る。媚びたウィンクを投げかけられてもサーシャは表情を変えない。親指の腹でナイフの柄を擦りながら、興味なさそうに言い放っただけだ。
 「お前の働きには相応の褒美で報いよう」
 「やった」
 無邪気な歓声をあげて指を弾いたリョウの体が後方へとバランスを崩し、あわや屋上から墜落しかける。慌しく両手を上下させて間一髪重心の均衡を取り戻したリョウが長々と安堵の息を吐く。
 「ぶっちゃけ、そいつがどうなってもかまわないんだけどさあ」
 間延びした声で横槍をいれたのは、屋上の中央に立つレイジ。気だるげに肩を揉みほぐしながら、迷惑そうに僕を一瞥する。
 「べつに俺そいつとダチじゃねーし、同じ棟の人間だからってだけじゃ助ける動機にもなんねーし。さっきそいつがロンを見捨てようとしたのと同じこと。わざわざしなくていい苦労してまでダチでもねー人間助ける物好きはいねーだろ。鍵屋崎はからかいがいのある面白い奴だけど、そんだけだ」
 淡々と、あくまで淡々と。
 レイジは真実を語る。
 「ロンと違って、俺はそこまで鍵屋崎に執着してない。早い話がタイプじゃない」
 「では、なぜ助けた?」
 「それはな」
 レイジはとぼけた。おどけたように首を竦め、放心状態でうずくまっているロンへといたずらっぽく笑いかける。
 「ロンの顔をほかの男の血で汚すのが嫌だったから、かな」
 つまり、僕と同じ理由だ。レイジの場合はどこまで本気かわからないつまらない独占欲だが。
 この一連の過程でレイジへと注意が向き、四肢を押さえこんでいた少年らの手が緩んだ隙に、ロンが僕の元へと張ってくる。薄く裂けた瞼を押さえ、血が止まるのを待っていた僕の元へと這ってきたロンはしばらく何か言いたげにこちらを睨んでいたが、やがて舌打ちしてそっぽを向く。
 言葉よりも雄弁な、万感の恨みをこめた目つきだった。
 「唾つけときゃなおる」
 どうやら怒らせてしまったようだ。当たり前のことを言っただけなのに、何をそこまで怒るのか理解に苦しむ。赤く濡れそぼった五指で辛抱強く瞼を押さえていると、ようやく血が止まってきた。眼鏡のレンズに跳ねた血の飛沫を親指で拭い、かけ直す。
 レンズの向こう側では、此岸と彼岸に匹敵する十歩の距離を隔てて王と皇帝が対峙していた。
 サーチライトの光を等分に背負い、コンクリートの直線上に立った二人の青年は、百八十度異なる表情で互いを凝視していた。
 レイジは人心を魅了するカリスマの笑みを浮かべて。
 サーシャは人心を掌握する独裁者の厳格さで。
 「で?北の皇帝は俺になにをさせたいわけかな」 
 きざっぽく肩をすくめ、冗談めかしてレイジが笑う。
 「跪いて靴でも舐めてもらいたいわけ?」
 「そうしてもらおうか」
 サーシャの返答は簡潔かつ迅速だった。だが、霜が張ったように凍えたまなざしと人間として当然備わっているべき何かが欠落した平板な口調からは、決して冗談の類を言っているのではないことが窺い知れた。
 「マジで?」
 レイジは笑った。笑っていた。最高の冗談を聞いたとでもいうふうに頬をひきつらせ、彫ったように形よい喉仏を断続的に震わせ、囚人服の肩を上下させて必死に笑いの発作をこらえているレイジとは対照的に、サーシャは冷酷な表情を保ったままだった。ロシアの大地が生んだ凍土の皇帝は声を荒げて命令するでも強制するでもなく、ただ、酷薄な冷笑を閃かせただけだ。
 「できないのか」
 レイジの笑みが薄まり、比例して眼光が鋭くなる。剣呑な光を帯びた双眸が音速でサーシャを射抜く。  
 「だ・れ・が、できないと言ったよ?」
 レイジが一歩を踏み出す。運命の女神を味方につけて地雷原を直進する兵士の如く、この期に及んでもなお己の自信と優位を周囲に誇示することが習性となった王者の歩みで。
 九歩、八歩、七歩。
 「…………まさか」
 手錠の鎖が擦れて耳障りな音をたてた。
 振り向く。僕の隣で食い入るようにその光景を見つめていたロンが、ごくりと生唾を嚥下する。
 「本気じゃねーだろうな?」
 「どちらがだ?」
 「なに?」
 「レイジとサーシャ、どちらがだ」
 冷静に反駁した僕へと眼光鋭い一瞥をくれ、ふたたび正面に向き直ったロンが軋り音が鳴るほどに奥歯をくいしばる。
 「両方だよ、畜生」
 六歩、五歩。
 「止まれ」
 サーシャがおもむろに沈黙を破り、前方に手を掲げてレイジの歩みを制止する。唐突に歩みを妨げられたレイジは、形よい眉をひそめてサーシャを見る。静かに腕をおろしたサーシャが、ちらりとレイジの腰に目をやり命じる。
 「頚動脈をかき切られる前に腰のものを返してもらおうか」
 腰にさしたナイフの柄に片手を添え、惜しいと舌打ちするレイジ。 
 「ぬかりねえな、さすがに」
 手負いの獣によく似た笑みを口の端に昇らせたレイジが、一抹の未練なく手の中のナイフを放る。カチャン。乾いた音をたてて自分の足もとへと投げ返されたナイフを感情の窺えない目で見下ろし、サーシャが顎をしゃくる。僕らの周囲に控えていた少年らが先を競って駆け出し、サーシャの足もとに落下したナイフを後生大事に拾い上げる。
 手際よくナイフを回収して外野に退いた少年らにはもはや一瞥もくれず、レイジに向き直るサーシャ。煌々と輝くサーチライトの光につつまれたその姿は、永久凍土の大地に君臨する皇帝にふさわしい崇高な威厳をおびていた。
 四歩、三歩、二歩。
 ズボンのポケットに手をつっこみ、野生の豹のように獰猛な品をおびた動作で交互に足を繰り出してサーシャのもとへ馳せ参じたレイジは、足を肩幅に開いた無防備なポーズでゆっくりと立ち止まる。
 「サーシャ」
 「なんだ」
 「警告しとくが、俺があんたの足の親指を食いちぎらないって保証はどこにもない」
 サーチライトに透けた睫毛の下でレイジが目を細め、サーシャも目を細める。
 「貴様の喉を私の足の親指が下る間に、あの中国人は手首を切り落とされ、あの日本人は両の目を抉りだされるだろうな」
 サーシャの脅迫に驚異的な反応速度で応じ、僕の背後に回りこんだ少年が鞘からナイフを抜き出す。鞘から抜刀されたナイフが頬に接着され、鋭利な切っ先が眼球に刺さりそうになる。
 「………僕は関係ないだろう」
 「………もうおそい。最後まで付き合え」
 たぶん、今の僕は苦りきった顔をしていることだろう。隣のロンとおなじく。
 レイジが天を仰いだ。
 大気の汚れた空には星など見えず、サーチライトで円く切り抜かれた闇の帳がおちているだけ。
 覚悟を決める時間を稼いでいるのかと遠目に訝しんだ僕の視線の先で、レイジが動く。
 腰を落とし、片ひざをつき、コンクリートの地面にゆっくりと五指の先端をおく。
 恭順の意志を示す角度で首を折り、非の打ち所なく尖った顎先を沈め、衣擦れの音さえ殆どたてぬ用心深さでゆっくりと上体を伏せてゆく。
 サーシャの靴裏に左手をもぐらせ、踝に右手を添え、奥ゆかしく捧げ持つ。
 レイジの唇が靴の先端に触れた。
 遠目に眺めているぶんには何の葛藤も抵抗も感じさせない、流れるように優雅な一連の動作。
 靴の先端に控えめに触れるだけの接吻をしたレイジの横顔がサーチライトに照り映え、襟足で括った茶髪が人工の光線に透ける。
 
 綺麗だ。
    
 サーチライトの照り返しを受けた彫り深い横顔には、どこか聖性をおびた飽和した微笑すら浮かんでいた。襟足で一本に括った茶髪が乱れ、うなじにはりついた鬢のおくれ毛が妙になまめかしい。
 僕とロンを見張っていた少年らが、屋上の中央で繰り広げられる静謐な光景にごくりと生唾を飲みこむ。レイジから目を離せない―逸らせない。サーシャを凌ぐ存在感を持ったこの男から目を逸らせない。
 皇帝が、王に食われようとしている。

 「―――――」
 足の先端から食われる、という本能的危機感に襲われたわけでもないだろうが、サーシャの表情が目に見えて強張ったのは事実だ。それまで誰の目にも絶対的な優位を誇示していたサーシャの顔に激情が芽生え、ひび割れた唇から呪詛が迸る。
 「誠意の程度が知れるな」 
 鈍い音がした。
 「………!」
 レイジの手を邪険に振りほどいたサーシャの足がその頭上に振り上げられたと見るや―容赦なく、顎を蹴り上げる。蹴られた衝撃で大きく仰け反ったレイジだが、後ろ向きに転倒しかけたところでコンクリートに手をつき、難を逃れる。あと一秒反応が遅れていればコンクリートの地面で無防備な後頭部を強打していたレイジは切れた唇を手の甲で拭い、唾を吐く。
 唾には血が混ざっていた。
 「キスしろなどと一言も言ってない―『舐めろ』と言ったんだ」
 血の滲んだ唇をろくに拭う暇も与えず、サーシャが連続して足を振り下ろす。至近距離からの攻撃を避けることもできたはずなのに、レイジは甘んじてそれを受けた。見張りの少年らに脇を固められ、首にナイフを回されたロンが視線の先にいたからだ。
 「……………!」
 今にもとびだしていきかねない勢いで片ひざを立てたロン、その拳が強く強く握り締められている。
 間接が白く強張るほどに力をこめて握り締められた拳に目をやり、忠告する。
 「今動けば死ぬぞ」
 「―今動かなくてもどうせ死ぬだろ」
 最もだ。しかし、僕にも言い分がある。
 「忘れるな。僕と君は手錠でつながれた一心同体、運命共同体だ。君の軽率な行動次第では僕まで命を落としかねない」
 恵に会うまで死ねない。ロンと心中するのはごめんだ。
 「………………っ、」
 やり場のない怒りをこめた拳でコンクリートを殴るロンから、一方的にレイジをいたぶるサーシャへと目を転じる。勝ち誇ってレイジの顔面を踏みつけたサーシャが小刻みに息を切らし、狂気渦巻く双眸で命じる。
 「舐めろ。サバーカのように」
 「……………………………」
 レイジは命令に従った。 
 地に膝をついて上体を倒し、四つん這いに這う。獣のような四つ脚の姿勢でサーシャに接近、靴の先端へと顔を寄せる。切れて腫れ上がった唇が痛むのか、サーシャの靴の先端に触れようとした顔が不自然に歪む。しかし、サーシャは容赦しない。靴の横腹をレイジの顔に押し付け捻じ込み、さらに苦痛を増長させる。靴底で蹂躙され泥だらけになった顔のレイジは、それでも四つん這いの姿勢で体を支え、唇を割った舌の先端を靴の表面に触れさせる。
 唾液の糸をひいた舌が、発情した蛭のように貪欲な動きで靴の表面を這いまわる。
 ぴちゃぴちゃと唾液を捏ねる淫猥な音がやけに耳につき、耐えきれずにロンが顔を背ける。コンクリートの地面に手足をついたレイジは器用に顎の角度を変え、盲目的なまでの一途さでサーシャに奉仕していた。
 ある時は喉の奥深くまで靴の先端をくわえこむように。
 ある時は舌の長さが尽きるまで表裏を舐め上げ。
 交尾を強いられ跪かされた雌犬のように屈辱的な体勢にも増して行為の淫らさを強調しているのは唾液に濡れそぼった靴の光沢、そして。
 コンクリートに五指を広げ、口蓋に先端を押し付けられるたびに苦しげに顔をしかめ、それでも従順にひたすらに、飢えに似た殺気すらともなう必死さで靴を舐め続けるレイジの姿。
 物欲しげに喉を鳴らし、忘我の境地でレイジとサーシャに見入った少年たちの足もとで戦慄する。
 
 僕は不感症だ。
 異性との性交渉を経験したときも何の快感も得られなかったし、全裸の異性を前にしたときだって何もー何も思わなかった。何も感じなかった。
 それなのに。

 今目の前で繰り広げられているこの光景が、どんな刺激的な情事や扇情的なフィルムにも増してセクシャルに映るのは何故だ。

 とうとう僕まで頭がおかしくなってしまったのか?
 東京プリズンにいれられた人間に狂気が伝染するのは不可抗力なのか?

 認めたくない。
 認めたくない。

 僕が―僕がこの光景に欲情してるなんてことが、あってたまるか。
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