少年プリズン

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九話

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 「そこなんだよなあ」
 凱が口角を釣り上げる。顔こそ笑っていたが房を不在にしているサムライへの畏怖の念は拭いがたいらしく、目には怯えた色があった。
 「逮捕されたサムライは、連日連夜の取調べにも徹底して黙秘を通したそうだ」
 僕の腰をなでつつ凱が続ける。
 「取調べは過酷を極めた。十三人の人間がぶっ殺されたんだ、それも犯人は名門道場の跡取り息子ときた。サムライの祖父は人間国宝にも指定された剣の使い手で、その息子もまた剣豪として名を馳せた猛者だった。サムライはゆくゆく道場を継ぐ者として、物心ついた時から真剣を握らされていたんだそうだ。一族すべての期待を背負って朝な夕なと稽古に励んだサムライは、十五の頃には人間国宝とうたわれた祖父に勝るとも劣らない技巧を身につけた。だが……」
 僕のズボンを脱がしにかかりながら、凱は続ける。
 「ある日、道場の神棚に飾られていた亡き祖父の愛刀をひっつかみ、その場に居合わせた同胞を皆殺しにした」
 「皆殺し」。剣呑な言葉だ。サムライの酷薄な横顔が脳裏に過ぎる。皆殺し。
 「当然、警察も周囲の人間も執拗に動機を知りたがったが、サムライはなにもしゃべらなかった。裁判で不利になるとわかっていながら、だ。結局サムライは父親を含む十三人を主たる動機もなく斬殺した咎で終身刑を宣告され、別名悪魔の汚物溜め、このくそったれた東京プリズンにぶちこまれる羽目になったわけだが……」
 そこで言葉を切り、理解の浸透度を確認するように僕の顔を覗き込む。
 「護送される間際、拘置所をでたサムライがぽつりと零した一言。なんだかわかるか」
 わからない。
 「『俺はただ、力量を試したかっただけだ』」
 サムライの声色を真似て怪談を締めくくった凱は、これからが本番だと一気に僕のズボンをずり下げる。下着と一緒にズボンが脱がされ、一糸纏わず露出した下半身が外気に晒される。嘲笑、口笛、揶揄。ベッドに詰めかけた発情期の少年たちが、ズボンを脱がされ手も足も出ない状態の僕を一斉に囃し立てる。
 「モヤシみてえな体」
 「色が白えな、女みてえ」
 「ほっそい足首だな、踏んづけただけで折れそうだ」
 「体毛薄いな」
 「キレイなケツ」
 「こりゃ初物だ」
 囚人服を毟り取られ、ギャラリーの目に晒された白く貧弱な下半身に凱がごくりと生唾を飲み込む。普段隠れている部位が人目に触れているのは妙な感じだが、それだけだ。僕は羞恥心が欠如しているのだろうか?今日が初対面の男に組み敷かれ、これから数人がかりでよってたかって輪姦されようとしているというのに、両手を封じられ下肢を押さえこまれた屈辱的な状況の現在でさえ、心の表面は冷静沈着そのものだ。肌を這い回る視線の熱と汗で粘ついた手の不快な感触にも沸き起こるのは嫌悪感のみで、恐怖は微塵も感じなかった。
 僕の現在の心境を表現するのに最も相応しい言葉は、これだ。

 煩わしい。

 不快げに顔をしかめた僕の反応を都合よく解釈したのか、調子に乗った凱が己のズボンを掴み、一息に引きおろす。凱の膝下に組み敷かれているため、見たくもない光景を真正面から目撃する羽目になった。凱のペニスは赤黒く勃起していた。持ち主の容貌に勝るとも劣らず醜悪な代物だ。
 四囲に壁を築いた少年たちの下卑た笑みを目の端に留め、うんざりと考える。
 さて、これから僕はどうなるのだろう。舐めさせられるのか、突っ込まれるのか?
 「処女のケツはたっぷり可愛がってやんなきゃな」
 凱の下品な揶揄に追従し、仲間たちが爆笑する。「舐めさせんならメガネとったほうがよくねえか?」「お前がケツで楽しんでる間、口はおれに貸してくれよ」聞くに堪えない下劣な文句の応酬、発情期の馬に似た嘶きと肌を湿らす荒い鼻息。
 淫蕩な熱で濁った目が何対も僕を取り巻いている。
 自分が蛙になった気がした。解剖台に横たわり、表皮を鉤で捲られてはらわたを暴かれた実験用の蛙。かまびすしい野次と悪意滴る嘲笑、優越感と嗜虐心に酔った少年たちの狂った声が四方から押し寄せ、背後に立った誰かの手にぐいと後頭部を押さえこまれる。顎を掴まれ、強引に口をこじ開けられる。口内の粘膜を三本指で犯され、喉の奥近くまで無遠慮にまさぐられ、吐き気にむせかえる。唾液にまみれた指を引き抜き、左右の少年たちが待ちかねたようにズボンをおろす。
 せわしない光景を瞼を閉じて遮断し、心の中で繰り返す。

 ああ、煩わしい。この世はなんて煩わしいことばかりなんだ。

 カチャリ。

 ごく軽い金属音がした。
 凱を始め僕の肢体を視姦するのに夢中だった少年たちは気付かなかったみたいだが、不衛生なマットレスに四肢を押さえ込まれた僕にはたしかに聞こえた。ベッドに仰臥した姿勢のまま、首だけ起こして視線を巡らす。少年たちに遮られた視界の向こう、この房唯一の外界との接点である鉄扉から一条の光が射している。
 「かたじけない」
 扉越しに響いてきたのは重々しいサムライの声だ。僕の胴に馬乗りになり、裸の尻を晒した凱が顕著に反応する。
 「お安いご用さ。また開かなくなった時はいつでも呼んでよ、ただし料金と引き換えに」
 格式張ったサムライの物言いに応じたのは、対照的に弾んだ声。声変わり前なのだろう高音域のボーイソプラノには聞き覚えがある。食堂に向かう廊下ですれ違った赤毛の童顔と媚びた上目遣いを思い出す。蝶番が軋み、重量感のある鉄扉がゆっくりと内へと開く。
 並んで廊下に立っていたのは大小の影ーサムライとリョウだ。
 得意げに小鼻をふくらませたリョウの右手には、先端がねじれた細長い針金が握られていた。察するに、あの針金で扉を解錠したのだろう。器用な芸当をしてみせたものだと感心しつつ、その隣のサムライへと目を移す。
 サムライは無言で房の中を見つめていた。否、正しくは房の左側、パイプベッドに参じた少年たちの背中とその向こうに仰向けた僕をというべきか。僕の腰の裏に手をさしこみ、今まさに裏返そうとしていた凱がその姿勢のまま首を捻り硬直している。凱の視線の先のサムライは、徹底した無表情でこちらを見つめ返していた。同房の住人が複数の囚人に輪姦されようとしている現場を目撃してもとくに動揺はしてないらしく、唇を一文字に引き結んだ厳粛な表情からは何の感慨も汲み取れなかった。
 「ありゃま」
 サムライの隣で目を丸くしているのはリョウだ。右手の針金をぽんぽんと投げ上げながら、好奇心をむきだしにして房の中へと身を乗り出す。ベッドにはりつけにされた僕を凱の背中越しに覗き込んだリョウは、良心の呵責などひとかけらも見当たらない笑顔で無邪気に問う。 
 「ひょっとしてー……お邪魔だった?」
 完全に面白がっていることが、生き生きした表情とわくわくした声から窺い知れた。
 「じゃ、俺は行くね。このままメガネくんがレイプされるとこ見物してたいのが本音だけど、トラブルに巻き込まれて独居房送りになるのはやだし」
 好奇心猫を殺す。
 その諺を知っている程度には利口だったらしいリョウは、トラブルに巻き込まれるのを避けて早々に退散した。ぱたぱたと軽い足音を残して遠ざかってゆくリョウの赤毛から、廊下に立ち尽くしたままのサムライへと目を戻す。

 衆人環視の中、無造作に敷居を跨ぎ、房へと足を踏み入れたサムライ。

 大股で房を横切り、むかって右側、自分が使用しているベッドへと歩み寄る。その場に居合わせた全員、サムライに声をかけることはおろか口をきくことさえできなかった。サムライが歩を踏み出すごとに四肢から放たれる殺気が増し、空気に霜が下りたような冷気がしんしんと押し寄せてきたからだ。
 僕は目だけでサムライを追っていた。ほかの部位は自分の意志では動かすことができなかった。下半身裸の凱は荒馬を乗りこなす要領で僕に跨ったまま、一向に下りる気配がない。この状況に全く無頓着に右のベッドへと歩み寄ったサムライは、おもむろに腰を屈めるや、ベッドの下へと手をさしいれ一振りの木刀をとりだした。

 初対面の僕に前触れなくつきつけられた、あの木刀だ。

 「………おい、」
 卑屈な半笑いを浮かべた凱が何を言おうとしたのかは、永遠にわからなくなった。
 残像すら残さぬ速度で横合いから振り下ろされた木刀が、凱の鼻の頂点に擬されたからだ。
 「去れ」
 凱を見もせず、サムライは言った。床と平行に伸びた腕の先、磨きぬかれた木刀の切っ先と鼻の突起を接した凱は、見違えるように萎縮して僕の上から降りた。下半身の重量が取り除かれ、両足が自由になった。マットレスに片手をつき、上体を起こす。凱は膝にズボンをひっかけたまま、片手で局部を隠したみっともない格好でサムライに弁明した。
 「冗談だよ、マジになんなって。お前がこんなに早く帰ってくるなんて思わなかったんだ。お前が帰ってくる前にケリつけてとっとと出てくつもりだったんだ。もちろん、お前の寝床をきたねえ汁で汚す気なんてこれっぽっちも……」
 凱の謝罪内容を分析してみたが、どうも論点がずれている。これではまるで、「見苦しいところを見せてすまなかった」とサムライに謝罪しているようではないか。サムライに決定的瞬間を押さえられた現状でもなお、僕を強姦しようとした件に関してはなんら気まずさを感じてないらしい。
 凱と凱の仲間たちはただ、サムライの機嫌を損ねることだけを過度に恐れていた。
 たった今まで犯そうとしていた僕のことはまるで視界に入ってないらしい。それだけサムライには、他者を威圧し萎縮させる底知れず強大な存在感があった。
 凱の顔面に木刀を突きつけたサムライが、釘を打ちこむように容赦なく言い放つ。
 「人の留守中に忍びこむとは、礼儀を心得ない輩だな」
 「お、俺のせいじゃねえ。はなから鍵がかかってなかったんだ」
 「鍵?」
 サムライがうろんげに眉をひそめる。物問いたげな視線を向けられた僕は、自分が犯した致命的ミスにようやく思い当たる。そうだ。僕は鍵をかけなかった。房に帰り着いた安堵と疲労からベッドに倒れ伏したまま、無防備にも寝入ってしまったのだ。
 
 なんてことだ。
 鍵屋崎 直ともあろう者が、なんたる失態。

 忸怩たる心境で自分の愚かさを呪っていた僕をよそに、サムライは淡々と言葉を吐く。
 「泥棒の道理など聞きたくない」
 手首を捻り、木刀の切っ先を進める。
 「これが最後の忠告だ。即刻この場を立ち去れ」
 ゆっくりと顔を傾げ、凱の視線を絡めとる。恐ろしく剣呑な光を底に沈めた深淵の双眸が、凱と凱の後ろの少年たちを順々に捕捉する。サムライと目を合わせた者から順に、僕の体を押さえ込んでいた手を放してゆく。
 「この房の主は貴様らではない」
 サムライの声は至極冷静だった。穏やかとさえ言っていいだろう静かな声には、しかし、相対した者に尋常ではない畏怖心を植え付ける頑なな信念があった。
 「俺とー……」
 サムライの眼球が滑り、ベッドに起き上がった僕を見下ろす。
 「鍵屋崎だ」
 「……ちっ」
 舌打ち。
 サムライの宣告に、不器用にズボンを穿きながら凱があとじさる。サムライに死角を見せぬよう用心して後退する凱にあわせ、ベッドを囲んでいた少年たちが小走りに廊下へと駆け出る。仲間が全員廊下へと退却するのを待ち、片手で鉄扉を支えた凱が吠える。
 「……他人に無関心なお前が人を庇うなんて珍しいじゃねえか、サムライ。それとも何か、親殺しのクズ同士連帯感でも芽生えたか」
 サムライは答えなかった。ただ、興味なさそうに凱を一瞥しただけだ。その一瞥だけで、凱の虚勢はたちどころに消し飛んだ。
 「てめえに種つけた親を殺すなんざおめえら完全にイカレてるよ、手に手をとりあって地獄におちな!」
 蝶番を噛んだ鉄扉の向こう側から、常軌を逸した凱の罵声と扉の表面を乱打する靴音が聞こえてきた。
 不毛な報復に飽いたのか、最後尾の凱の足音が性急に遠ざかってゆく。
 足音の大群が静寂に没し、薄暗い房には僕とサムライただ二人が残された。
 
 有言実行。
 サムライは指一本動かさず、眼力だけで数では圧倒的優位に立つ少年たちを退かせたのだ。

 「……無用心にもほどがある」
 最初、その言葉が自分に向けられたものだとは気付かなかった。眉をひそめてサムライを仰ぐ。ベッドの下、所定の位置に仰々しく木刀を安置し終えたサムライが、僕を振り返りふたたび口を開く。
 「房の鍵をかけ忘れたまま就寝するなど自殺行為に等しい。……次があれば、お前の貞操は保障できない」
 「保障してくれなくても別にかまわない」
 ベッドの傍らに佇んだサムライは先を促すように冷静な目を僕に向けている。 
 サムライの凝視に耐えかね、俯く。  
 「……遅かれ早かれ体験することだ。既に覚悟はできている」 
 嘘じゃない。 
 確かに覚悟はできている。予備知識もある。 
 女性がいない東京プリズンでは必然的に同性が性の対象になる。特に僕みたいな腺病質な見た目の新人は。 
 僕は他人の目に自分がどう映るか知っている。
 争い事とは無縁の恵まれた環境で育った典型的日本人、末は学者か官僚かと嘱望されていた生粋のエリート候補。
 劣悪な環境下の都市部のスラムで幼少時から犯罪に手を染めてきた貧困層の少年たちからしてみれば、僕ほどストレス発散に適したなぶり甲斐のある獲物はそうはいないだろう。さらに、僕の存在は彼ら自身すら自覚してない、生育歴の落差に端を発する潜在的な劣等感を刺激するだろう。僕の個人情報がどこまで流出してるかは定かではないが、今日が初対面の凱までが僕が収監された罪状を知っていたとすれば、三日後にはこの棟全ての人間に「薄汚い親殺し」と後ろ指をさされる末路が待ち受けているだろう予測が立つ。 
 東京プリズンに収監されるまで、国内外に広く名を知られる鍵屋崎夫妻の長男として生を受けた僕は、世田谷の高級住宅街に建つそこそこの規模の邸宅で暮らしていた。身の周りは常時三人はいる通いの家政婦の働きでいつも清潔に保たれていたし、定刻通りにダイニングテーブルに着けば僕の食欲の有無に関わらず完璧に栄養管理された食事が一日三食供された。 
 僕が何もしなくても事は全て単調に順調に運んだ。 
 日本国籍を持つ日本人というだけで選良の未来を約束された特権的身分であり、十五になるこの年まで生活面ではなんら苦労を知らずに育った僕は、弱肉強食が鉄則の過酷な環境下のスラムで幼少時から生きるか死ぬかのサバイバル生活を余儀なくされてきた少年たちからすれば、凄まじい憎悪と嫉妬の対象になるだろう。 

 持たざる者は持てる者を憎悪する。 

 そこまで考えて、口元に自嘲の笑みが浮かぶのを止められなかった。 
 馬鹿馬鹿しい。今の僕に何があるというんだ? 
 今の僕が所有しているものなど何もない。 
 世間一般からは理想的に見えた家庭も出世を約束された選良の未来も全てこの手でフイにした。 
 両親を刺殺したとき、僕はそれまで所有していたもの全てを失った。 
 否、自分から放棄したのだ。 
 経済的には何不自由ない生活も物心ついた時から暮らした家もゆくゆくは国に貢献するブレーンとして嘱望された輝かしい未来もー…… 

 だが、僕が失ったいちばん大きなものは……。 

 「……いい加減下を穿け」 
 サムライの声に我に返る。凱にズボンを脱がされた僕は、自分が下半身裸のまま放心状態でベッドに座り込んでいたことに気付く。他ならぬサムライの前で醜態を晒したことで著しくプライドが傷ついた。ズボンの裾を掴み、引き上げる。鼻梁にずり落ちたメガネを押し上げ、視界を明瞭にしてから改めてサムライと向かい合う。無表情のサムライと面と突き合わせた僕は、頭に昇っていた血がスッと下りてきて、体中を巡る血が液体窒素のように冷えてゆくのがわかった。 
 「いいか、今後一切余計な手出し口出しは無用だ。複数人に強姦されるより唯一人に同情されるほうがなおいっそう僕のプライドは傷つく。……それが貴様なら尚更だ、サムライ」 

 サムライはあくまで観察対象にすぎない。 
 僕の庇護者でも、ましてや友人でもない。 
  
 サムライに窮地を救われても感謝の念はこれっぽっちも湧かなかった。それどころか、僕は酷く侮辱された気がした。 
 今はただ、無表情に取り澄ました目の前の男が腹立たしかった。 
 無視してくれるならいい。そのほうがずっとマシだ。 

 中途半端な同情など買いたくない。 
 一過性の慰めなどいらない。 

 たしかに僕は東京プリズン送致が決定した時点で輝かしい未来を絶たれた身だが、こんな得体の知れない男にまで同情されるほど落ちぶれてない。 

 同じ親殺しの罪を負った同房の囚人ふたり、負け犬同士が傷を舐め合うような、みじめで自慰的な関係はお断りだ。 

 殺意と紙一重の憎悪をこめた目でサムライを睨む。 
 憎たらしいことに、サムライは些かも動じることなく僕の苛烈な眼差しを受け止めた。 
 日本人の典型である切れ長の一重を微かに訝しげに眇めたほかは、能面のような無表情には分子一つ分の変化もない。 
 凱に跨られたときでさえ常と変わらぬ平静さを保っていた心がざわざわと波立ち、二本の足で立っていられないほどの屈辱感に打ちのめされる。 
 「……何か勘違いしているようだが」 
 軽く腰を屈め、木刀を納めたベッド下から九十九折の冊子を取り出すサムライ。何の真似だ?予想外の行動に意表を衝かれた僕を無視し、コンクリート打ち放しの床に直に正座したサムライが慣れた動作で冊子を開く。 
 「ここはお前の房でもあるが、先住者は俺だ。行為が終わるまで、俺が廊下で待機していなければならない謂れはない」 
 サムライが開いた冊子には芥子粒のような字が犇きあっていた。達筆に崩した草書体の漢字を見て、不審感が募る。 
 「待て、それはなんだ?」 
 「般若心境の経文だ」 
 いつのまにかベッドの下から硯と筆を取り出し墨をすり始めたサムライに現状把握が追いつかず、僕は当惑する。 
 「貴様、ここで何をする気だ?」 
 「写経だ」 
 「写経?」 
 僕の声が上ずったのも無理はない。 
 気負った様子もなく至極当然のことのように答えたサムライは、切腹に臨む武士のように凛と背筋を伸ばして墨をすり続けている。 
 手首を前後させる動きも堂に入ったもので、おもわず見とれてしまいそうになる。 
 「写経と読経は一日の日課だ。サボると寝つきが良くない」 

 読経もあるのか。 

 などと驚いている場合ではない。僕はようやくサムライの本心と行動原理を理解した。 
 サムライは僕の身を案じて現場に踏みこんだわけではなく、己の日課を消化するためにリョウに鍵開けを頼んでまで自分に割り当てられた房に帰還したのだ。 
 サムライは僕と同じかそれ以上に、他者の介入により一日のサイクルを乱されることが我慢できない性質だったのだ。 
  
 ただそれだけのことだったのだ。 

 サムライが己の日課を優先した結果僕は貞操の危機を免れ、サムライに大きな貸しを作ることになった。 
 全く、馬鹿げてる。全ては僕の思い過ごしじゃないか。 
 自分の間抜けぶりを自覚した途端、胸が焼けるように熱くなった。 
 「出てけ」 
 シャツの胸を掴み、かすれた声を絞り出す。墨を磨る手を止め、サムライが振り向く。 
 サムライの視線を避けるよう俯いた僕は、極力抑えた声で言う。 
 「何も聞くな。今すぐ出てけ」 
 「……解せんな。わけを言え」 
 わずかに小首を傾げ、サムライが反駁する。硯を固定していた手を放し、僕へと歩み寄る素振りを見せたサムライを咄嗟に制止する。 
 「来るな!」 
 喉から迸ったのは自分でも驚くほど大きな声だ。 
 「―貴様の鈍感さにはある種敬意を表する」 
 胸がむかむかする。顔に滲んできた脂汗を近距離のサムライに悟られぬよう、深呼吸して顔を伏せる。 
 「最後まで言わせるな。用を足したいんだ」 
 長い逡巡の末に、ぽつりと言葉を零す。ちらりと房の奥へ目をやる。房の奥に設置されているのは汚れた便器だ。 
 衝立も何も遮るものがないため、用を足す時は同室者に丸見えとなる。 
 プライバシーなど無きに等しい造りの房だが、文句を言える立場にない囚人たちは黙って耐えるしかないのだろう。 
 だがサムライは、刑務所生活初日の僕の気持ちを汲んでくれたらしい。 
 「承知した」 
 房の奥まった場所に据えつけられた便器にちらりと目をやり、膝に広げた経文を畳んでさっと腰を上げる。 
 サムライの行動は迅速だった。 
 硯を床に放置したまま、衣擦れの音さえ殆どたてずに鉄扉へと向かう。 
 気配を忍んだ足捌きでサムライが廊下へと消え、バタンと扉が閉まるのを待ち、はじかれたようにベッドから離れる。 
 僕が直行したのは便器ではなく、その隣の洗面台だった。 
 「げほっ……!!」 
 洗面台の縁に手をつき、蛇口の下に顔を突っ込む。口の中に酸っぱい胃液がこみあげてくる。吐く。止まらない。食道と喉が一本の管になったかの如く吐いて吐いて吐き続け、胃の内容物すべてをぶちまける。嘔吐。何度吐いても胸につかえていた異物感は消えない。 
 手が白くなるほど力をこめて蛇口を握り、不規則に乱れた呼吸を整える。  
 汗で湿った手の感触がまだ生々しく肌に残っている。気持ちが悪い。口に突っ込まれた手の感触を思い出し、猛烈な吐き気に襲われる。 洗面台の縁にすがりつくことで、今にもくずおれそうな上体をなんとか支える。 
 「はあ、はあ、はあ……」 
 息が乱れている。心臓の鼓動が鳴り響く。 
 誤解されては困る。 
 凱や凱の仲間たちに押さえ込まれた時でさえ、僕が恐怖を感じなかったのは本当だ。 
 誓って真実だ。 
 しかし、赤の他人の不潔な手に体の裏も表もまさぐられているというどうしようもない嫌悪感は拭えなかった。 
 僕はただ、とてつもなく気持ち悪かったのだ。少なからず潔癖症の気がある僕はできるだけ他人との接触を避ける傾向がある。それなのにあの度し難い連中ときたら、用を足す時にトイレットペーパーを使用する習慣があるかどうかも疑わしい汚い手で人の体をいじくりまわして……。 

 強姦する前にせめて手を洗え。 

 吐寫物にまみれた顎を拭い、蛇口を捻る。勢い良く水が迸り、冷たい水滴が顔を濡らす。洗面台にもたれた姿勢でゆるゆると顔を上げる。亀裂が生じた鏡に映ったのは、酷く憔悴した僕の顔。 
  
 サムライが出ていくまで保ってよかった。 
 こんな情けない姿をあの男に見られるくらいなら死んだほうがマシだ。  

 鏡に映る蒼白の顔から、渦を作って排水口へと吸い込まれてゆく水へと目を転じる。 
 『おにいちゃん』 
 耳に蘇るのは懐かしい声。少量の恥じらいを含んだ、遠慮がちな呼びかけ。 
 「恵……」 
 腰が砕け、足が萎える。 
 洗面台の縁に手をかけ、床に膝を屈した僕の耳に響くのは、水が流れるザーザーという音だけ。 
  
 恵に会いたい。 
 会いたい。 

 外の世界に未練などない。その言葉に嘘はない。 
 ただ一人の例外を除いて。 

 恵。 
 僕の庇護を欲するか弱い存在。僕を必要とするかけがえのない存在。 
  
 僕の妹。 
  
 僕はこれから長い長い余生を東京プリズンの薄暗い房で過ごすことになる。 
 その間、恵はどうなる?ひとりぼっちの恵はどうなるんだ。 
 だれが恵を守ってやれる。 
 僕以外のだれが恵を守ってやれるって言うんだ。 



 ―……渡すものか。 

 僕以外の誰にも、恵を渡すものか。 




 何があっても恵を守り抜くことだけが僕が僕に見出した唯一の存在価値であり、存在意義なのだから。 

 「………必ず迎えに行く」  
 鏡に映る自分に、言い聞かせるように呟く。 
 「だから、待っててくれ。恵」 
 それまでに僕がすべきことは、慣れることだ。 
 『一週間もすればここでの生活に慣れる。慣れざるをえない。それまでの辛抱だ』 
 サムライの言葉が頭蓋骨の裏側にこだまする。彼の言ってることは間違ってなかった。ありのままの事実に即した教訓だった。否が応でもここでの生活に慣れなければ残された道は一つー……「死」だ。リンチで死者がでることなど日常茶飯事の東京プリズンで生き残るためには、曲者ぞろいの看守や囚人の間を上手く立ち回る術を身につけねばならない。 
 場数を踏んで実戦慣れしている囚人たち相手に、腕力では到底かなわない。 
 僕に残された唯一にして最大の武器はこの頭脳だ。 
 そっと頭に手をやる。常人と比して遥かに新陳代謝の活発な大脳と小脳と新皮質があれば僕にできないことはないはずだ。 
 「そうだろ、鍵屋崎 直」 
 青ざめた唇を動かし、自己暗示をかける。 

 「お前はこの国が誇る『人工の天才』なんだから」 

 鏡の中、眼鏡のレンズに水滴を付着させた自分が背筋が寒くなるような笑みを浮かべた。 
 いつかのサムライとよく似た、触れれば切れそうに鋭い剃刀の笑みだった。 
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