牢の中

まさみ

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三話

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暗闇の中心に一条の光がさす。

「ん……」

練は布団に寝かされていた。
床の間に飾られているのは峩々と屹立する岩山を描いた水墨画の掛け軸、漆器の一輪挿しに生けられているのはたおやかな濃紫の菖蒲。欄間には翼を広げた鳳凰の彫刻が施されている。
体がだるい。節々が軋む。

夢?

理性が覚醒するなり、底知れない安堵と虚脱感が押し寄せる。
恐ろしい夢だった。布で目隠しをされ、着物に着替えさせられ、色とりどりの組紐が張られた地下牢に監禁された。
真っ暗な穴蔵には異形の化け物が巣食い、大小無数の触手で練を締め上げる。
夥しい触手が体の裏表を蹂躙し、肉襞を暴き立てる筆舌尽くし難い感触がぶり返し、吐き気が膨らむ。
悪夢にうなされるのは初めてじゃない。これまでも両親が死ぬ瞬間を繰り返し見てきた。
中央分離帯に乗り上げ、猛スピードで突っ込んできた対向車を避けようとしてハンドルを切り損ね、横転した車に閉じ込められた父と母。
運転席の父はハンドルに突っ伏し動かず、母も助手席でぐったりしてる。後部座席の練はシートベルトで固定されたまま、逆さ吊りでそれを見ている。

おとん。
おかん。
大丈夫?
血、いっぱいでとる。

どんなに手を伸ばしても指一本触れられず、即死した父と瀕死の母に語りかける言葉は届かない。命を守る為のシートベルトが拘束具となり、練を吊り下げる。
今日の夢はもっと生々しくおぞましい。現実に体験した出来事のようなリアルな体感を伴っている。
夢にも幻肢痛てあるんやろか?
緩慢な動作で周囲を見回し、和室の内装に違和感を覚える。学習机やベッドが見当たらない……ということは、練の部屋じゃない。
調度品から推測するに屋敷の奥座敷。着ているものは記憶と違い、白く清潔な浴衣。
開け放された障子の向こうには専属の庭師が剪定した日本庭園が広がっている。苔生した手水鉢には鹿威しが差し掛けられ、間延びした音と共に澄んだ水を注いでいた。若葉に漉された朝日がすすぐ地面で雀が戯れている。
「あ……」
片目のぬいぐるみを抱き締めた果歩が、縁側の手前にポツネンと立ち尽くしていた。
「なんも言わずぬけたから、心配してさがしにきてくれはったん?」
生前お兄ちゃんが欲しかった果歩は、練に一番懐いていた。
一人っ子の練も懐かれれば悪い気はせず、かけっこで出遅れれば並走して気遣い、迷子になれば手を引いて連れ戻し、幼稚なままごとにも付き合ってやるなど面倒を見ていた。
「ごめん、おばあちゃんに呼ばれたさかいに。すぐ戻れるて思たんやけど、代わりにみんなに謝っといてくれへん?まだ当分動けそうにないねん」
果歩の顔は強張っていた。極限まで見開かれた瞳にありありと恐怖が浮かぶ。
「果歩?」
不安げに呼びかけるも、次の瞬間にはいなくなっていた。
「なんやねんな」
猛烈な渇きに襲われ、枕元に置かれた白磁の水差しを掴む。
「んぐ、んっ」
体内に一本の清流を通す。
嚥下に合わせ咽喉が鳴り、零れた水が艶めかしく首を伝い、鎖骨の窪みに滴る。薄手の浴衣が濡れて素肌を透かす。行儀にうるさい祖母がこの場にいたら叱られるのは免れまい。
口を湿し深呼吸、漸く人心地付いた。手の甲で顎を拭い、慄然と目を剥く。
水差しを持った手首にくっきり縄目の痣が残っていた。
反射的に着物をはだけ、泥沼のような虚脱感に沈む体を隈なくあらためる。
夢じゃない。
執拗に嬲られ続けた乳首は真っ赤に腫れていた。肌を斑に染め上げる鬱血の痕が、夜通し行われた凌辱の激しさを物語る。
座敷牢。異形。組紐。
フラッシュバックの洪水が雪崩を打ち、水差しを取り落とす。畳に倒れて転がる水差しから扇状に中身が撒かれる。
「あ……」
毀れた水は戻らない。
紡いだ声がか細く震える。喘ぎ疲れた喉は嗄れていた。乳首と陰茎、尖った先端が木綿の裏地に擦れて痛い。
体奥には抉られた感触が残っている。紛れもない砕瓜の痛み。ほんの数日前まで自慰の仕方も知らず、精通もまだだった。
鳥肌立った二の腕を抱き締め、こする。痣は消えない。さらに強くこする。無駄。ならばと爪で引っ掻き、赤い線で上書きする。
目隠しされていてもなお瞼の裏に浮かぶ残像、触手の化け物が練の四肢に絡んで這いずり回る。
ずくんずくん、重い鼓動が下肢に響く。熱があるのだろうか、妙にけだるい。瞬きするのすら億劫だ。
「くふ……っ」
着物の襟を掴んで掻き合わせ、悩ましい火照りと疼きに耐える。
体の中にまだ何かがいるような、肉に根を張っているような感覚に支配される。
「ぁ、」
思わず膝を閉じ、裾を目一杯引っ張る。
体内で何かが蠢く。まるで胎動。
『とんでもない薄情者の恩知らずめ、一体何の為に腕によりをかけて苗床を耕したと思っておるんじゃ』
畳を濡らす水差しをぼんやり目で追っていた所、威圧的な声が響いた。
「瘴気にあてられ半日で回復したか。図太い子だね、環は三日間寝込んでたよ」
純白の足袋が桟を跨いで畳を踏む。奥座敷に参上したのは着物を一分の隙なく着こなす冷厳な老女。奥座敷の対話が鮮明に甦る。
『どうする練、この試しをうけるか?お前も茶倉の人間になるか』
祖母の姿を目の当たりにした瞬間、体と心が激烈な拒絶反応を起こす。
「げほげほっ!」
両手で桶を抱え激しく嘔吐する。祖母が顔をしかめ立ち止まる。胃袋が痙攣し、苦い胃液が糸を引く。桶に突っ伏しえずく孫の醜態を、世司は冷ややかに眺めていた。
「うえっ、げえッ」
体の奥底にこごる不浄な残滓を全部吐き出してしまいたい。
祖母が淡々と語り出す。
「浄めと着替えは寝ている間に女中がすませた」
「えほっえほっ」
涙と汗と涎を垂れ流し、喉の奥に束ねた指を突っ込んで繰り返し嘔吐する。
ふいに袖が捲れ、緊縛の痣が刻まれた手首がさらされる。
痣を見咎めた祖母が険しい相でにじり寄り、だしぬけに手を伸ばしてきた。
「ッ!」
叩かれる。
ところが、予想が外れた。皺ばんだ手が練の頭に着地し、なでる。
「よく頑張った」
笑顔に虚を衝かれる。世司は満足げに微笑んでいた。孫を誇るような表情。
「環に似ず根性がある子だね。見直したよ」
世司は決してお世辞を言わない人間だ。自分にも他人にも厳しく、背筋を律して生きている。
そっけない褒め言葉に万感の想いが宿っているかのような錯覚をきたし、張り詰めていた糸が切れた。
「おばあちゃん……」
頭をなでられるのは葬式から数えて二度目だ。祖母に手を引かれ、地下牢に連れていかれた記憶が溢れ出す。安堵と喜びで顔が崩れ、仄かな微笑が浮かぶ。

漸く家族と認めてもらえた。
居場所ができた。
しんどい思いしたけどもうだいじょうぶ、ぼくは試しに合格したんや、おばあちゃんのお気に入りになれたんや。

あどけなくはにかむ練の頭をなで、感に堪えかねた世司が呟く。
「お前はきゅうせんさまと相性が良い。理想の苗床じゃ」
え?
笑顔を消し忘れ凍り付く練に、珍しく浮かれた世司が独白する。
「やっぱり茶倉の末裔、私の孫、環の息子じゃ。試しに受かってまずは一安心といった所か。このぶんなら馴染むのも早そうじゃ」
「待っておばあちゃん。ゆうてること全然わからんのやけど、あの化け物は何?なんでぼく目隠しされたん、地下牢で何されたん」
あの組紐は、僕を閉じ込める為に仕掛けたんか。
「苗床てどういうこと。ぼくに、おかんに何したんや」
牢に送られたのは練だけじゃない、母もまた若い頃に試しを受けた。親子で同じ仕打ちを受けたのだとしたら、それに耐えかね逃げ出したのなら……

聞きたくない。
聞かずにすませられない。

相反する衝動がせめぎあい、心臓が早鐘を打ち始める。

「お前はきゅうせん様に見初められた。めでたく器に選ばれたんじゃ。誇れ」
「化けもんが中に」
「茶倉の血筋は雑ぜもの筋、異類とまぐわい血を取り入れる。男だろうと女だろうと関係ない、性別なぞ二の次。大事なのは霊力の波長が合うかどうかじゃ、霊力を練り合わせれば孕むのも可能じゃ」
曰く、人外に人の道理は通用しない。神や高次の化け物は霊体のみで存在するからして、性別問わず人を孕ませることができる。
「きゅうせん様は我ら一族の体を通ることで受肉するんじゃ」
即ち、実体を得る。
組紐に括られた鈴が鳴らなかったのは、霊体であるが故に物理的干渉を受けなかったから。通常の人間はきゅうせん様を見ることはおろか、触れることすらできない。
「茶倉の祖先には人外の血がまじっておる。故に本来肉を持たざるきゅうせんさまに、眷属として受け入れられた」

人は人と、化け物は化け物と子を生すのが不文律。
世司の目がぎらぎら輝く。

「環は駄目だった。私もしかり。だがお前なら、とりわけ強い霊力を授かった一族の集大成なら、選り好みの激しいきゅうせん様とて否はいうまい」
全部承知の上で、実の孫を地下牢に送り込んだのか。得体の知れない化け物の餌食にしたのか。
絶望に打ちのめされる練に、嬉々として追い討ちをかける。
「週に一度一晩。じっくり慣らしていくぞ」
脳が理解を拒む。
「なん、で。これで終わりちゃうの」
「誰が一度だけと言った?昨日は道を付けただけじゃ。環よりマシとはいえ毎回寝込んでいては話にならん、これから何年もかけ瘴気に馴染ませていくに決まっておろうが」
あんな事がこの先何年も、ひょっとしたら何十年も続くというのか。死ぬまで終わらないというのか。
こじ開けられ、突っ込まれ、奥の奥まで抉られて。全身粘液に塗れて、二重の闇の底に堕とされて。
「幼き頃より毎日少量の毒を盛り、毒耐性のある暗殺者を仕上げるのと同じ理屈じゃよ。本当ならもっと早く着手してもよかった位だ。気絶したのは瘴気にあてられたから、嘔吐はきゅうせんさまを異物と見なし体が拒んでおる証。恐れ多い事じゃ、もっと謹んで交わらねば。身も心もきゅうせんさまを受け入れ一体化せねば、どのみち使い物にならんぞ」
試しのあとには慣らしが待ち受けていた。枕元に桶が用意されていたのは吐くのを見越していたから。

体の奥がずくずく疼く。
魂が真っ黒に汚れていく。

昨晩練がされた事はただの異種姦じゃない。茶倉の一族に伝わる一種の儀式、化け物の苗床になる為の準備。

「………」

全身の肌に性感帯を移植されたような火照りと吐き気、体内で肉腫が芽吹いて蠢く感覚は、苗床に作り替えられていくあかし。体の内側から犯され続けているようなものだ。
峻厳な眼光がまっすぐ練を射竦める。

「種は撒かれた。あとは時満ちるのを待ち狩り取るだけ。きゅうせん様の子を産むのがお前の使命じゃ」
「せやけどぼくは男で、産むてどうやって」
「その時がくればわかる」
いややと言おうとした。お願いさかい考え直しておばあちゃんと懇願せんとした。
続く言葉が反論を封じる。
「過酷な伽になるじゃろうが、お前ならきっと耐え抜ける」
孫を励ます世司の眼差しは、狂おしい期待に恍惚と潤んでいた。手の甲に添えられた手は温かく、それ自体が柔らかい枷に似る。
断ればどうなる?
祖母は本当は優しいいい人だと母は言った。世司もまた練と同じ年頃に試しを受けたのかもしれない。なのに選ばれず歪んでしまったのなら、彼女も不幸な犠牲者じゃないか?
今断れば、世司は孫を手放す。惜しげもなく施設に放り込んで忘れ去ってしまうはず。

捨てられるのは嫌や。
ひとりぼっちになりとうない。
ようやく家族と認められたのに、ここに居場所ができたのに、おばあちゃんをがっかりさせたら一切合切ご破算になってまうやんか。

練はまだ十歳、大人の庇護のもとでしか生きていけない。その祖母がきゅうせん様に身も心も捧げろと命じる。

せや。
かくれんぼ、途中やった。

練が見付からず待ちぼうける友達を想像し、罪悪感で胸が痛む。

どうして呪い蔵なんか行ったのか。かくれんぼの最中に我慢できず春画を見てしまったのか。

『もういいかい』
『まーだだよ』

あの時蔵にさえ行かなければ、まだかくれんぼを続けられたのに……。

無邪気でいられた子供時代は終わった。
このさき待ち構えているのは悪夢以上の生き地獄、生まれてきた事を後悔するような苦難の連続。

牢から出ても牢の中。
他に頼るあても逃げる場所もない。
いっそ舌を噛んで死んだ方がマシなのに、そうする度胸もない。

練は正座に居直り、死んだ目で返事をする。
「お婆様の仰せのままに」
話は決まった。
「慣らしは土曜に行うぞ。丸一日休めば週明けには学校に出れる、お前もその方が良いじゃろうて。学業が遅れたら困るしな、週休二日制は有り難い」
はい、はいと心を閉ざし繰り返す。機械的な返事を意に介さず、祖母は段取りを付けていく。
この日から週に一度、練は地下牢に送り込まれることになった。

「あンっぐ、ぁあっあ、ひぐっぁあぅッ」
地下牢では目隠しをされる。着物の下は裸。きゅうせん様は思うさま幼い肉を貪り食らい、倒錯した快楽を仕込んでいく。
「もうもたんっ、お願いゆるして、ちょっとでええから休ませて、ひっあぁっ」
上の口も下の口も犯された。祖母は呼んでも来てくれない。四肢に絡み付く組紐が淫靡な縄目の痣を付ける。
「あッ、あッ、ぁあっ、ふぁッ太ッ、ごりごりせんといてッ無理ッ」
きゅうせん様は練に精通を強制したのみで飽き足らず、耳の孔の中や指の股まで残忍に犯しぬく。
太く長い触手は疲れを知らず、精力絶倫のピストン運動を続ける。
「ぁ―――――――――――――――――――ッ……」
目隠しで視覚を奪われても触覚でわかる。触手に存在する醜い肉瘤が粘膜をゴリゴリ削る都度、肛虐の快感が爆ぜる。きゅうせん様はひっきりなしに練の中に出入りし、時に膨張して粘液をぶち撒け、種付けを企てる。

気持ちいい。
気持ち悪い。
耕し、肥やし、種をまく。

学校にいる間は前にも増して口数が少なくなり、人を寄せ付けなくなった。練の様子を心配し探りを入れてくる教師もいるにはいたが、真実を言える訳がない。級友には断じて知られたくない。
週末の夜毎化け物に犯されているなんて、誰にどんな顔で話せようか。
男なのに苗床として耕されているなんて。いずれ化け物の子を産む宿命だなんて。
きゅうせん様は練の体を使い繁殖する。
もとより彼等には見えない聞こえない触れない、地下牢に連れてきた所できゅうせん様の脅威は伝わらない。
「あッ、ふぁッ、もっ苦しッ、ッは」
組紐が絡み付き、両手を頭上で束ねあげる。
着物の合わせ目はあられもなくはだけ、貧弱な胸板と真っ赤な乳首が暴かれる。
しっとり汗ばむ手のひらを開閉し喘ぐ練。着物の裾を割って触手が潜り込む。ぷっくり腫れた会陰を擦り、弛緩しきった肛門を圧し、ぐちゅぬぷ直腸を押し広げて進んでいく。太腿を伝うぬめりの不快さにわななき、逃げようと暴れれば暴れるほど搦めとられていく。
膝裏を通る触手に開脚姿勢をとらされ、悲痛に顔が歪む。
「あかんきゅうせん様ッ、それ以上は」
化け物には言葉が通じない。従って手加減も容赦もない。涙と汗で湿った目隠しが顔に張り付く。泣いて身悶えする練の陰茎を器用にしごきたて、微細な繊毛で尿道をくすぐり続ければ、灼熱が駆け抜ける。
「――――――――――――――――――ッあぁあっ、あッ」
限界まで仰け反り、大股開きで潮を吹く。足首がびくびく痙攣、大量の精液がびちゃびちゃ地面を叩く。顔にまで粘りがはねとんだ。
胎内の収縮に応じ肉瘤が膨張、着床を望んで栓をする。
毎週毎週、慣らしは行われた。
一か月、三か月、半年と歳月が経過するに伴い如実に成果が現れだす。
学校にいる間も家にいる時も、練は終始体の中に異物の蠕動を感じ続けた。
授業中ノートをとっている時、あるいは教師にあてられ板書している最中、突然それはやってくる。
そういうとき、練は決まって男子トイレの個室に駆け込む。もっと症状が酷い場合は保健室に行った。
「は……んッく」
白いカーテンを引いたベッドの上、枕カバーを噛み締め、シーツを掻きむしり自慰に耽る。
きゅうせん様は一度暴れ出したら最後、満足するまで止まらない。前だけでイけない時は指をしゃぶり、たっぷり唾を塗して後孔を犯した。
「んッ、ぐ、ふ」
しとどに涎を吸った枕が変色し、腰がもどかしげに上擦りだす。口の中に広がる布の味が惨めさを煽り立てる。

こんなんしたないのに、体がゆうこときいてくれへん。

他人に相談できるわけがない。よしんば相談としたとして、地元の名士の祖母に大人が意見できるはずない。

変化は他にもあった。
むしろこちらのほうがより深刻だ。

その日練は祖母の箪笥の抽斗を開け、裁縫箱を開帳した。
「よっしゃ」
裁縫箱にあったボタンは、果歩のぬいぐるみの目と色形がとてもよく似ていた。完全に同じ物じゃないが、言われなければわからない。
「果歩のヤツ喜ぶかな」
以前、なんで片目しかないのか聞いたことがある。果歩は哀しげに俯き、「お外に放り出された時、どっかいっちゃったの」と打ち明けてくれた。
果歩は冬の寒空の下、マンションのベランダに閉め出されて死んだ。ボタンの片割れは倒れたはずみにちぎれ、手摺の合間から落ちたらしい。
もし通行人が道端のボタンに気付いて上を見上げていれば、果歩は助かったかもしれない。
あれ以来、練はひそかに同じボタンを探し続けていた。前々からぬいぐるみの片目がない事を気にしていた果歩に、これを渡せば喜ぶはず。
ボタンを握り締め、自然とにやける。
「果歩ーどこやー。ええもんやるから出てこい」
片手にボタンを隠し持ち、逸る気持ちで庭を歩く。しかしどんなに呼んでも姿は見当たらず、庭園は静まり返っていた。周囲は閑散とし、他の子どもたちもいない。
「どこ行ってもうたん」
よもやかくれんぼしてるのではと石灯籠の影を覗く。いない。池のほとりをさがす。いない。縁の下にも気配がない。
「にゃー」
試しに一声、果歩が好きな猫の鳴きまねをしてみる。空振り。
少し前から漠然と感じていた不安が、徐々に形をとりはじめる。
「果歩。みんな」
地下牢に行った日を境に一人また一人と子どもたちは減っていき、練と疎遠になり始めた。
「いけずせんではよこな怒るで」
手汗がボタンを蒸らす。胸がやたらドキドキする。
せっかくボタンを持参したのに、どうして果歩はこないのか。みんなどこへ消えてしまったのか。
手水鉢に落ちた木の葉がさざなみに揺蕩い、立ち尽くす。
「練ちゃん」
舌足らずな声に振り向けば、果歩がしょんぼり立っていた。ホッとして駆け寄る。
「こんな所におったんか、さがしたわ。みんなまたかくれんぼしとるんか?なんで声かけてくれへんねん、水くさい」
饒舌に捲し立てる練を見返し、果歩が首を横に振る。
「果歩ね、バイバイしにきたの」
「え?」
「もうここに来れないの。練ちゃんとはあそべない」
突拍子もない成り行きに戸惑い、半歩詰めるのに応じあとずさる。
「なんで」
ふっくらした人さし指が上がり、練の背後を指さす。
「練ちゃんの後ろが怖い」
果歩の指を辿って肩越しに振り返り、どす黒い瘴気の波動を目の当たりにする。
「ほかのおともだちも怖がってどっか行っちゃった。練ちゃんと一緒にいたら、練ちゃんがおんぶしてるおばけに食べられちゃうって」
亡者である果歩には、練以上にきゅうせん様の正体がはっきり見えていた。
練は自ら背負うものの具体的な形を把握できない。だが、それは常に後ろにいる。練の背中にかぶさり、子どもたちを威圧していたのだ。

どうりでだあれも遊んでくれんわけや。

手の中のボタンがどんどん重くなる。重くて重くて、地の底まで沈んでしまいそうだ。

力任せに投げ付けてやりたい。
地面に叩き付け踏み躙りたい。
今すぐ砕けろと握り込むも、幼女の無垢な瞳に決心が鈍り、小声で聞く。

「……果歩にはなにが見えるん?」
「にょろにょろ」
「わからへんよ、それじゃ」

弱々しい作り笑いを浮かべ、そっと手を開く。
期待していた展開とは違うが、最後の挨拶にきてくれた小さい友達に、餞別として渡そうと思ったのだ。

果歩はいなくなっていた。
ぬいぐるみと一緒に。

贈る相手が消えたボタンと喪失感を持て余し、とぼとぼ母屋に帰っていく。
前回のかくれんぼ中に化粧箱を開けたのは、呪い蔵に乗り込んだオニを春画で懐柔する作戦だったから。ぼくのお宝見せたるさかい、見逃してくれと交渉する予定だったのだ。
保身に走る気持ちと同じ位、ご先祖様のコレクションを自慢したい欲に突き動かされた。
果歩にあげるはずだったボタンは自室の学習机の抽斗に放り込み、忘れたふりをした。

小学校を卒業し中学に進んでも状況は変わらない。毎土曜日には地下牢で慣らしを受ける。
「ふッ、ぐッ、んンッ」
第二次性徴を迎えた体は性急な愛撫に高まり、ほぐされた尻が触手を迎え入れる。
「んッ、ん゛ッ、ぐ」
誰もいない地下牢でも喘ぎ声は張り上げず、ぎりぎりまで噛み殺す。もう子どもじゃないのだから当然だ。変声期にさしかかり掠れた声で泣き喚いてもいたずらに喉を痛めるだけ、これ以上自分を貶めたくない。牢を出る頃には唇が切れていた。
きゅうせん様は満足するまで練を解放しない。掟は絶対。とはいえ十歳の頃に比べ、随分慣れた。授業中に耐えきれず教室を飛び出す事も減り、きゅうせん様に分け与えられた「力」を使いこなす術を学ぶ。この頃から練は祖母に付き添い、拝み屋の仕事を手伝うようになった。
相変わらず学校じゃ浮いている。友達もいない。別に構わない、連中とは住んでる世界が違うのだ。
放課後マックに寄る相談をしているクラスメイトを尻目に、ひとり保健室へ行く。
がらがら引き戸を開けると、キャスター付きの椅子に掛けた白衣の校医が顔を上げた。
「またきたの」
「ご挨拶やん」
連は保健室の常連だ。授業中に来る頻度こそ減ったが、放課後はほぼ毎日入り浸っている。理由は単純、家に帰る時間をできるだけ遅らせたいからに尽きる。
まだ二十代後半で若い女の校医は、もともと暇していたのもあり快く練を受け入れてくれた。
「ここって保健室登校してる子おらんの」
「授業が終わったら帰っちゃうもの。長居する理由ないでしょ」
「さよか」
「この学校、元気な子が多いのよね。みんなめったに怪我とかしないし、たまにダイエットで貧血起こした女子がくる位。あと生理」
当時通っていた中学にはスクールカウンセラーがおらず、校医が相談役を兼ねていた。無理矢理帰そうとしない理由もそこにある。彼女も練の家庭環境の歪みに薄々気付いていたのだ。
「おいで。手当てしたげる」
校医の手招きに従い、向かいの椅子に腰を下ろす。学ランのボタンを外しシャツをめくる。外気にさらされた背中一面に、赤いみみず腫れが刻まれていた。校医が眉をひそめる。
「何でやられたの?」
「竹定規」
「理由よ」
「さあ?うちのババアよぉキレるし、虫の居所悪かったんちゃうん」
わざととぼける練にそれ以上深入りはせず、ため息を吐いて消毒を施す。
放課後に人目を忍んで保健室に来るのは、折檻の手当てをしてもらうためでもあった。
校医は口が固い。
言わないでくれと頼めば秘密を守る。
虐待が疑われる児童を見付けた教職員には警察や児童相談所への通報義務が生じるが、少なくとも彼女は、生徒の意思を無視する偽善者じゃなかった。
というのは過大評価で、祖母を敵に回したくないだけかもしれないが。
「ねむ。ベッド借りるで」
「ごゆっくり」
一応断ってカーテンを開ける。上履きを脱いで片膝乗り上げた拍子に、尻ポケットに突っ込んでいたブツが落ちた。まずい。校医の目が煙草の箱に行く。
「これが原因ね。未成年のくせにどうやって手に入れたの」
「世間知らずやねセンセ。トラブルになりとうなくて、年齢認証せんコンビニなんていくらでもある」
「制服で買いに行ってないわよね」
「当たり前やん」
祖母は練が毒素を取り入れるのを毛嫌いする。ジャンクフードは言語道断、煙草などもってのほか。背中の傷は喫っているのがばれて折檻されたあとだ。
「没収します」
「こんな時だけ先生ぶんなや」
「だって先生だもの。生活指導や担任にチクんないだけ感謝なさい」
素早く煙草をひったくり白衣のポケットに落とす。練は肩を竦める。
「気晴らしは必要やろ。ストレスたまるんや」
「何か困った事があるなら私に」
続きを遮り唇を奪い、ベッドに押し倒す。校医の顔に動揺が走る。
「ほなら欲求不満解消してもらおか」
二人分の体重でパイプベッドが軋む。
「キスも受動喫煙になるんかな」
片手でカーテンを引く。校医が眉根を寄せる。
「本気?」
「期待しとったくせに」
校医が練を特別扱いするのは、複雑な家庭環境におかれた生徒を心配しているからじゃない。一人の女として、十数歳離れた中学生に惹かれているからだ。
練は顔がいい。のみならず、妖しい色香を纏っていた。
「初めてやねん。手ほどきしたって」
嘘じゃない。女を抱くのは今日が初めてだ。しかし体の方はすっかり調教済みだ。
地下牢で嬲られ続けて熟れた体から、人も人外も誑し込む魔性の色気が滲み出す。
練の誘惑に校医は目を瞑り、大人しく身を委ねる。
白衣を脱がし、服のボタンを外し、レースで縁取ったブラから零れた豊満な乳房を捏ね回す。
甘い吐息。切なげな喘ぎ声。ギシギシとベッドが軋み、校医が夢中で腰を揺する。
何の感慨もなかった。こんなものかと思った。
なでて揉んで吸って潰して。
挿して抜いて挿して抜いて、自分がされてきた通りにするだけで女は悦ぶ。
校医に惚れていた?否、単なる口止めだ。中学生と関係を結んだ前科を作れば喫煙をチクれないはず。ないとは思うが、祖母の所業を通報されるのも避けたい。家に捜査が入り、地下牢が暴かれたら面倒くさいことになる。
「あッ、あッ、あっ、そこっすごっ、気持ちいいっイッちゃうっ」
だらしない顔で喘ぐ校医に気持ちが冷めていく。

アンタを抱いてるのは化けもんの苗床やで。
俺の中には化けもんがおるんやで。

「茶倉くんあぁッ、もっと突いて!」
「仰せのままに」
校医が絶頂し、練が果てる。事後の余韻にまどろむ校医をよそに上履きをはき、ちゃっかり煙草を回収する。
「返してもらうで」
普通に女を抱けた事実に少しだけ安堵し、自尊心が回復した。
以来、放課後の保健室に通い校医とセックスするのが習慣になった。帰宅を先延ばしにできるなら好都合だ。
校医は知らない。誰も知らない。練が煙草を吸い始めた本当の理由は、体に煙を纏わせるため。
煙草の匂いが染み付いた体をきゅうせん様が厭い、慣らしが打ち切られまいか願ったから。
無駄だった。
どんな小賢しい悪知恵を巡らせても、結局は裏目にでる。
きゅうせん様はどうあろうと練を手放さず、骨の髄までしゃぶり尽くす。どのみち慣らしの前には禊が行われる。
学ランのポケットに手をひっかけ、黄昏迫る廊下を咥え煙草で歩きながら考える。
きゅうせん様は何者なんや。どんな姿をしとるんや。一方的に嬲り者にされるんは業腹や、この目で本性を暴きたい。
小学生の頃はただただ恐れ慄くだけだったが、中学生ともなれば反骨精神が芽生える。

不敬にあたる?上等じゃ。
人の体さんざん好き放題しよってからに、自分だけ見られたないっちゅーんは不公平やろ。
もしきゅうせん様を見る事が能えば、反撃の糸口が掴める。

「わけわからんばけもんの苗床で一生終わるなんて冗談ちゃうで」
株を勉強しているのはいずれ家を出て独立するため。貯金ができれば高校から一人暮らししても良い。
「拝み屋なんて誰が継ぐか。勝手にくたばれ、ババア」
大人になったら祖母や家と縁を切り、一人で生きていく。それが今の練を生かす唯一の希望だ。
夕暮れの道を歩いて旧市街へ帰る。
延々続く土塀の先に、立派な造りの数寄屋門が見えてきた。檜の一枚板の表札には、達筆な墨字で「茶倉」と記されている。
飛び石を踏んで玄関に至り、がらがら引き戸を開ける。
「ただ今帰りました」
土間には革靴と下駄が並んでいた。祖母の客がきているらしいが、関わり合いになりたくないので素通りを決め込む。

だから、その会話が聞こえてきたのは偶然だった。

「世司さんはどこ行った」
「呪い蔵で探し物じゃ。披露したい南蛮の逸品があるとかで」
「客をほったらかすとは……」
「茶倉の女刀自は男に阿ることを知らんからな」
客間にさしかかるや足を止める。
聞き覚えのある声……確か世司の拝み屋仲間。襖越しの雑談に興味をそそられ、茶を啜る音に耳をそばだてる。
「そういえば聞いたかね、あの噂」
「どうにも剣呑じゃな。いくら世司さんでもさすがにそこまでは……娘夫婦じゃろ」
「世司さんと環ちゃんは昔から反りが合わなんだ。環ちゃんが家出した時も、市井の男と勝手に籍を入れた時も、とんだ恩知らずの親不孝者めと怒り狂っておったじゃないか」
「おまけに孫までこしらえて」
「問題はその孫じゃよ。茶倉家には珍しく五体満足で生まれた男児、期待の跡継ぎじゃ。素質も上々」
「孫を手に入れるには娘夫婦が邪魔、というわけか」
咽喉が干上がる。
「呪い蔵には沢山の呪物や呪具が納められとる。拝み屋一族の棟梁なら、直接手を下さずとも呪殺できるでな」
「完全犯罪か」
「事故に見せかけて葬ったんじゃよ。昭和の呪殺祈祷僧団を例に出すまでもなく、呪殺の事実が明らかになった所でこの国には裁く法がない」
「首尾よく跡継ぎを手に入れ万々歳じゃな」
「引き取ってやった恩を着せれば従順な手駒ができあがる。なんとも不憫な話よ」
「親の仇を恩人と仰いで……」
目の前が暗くなる。
咄嗟にその場を離れ、自室へ踊り込む。襖に背中を預けてずり落ち、襖越しの会話を一言一句反芻する。

祖母が両親を殺した?

嘘だと否定する気持ちを、世司ならやりかねないと勘繰る猜疑心がどす黒く塗り替えていく。
世司にとって大事なのは一族の存続。茶倉の家さえ栄えるなら後はどうでもいい。
堺の安アパートで親子三人営む暮らしはお世辞にも裕福とは言えなかったが、両親は息子を愛していた。養子縁組を申し込んだところで手放すはずない。
手水鉢で転覆した笹舟。水差しから零れた水。運転席で即死の父と助手席で瀕死の母、それを逆さ吊りで見ていることしかできなかった後部座席の練……。

『お婆様の仰せのままに』

全部全部、祖母が黒幕だった。憎むべき相手に好かれようと必死に媚びていた。
声にならない声が迸り、力任せに拳を振り抜く。襖が陥没し穴が開く。
それでもまだ足りず、全速力で廊下を疾駆し、縁側に面した庭に降り立ち井戸をめざす。
靴下の裏に尖った石が食い込む。皮膚が裂け血が流れる。
意に介さず突っ切って井戸に急ぎ、投げ落とした釣瓶になみなみ水を汲む。
水を張った釣瓶を頭上で逆さにする。ばしゃんと音が鳴り、滝行の如く水が流れ落ちる。
何もかも忘れてしまいたい。歯の根ががたがた鳴り毛穴が縮む。煙草の箱もふやけてしまった。水浸しでもうすえない。
井戸端に蹲り、全身濡れそぼち、小さく嗚咽する。
立ち上がりしなよろめき、雫が滴る前髪をかきあげる。
「アホらし」
煙草の箱を握り潰し、茂みの向こうへ投擲。

茶倉世司は人殺しだ。
練は拝み屋の孫で、人殺しの孫だ。

クツクツ笑いが次第に膨らみ、破裂するような哄笑が響き渡る。

「聞いとるかきゅうせん様。俺の全部くれたったら、ババアを殺れる?」

金輪際世司に義理立てする気はない。相手は人でなしの人ごろし、両親を殺した張本人だ。

今日は金曜。明日は土曜。
練はまた地下牢に送られ、きゅうせん様にもてあそばれる。

「何をしている」
不意打ちに振り向けば祖母がいた。胡乱な様子でびしょ濡れの孫を眺めている。
「禊です」
「服を着たまま?」
「煙草の匂いがとれなかったんで」
「まだ持ってたのか」
気色ばむ祖母に対し、深々頭を下げる。
「僕が間違ってました。煙草は毒です、きゅうせん様に捧げる肉をまずくするから断ちました。疑うなら気が済むまで調べてください、どこにも持ってませんよ」
両手を広げて促す。背中の蚯蚓腫れがヒリ付く。孫の奇行に戸惑っていた世司の表情がにわかに和む。
「お前にも漸く次期当主の自覚が芽生えたんだね。正直な懺悔に免じて今回は特別に許してやる」
「ありがとうございます」
遠ざかる背中を見送り、殺意に憎悪をくべる。体が震えているのは寒さのせいだけじゃない、きっと武者震いだ。
世司に復讐する。それが練の新たな目的だ。そのためにまず、自分の目できゅうせん様の正体を見極めねばなるまい。

『直視すれば目が潰れるぞ』

やかましわ。
世司の脅しを鵜呑みにし、目隠しをとらずにきた意気地のなさが悔やまれる。
今さら失明がなんぼのもんじゃ、おかんは耳が聞こえんかった、それでも笑って生きとったやないか。
覚悟は決まった。明日の夜、地下牢で目隠しを外し反逆の狼煙を上げる。世司が隠したがるきゅうせん様の正体を目に焼き付ける。
そして土曜日。
練は灰色の単衣に着替え地下牢に足を運ぶ。世司は手ずから錠を掛け去っていく。
「くれぐれも外すなよ」
「わかってます」
十歳の時から何度となく繰り返したやりとりはもはや様式美と化している。
練は確実に成長していた。
昔は最中に気を失っていたが、最近は最後まで意識をたもっていられる。尤もそれが幸せとは限らない、いっそ気絶できたらどれだけ楽か願うことも増えた。
牢の中は真っ暗だ。二重の闇が視界に被さり、あまりにもちっぽけな練を押し潰そうとする。
来るなら来い。返り討ちにしたる。
瞼の裏の闇に去来する両親の顔、懐かしい面影。父がいた。母がいた。果歩がいた。みんないる。ひとりぼっちじゃない。
唐突に空気がざわめき、穴蔵に瘴気が渦巻く。きゅせん様のおでまし。目隠しに手をかけ、唾を飲む。
組紐に結ばれた鈴は鳴らない。練が身じろぎしないからだ。静寂の中、地面を這ってにじり寄る触手の気配を察する。
今や。
目隠しをむしる。





後悔した。






っは、ぁっあ、ぐっうっ、ぁ」
意識が途切れ、また浮上する。視界の中心に一条の切り込みが入り、それがだんだん広がっていく。
二重三重に四肢に絡み付いた組紐。練は宙吊りになっていた。びちゃびちゃと下品な水音が弾け、何かが降り注ぐ。
練の尻をかきまぜていた触手がずちゅりと抜かれ、細い足に巻き付く。
何しとるんやろ俺。何されとるんやろ。
「んっ、ぐっ、ぁあっ」
吸って吐く。吸って吐く。息む。下肢を引き裂く激痛に絶叫する。胎内が酷く熱い。霞む目で見下ろす腹が波打ち、ボコボコ陥没と膨張を繰り返す。
尻が裂ける。痛い。目の前が真っ赤に燃え上がる。練が今まさに味わっているのは産みの苦しみだ。同時に繊毛が肉襞を逆なでするような快感が巻き起こり、陰茎と乳首がそそりたっていく。
収縮の間隔が狭まり、胎動が一際激しくなる。
「やめ、やや、産みとうない」
腹が破けそうな痛みと恐怖に戦慄し、狂わんばかりに首を振る練。
窄めた爪先がじれったげに地面を掻き、体液の水たまりで滑る。
汗と涙と洟汁、それに涎を濁流の如く垂れ流し許しを乞うも無駄で、何かがめちゃくちゃに暴れながら直腸をおりてくる。
「ぁ゛、あ゛、あぁ゛ッ」
びちゃびちゃ。みちみち。腕に巻き付く触手に縋り付いて息み、血と粘液が溶け混ざる地面のぬかるみに異形の仔を産み落とす。
地下牢の地面に、赤く小さい触手が這っていた。
練が尻からひり出したのはミミズの赤ん坊だった。全部でニ十匹はいる。
心が砕ける音がした。
ミミズの赤ん坊は粘液に塗れて這いずり、蠕動しながら練によじのぼり、口や尻、尿道に侵入を果たす。
「やめっ、そこは」
しとどにカウパーを分泌し、パク付く尿道口にミミズが入っていく。尿道をくじかれる痛みと掻痒感が、前立腺を潰す刺激に取って代わる。
「ひっ、ンぐ」
ぴちゃぴちゃ、ぴちゃぴちゃ。真っ赤なミミズが尿道口を押し広げ、粘液のぬめりに乗じて粘膜を犯す。尿道を塞がれたせいで射精に至れず、行き場のない熱の奔流が暴れ回る。
その間も二匹三匹、四匹五匹と尻にミミズが潜り込み、それぞれがうねり狂っていた。
前と後ろを同時に責められ、射精を禁じられた状態で絶頂に追い上げられるのはたまらない。
さらには耳の孔や手足の指の股すらほじくり返し、ぞくぞくしたくすぐったさを高めていく。
背中一面の蚯蚓腫れに本物のミミズが添い、交尾のまねごとをする。
「痛ッ、や、お願いさかい来んといて」
出産で消耗しきった体を飽かず責め苛み、居心地よい苗床へ作り替える。
「ん゛ッ、ん゛ッ、んん゛ッ」
前立腺。尿道。練から産まれたミミズが宿主に群がり、再び練を犯す。終わりなき生き地獄。

十歳で犯された。
十三歳で孕まされた。
男ならずとも耐え難い産みの苦しみを経て、残されたのは絶望だけ。

だから、祖母を殺す誓いを立てた。

第一志望に篠塚高校を選んだのは祖母の弱みを握るため。その頃にはきゅうせん様を御し、ある程度使役できるようになっていた。
だがまだ足らない、まだまだ足らない。
本気で祖母を引きずり下ろすなら、もっと人脈を広げ足場を固めなければ。
無論地力も鍛え上げる。
株転がしの成果は上々だが、独り立ちには心許ない。奨学金は返済が面倒だし、最低でも大学四年分の学費を稼ぐのが目標だ。まだもうしばらくは祖母の厄介になるしかないと、断腸の思いで結論を下す。
中一で校医を抱き、体内に籠もる熱を散らす術を学んだ。
自慰に耽る位なら女を抱けばいい。
少なくともその瞬間だけは惨めな境遇を忘れていられる。
篠塚高校の保健室には三十代後半の女医がいた。共働きの夫とは五年間ご無沙汰らしい。授業中に仮病を使い会いに行き、練の方から口説いて火遊びを楽しんだ。
単純に好みだったからというのは否定しないが、校医をセフレにキープしておけば情報収集が捗る。
練は十五歳になった。
ある日の事、練は授業をサボり男子トイレに行った。目的は喫煙だ。薄い唇に煙草を咥え、ライターで火を点ける。
「はッ、はッ、ぁあっイくっ気持ちいいっ」
隣の個室がやけにうるさい。しかも喘ぎ声まで漏れてくる。嫌な予感に襲われ、仕切り越しに覗いてみる。
知らない男子が便器に腰掛け、大股開きでペニスをしごきまくっていた。
一瞬あっけにとられるも、すぐさま少年の背中にかぶさる人影に気付く。
霊姦体質。
まれにそういう体質の人間がいると祖母に聞かされていた。
一旦便器に座り直し、煙草をぬいて考え込む。シカトこくか助けるか、どちらを選ぼうかしばし悩む。
決めた。無視しよ。貴重な心の洗濯タイムを邪魔されたない。
答えはあっさりでたが、便器に掛けて一服する練をよそに隣の騒音は激しさを増していく。
しまいにはドアや壁までうるさく揺れ出し、苛立ちが募り行く。
「あっ、ンあっ、ふぁああっ、や、止まンねっ、ぁあっ」
「気持ちええ?」
「ッ!?」
声をかけたのはただの気まぐれ。仰天してこちらを向いた顔には混乱の色。ツンツンした短髪の下、やんちゃそうな釣り目が見開かれる。
「おまっ、なん、授業中」
この時は名前も知らなかった。
「なんやえらいエロい声するなー、思て覗いてみたら」
「頼む他のヤツには黙っててくれ!」
「お前が男子トイレで股おっぴろげてオナニー狂っとること?」
「俺っ、の、体おかしいんだ……ホントはホントにこんな事したくねえのに、こないだから毎晩金縛りにあって、変な夢見まくって……」

こんなんしたないのに、体がゆうこときいてくれへん。

皮肉にも、目の前の少年は練と同じことを言っていた。
あの時、練に手をさしのべてくれる人はいなかった。

せやけど、逆の立場なら?
俺が手をのばす側なら、コイツを今おる地獄から引っ張り上げる事ができるんちゃうか?

一抹の感慨を持って少年を見直し、左手首の数珠を転がす。縋るような眼差しが嘗ての自分とだぶり、シニカルな同族憐憫に駆られる。

見た感じアホっぽいけど、借しを作っとけば先々使えるかもしれん。

自嘲と同情に一匙の打算が働き、左手首に巻いた数珠を外して投下。床に放られた数珠に少年がきょとんとする。
「巻いとけ。ちょっとはマシになるで」

出会いは偶然。
もしくは必然。

斯くして茶倉練と烏丸理一は出会い、镸い腐れ縁が始まるのだった。
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