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第9話 公爵令嬢エリザベート・ビルフォードの危機
しおりを挟むスカーレットの婚約者はテオジール子爵家の次男でジムという名らしい。スカーレットと同じ学年で隣のクラス。取り立てて悪い噂も聞かない。穏やかな人物で、スカーレットとの仲も良好のようだ。
ざっと調べただけだが、婚約者を裏切って妹と通じるような人物とは思えない。昨日の放課後にちらりと見ただけだが、外見もいかにも善良そうだった。
「どうしたんだ?難しい顔して」
生徒会室で一人、調べた内容と向き合っていると、いつのまにかアレンとエリザベートが目の前に立っていた。
「いや……なんでもない」
ミリアがスカーレットの婚約者を狙っているかもしれないだなんてことは、言う必要はないだろう。別に証拠もないのだし。
「そうか。私達はもう帰るが、お前はまだ残るのか?」
「いや。俺も帰るよ」
エリオットは立ち上がって二人と共に生徒会室を出た。
アレンと肩を並べて廊下を歩き、一歩遅れてエリザベートがついてくる。
歩きながら、エリオットは明日またスカーレットに話を聞いてみようと考えた。バークス男爵家の事情はわからないが、ミリアの奇行の理由には少なからずスカーレットが関わっているような気がする。
印象的な菫色の瞳を思い出して、エリオットは眉を曇らせた。あの瞳が悲しみで濡れるのは、あまり見たくないなと思った。
「きゃっ」
曲がり角を曲がろうとしたところで、背後で小さな声が響いた。
「エリザベート?」
アレンが振り向いた。
空き教室の扉から半分体を出して、ミリアがエリザベートを捕まえていた。
「くくく……油断したな!」
「なっ……」
アレンが青ざめる。
捕まったエリザベートは屈辱に耐えるように顔を歪めた。
「お放しなさいっ……無礼なっ」
「ふっ。どこまで強がっていられるかしらね?」
ミリアは扉を少し開けて、エリザベートの体を扉の方へ寄せた。
「おいっ、なんのつもりだ!?」
アレンが足を踏み出しかけるが、ミリアはそれを制止する。
「それ以上近寄ったら、エリザベート様をこの教室に放り込むわよっ!」
「なにっ?」
空き教室の扉に手を掛けて、ミリアがニヤリと口角を上げた。
「ふふふ……ただの空き教室だとは思わないことね」
アレンとエリオットは動きを止めてミリアの様子を窺った。
「どういう意味だ?」
「ふっ……聞こえないかしら?」
ミリアの言葉に眉をひそめたエリザベートの耳に、空き教室からがさがさと鳴る物音が届いた。それから、かすかな息遣い。はっ、はっ、と、短い、複数の息。
「何か……いる?」
「ええ。そうよ」
ミリアの笑みが深くなった。
「この教室の中にはね、私が集めてきた欲望に忠実な飢えた獣達がいるのよ!」
「なっ……」
ミリアが驚愕の表情を浮かべるアレンとエリオットを見据えて挑発的に言った。
「くくく……飢えた獣達の中に、こんないい匂いのする公爵令嬢を放り込んだらどうなるか……おっと、私の口からはこれ以上は言えないねぇ」
「きっ、貴様っ……!」
アレンの顔が怒りに染まった。
エリオットもあまりのことに拳を震わせた。甘かった。目的を探るなど悠長なことを言っていないで、ミリアを拘束するべきだった。
エリザベートは蒼白な表情をしながらも、気丈にミリアを睨みつけた。
「そのような辱めを受けるくらいなら、わたくしは死にます!殺しなさい!」
「ふん、殺す訳ないでしょう。―――さあ、アレン殿下。エリザベート様を放して欲しければ、私の言うことをきいてもらいます!」
「なんだとっ……貴様っ」
「殿下っ!いけません、このような脅しに屈しては!」
「エリザベート、しかしっ……」
「殿下は国を背負う身……このような下賤な輩に耳を貸してはなりません!」
「エリザベートっ」
エリオットは唇を噛んだ。エリザベートとて、いずれアレンと共に国を背負う身。こんなところでこんな女の悪しき企みによって、その誇りを汚されるなどあってはならない。
「殿下、わたくしに構わずっ……」
「ああもう。大人しく震えていてくださらない?私は殿下とお話したいの」
ミリアが眉をしかめる。エリザベートは青ざめながらも凛とした表情を崩すことなく、ミリアの言葉を打ち捨てる。
「愚かな。貴女ごときが殿下と取引など、本気で出来ると思っていらして?」
「……ええ。本気よ。だって、そうしないと、私の」
「殿下が守るべきはこの国のすべての民。わたくし一人となど代えられるはずがありません」
エリザベートの言葉に、アレンは息を飲んだ。エリザベートの瞳が、アレンがすべきことを物語ってまっすぐにみつめてくる。
彼女の言う通りだ。アレンは王太子として、決してこのような脅しに屈してはならない。
「……バークス男爵令嬢、いますぐエリザベートを放せ。私は、貴様の話など聞くつもりはない。無駄な真似はよせ」
アレンは出来るだけ冷静に一歩踏み出した。
「それ以上、来ないで!」
ミリアが叫ぶ。だが、アレンはそれを無視してまた一歩踏み出す。
止まるつもりがないのを見て取ったのか、ミリアがぎゅっと悔しげに顔を歪めて舌を打った。
「くっ……ええい!」
「きゃっ」
交渉が失敗だと悟ったミリアが、エリザベートの体を空き教室へ押し込んだ。
「エリザベート!」
アレンの耳に、常に冷静で動じることのない婚約者の、絹を裂くような悲鳴が聞こえた。
「い、いやぁぁぁっ」
一瞬、アレンの足が竦んだ。
「嘘、こんな……どうしてっ?……ああっ、やめてっ。来ないで!ああっ、だめ!やっ、くすぐった……っ、ああぁ、膝に乗らないでぇ……匂いを嗅がないでっ、いやぁ、舐めちゃだめぇ」
「エリザベート!!」
アレンが駆け出した。と、同時に、アレンの横をすごい勢いで通り過ぎたものが、ミリアを弾き飛ばした。
「何をしているのよ、この痴れ者がぁぁっ!!」
相変わらず見事なタックルをかまして義妹を押し倒したスカーレットが叫んだ。
「エリザベート!!」
アレンが空き教室の扉を開けて中に飛び込んだ。そして、息を飲む。
エリオットも後に続いたが、中の光景を目にすることははばかられた。
あのエリザベートが、あんな震えた悲鳴を上げたのだ。どれほど恐ろしい目に遭ったのか、想像も出来ない。
「エリザベート……っ」
「殿下……み、見ないでくださいっ!わたくしのこのような姿をっ」
「きゃん!」
「エリザベート、これは……」
「ひっ、いや!舐めないでってば!」
「くぅん」
(……きゃん?くぅん?)
なんだか可愛らしい声が聞こえた気がして、エリオットはアレンの肩越しに教室の中を覗き込み、そこに広がる光景に息を飲んだ。
くんくん、と鼻を鳴らした小さな毛玉が、床に座り込んだエリザベートの膝に鼻をくっつける。
彼女の膝の上には、一匹が丸くなって寝息を立てている。
エリザベートの手足を小さな舌でぺろぺろしたり、ころころと体当たりしたり、飢えた獣達はやりたい放題だ。
「くんくん」
「きゃわん」
「くーん」
生後二ヶ月くらいだろうか、ころんと丸っこい子犬達がエリザベートにまとわりついていた。
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