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三十二、
しおりを挟む「誰かいるっ」
かすれた声でときわは言った。
「もしかして、さっきの……」
秘色は何も答えなかった。ときわはごくりと唾を飲み込み、己の体に鞭打って根性で速度を上げた。もしかして、かきわが腕に捕まってしまったのかもしれないと思ったからだ。だとしたら、助けなければ。
やがて、前方に二つの人影が見えはじめた。
「おーいっ」
ときわはかすれた声をしぼり出して手を振ってみた。すると、向こうもこちらに気づいたらしく、一人が手を振り返した。
「おおいっ、助けてくれっ」
手を振り返した人影は、まだ若い男の声で叫んだ。
近づくにつれ、ときわにも状況がわかってきた。どうやら一人が腕に捕まり、それをもう一人が助けようとしているらしい。
捕まっているのは、腰まである赤茶色の髪と、袴が茜染めであることと腰の鈴が朱色であることを除けば、秘色と全く同じいでたちの少女だった。そして、それを助けようとしているのは、黒いTシャツとジーパンに黒い刀をベルトに差した背の高い少年だった。
ときわは二人のすぐ向こうの大地が緑の芝草で覆われているのを知った。大きな木々も立ち並んでいる。どうやら、湿原の出口の目の前で捕まってしまったらしい。
「大丈夫?」
ときわは少年の横に立って、一緒に少女の手を引っ張ろうとした。
だが、ときわを一目見た途端、少女は表情を一変させ手をひっこめた。
「お前は、もしかして……」
「そうよ。その子はときわよ」
いつの間にか、秘色はちゃっかり森の入り口で芝草に腰を下ろしていた。
「秘色、君も手伝いなよ」
ときわはあきれて非難したが、少女のほうがそれを遮った。
「あっちへ行って。晴の里のものなどに助けられたくないわ」
「え」
厳しい表情でそう言う少女は、すでに膝の辺りまで泥に埋まってしまっている。少年が必死に手を引っ張っているが、彼一人の力ではとても助けられそうにない。
「緋色っ。お前、そんなことを言ってる場合かよっ」
少年も信じられないという表情をした。秘色のほうに目をやると、気のない表情でこちらを眺めている。助けにくる気はさらさらないらしい。ときわはあらためて里どうしの不仲を思い知った。
(絶対に助け合わない。助けられることさえ望まないだなんて)
「ときわぁ。放っといてこっちおいでよ」
秘色がそう呼ばわった。ときわは秘色をきっと睨みつけ、
「何言ってるんだよ。放っておけるわけないじゃないかっ」
と怒鳴った。そうして、緋色と呼ばれる少女に再び手を差しのべたが、彼女はやはりその手にすがろうとはせず、逆に汚らわしいものを見るような目つきでときわを見た。
「緋色っ。お前いいかげんにしろよ。せっかく助けてくれるって言っているものを」
大玉の汗をかいて一人でふんばる少年は、歯をぎちぎち言わせながら引きずり込む力と戦っていた。
(ええと、どうしよう。どうしたらいいんだろう)
ときわはおろおろと少年と緋色を交互に見た。秘色はときわの態度が気にいらないらしく、一人だけ安全な場所で口を尖らせている。
と、その時、
「うわっ」
泥に足をすべらせて、少年が尻もちをついた。思わず手を放してしまい、支えをなくした緋色も体勢を崩して地面に両手をついた。いや、ついたつもりだった。よろけた勢いで、緋色の両手はずぼっと土の中に埋まってしまった。焦って引き抜こうとする緋色だが、もがけばもがく程両手も泥の中に沈んでいく。
「くっそぉ」
慌てて起き上がった少年も、もうどうしていいかわからないらしく、とにかく埋もれた腕を引き抜こうとその場に屈み込んだ。
(ああ。このままじゃ本当に引きずり込まれてしまう)
どうしよう。どうしたらいい。必死に考えをめぐらせるときわの頭に、先程自分が引きずり込まれかけた時の恐怖がよみがえってきた。あの時、助かったのは秘色が……
(そうだっ)
ときわは手にした刀を引き抜いた。そして、緋色の体の下の地面に斜めに刃を差し込んだ。
だが、手ごたえはなかった。
「……あれ?」
「なるほど。その手があったか」
一瞬固まってしまったときわの横で、少年が黒柄の刀をすらりっと引き抜いた。そして、緋色の、今はもう埋もれてしまった足元辺りの地面に刃を突き立てた。
今度こそ、手ごたえがあったらしく、あの不気味な絶叫が地の底から響いた。
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