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第1章
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ドアが閉じられた途端、紺野は溜息を洩らした。
部屋から出て行ったのは、須藤だった。
紺野が卒論生の指導を終え、研究室に戻ってくると、須藤が部屋の前で待ち構えていた。
須藤は卑屈な笑みを浮かべながら、紺野の研究室に強引に入り込み、自分がいかに理不尽な仕打ちを受けて来たか、そのせいでどれほど窮地に立たされているかを延々と語り続けた。迷惑だと告げても、須藤を無視するようにパソコンに向かって作業を始めても、須藤は構わず捲くし立て続けた。
30分以上捲くし立て、ようやく出て行ったところだった。
――疲れた……。
紺野は椅子の背にもたれ掛った。
妙に疲れを感じているのは、須藤のくだらない話を聞かされたせいもあるが、それよりも、蘇芳のことが心に重たくのしかかっているせいだった。
紺野は、ファストフード店で目にした、蘇芳と大島美鶴の姿を思い起こした。
二人は、紺野が思っていた以上に親密な間柄に見えた。
大島美鶴が紺野を恨んで、紺野のせいで理工学部にいられなくなったと吹聴していることは、紺野も知っていた。
――彼女に影響されたとしたら……、もうあの子は、ここに来ないのかもしれないな。
そう思うと、少し寂しいような気がした。だが、それでいいのかもしれないと思い直した。
輸血用血液が不要になれば、蘇芳が寄り付かなくなるということは、初めから解っていた。
二週間も姿を見せないということは、蘇芳は輸血用血液に頼らなくても問題なく過ごしているということなのだろう。
紺野は、鞄の中から小瓶を取り出した。
蘇芳に渡された香水だった。
蘇芳の心遣いを無にするのも心苦しい気がして、気が向いた時には、出かける前に玄関先で空中に向けて軽くプッシュしていた。
もっとも、匂いに敏感だと自称している同僚に訊ねてみても、「香水の香りなんて全くしませんよ」と言われたくらいだから、つけたうちにも入らないだろう。
――ただの自己満足か。
紺野は苦笑を浮かべると、小瓶を鞄の中に戻した。
その時、ノックの音が響いた。
――また、須藤か?
時折、何かを言い忘れただの、手土産を渡し忘れただのと言って、もう一度現れることがあった。
紺野は苛立ちを露わにした声で返事をした。
すると、ドアが遠慮がちに、ゆっくりと開かれた。
ドアの向こうに立っていたのは、蘇芳だった。
紺野は一瞬、頬に笑みが浮かびそうになったが、慌てて抑えた。浮き浮きしている気持ちを悟られるのは、どうも決まりが悪かった。
部屋に入ってくるのかと思えば、蘇芳はドアノブに手を掛けたまま、廊下に突っ立っていた。
俯いているため表情はよく見えないが、ドアノブを握る手が、細かく震えていた。前髪の陰から僅かに見える額にからは、汗が滲み出ていた。
血に飢えた時のシグナルだった。
紺野は、無言で血液バッグを蘇芳に差し出した。
蘇芳は奪うように血液バッグを手にすると、部屋に飛び込んできて、部屋の隅で血液を飲み始めた。
よほど飢えていたのか、蘇芳は勢いよく飲み干した。
しばらくして、少し落ち着いた様子を見せた蘇芳の背中に向かって、紺野は声を掛けた。
「落ち着いたら、こっちにおいで」
蘇芳はびくりと肩を震わせてから、ゆっくりと振り向いた。
紺野はソファを指さした。
「はい……」
おずおずとソファに腰を下ろした蘇芳は、俯いたまま黙り込んでいる。どこか怯えるような様子に、小動物を見ているようで愛おしさが込み上げてきた。
普段は蘇芳と向かい合って座っているが、紺野は敢えて、蘇芳の隣に腰を下ろした。
蘇芳は困惑したような様子で、身を固くしていた。よほど力が入っているのか、膝の上に置かれた指先が、白くなっている。
紺野はその手に、自分の手をそっと重ねた。握ろうとしたその時、弾かれたように、蘇芳が紺野の手を振り払った。
「……蘇芳君?」
思いがけない反応に、紺野は驚いて、蘇芳の顔を覗き込んだ。
蘇芳は紺野の視線から逃れるように顔を背け、唇を噛み締めていたが、やがて小さく呟いた。
「……須藤さんから、色々聞きました」
「色々、とは?」
蘇芳は顔を上げると、紺野を非難するような目で睨みつけた。
「須藤さん、紺野さんと付き合っていたそうですね。紺野さんから告白されたとか……」
紺野は一瞬、目を見開いた。
そんな話を、誰が吹き込んだのか。
須藤本人かもしれないが、噂になっている話だけに、大島美鶴あたりかもしれない。
そんなことを思いめぐらせていると、蘇芳の表情がますます険しくなった。
「やっぱり、本当だったんですか……。紺野さんって、……そういう趣味だったんですか? 僕に手を差し伸べたのも、その……、なんと言うか……、下心があって……」
蘇芳は言いにくそうに、呻くような声で問い質してきた。
紺野が同性愛者だと聞かされて、蘇芳がショックを受けるのは、無理もないことなのかもしれない。蘇芳は毎週のように、紺野の傍でふたりきりの時間を持っていた。
下心と言ってしまえば、その通りなのだろう。
紺野は確かに、蘇芳に性的な感情を抱いていないわけではなかった。幾度か抱きしめそうになって、理性で押しとどめたことがあった。
だが、蘇芳の気持ちを無視して襲い掛かるほど、分別のない人間ではないつもりだった。
「だとしたら、襲われるのを心配してるのか?」
蘇芳が顔を強張らせた。どうやら図星らしい。
そんな蘇芳を前に、紺野の胸の奥から、沸々とどす黒いものが湧き上がってきた。
「君も、か」
紺野は、吐き捨てるように呟いた。
これまでにも数回、紺野の嗜好を知った途端、態度を豹変させた人間がいた。須藤も、そのうちの一人だった。
理解して欲しいとか、寄り添って欲しいとか、そんな都合のいいことを蘇芳に求める気など、全くなかった。
――それなのに……。
蘇芳は、まるで化け物でも見るような目で紺野を凝視していた。
――今まで、どれだけ面倒を見てきてやったと思ってるんだ?
抑えてきた激情が、迸った。頭がくらくらして、思考回路が正常に機能しない。
「そんな相手だと解って、よくのこのこと来たものだな」
所詮は、輸血用血液欲しさにすり寄ってくるだけの相手だった。どれだけ紺野が蘇芳に尽くしたとしても、他にすり寄る相手ができれば、あっさりと離れていくだろう。
そこまでは、いつも心に留めていた。
だがまさか、蘇芳に自分の性癖を糾弾されるとは、夢にも思わなかった。
本能的に危険を察知したのか、蘇芳は弾かれたようにソファから立ち上がろうとした。だが紺野は、素早くその腕を掴んだ。
「離してください!」
蘇芳はまるで汚らわしいものを振り払うように、紺野の腕を振り解こうとした。
そんな蘇芳を前に、紺野の中で何かが壊れた。
考えるよりも前に、身体が勝手に動いていた。
気が付けば、紺野は蘇芳をソファの上に組み敷いていた。
部屋から出て行ったのは、須藤だった。
紺野が卒論生の指導を終え、研究室に戻ってくると、須藤が部屋の前で待ち構えていた。
須藤は卑屈な笑みを浮かべながら、紺野の研究室に強引に入り込み、自分がいかに理不尽な仕打ちを受けて来たか、そのせいでどれほど窮地に立たされているかを延々と語り続けた。迷惑だと告げても、須藤を無視するようにパソコンに向かって作業を始めても、須藤は構わず捲くし立て続けた。
30分以上捲くし立て、ようやく出て行ったところだった。
――疲れた……。
紺野は椅子の背にもたれ掛った。
妙に疲れを感じているのは、須藤のくだらない話を聞かされたせいもあるが、それよりも、蘇芳のことが心に重たくのしかかっているせいだった。
紺野は、ファストフード店で目にした、蘇芳と大島美鶴の姿を思い起こした。
二人は、紺野が思っていた以上に親密な間柄に見えた。
大島美鶴が紺野を恨んで、紺野のせいで理工学部にいられなくなったと吹聴していることは、紺野も知っていた。
――彼女に影響されたとしたら……、もうあの子は、ここに来ないのかもしれないな。
そう思うと、少し寂しいような気がした。だが、それでいいのかもしれないと思い直した。
輸血用血液が不要になれば、蘇芳が寄り付かなくなるということは、初めから解っていた。
二週間も姿を見せないということは、蘇芳は輸血用血液に頼らなくても問題なく過ごしているということなのだろう。
紺野は、鞄の中から小瓶を取り出した。
蘇芳に渡された香水だった。
蘇芳の心遣いを無にするのも心苦しい気がして、気が向いた時には、出かける前に玄関先で空中に向けて軽くプッシュしていた。
もっとも、匂いに敏感だと自称している同僚に訊ねてみても、「香水の香りなんて全くしませんよ」と言われたくらいだから、つけたうちにも入らないだろう。
――ただの自己満足か。
紺野は苦笑を浮かべると、小瓶を鞄の中に戻した。
その時、ノックの音が響いた。
――また、須藤か?
時折、何かを言い忘れただの、手土産を渡し忘れただのと言って、もう一度現れることがあった。
紺野は苛立ちを露わにした声で返事をした。
すると、ドアが遠慮がちに、ゆっくりと開かれた。
ドアの向こうに立っていたのは、蘇芳だった。
紺野は一瞬、頬に笑みが浮かびそうになったが、慌てて抑えた。浮き浮きしている気持ちを悟られるのは、どうも決まりが悪かった。
部屋に入ってくるのかと思えば、蘇芳はドアノブに手を掛けたまま、廊下に突っ立っていた。
俯いているため表情はよく見えないが、ドアノブを握る手が、細かく震えていた。前髪の陰から僅かに見える額にからは、汗が滲み出ていた。
血に飢えた時のシグナルだった。
紺野は、無言で血液バッグを蘇芳に差し出した。
蘇芳は奪うように血液バッグを手にすると、部屋に飛び込んできて、部屋の隅で血液を飲み始めた。
よほど飢えていたのか、蘇芳は勢いよく飲み干した。
しばらくして、少し落ち着いた様子を見せた蘇芳の背中に向かって、紺野は声を掛けた。
「落ち着いたら、こっちにおいで」
蘇芳はびくりと肩を震わせてから、ゆっくりと振り向いた。
紺野はソファを指さした。
「はい……」
おずおずとソファに腰を下ろした蘇芳は、俯いたまま黙り込んでいる。どこか怯えるような様子に、小動物を見ているようで愛おしさが込み上げてきた。
普段は蘇芳と向かい合って座っているが、紺野は敢えて、蘇芳の隣に腰を下ろした。
蘇芳は困惑したような様子で、身を固くしていた。よほど力が入っているのか、膝の上に置かれた指先が、白くなっている。
紺野はその手に、自分の手をそっと重ねた。握ろうとしたその時、弾かれたように、蘇芳が紺野の手を振り払った。
「……蘇芳君?」
思いがけない反応に、紺野は驚いて、蘇芳の顔を覗き込んだ。
蘇芳は紺野の視線から逃れるように顔を背け、唇を噛み締めていたが、やがて小さく呟いた。
「……須藤さんから、色々聞きました」
「色々、とは?」
蘇芳は顔を上げると、紺野を非難するような目で睨みつけた。
「須藤さん、紺野さんと付き合っていたそうですね。紺野さんから告白されたとか……」
紺野は一瞬、目を見開いた。
そんな話を、誰が吹き込んだのか。
須藤本人かもしれないが、噂になっている話だけに、大島美鶴あたりかもしれない。
そんなことを思いめぐらせていると、蘇芳の表情がますます険しくなった。
「やっぱり、本当だったんですか……。紺野さんって、……そういう趣味だったんですか? 僕に手を差し伸べたのも、その……、なんと言うか……、下心があって……」
蘇芳は言いにくそうに、呻くような声で問い質してきた。
紺野が同性愛者だと聞かされて、蘇芳がショックを受けるのは、無理もないことなのかもしれない。蘇芳は毎週のように、紺野の傍でふたりきりの時間を持っていた。
下心と言ってしまえば、その通りなのだろう。
紺野は確かに、蘇芳に性的な感情を抱いていないわけではなかった。幾度か抱きしめそうになって、理性で押しとどめたことがあった。
だが、蘇芳の気持ちを無視して襲い掛かるほど、分別のない人間ではないつもりだった。
「だとしたら、襲われるのを心配してるのか?」
蘇芳が顔を強張らせた。どうやら図星らしい。
そんな蘇芳を前に、紺野の胸の奥から、沸々とどす黒いものが湧き上がってきた。
「君も、か」
紺野は、吐き捨てるように呟いた。
これまでにも数回、紺野の嗜好を知った途端、態度を豹変させた人間がいた。須藤も、そのうちの一人だった。
理解して欲しいとか、寄り添って欲しいとか、そんな都合のいいことを蘇芳に求める気など、全くなかった。
――それなのに……。
蘇芳は、まるで化け物でも見るような目で紺野を凝視していた。
――今まで、どれだけ面倒を見てきてやったと思ってるんだ?
抑えてきた激情が、迸った。頭がくらくらして、思考回路が正常に機能しない。
「そんな相手だと解って、よくのこのこと来たものだな」
所詮は、輸血用血液欲しさにすり寄ってくるだけの相手だった。どれだけ紺野が蘇芳に尽くしたとしても、他にすり寄る相手ができれば、あっさりと離れていくだろう。
そこまでは、いつも心に留めていた。
だがまさか、蘇芳に自分の性癖を糾弾されるとは、夢にも思わなかった。
本能的に危険を察知したのか、蘇芳は弾かれたようにソファから立ち上がろうとした。だが紺野は、素早くその腕を掴んだ。
「離してください!」
蘇芳はまるで汚らわしいものを振り払うように、紺野の腕を振り解こうとした。
そんな蘇芳を前に、紺野の中で何かが壊れた。
考えるよりも前に、身体が勝手に動いていた。
気が付けば、紺野は蘇芳をソファの上に組み敷いていた。
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