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3章

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 勢田が翔の家庭教師を辞めてから、1週間が経過していた。
 翔は勢田と別れてから、胸に大きな穴がぽっかりと開いてしまったような虚無感に苛まれ続けた。頭に浮かぶことといえば、勢田のことばかりだった。
 ――こんなガラス玉で、僕は騙されたのか?
 翔はポケットからガラス玉を取り出し、握りしめた。不思議と、勢田に対する怒りや恨む気持ちは沸いてこなかった。
 それどころか、もう一度会いたいという思いの方が、強かった。
 だが、勢田は翔と会う気はないらしく、勢田が住んでいたアパートは、すでにもぬけの殻だった。藤木美奈穂に泣きついたが、何ひとつ教えてはくれなかった。
 当然といえば、当然だった。勢田の後任として派遣される予定だった家庭教師を、翔は頑なに拒んだ。そのことに対して、藤木はひどく怒っていた。
 ――ひとつだけ教えてあげるわ。勢田君、あんた達みたいな上流階級の人間が大嫌いなの。お金を積んだら、何でもできると思ってるでしょ。
 藤木の捨て台詞に、翔は胸を貫かれるような痛みを感じた。
 ――お金を積んだら……。
 嫌な響きだった。もしかすると、勢田もそんな風に思って、翔を蔑んでいたのかもしれない。 
「ねえ、成島君、ちょっと相談があるんだけど……」
 顔を上げると、松井恭子が媚びるような目つきで立っていた。いつの間にかホームルームは終わり、教室には翔と恭子を除いて、誰もいなかった。
 他人の相談に乗るほど余裕のある状況ではなかったし、そもそも恭子とそれほど親しくはなかった。
 翔はガラス玉をポケットにしまうと、席を立った。そのまま教室を出ようとしたが、迫いかけてきた恭子が、翔の手を掴んだ。
「ねえ、お願いだから、話だけでも聞いて。こんな写真撮られて、脅されてるの」
 目の前に差し出された写真に、翔は目を瞠った。公園のベンチで、女子高校生が中年の男と際どい行為に及んでいる写真だった。あまりの生々しさに、翔は思わす目をけた。
 だが、見覚えがある写真のような気がした。
 ――勢田先生の家にあった写真?
 翔は写真を凝視した。確かに、勢田の家で見たものと同じだった。そして、写っているセーラー服姿は、髪型が違っていたから気づかなかったが、恭子に他ならなかった。
「話、聞いてくれるよね?」
 翔が関心を抱いた状況を見て取った恭子は、翔が乗ってくることを確信しているような笑みを浮かべていた。
 やむなく翔は頷いた。

 二人は、駅前の喫茶店に移動した。
 かつて勢田と一緒に入ったことがある喫茶店だった。思わず、あの時に座ったのと同じ席に座ってしまった。
 ――この席に、勢田先生が座ったんだよな。
 目の前の恭子のことを忘れて、翔は椅子を撫で、物想いに耽った。
 注文した飲み物を運んできた店員が立ち去ってから、恭子が口早に弁解した。
「誤解しないね。こんなこと、あたしがやりたくて、やったんじゃないの。父親に、無理やりやらされただけで……」
 嫌々しているようには見えない写真だったが、その辺りには触れないほうがいいだろう。そう判断した翔は、無言でコーヒーカップを口に運んだ。恭子が注文したのは、オレンジジュースだった。
 ――オレンジジュースか。勢田先生も、注文してたな。
 気づけば勢田のことばかりを考えてしまう自分に気づき、翔は苦笑した。
「父親、借金があるの。総額は知らないけど、普通に働いて返せる額じゃなさそうなの。それで、闇金って言うの? 違法っぽいところから借りてるみたいで、たまに取り立て屋っぽい男が、家に押し掛けてきたりするの。いつもはのらりくらりとかわしているみたいだけど、今回来たのは、手強かったみたいで……」
 父親が借金に借金を重ねたせいで、母親は兄だけを連れて家を逃げ出してしまい、取り残された自分がどれだけ苦労したか、恭子は涙ながらに切々と語った。
 いかにもドラマやマンガでありそうな安っぽい不幸話を、翔はぼんやりと聞き流していた。
「自己破産すれば?」
 思わず呟いた言葉に、恭子が激昂した。
「もう、そういう領域じゃないんだってば! 明日、あたしがあのクソ親父と一緒に東京湾に浮いてたら、責任とってくれるの?」
 ――そこまで怪しげな組織が絡んでいるのか……。だったら、いくらなんでも、勢田先生が関係してるとも思えないな。でも、写真を持ってた以上、まったくの無関係ってこともないだろうけど……。
「その写真で脅迫されてる、ってのは、松井さん本人が脅迫されてるの?」
「あたしのスマホに連絡があったけど、それがクソ親父の債権者と同じかどうかは、よく分からない」
 恭子は、気持ちを落ちつけようとするように、オレンジジュースを飲み始めた。
「脅迫者の顔は、知らないんだね?」
 恭子は頷いた。
 ――じゃあ、勢田先生かどうかは、分からないわけか……。
「実は、明日の七時に、ここで会うことになってるの。それで……、成島君も、同席してもらえないかな、って……」
 恭子は上目遣いに、翔の顔を見た。
「どうして僕が……」
 翔の言葉を封じるように、恭子がテーブルに両手をつき、頭を大きく下げた。
「成島君、一生のお願い! 傍にいてくれるだけでいいの。雲行きが怪しかったら、逃げ出してくれてもいいの。だから、お願い! あたし、ひとりで対応なんて、怖くて無理」
 翔が同席するメリットなど、何一つなかった。むしろ、同席することで、翔にまで火の粉が降りかかる恐れがある。
 だが、翔はどうしても断ることができなかった。もちろん恭子に同情したからではない。
 ――もしかすると、勢田先生だったり……。いや、勢田先生じゃなくても、勢田先生と関係がある人かもしれないし……。
 勢田と何らかの関係がある人と繋がれるかもしれないチャンスを、棒に振るわけにはいかなかった。
「分かった。同席するだけでいいなら」
 恭子は目に涙を溜めながら、翔に何度も何度も、礼を言った。その様子を前にして、翔は少し良心が痛んだ。
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