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2章

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 翔が登校を始めてから、二週間が経過した。学校では常に針の筵だが、ほとんど意地で、毎日通学し続けていた。
 勢田は、登校前と変わらず、週に二回のペースで家に来ている。
 だが、あのホテルでの一夜を最後に、翔の身体を弄ぶことはなくなった。表面上は以前と変わらない態度だが、腹の底では翔を軽蔑し、見限ったのかもしれない。
 勢田は翔の部屋に来ると、翔の身体を弄ぶ代わりに、インターネットやゲーム機で遊ぶようになった。
 勢田はその間、翔のほうには一切意識を向けようとしなかった。
 そんな勢田を見ていると、翔は胸が張り裂けるような痛みを覚えた。翔は、机に向かって宿題をしながら、横目で勢田の様子を盗み見た。
 勢田は例によってベッドの上にひっくり返り、ゲームに興じていた。真剣な面持ちで指を忙しなく動かしながら、ゲームの画面に見入っていた。
 翔はテキストを閉じ、じっと勢田を見つめた。食い入るように凝視しても、勢田は一向にその視線に気づく様子がなかった。耳障りな電子音が、けたたましい音を上げ続けている。
「……うるさい」
 思わず呟いてしまった。
 それほど大きな声でもなかったはずだが、勢田は弾かれたように顔を上げた。翔は慌てて机の上に視線を戻した。だが、痛いほど勢田の視線を感じ、テキストを開く手が激しく震えた。
「どうした? 今日はご機嫌斜めだな」
 あれほど執心だったはずのゲーム機の電源を切ると、勢田は翔に近づいてきた。
「そういう虫けらを見るような目つき、俺は嫌いじゃないけどね」
 憐れむような、慈しむような眼差しで、勢田は翔の顔を覗き込んできた。
 ――僕の目つきのこと?
 勢田を、そんな目で見たつもりはなかった。
「そうだ、翔も食う?」
 懐柔する気なのか、勢田はベッドの上に放置された食べかけのチョコレートバーを持って来ると、翔に差し出した。
 勢田が持参した菓子ではなく、翔の家にあったものだ。勢田はなぜか母の隙を突いて、勝手に台所から菓子類を持ち出して来ては、ひとりで食べている。
 ――これで機嫌を取ってるつもりなのか?
 以前のあんまんといい、勢田は食べ物を分けることで相手の機嫌を取れると思っているようだ。他人に自分の食べかけのものを押し付ける神経が、翔には理解の域を越えていた。
 躊躇していると、勢田は強引にチョコレートバーを翔の口許に近づけてきた。
「ほら、あーん」
 目の前のチョコレートバーには、勢田の歯形がくっきりとついている上に、少し唾液で濡れていた。しかし、無邪気な笑みを浮かべる勢田を前に、文句を言う気力が削がれた。
 ――仕方ないか。
 翔はやむなく、差し出されたチョコレートバーを一口齧った。チョコレートの甘い味が、口の中に広がった。
 ――意外と美味しいかも……。
 他人の歯形と唾液がついたが菓子を口にして、不快感が沸いてこないどころか、美味しいと思えることが、我ながら不思議だった。家族間でも回し飲みや、誰かの食べかけのものを口にする習慣がなかった翔は、平気で回し飲み等をする級友たちの神経が理解できなかった。今でも、もちろん大嫌いだ。
 ――なのに、どうして嫌じゃなかったんだ?
 小首を傾げていると、不意に勢田にキスされた時のことを思い出した。
 ――そうだ。僕、この人の唾液を飲み込んだことがあるんだった……。
 ねっとりとした熱い舌が、唾液を絡めながら口内を蹂躙する、あの生々しい感触が、脳裏で鮮明に甦った。
 途端に、下腹部が激しく脈打ち始めた。翔は、思いがけない自分の身体の反応に、ひどく焦りを覚えた。
 ――おい、落ちつけ、落ちつくんだ……。何なんだ、こんなみっともない反応。
 いくらなんでも、キスされたことを思い出して勃起させてしまったなど、恥ずかしいにも程があった。
 翔は必死で呼吸を整えた。それでも、意識すればするほど、呼吸が乱れてしまう。
「そんなに嫌なら、無理して食うなよ」
 勢田の苦笑混じりの声に、翔は我に返った。
 ――嫌、とか、そういうことじゃなくて……。というか、全然嫌じゃなかったのに。
「学校、まだ通ってるんだな。けっこう頑張るな。どうせ、珍獣を見るような目で見られてるんだろ? 友達の一人くらいはできたか?」
 勢田がどうでも良さそうな口調で訊ねてきた。
 ――珍獣って、何なんだよ?
 確かに翔は、「珍獣」を見るような怯えと好奇心の入り混じった視線を、常に感じていた。いくら気にしないようにしていても、そういった視線に晒されることに、翔は神経をすり減らしてしまっていた。
 だが、そんなことに気を取られてしまう自分のことが、なによりも嫌だった。そんな目など気にならないくらいの強さが欲しかった。
 ――なのに……。
 生傷を抉るようなこと平然と口にする、デリカシーのなさに腹が立った。
「別に、普通に過ごしていますよ。クラスメイトとも問題なく接してますし」
 翔は挑むように勢田を真っ直ぐに見据えた。
「ふーん、そう。なら、いいけど」
 勢田は鼻から息を吐くと、興味を失ったように翔から視線を外した。床に置いた物を手にすると、勢田は立ち上がった。終了の時刻までは数分残っているが、もう帰る気らしい。
 勢田に突き放されたような気がして、胸に鋭い痛みが走った。
 だが、あんな風に尋ねられて、他にどう答えればいいのか。
 楽しくなんかない。辛い。友達なんか、できるわけがない。せいぜい、「イーヴィルアイ」に興味を持つ子が声を掛けてくる程度だ。
 ――そんな惨めな泣き言、言えるわけないじゃないか。
 翔は、頭に浮かんだ答えを、瞬時に打ち消した。
 勢田は翔に背を向けドアに向かっている。
「……あの、勢田先生、待ってください」
 ドアノブを握った勢田の背中に向かって、翔は声を掛けた。
「ん? 何?」
 振り向いた勢田は、いつも通りの悪戯っぽい笑みを浮かべているが、瞳の奥に苛立ちのような感情が浮かんでいるように見えた。
 翔は小さく首を横に振って、視線を落とした。掛ける言葉が、思いつかなかった。
 そんな翔を見つめていた勢田が、口の端だけで笑った。
「解ってるよ。俺に、家庭教師を辞めろ、って話だろ。もう二週間も登校できたんだもんな。そろそろ切り出してくる頃かと思ってたよ」
 思いがけない言葉に、翔のほうが慌てた。そんな話をする気は、毛頭なかった。
「そういや、吉田君、まだ休んでるらしいな。気の毒だよなぁ」
 一番聞きたくない名を、勢田がさらりと口にした。
「あれは、ただの事故です。何度も言ってるじゃないですか」
「百歩譲って、ただの事故だったとしても、目の前で同級生が大怪我を負ったのに、随分冷たいじゃないか。見舞いくらい行ってみたら? 怪我のほうはほとんど治ってるけど、精神的なショックがまだ強いらしいよ」
 どこから仕入れてきた情報かは分からないが、勢田のことだ、入手した情報の確度は高そうだ。
 ――怪我は治ったのか……。
 翔は素直に喜べなかった。吉田が学校に来るようになれば、翔はますます攻撃の対象にされる恐れがあった。
「息の根を止めておけばよかった?」
 翔の耳元で、勢田が低く囁いた。
「何言ってるんですか? 僕は何も……」
「だったら、見舞いくらい、行けるよな。見舞いに行けたら、今度こそ、ちゃんと辞めてやるよ。その代わり、もし行けなかったら、あの写真を添付して、謝罪のメールを送ることにしよう」
 ――あの写真……? 
 ビジネスホテルで撮られた写真のことを思い出した。
 ――人を命を奪うところだったんだから、口先の謝罪なんかじゃ、済むわけないよね。
 あの時、勢田は翔の無様な恰好を写真に撮り、それを吉田に送ろうと言い出した。
「何考えてるんですか? 嫌ですよ、そんなの……。やめてください」
「だって翔くん、俺から、稼ぎのいいバイト取り上げるんだろ? だったらそれくらいの交換条件、呑んでくれたっていいじゃないか」
 冗談めかした口調だが、目は少しも笑っていない。
「俺が次に来る時までには、ちゃんと行っとけよ。もし行ってなかったら、例の写真付きの謝罪メールを送るから」
 一方的に言い切ると、勢田は翔の返事も聞かずに部屋を後にした。

 ――どうしてこんなことになったんだ?
 勢田が帰ってからこの二日間、悩み続けていた。授業も耳に入らず、松井恭子が声を掛けてきても、まともに話す余力がなかった。
 ――どうして吉田の見舞いなんか……。吉田だって、僕の顔なんか見たくないだろうに。
 だいたい、翔は勢田に家庭教師を辞めて欲しいとは、もう思っていなかった。
 ――なのに……。
 あの日から二日経過した今日が、勢田が来る日だった。
 ――勢田先生、僕が見舞いに行ってなかったら、本気で僕の写真を吉田に送りそうな気がする……。僕のこと嫌っているわけでもなさそうなのに。いや、やっぱり腹の底では、僕のことが嫌いなのか?
 翔には、勢田の気持ちが全く掴めなかった。だが、あの写真だけは吉田などに送信されては堪らなかった。そうなると、翔の取るべき道はひとつしかなかった。
 翔は授業が終わると同時に、吉田の家に向かった。
 念のために、担任教諭に確認してみたところ、勢田が言っていたとおり、吉田の怪我はほとんど治っているという。見舞いに行って大丈夫か訊ねると、困惑した様子を見せて、言葉を濁して立ち去ってしまった。翔と拘わりたくないのだろう。
 ――当然だよな……。僕に積極的に拘わってくる人なんか、勢田先生と松井さんくらいしかいないもんな。
 もっとも、松井恭子は、翔の「イーヴィルアイ」に関心を持っているだけだった。
 ――僕自身に拘わろうとしてくれるのは、勢田先生だけか。
 だからこそ、無茶苦茶な指示をされても、翔は勢田の指示に従おうとしてしまうのだろう。

 翔は重たい足を引きずりながら、吉田の家に向かった。
 吉田は、高校近くの一軒家に住んでいた。インターホンを鳴らすと、吉田本人が出てきた。吉田は尚樹の顔を見た途端、さっと顔色が変わった。
 その次の瞬間、けたたましい奇声を発した。何を叫んでいるのか聞き取れなかった。翔が何を言っても、聞く耳を持たず、憎悪と恐怖が張りついた顔で、激しく怒鳴り続けている。「バケモノ」という言葉が繰り返されるたびに、翔の心臓が跳ね上がった。身体ががたがたと震え、不快な脂汗が背中にべったりと張りついていた。翔は耐えきれず、後退った。
 その時、翔の肩を何かが掠った。振り向くと、傘が地面に落ちていた。
 吉田は、次々と物を翔に向かって投げてきた。傘や置物、ついには花瓶まで飛んできた。
 花瓶は辛うじて避けられたが、その直後に投げつけられたガラスの置物が頬を掠り、翔の頬から血が滴り落ちた。
 ――どうして僕がこんな目に……。元々、こいつが悪いんじゃないか。それなのに、被害者面しやがって。
 胸の奥から激しい憎悪が沸き上がってきた。
 地面に転がった傘が、翔の目に映った。さっき、吉田が投げつけてきた傘だ。目の奥が、かっと熱くなった。
 ――来る!
 そう思った瞬間、柔らかい、慈しむような声が脳裏に過った。
 ――君は平気なんだ? 自分のせいで人が死んでも。
 そう問いかけてきた時の勢田には、翔を非難するような雰囲気が全く感じられなかった。
 ――そうだ……。あの時、勢田先生は、僕が、平気じゃない、という結論に達するように導いてくれようとしたんじゃないかな……。
 翔はいつもポケットに入れている、お守り代わりのガラス玉を握りしめた。強く握りしめているうちに、目の奥の熱は消え、気づけば辺りは静かになっていた。
 すでに吉田の姿はなく、玄関のドアが閉められていた。玄関の周りには、傘や割れた花瓶などが散乱していた。
 鋭い視線を感じて振り向くと、近隣の住人たちが、珍獣を遠巻きに眺めるような視線を向けていた。
「あれが、例のバケモノ? 怖いわねぇ」
「案外、普通っぽいのに」
 悪意の籠った瞳き声が、聞こえたような気がした。好奇心と嫌悪感が綯い交ぜになったような無数の視線が容赦なく突き刺さり、吉田に色々な物を投げつけられた傷よりも、鋭く翔の胸を抉った。
 翔は居たたまれない思いで、その場から足早に立ち去った。ただ逃げるためだけに、必死で歩き続けた。
 どこをどう歩いたのか、覚えてはいない。気づけば、見覚えのない風景が広がっていた。
 いつの間にか、雨が降っていた。雨に濡れながら、翔は黙々と歩き続けた。
 ――勢田先生の言うとおりだ。誰も、僕を受け入れてなんてくれないんだ……。
 突き刺さるような視線を思い出し、吐き気が込み上げてきた。
 ――帰りたくないな……。
 勢田が来る時間に間に合わせるには、今すぐにでも家に向かわなければならないだろう。だが、今日は勢田に会いたくはなかった。
 ただでさえ衝撃を受けているのに、更に勢田に小馬鹿にされたり、説教されるかのかと考えると、息が詰まるような苦しさを覚えた。
 意地を張る気力など、残っていなかった。
 歩き疲れた翔は、目についた小さな公園に、ふらりと足を向けた。
 公園には、誰一人いなかった。
 翔はしばらく佇んでいたが、雨脚がどんどん激しくなっていく。雨宿りをできそうなところは、土管遊具くらいしか見当たらなかった。仕方なく、土管の中に入った。窮屈だが、入れない大きさではなかった。
 翔は自分の膝を抱くようにして座り込んだ。土管遊具を懐かしいと感じるほど、公園で遊んだ記憶はなかった。それでも、暗くて狭い空間は、不思議と落ちついた。
 そうしているうちに、一時間以上も経っていた。勢田が家で翔の帰りを待っていたとしても、さすがにもう帰っただろう。
 雨脚が、少し弱まっていた。翔はのっそりと立ち上がると、公園の出口に向かった。だが、あと数メートルのところで、金縛りにあったように身体が動かなくなった。
 公園の出口に、勢田が佇んでいた。傘を持たず、翔以上にずぶ濡れになっていた。濡れたシャツが肌に張り付き、素肌の色が透けて見えていた。翔の心臓が、飛び跳ねた。
 立ち竦んでいると、勢田が近づいてきた。逃げたかったが、あまりにもわざとらしいし、すぐに追いつかれてしまうだろう。
 目の前まで来た勢田は、翔を労るように目を細めた。
「お疲れ様。よく頑張ったな」
 勢田は、翔の髪を撫で上げた。
 ふいに涙腺が熱くなった。必死で堪えようとしたが、涙が滲み出た。
「頑張ってない……。やっぱり僕、バケモノなんだ……」
 勢田は、翔をそっと抱き寄せた。
「僕、あいつのこと、殺したいって思ったんだ。最低だ……」
 翔を抱く勢田の腕に、力が籠った。勢田は翔の耳元で囁いた。
「思うのは自由だよ。問題は、実際に殺すかどうかだ。違うか?」
 翔は頷くことはできなかったが、即座に反論もできなかった。
 勢田は両手で翔の頬に包み込むと、にっと笑った。
「よくやったよ。ちゃんとコントロールできたじゃないか。彼が何の被害にも遭わなかったのは、君が自分の『イーヴィルアイ』を制御できたからだよ」
「……制御……?」
 勢田は大きく頷いた。
 堰を切ったように、翔の眼から涙が溢れ出た。翔は、勢田の胸に顔を押し当てた。勢田の手が、翔の背中を撫でるたびに、涙が込み上げた。
「……先生」
 翔はそっと勢田の胸元に手を置いた。勢田のシャツはびしょびしょに濡れ、肌にぴったりと張りついている。直に素肌に触れているような錯覚を覚えた。鼓動が高鳴り、呼吸が苦しくなっていった。
「……抱いてください」
 翔は夢見心地に呟いた。
「何もかも、忘れたいんです」
 勢田は翔の背中を軽く数回叩いた。
「だからさ、自棄になることないんだって。君はよくやったよ」
 どうやら勢田は、翔を抱く気がないようだ。
 ――来る者拒まず、って言ってたくせに。
 だが、努田に抱かれた日、翔は勢田に「イーヴィルアイ」を発動させようとした。そんな相手を抱きたい思うはずがなかった。
「……すみません。僕みたいなバケモノ、あなたの手にも余りますよね」
 勢田は困ったように頭を掻いた。
「そういうことじゃなくて……、まあ、いいか。もし明日になってもそう思うなら、思う存分抱いてあげる。その代わり、今日はおとなしく帰るってことで、どう?」
 翔は軽く目を閉じた。
 ――何を言ってるんだ、僕は……。
 いくら現実逃避したかったとはいえ、抱いて欲しいなどと恥知らずなことを頼んでしまった自分に嫌悪感を覚えた。
「今のは、気の迷いです。本気にしないでください」
 翔はひとりで歩きだした。勢田から一刻も早く離れたかった。だが、追いかけてきた勢田が翔の腕を掴んだ。
「送るよ」
「結構です」
「まあ、そう言うなよ。家の前までは行かないからさ」
「要らないって、言ってるでしょ」
 翔は乱暴に腕を動かし、勢田の手を振りほどいた。
「でも、帰り道、分からないんじゃないの? ずっと俯いて歩いてただろ」
 痛いところを突かれた。確かに翔は、ここがどこなのか、よく分かっていなかった。おおよその方角は分かるので、自力で家に帰れなくもないだろうが、勢田が帰り道を分かっているなら、送ってもらったほうがいい。
 ――それにしても、いつから僕を見てたんだ? ストーカーか?
「マジで行くとは思わなかったよ」
 並んで歩いていると、勢田が呟いた。思いがけない言葉に、翔は耳を疑った。
「翔って、辛くても全部自分ひとりで抱え込んじゃって、ちっとも愚痴ってくれないから、何だかムカついて、ちょっと意地悪を言ってみただけだったんだけどなぁ」
「意地悪って……。そんな軽い言葉で済ませられる範疇の話ですか? あんな酷い脅し方しておいて」
「だいたいさぁ、あの時の写真、翔の携帯で撮ったんだから、俺、データ持ってないし」
 勢田は例によって薄笑いを浮かべながら嘯いた。翔は脱力するしかなかった。もはや、勢田と口を利く気力もなかった。二人は無言で歩き続けた。
 翔の家の近くの交差点まで来たところで、急に勢田が足を止めた。どうやら、ここで立ち去ってくれる気のようだ。
 礼を言うのも業腹だった。とはいえ、無言で立ち去るのも、大人げがない気もする。
 仕方なく、翔は少しだけ頭を下げ、すぐに勢田に背を向けた。不自然でない程度に早足で歩いた。
 だが、すかさず勢田が呼び止めてきた。送ってやった礼くらい言え、などと説教されるのかと思い、翔は緊張しながら振り返った。
 勢田は珍しく、硬い表情を浮かべていた。翔と目が合うと、口の端を僅かに吊り上げた。だが、笑っているというよりは、引き攣っているといったほうがいい表情だった。
 勢田は咳払いしてから、口を開いた。
「俺、君のこと好きだよ」
 呆然とする翔を前に、ようやく勢田は、いつものように悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「じゃあな」
 ひらひらと手を振りながら、勢田は踵を返した。
 ――どういう意味? 何か裏があるのか?
 翔は動揺する気持ちを必死で抑えながら、勢田の後ろ姿を見送った。勢田は一度も振り向かず、翔の視界から消え去った。
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