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第1話 あやかしだって恋愛したい!

4 兄を名乗る不審者

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「……は?」

 たっぷりの沈黙の後。やっとのことで僕が返したのは、なんとも間の抜けた声だった。

「え、ごめん。いま、なんて?」

 聞き間違いだろうか。だが、兄はもう一度同じことを繰り返した。

「俺は、おまえの、兄ではないんだ」

 一語一句、ゆっくり丁寧に紡がれる。ぱちぱちと目を瞬いた。そんなわけないだろうと笑い飛ばすこともできた。だけど、冗談だと突っぱねてしまうには兄の表情はあまりにも真剣すぎた。それでも、やっぱり信じられない。もしや腹違いだとでも言うつもりか。うちはごく平凡な家庭で、そんな複雑な事情があったなんていままでこれっぽっちも考えたことはなかった。

 嘘だろ。口だけでそう尋ねれば、兄が目を伏せた。

「俺の名前、言えるか?」
「なに言ってんだよ。そんなの言えるに決まって――」

 決まってるだろ。そう答えようとして、はたと口をつぐむ。あれ、おかしいな。

「名前……?」

 どくりと、心臓が跳ねた。先程から感じていた違和感が、徐々に強くなる。じとりと汗が滲んで、やけに喉が渇いた。だけど、目の前にある麦茶を飲む気にはなれない。露の生じたグラスから雫が垂れ、テーブルを濡らす。ごくりと、息を呑んだ。

「名前、なんだっけ……?」

 おかしい。こんなこと、あっていいはずがない。実の兄の名前が思い出せないなんて。いや、思い出せないんじゃない。知らないんだ。では、どうして知らないのか。簡単だ。

「……あんた、誰?」

 ようやく出た声は、震えていた。
 ぎゅっと、膝の上で手を握り込む。こちらを見つめる兄の黒い瞳が、いや、兄ではない男の瞳が、怖い。
 食い入るように僕を見つめる男は、ちょっと困ったような顔をしていた。

「俺の名前は、朱音あかねだ」

 僕に言い聞かせるようにゆっくりと紡がれた名前は、すんなりと耳に届いた。

 朱音。小さく呟いてみるが、初めて聞く名だ。目の前の男が実の兄ではないと納得がいって、同時に背筋が凍った。兄でないのならば、一体誰なんだ。そもそも、僕に兄弟なんていたっけ? どうして、眼前の男を兄だなんてとんでもない勘違いをしていたのか。

 記憶を掘り起こすと、先程まで当然のように感じていた兄の存在が、音を立てて崩れていく。

 なんだこれは。

 言いようのない感覚に、僕はそろそろとグラスに手を伸ばした。夢であるのならば、覚めて欲しい。そんな期待を込めて一気に煽れば、冷たい麦茶が喉を伝った。

「混乱させたな。すまなかった」

 乱雑にグラスを置くが、覚める気配はない。どうやら、夢ではなかったらしい。こんな現実あってたまるか。存在しないはずの兄が存在していて、当たり前のように家庭に馴染んでいるなんてどこのホラーだ。

 小さく震える手を再び握り込んで、僕は朱音と名乗った得体の知れない男を見据えた。本当は、目を合わせるのさえ怖かったが、このまま逃げるのはもっと怖かった。

 すまないと頭を下げる朱音は、困ったとでも言いたげに苦笑している。

「わかってもらえたと思うが、俺はおまえの兄ではない」
「じゃあ、誰なんだよ……?」

 僕の口から零れたのは、至極当然の疑問であった。朱音という名前だけでは、この男が何者なのかまったくわからない。事はなにひとつ進展していないことを伝えれば、朱音は「そうだな」と神妙な顔をした。

「回りくどいのは苦手なんだ。だから率直に言うが、俺はそもそも人間ではない」
「は?」

 耳を疑うのは、これで本日何度目だろうか。その意味するところを完全に理解する前に、彼は一気に情報を開示する。

「俺はあやかしだ。先程、神を信じるかと訊いたのは優斗が俺たちあやかしの存在を受け入れてくれるのかを確かめるためで。ほら、なんだ? 人間はあやかしより神の方が受け入れやすいだろう。だから、まず神を信じるかどうかを確かめてだな。その後にあやかしの存在について――」
「ちょ、ちょっと待った!」

 突然、べらべらと早口で並べ立てる朱音に、僕は堪らず制止をかけた。

「え、なに? あやかし? 神がなんだって?」

 そんな耳馴染みのない単語を連発されても、話が全く頭に入ってこない。先程までとは別の恐怖を感じて身を引けば、朱音はきょとんとしていた。

「いや、だから。神とかあやかしの存在を信じるかって」
「信じてるわけないだろ!」

 思わずテーブルを強く叩けば、打ち付けた拳に鈍い痛みが走って涙が滲んだ。けれども、いまはそんなものは些細なことに感じられた。

「なんなんだよ! 急に出てきて神とかあやかしとか、わけがわかんないよ! というかあんたは誰なんだ。僕を揶揄うのもいい加減にしろ!」

 兄が兄ではなかったというだけでも衝撃だったのに、これ以上僕を混乱させないで欲しい。キッと睨みつければ、朱音は眉尻を下げた。その顔に、僕を困らせてやろうという悪意が感じられず、ますます困惑した。

 一体この男はなにがしたいのか。なんの目的で僕に近づいたのか。わからないことは、山ほどある。

「……揶揄うつもりはないんだ。そこだけは、信じてくれ」

 ぽつりと零れた言葉の端には、どこか愁いが混じっているようだった。

「ちょっと力を使って優斗の家族に紛れたんだ。その方が、探りを入れるにはやりやすいからな。迷惑をかけてすまなかった。ただ、おかげでわかったことがある」

 音もなく立ち上がり、朱音は僕を見下ろした。その目がひどく冷たくて、知らず知らずのうちにごくりと唾を飲み込んだ。

「おまえが、俺の主になる資格はない」

 きっぱりと言い捨てて、朱音は背を向けた。
 まるで僕が親の仇でもあるかのように拒絶されて、しばらく動くことができなかった。一体僕がなにをしたって言うんだよ。怒りたいのは僕の方だ。そもそもあんたは何者なんだ。根本的な疑問すら解決しない間に、少しこちらを振り返った朱音は、うっすらと意地の悪い笑みを浮かべて僕の前から姿を消した。
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