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幼妻押掛始末
緻密な謀略と杜撰な企み
しおりを挟む楓は小走りでお夏の書いてくれた道順に沿って進んでいった。
紗を草間に入る前よりも深くかぶり、一端を口に挟んで顔を隠している。
笑いを堪えているのだ。
『あの女武道様は~、ちょっこ望み薄やちゃね。お店のでっかい方の娘さんは結構ありえるかも~』
生国にいた頃は、自分と義姉以外、歳の近い女では冬吉と普通に話せる者などいなかったのだ。
それが、今では周辺に娘たちがいる。
小さい方の奉公人の娘は、冬吉が生国を出た頃の自分ぐらい、流石に歳が離れている。
自分たち以外に身近に娘を置いている今の冬吉が、面白くて仕方がなかった。
果たしてどんな顔で日々を過ごしているのか。
とは言え、今の楓は冬吉のことばかりにかまけているわけには行かない。
消息がわかったのはうれしかったが、他人の恋路にかまっている暇などないのだ。
楓は意を決して、大した縁もゆかりもない、本多内蔵助の屋敷の門を叩いた。
「富山藩町奉行本多弥七郎長吉の娘、楓と申します」
気品に満ちた見事な礼とともに楓は挨拶をした。
別に楓は生国の訛りが取れていないのではない。
その気になれば、おそらくは冬吉以上に江戸言葉で話すことができる。
地方の藩の武士であっても、身分あれば江戸に出て、幕府や他藩の要人と付き合わねばならないことがある。
そうであれば、生国の訛りというのは恥をかきかねない。
幼少の頃からそうした事態を想定して、江戸言葉で教育を受けることもあるのだ。
楓の場合は自分からいずれ必要になると考え、人に頼んで覚えたことである。
しかし、草間にいる間は訛り丸出しであった。
楓は今風に言えば極端にTPOを大切するのである。
それは、こだわりというよりも、そうした方が何かと便利と考えているからであった。
都会では、可愛い娘のお上りさんには、大抵親切に接してくれるものだ。
とは言え、それは町人や下級の武士ぐらいまでの話である。
高貴な武士の屋敷でやんごとなき身分の者と合うのならば、それなりの教養と言うのものを示さねばならない。
楓は幼い頃の冬吉曰く、『天下の甘え上手』なのである。
どこに行っても最大限に可愛がられるように、相手の望む好ましい娘を演じ切って見せる。
子どもの頃なら天性と言えようが、十七にもなったなら、打算も含めてそれを効果的に行うことができてしまう。
それも、一種の芸と言えるほどに巧みにであった。
「して、楓殿はどうして当家に参られましたか?」
整った顔で、きらびやかな裲襠を羽織った若い女性、姫と言って間違い無いであろう娘が丁寧な口調でこういう。
興味深いというふうに楓のことを凝視する。
名をお長と言う。
本多内蔵助家当主、副充の姪であり、養女であった。
「煮え切らぬ男に煮え切ってもらうため、と申しましょうか。血は繋がらずとも同じ本多の名を持つ縁を頼りにご助力をお願いに参りました」
「ほほう……」
お長は楓と同年代である。
そして、この一月後、彦根藩家老木俣守前の元に輿入れする身であった。
木俣守前は、部屋住み(つまり、家督を相続していない実家住まい)ではあるが、若くして家老に抜擢されている。
将来有望な人物で、実際後には家督を相続し筆頭家老となっている。
年齢的にも近く、本多副充も姪にふさわしい相手を選んだと言えるだろう。
しかし、若くして見合い結婚すると言うことは、恋を知らず人妻になるということである。
男性について様々に妄想し、恋に恋していた娘が実際に恋をすることなく、妻となってしまう。
よって、自分の恋愛については、物語で読むような甘美なものは諦めざるを得ない。
となれば、他人の恋路というのが気になってくる。
できるものなら首も突っ込みたくなる。
そこに、楓の狙いがあった。
楓はひそひそと、少し顔を赤く染めながら自分の事情を語った。
お長の顔も赤く染まった。
楓は羞恥で顔を染めたが、お長は話の内容に興奮して顔を染めていた。
「もうすぐ乙女を捨てる身でありますが、恋する乙女に助力するのも乙女の本懐。どうぞこの屋敷にご逗留ください。そして、まずはどうなさいますか?」
「取り急ぎ、文をお届けいただけないでしょうか?」
こうして、楓は江戸にいる間の拠点と、強力な後ろ盾を得ることに成功したのである。
楓がその場で書き起こした手紙は、飛脚によって一時(二時間)もかからずに目的の人物に届けられた。
冬吉は柏屋まで栗原周平の様子を見に来ていた。
用心棒として推薦した手前、ちゃんとやれているかどうかが気になる。
知人の紹介、いわゆるコネによっての採用は、現代では不正に近い不公平な印象のある風習であるが、少なくとも江戸時代にあっては合理的なあり方であった。
採用する側とされる側、双方のことをよく知っている人物が責任を持って推薦するのであるから、知らない人間を試験や面会だけで採用するより丁寧とも言える。
とは言え、冬吉の場合、栗原周平とは一度木太刀を交えたというだけの間柄で推薦したのである。
数日は稽古に付き合ったし、それ以前の問答で十分やりうると確認してのことではあったが、推薦人としては責任を持たねばならないと思っている。
本来、冬吉はこういうことを面倒に思うたちである。
それは責任感が強い故に、請け負ってしまった以上は手を抜けないと考えているからで、無責任な態度を取ることできないからであった。
仕事を始める前の周平と一言二言かわした上で、いきなり仕掛けた。
あえて、今まで見せていない『無刃・留羽』、刀を抜く前に柄頭を押さえ、そのまま『無刃・羽打』で仕留める無手の技を放ったのだが、周平は見事にそれを受け切った。
柄頭を抑えられると、つい後ろに下がって刀を抜きたくなる。
それをせず自分で柄を横に叩いて抑えを外し、素手のまま踏み込んで攻撃に転じる。
完璧な対応であった。
冬吉は周平の顎を狙った掌底をかわし、その手を捻って押さえ込んだが、これは真兎田の技ではない。
真兎田と戦える技は、周平が自発的に練り上げている。
とは言え『留羽』を知らずに、これを自然にやってのけるとは考えにくい。
冬吉は自分のやりかけの仕事、栗原周平を真兎田と戦える剣客にするという試みを、義姉が引き継いでくれたということを確認したのだった。
冬吉は半左衛門に挨拶をした上で、厨房にも顔をだして帰ろうとしていた。
半左衛門は体調を崩して寝込んでいたが、腹を壊しただけで大事ないとのことであった。
「何をするっ!」
「じゃかぁしいわっ、町人風情がっ! 言われたものを早く出せっ!」
穴蔵への入り口のある勝手口から続く廊下を歩いていると、厨房から怒号が聞こえて来た。
冬吉にはどちらの声も聞き覚えがある。
急いで厨房に走ると、宗兵衛と見たことのある若者が掴み合いの喧嘩をしていた。
他にも取り巻きと思われる、素行の悪そうな武士の若者数名が、脇板の正三郎を小突き回していた。
冬吉と同時に周平と虎之助も駆け込んできた。
それぞれの持ち場は厨房から離れているが、感覚を研ぎ澄まされた二人には気づかぬはずもなかった。
若者たちはだいぶ酒に酔っている様子である。
などと、呑気に考えている場合ではない。
周平が宗兵衛と遣り合っている男の襟首を引っ掴んで、そのまま後ろに引き倒す。
「久太郎か。何をしておる」
「く、栗原……何を偉そうにっ! もう兄弟子でもなんでもねぇっ!」
宗兵衛と取っ組み合いになっていたのは、水野伊勢守の用人、大野久兵衛の嫡男久太郎であった。
久兵衛は息子に厳しい方の父親であるのだが、母親の方が甘く、ついつい余計に小遣いを与えてしまう。
そうなると、取り巻き共を引き連れて、こうして遊び歩いては騒ぎを起こすことになるのだ。
「貴様も破門になったようだな。では、弟弟子でもないので、普通に不届き者として処分してくれよう」
周平も柏屋に落ち着いてからは、いろんな話が入ってくる。
これは実は虎之助が仕込みを使って調べたことなのだが、周平を破門に追い込んだのは久太郎の讒言がきっかけであったらしいのだ。
試合の場で怒鳴りつけられた怨恨からであろう。
とは言え、別にそのことはどうでも良いと思っている。
金をもらって手を抜いて試合をしたなどという讒言では、師も頭に血が上っている間はともかく、冷静になればそんなわけがないとわかる。
手を抜いた試合で肋骨をへし折られるなど、周平の性格にも実力にもそぐわないのだから。
ただ、用心棒として、厨房まで入り込んで暴れた狼藉者を放っておくことはできない。
正三郎を囲んでいた四人の内、二人は虎之助がそれぞれの襟首を掴んでその剛力で思い切り、頭をかち合わせた。
双方失神して、その場に伸びてしまう。
残りの一人は冬吉の『無刃・羽打』を顎に、もう一人は肘打ちを鳩尾にくらって悶絶している。
「で、一体何があったんですか?」
肘打ちを喰らった方は意識があるので、本人の腰紐で両手首を後ろ手に縛りながら冬吉は聞いた。
「こいつら、散々呑んだ後で、『隅田の川遊び』と『夏の白雪』を出せと言ってきたんだ。季節に合わないし用意もないから出せないと言ったら、厨房に乗り込んできやがった」
流石に大身の旗本家とは言え、用人の息子の小遣い程度で、高級料亭柏屋に入ると言うのは少々無理があろう。
これは、初めから因縁をつけて、ただ酒を飲もうと言う魂胆であったのだ。
元々、料亭は基本的に後払い。
後日、宴の主催者に請求して支払いを求める形である。
気の毒であるが、本日のお代は大野用人に請求せざるを得ないだろう。
それにしても、もう冬だと言うのに、夏の逸品として有名となった『隅田の川遊び』と『夏の白雪』を出せなどというのは、野暮の骨頂である。
冷汁は暑い夏を楽しむための品だ。
現代のように暖房で汗を掻くほどに暖かくできるなら、あるいは最高の贅沢と言えるが、この頃は火鉢で温まる程度。
さらに、外気は今よりも冷たく、建物の気密性もない。
厚着した上に、熱燗で一杯やっているような時期に冷汁などというのは、風流もへったくれもない。
贅沢な品ならいくらでも他にあるのだが、贅沢の仕方を知らない若者が、粋がって恥を掻いてしまった。
そう言う話であろう。
武家の狼藉は町奉行所では裁けない。
何よりことを荒立てた分だけ、店の恥にもなる。
よって、小僧の一人を水野家の屋敷に走らせ、ことの次第を話して若者たちを引き取ってもらうこととする。
しかし、それだけではことはすまなかった。
四人の若者たちに小突き回されていた正三郎が、床に座り込んで立ち上がれないでいた。
虎之助がしゃがみ込んで様子を確認し、足首に触ると、正三郎は悲鳴をあげる。
「い、いたたたっ……」
「うーむ、いかんな。骨は大丈夫みたいが、転ばされた時に足を挫いたようでござる」
「板場に立てますか?」
深刻な顔で、宗兵衛が言う。
しかし、久太郎と殴り合って片目の周りが青黒く腫れているので、なんとも間抜けに見えてしまう。
「ちゃんと足首を冷やして休んでいれば、明日には大丈夫でござろうが、今日は休んだ方が良いかと」
真っ青になったのは、宗兵衛と銀次郎である。
宗兵衛は、そのまま厨房の板床にへたり込んだ。
銀次郎は冬吉の前に走り込むなり土下座して、頭を上げぬまま懇願した。
「ふ、冬吉さん、どうか二階の客に刺身を出すまででいいから、手伝ってくださいっ!」
ただならぬ様子に冬吉も真顔になる。
「いったい、どうされたんですが? 二階のお客が何か?」
「どこぞの藩の江戸詰の藩士の集まりなんだ。何やらお偉いさんの家の慶事の内祝いらしくって、大勢でやってくるんだが、江戸の魚を思い存分楽しみたいと、刺し盛りをふんだんにと注文されて……」
江戸詰、現代で言えば東京に長期出張の武士たちが、これを機会に江戸前の豪華な刺身を食してみたいと言うのもわかることである。
藩のお偉いさんの慶事という大義名分、そのお偉いさんも懐の広いところを見せねばならないから、大盤振る舞いとなる。
しかし、大量の刺身となると、たくさんの魚を捌かねばならない。
柏屋では大きな魚も丸ごと仕入れているので、内臓を取ったり、柵に切り分けるところから始めなければならないので、とにかく大変なのだ。
「親方と脇板と私の三人でどうにか乗り切ろうとしていたんだが、私は碗物もやらないといけないし、脇板なしじゃとても回らないんだ。お願いしますっ!」
銀次郎は『隅田の川遊び』でその才を開花させた後も、独創的な椀を次々と考え出している。
となれば、豪華な刺し盛りを注文した藩士たちは、椀にも大きな期待を寄せているに違いない。
椀方としての仕事も決して手が抜けないし、こうなっては冬吉の力を借りるしかなかった。
銀次郎は必死である。
この男も包丁人としてだけでなく、人を束ねる地位の者としての責任を感じるようになった。
成長したのだといえよう。
冬吉にしてみればなんてこともない。
確かに、草間も忙しいが、仗助と熊七の二人でも、たいていのことはやってのける。
厨房が回らないと思えばお夏が工夫して、二人の負担を減らすように注文を調整するし、そのお夏の負担はお深雪が分かち合ってくれる。
文句を言うような客には、お静が睨みを利かせている。
柏屋のような高級店ではないから、多少もてなしが滞ったところで、常連の足が遠のくなどと言うこともない。
常連は皆、店の仲間のようなものだから、なんなら忙しくなれば、客あしらいを手伝ってくれるぐらいなのだ。
「頭をあげてください。なんてことないですよ。梅七が水野屋敷へ行くついでに、店に寄ってくれれば大丈夫です。なんでもやりますよ」
冬吉はその晩出す予定の品書きを書き出し、変わり種の品には調理手順まで加えて梅七、一番下っ端の小僧に渡した。
初めて出す品であっても、仗助であれば意図まで汲み取って、良いものに仕上げてくれる。
いつも出している物なら、熊七が忠実に再現してみせる。
草間の厨房は冬吉がいなくても、十分に回るはずなのだ。
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