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食詰浪人行倒始末
用心棒の剣
しおりを挟む「私は剣術には詳しくないが、道場に身をおかねば稽古することはできないものなのですか?」
そう口を挟んだのは、本人が一流の包丁人である柏屋の花板、宗兵衛である。
「例えば包丁人なら、台所と食べてくれる人さえいれば、工夫を重ねて腕を磨くことができる。生業さえ見つけられれば、いずれ良い機会も巡って来ようと言うものです」
実際包丁人でも、何かの理由で店を追い出され、前途を断たれた者と言うのは多い。
しかし、その中でも、別の生業で食べていきながら工夫を続け、機会を得て包丁人として返り咲く、ということもないではない。
「たしかに。良いこと言いますね。親方。ちょうど、うちの店で用心棒を一人探していましてね。いかがですか? 不寝番ですが、剣術の稽古をするぐらいの暇はあります」
半左衛門が受けて、冬吉に目を向けた。
冬吉は篠塚龍右衛門が亡くなった後、用心棒の世話を頼まれていたのだ。
冬吉の察する半左衛門の事情からすれば、腕利きの剣客が必要である。
しかし、気になることがある。
「半左衛門の旦那ぁ、今はこうでも、真っ当な男だ。物騒な仕事なんてさせて良いか、考えんとならんぜ」
横から口を挟んだのは、猪五郎である。
じろり、と半左衛門を睨んだ。
「そうですな。道場での剣術と命のやりとりは別だ。用心棒とは言え、最近は随分物騒だ。よく吟味してからじゃないといけない」
さらに、丹斎が続けた。
こちらの方が、気を遣った言い方をしているのだろう。
柏屋の用心棒は普通の店の用心棒とは違う。
物騒なのは江戸の町のことではなく、柏屋そのものなのだ。
冬吉は既にこの二人が、半左衛門の闇に関わっていた者たちではないかと疑っていた。
冬吉に猪五郎の店、猪頭を紹介したのは半左衛門である。
元々猪頭も半左衛門の出資で始めた店なのだ。
近所で店を出すからということと、酒の扱いの達者であるからという理由でだが、どう見ても暴力の世界で生きてきた猪五郎に出資する理由を考えれば、自ずと察しが付く。
丹斎は長谷川平蔵とともに、その猪頭の常連であった。
剣術道場の後継ぎに乱暴者とは言え旗本の嫡男、破落戸時代の悪友であったと言う。
後に丹斎は道場を継ぎ多くの剣術使いを育てた。
平蔵は家督の相続後、幕臣として精勤し御先手弓組頭、そして、火付盗賊改方頭となる。
見事に若い頃の荒れた生活から更生した二人であるが、あまりに見事すぎるのである。
例えば、元詐欺師で本格派とは言え盗賊であった仗助が、包丁人として更生したのとは話が違う。
元々の家柄があるとは言え、本所の町で語り草になるほど大暴れした二人が、どうしてここまでまともになれたのか。
剣術道場の主人であれば、剣術の腕さえあればどうにかなるかもしれない。
しかし、長谷川平蔵の場合は、現代で言えば元暴走族のヘッドが警視総監になったような話なのである。
何某かの後ろ盾がなければ難しい。
その後ろ盾が半左衛門なのではないか。
もちろん、ただの料亭の主人に、幕臣の人事を左右するほどの力があるはずもない。
しかし、闇の力を持つ者であれば話は別である。
江戸開府の頃、徳川家康は鳶沢某というスリの頭目を捕らえた。
家康はこの鳶沢に、江戸に侵入する盗賊を吟味するように命じ、古着専売の権利を与えたと言う。
江戸幕府は、闇の勢力を密かに傘下に加えることで、天下を治める下地を作っていたのだ。
料亭は身分の高い者たちが使う高級店である。
その気になれば、天下を左右するような重大な情報を得ることができる。
柏屋の個室には、隣室から話し声を盗み聞きするための仕掛けがある。
これは別に特別なことではなく、当時の旅籠や料理屋にはよくあることであるが、これを積極的に用いたなら、政局を左右するような重要人物に脅しをかけたり、恩を売るようなこともできぬではない。
火付盗賊改方頭、長谷川平蔵は柏屋半左衛門の力によって誕生したのではないか。
これは、冬吉の疑念ではなく確信であった。
とは言え、大盗賊を捕らえる敏腕の火頭改頭の存在は、江戸庶民にとっては悪いことではない。
半左衛門が闇の力を使ってそれを行なったとして、その目的に邪悪な理由があるとは思わなかった。
そして、そのおそらくは半左衛門の両腕であったと思われる二人が、栗原周平が柏屋の用心棒となることに難色を示す理由もわからなくはない。
柏屋の用心棒は真兎田の剣客、刺客の剣術を修めた者と斬り合わねばならない。
前任の篠塚龍右衛門は、二刀を持てば冬吉でもどうなるかわからないほどの腕利きである。
道場での立ち合いであれば栗原周平の方が上であろうが、実戦ではどうであろうか。
冬吉は店にいる者たちから、多少妙な目で見られたとしても、尋ねねばならなかった。
「人を斬ったことはありますか?」
多くの人々が息を呑んだ。
『人を斬る』
江戸時代とはいえ、一介の町人から口に出てくる言葉ではない。
何人かはわかっている。
冬吉は人を斬ったことがある。
それも、恐らくは一人や二人ではあるまい。
お静や伊八は、かつて伊八を殺そうとした辻斬りの男を、冬吉が斬ったのだとはわかっている。
また、中村丹斎など、自身人を斬ったことのある剣客であれば、いざという時に放つ冬吉の持つ殺気は、その経験がなければ発することのできぬものということを知っている。
お夏や仗助にしても、自分たちが助けられ、ここで働くようになった経緯から想像は付く。
修羅場に慣れきっているのだ。
とはいえ、このようなことをあえて口にするような男ではない。
お夏は冬吉が言いたいことを察した。
人を斬る、太平の世にあっては、それだけでその経験がない者と一線を画す存在となる。
人を殺すという経験は、たとえやむを得ぬことであったとしても、その人の人生に暗い影を落とさざるを得ない。
殺した者の身内からは恨みを買い、付け狙われることもあろう。
それを斬り、さらに恨みを買う。
そうした、終わりのない闇の輪廻の中に身を置く覚悟はあるのか、そう聞いているのだ。
「己の恥ではあるが、人を斬ったことならある」
今度は栗原の発言に皆が戦慄した。
「若い頃、師の女中であった娘と恋仲となっておりました。いずれは師の許しを得て所帯を持とうとまで考えていたその娘が、買い物へ行く道中で、拐かされたのです」
娘は破落戸たちに連れ去られ、町外れのボロ屋に監禁された上で、慰みものにされた。
栗原は必死の思いで、そのボロ屋を見つけ出し乗り込んだ時、娘は舌を噛んで自らの命を絶っていた。
「今でも覚えております。五名ほどの破落戸を叩き斬りました。死んだ者の顔を忘れることはない」
すでに、栗原の中には闇が潜んでいたのだ。
その後、皆川助九郎は娘の死には悲しんで見せたが、破落戸五人を叩き斬った栗原の猛勇には大喜びであった。
この頃から、栗原は己の中の闇、いや、感情が爆発した時に起きてくる心中の獣を意識するようになり、技を極めることでそれを押さえ込もうと考えるようになったのだ。
冬吉は、栗原の心情を察することができた。
自分も同じように、心中の獣を飼う者であるからだ。
ただ、栗原の場合は、技の師は居ても、獣を飼い慣らすことを教える師はいなかった。
心中の獣、とは言っても自分自身の一部であることには変わらない。
その獣の所業を、未だ受け止められずにいるように見受けられる。
自分と引き比べることで、冬吉は栗原を理解することができた。
武士としてのしがらみ以上に、人を斬った過去と向き合っていないことが、この男を弱くしている。
道場での試合にいくら勝っても、剣の道は極められない。
栗原は今一度、死線を超える経験を積まなければ、前に進むことは出来ないのではないか。
逆に言えば、このままであれば、たとえ破門されることがなかったとしても、剣の技を極めるには至らなかったのではないか。
ならば……
「用心棒とは、護るべき人々を守る仕事です。試合とも喧嘩とも、恨みを晴らす仇討ちとも違います。今度は殺される前に守り抜く、その覚悟がおありなら、柏屋の用心棒は務まることでしょう」
江戸時代でも用心棒というのは、その名の示す通り、用心、つまり盗人や暴力を振るう者への備えでしかない。
実際には剣術や膂力に優れてなくとも、相手を怖気付かせるだけの体格や雰囲気を持っていれば、それで務まることがほとんである。
柏屋の用心棒に関しては事情違う。
柏屋は実際に凶賊や刺客にまで襲撃されている。
ほぼ確実に今後も、こうした武装集団と戦う仕事であり、用心棒というよりは今日で言えば傭兵として働くことになる。
栗原にそれが務まるかどうかは未知数だが、栗原にとってはこの仕事は必要かもしれない。
篠塚龍右衛門がそうであったように、人を殺す技を振るうことを胸を張って役立てることがあるなら、それは、大切な人々の命を守ること、それ以外にはないのだから。
半左衛門は、厳かにうなづいた。
この男は今は故人となった篠塚龍右衛門には及ぶまい。
しかし、そのようになる伸び代は十分にあるように思われた。
冬吉がそう認めるなら間違い無いと思うのだ。
栗原は考えた。
直接に言われなくとも、冬吉の言葉の真意はわかった。
自分が冬吉に敵わなかったのは、技の優劣ではなかった。
冬吉が本気になり、刃を突きつけられた刹那、怖気付いたのだ。
あの時、己が人を殺した時の風景が思い浮かんだのだ。
自分が見たものではない。
おそらくは、殺された男たちの目に浮かんだ、自分の姿である。
今は、同時に別の風景も浮かぶ。
自分が娶ろうとしていた、あの娘が、死の前に見たであろう光景である。
あのような思いを自分の大切な人々には二度とさせたくはない。
ならば、自分が人を守れる強さを持たなければならない。
「是非に、私如きでお役に立つならば、お引き立ていただきたい」
栗原は半左衛門に向かって平伏した。
「いいでしょう。とは言え、用心棒はもう一人いて、一緒に働くその男にも了承を取らねばならないのです。冬吉さん、こちらの御仁を預かってもらえませんか? 次の休みの日まで」
草間の店休日は再開後も十日に一度と決まっている。
その休みの日まで、栗原を預かり、柏屋に連れて来いということだ。
「承知いたしました。お静婆、部屋の用意を」
「あいよっ!」
お静はばたばたと階段の登っていった。
新しい草間の二階には以前と同じように、冬吉が住んでいるが、拡張した店舗の面積はかつての三倍、よって、他に複数の部屋がある。
うまく店が回るようなら、窓側の部屋は客席として使っても良いし、飲みすぎたり、帰りの遠い客を泊めることもできる。
おそらく、今日はいないが長谷川平蔵などはその部屋の常連となることであろう。
栗原周平は、めでたくその部屋の客第一号となった。
翌朝、お夏はいつもの習慣で、店の前の掃除を始めた。
最近はお深雪も手伝ってくれるので、実に楽である。
「お深雪ちゃん、初日はどうだった?」
「大変だけど、楽しかったです。杉屋もいろんな人が来てましたけど、草間は武士も町人もみんな仲良くて」
お深雪はお夏とともに杉屋に通うことで、料理屋での仕事の基礎を仕込まれたわけだが、お夏の見立てでは、なかなかに接客に向いている。
まだ子どもだから、みんなまなじりを下げて甘く見てくれるというのもあるが、意外に気配りが細かく、何より働き者であった。
そして、仕事を楽しむことができる。
冬吉が考えるように、お深雪には多くの人々と触れ合い、世の中のことを広く見知った上で、将来を自分で決めて欲しいと思う。
仇討ちを無理やり辞めさせても意味はない。
冬吉もお夏も、望んでいるのは、お深雪の幸せなのであるから。
談笑しながら掃除をしていると、店の戸がすっと開いた。
伊八が一世一代の仕事として建てたものだから、軋んだりがたがた音を立てることもない。
「おはようございます」
お深雪が元気に挨拶した相手は、栗原周平であった。
栗原は次の休みまでは草間で預かることが決まり、すぐに二階の部屋に上がって寝ていたのだ。
「ああ、おはよう」
「お加減はいかがですか?」
「うむ。お陰様で久々に気分が良い」
本来、あまり口数の多い方ではないのだろう。
お夏の問いかけに答えながら、栗原は草間の二階を見上げた。
『草間』
そう大きく書かれた看板が掲げられている。
字体は勇壮にして優美。
なかなかの手であった。
「私はあまり書には詳しくないが、この字はいいな」
「私も好きですし、冬吉さんも気に入ったようです。実はこれ、辰蔵さんに書いてもらったんですよ」
お夏の言葉に周平は驚いた。
長谷川辰蔵は後年、父平蔵の死後に家督を相続し、最初は御書院番、翌年には小納戸となる。
この小納戸という役職は、将軍や将軍世子の身辺で働く小姓とよく似た仕事であるのだが、特技をもって採用されるという特色を持つ。
辰蔵の場合のそれは実は剣術ではなく、書の腕前であった。
草間の看板を誰に書いてもらうかというのは結構揉めたのである。
仗助は文字に堪能だが、看板に書くような大きな書を書くのは得意ではない。
お夏はなかなか達筆だが、やはり大きな物は苦手である。
何より、こういうものは武士に頼んだ方がはくが付くというものだ。
色んな人々に相談してみたが、最終的に行き着いたのは辰蔵であった。
剣客らしく、鋭さと力強さを兼ね備えた上で、文字の端々には繊細さも窺える。
辰蔵自身のことを表現しているようでもあり、また、剣客にして絶品の肴をこさえる包丁人たる冬吉のことを書いているようにも見える。
「ほう、辰蔵殿は書にも堪能なのか」
「はい。剣術も好きだけど、こちらの方が実はよりお好きだとか」
栗原は辰蔵の意外なところを知って、ふと、笑ってみせた。
「言われてみれば、立合いの時以外の落ち着いた感じは、そっちの方が似合いそうだ」
考えてみれば、冬吉も剣客にして包丁人、剣術一筋というわけではない。
そう言えば自分には剣しかなかった。
特にあの娘を亡くしてからは、剣の道のみを求めて生きてきた。
それでは、道を極めるには至らないのかもしれない。
一心不乱に道を求めるというのは、道一本、前だけを見て進めということではない。
道は一つであっても、そこを歩みながら周りから多くのことを学びながら進むことだ。
栗原周平は、今、初めてそのことに気づいたのである。
ならば、同じ剣術でのこと、道場での稽古はできずとも用心棒として、『人を守る剣』を磨いてみると言うのも、決して寄り道ではない。
「お夏殿、お深雪殿、ありがとう。店先に倒れていたのを見つけてくれたのはお二人だと聞いた」
周平は年端も行かぬ二人の娘に深々と頭を下げた。
心からのものであった。
「えっと、栗原様、ここは居酒屋、誰が尋ねてきもお客様なんです。おもてなしを欠くことはありませんよ」
にこりと笑ってお夏が言う。
隣でお深雪が嬉しそうに頷いた。
「さ、そろそろ朝餉です。今日は冬吉さんが当番ですから、間違いなく美味しいものが食べられますよ」
草間の従業員の朝飯は、冬吉、仗助、熊七が当番制で作っている。
新しく出す品の吟味する場であるから、毎日違う惣菜が食べられるのだ。
「ほほう、そいつは楽しみだ」
栗原はもう一度、大きな声で笑った。
冬の初めの少し寒い朝、そよそよと風が頬を撫でた。
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