剣客居酒屋 草間の陰

松 勇

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辰蔵駆落騒動始末

青天の霹靂

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「弥四郎親分、一体どうなさったんです?」

 お夏は心底心配そうに尋ねた。
 寝床から起き上がれない弥四郎の顔はすっかやつれている。
 とは言え、客の顔から体調を把握して、肴や酒の飲ませ方まで調整するお夏の見立てでは、病気というわけではない。
 気鬱、いわゆる心労と言われるものであろう。

 やはり冬吉は、弥四郎の子分には顔を覚えられてなかった。
 お夏の顔を見て、中に通してくれたのであるが、そのお夏にしても、ここまでやつれているのには驚いた。
 顔は青黒く、頬はこけ、飯も喉を通らないのか、すっかり痩せている。

「こんな姿で申し訳ねえ。わざわざ見舞いに来てもらって悪いが、もう、俺は隠居して引きこもろうと思う」
「一体どうしたというのですか?」

 こんな気弱な弥四郎を見たことがない。
 いつも、大酒を飲み、それでも悪酔いするということもない。
 他人の数倍は肴も口にして、豪快に笑う男なのだ。
 思わず冬吉も疑問を口にせずにはいられなかった。

「娘が……」
「娘さん?」
 
 お夏も弥四郎に娘がいるのは知らなかった。

「娘のお絹が駆け落ちしちまったんだ」

 力なく、弥四郎は涙を溜めながら言った。

 溺愛していたのであろう。

 当時の結婚は親の反対を押し切ってなどと言うのは考えられない。
 しかし、こう言うことについては、人の心は時代によって差して変わるものでないと思われる。
 どうしても好きな相手がいて、親が認めてくれない時は、相手と手と手を取り合って、逃げてしまうことは確かにあった。

 しかし、現代とは違い、親の庇護なしに若い者が駆け落ちし、どこかで暮らすと言うのは相当に厳しいものであった。
 それを娘がやってしまったとなれば、淋しいだけでなく、心配で胸が張り裂けそうになると言うのもわからないではない。

「どうしても許せない相手だったんですか?」
「いや、好き合っている男がいることも知らなかった。それも、あの……」
「あの?」
「長谷川平蔵様のご子息とだなんてっ!」

 弥四郎は床に突っ伏して泣き始めた。
 冬吉もお夏も驚きのあまり、口を開けたままボカンとしてしまう。

 相手が武士、それも弥四郎自身が心酔する火盗改頭かとうあらためかしら、長谷川平蔵ともなれば、ヤクザ稼業の弥四郎と言えど抗議することもできない。
 寝込んでしまいたくなる話ではある。


 しかし、お夏の知る限り、平蔵には二人のせがれがいるが、下の方はまだまだ子どもである。
 となれば駆け落ちの相手は、お夏も冬吉もよく知る剣術狂いの若者、平蔵の嫡男、長谷川辰蔵ということになる。

 もちろん、そんなことは俄に信じがたい。
 辰蔵は駆落などという大胆なことをする男ではないし、中村雪枝と言う想い人がいるのだ。

 そもそも冬吉は、水野家の道場で昨日も顔を合わせている。
 変わった様子は何もなかったし、相変わらず、稽古に集中している時以外は、目で雪枝のことを追っていた。
 なんとも考え難い。

 お夏は立て続けに質問をした。

「いつ頃家を出たのですか?」
「もう、十日は経つ」
「駆け落ちとわかったのは?」
「昨日、深川の書物問屋の小僧が手紙を持ってきたんだ。探さないでくれと書いてあって……」

 どうもおかしい。
 何日も経ってから、手紙で駆け落ちを知らせるだろうか。

 お夏は不審に思ったが、それ以上問い詰めるわけにもいかない。
 所詮は他人なのだ。
 


 冬吉とお夏は、号泣し始めた弥四郎に呆れながら、辞去した。

「面妖なこともあるものですね」
「どう考えても辰蔵さんが、雨徳の娘さんと駆け落ちというのはおかしい。まあ、直接人柄を知らなければ信じてしまうのかも知れないけれど」

 現代のようにメディアの発達した時代ではない。
 有名な人物といえど、ほとんどの場合は顔を知らないし、人柄も直接間接の知り合いにしかわからない。
 有名人の意外なエピソードは現代でも一種の娯楽として享受されてしまうから、長谷川平蔵の息子が駆け落ちしたとなると、大変な評判になることだろう。

 瓦版屋かわらばんやが騒ぎ出してもおかしくない。


「あっ、お夏っちゃあんっ!」
「あれ、冬吉さんとお出かけぇ?」

 いつもの追っかけ娘たちである。
 事あるごとに冬吉に何某かの厄介ごとを持ち込む彼女たちは、もし、仲間や知らない娘が冬吉と連れ立って歩いていれば、大騒ぎする事だろう。

 しかし、なぜかお夏だとそうならない。
 店の奉公人で、冬吉に特別な感情を抱いている様子がないからなのか、むしろこの二人が一緒にいると、別の嫌がらせを目論んでいるかのようにも思える。
 冬吉は動揺するが、お夏は全く動じない。

「浅草にちょっとね。ところで、最近なんか面白い話はありません?」

 巷の噂を聞き出すのに、追っかけ娘たちほどの適任はいない。
 それしかすることがないかのような、噂好きの暇人であるからだ。

「そうそう!あのね、あの、あの辰蔵様がっ!」
「駆け落ちしたんだってっ!」

 お夏と冬吉は顔を見合わせた。
 身内が駆け落ちしたなどと言うのは、一家の恥である。
 当然、雨徳の一家では子分たちに箝口令が敷かれている。
 それが昨日の今日で追っかけ娘たちにまで広まるものだろうか。

「その話は誰から聞いたんですか?」
「誰って言うか、みんな知ってるよ。この辺の人はみんな」

 お夏は冬吉ともう一度顔を見合わせた。



 夕方近くになってはいたが、冬吉はその足で清水門外の役宅に向かった。
 根も葉もないうわさであっても、嫡男が駆け落ちしたなどという話が広まれば、長谷川平蔵にとっては面目がつぶれてしまう。
 とりあえず、耳には入れておこうと思ったのだ。

 役宅の門前まで行き、庭の方に通された。
 庭からは怒鳴り声が聞こえてくる。

「うちの娘に懸想けそうした若造が、他の娘と駆け落ちとはどういう了見りょうけんだっ!? お前んとこの倅はいったいどういう男なのだっ!」
「ま、まて、駆け落ちなんて知らんぞっ!昨日も道場帰りにここに立ち寄っているが、剣術のことしか話さないっ!ただの剣術狂いだぞっ」

 ものすごい剣幕の中村丹斎が長谷川平蔵に食って掛かっている。
 噂は丹斎の住む八丁堀にまで広がっているということだ。

「あ、ふ、冬吉、よく来た。せ、倅は駆け落ちなどしていないだろう?」
「はあ、私も昨日会っておりますが、何も変わった様子はありませんでした。が、噂はすでに江戸中に広まっているようですね」

 平蔵も噂を知ったのは今日。
 見回り組の同心たちが耳に入れてきたのだと言う。
 とりあえず、冬吉が知る一通りのことをその場で話した。
 辰蔵には使いを送り、こちらに向かわせているという。


 それを待っている間、とりあえず、ことの異常さを考えてみる。
 こういう場合は、間違いない事実と、確認の取れていないことを、しっかり分けて考えねばならない。

「まず、確実なのは、雨徳の弥四郎親分の娘、お絹が十日前からいなくなったことですね」
「次に、昨日あたりから噂として、それが辰蔵と駆け落ちしたからだと、広めたやつがいるってぇことだな」

 言うまでもなく、火盗改頭たる長谷川平蔵、物事の真相を洗い出すことに関しては当代随一の実力者である。
 また、その平蔵は冬吉の察しの良さを高く買っていた。

 この奇妙な事件については、火盗改を動かすことは難しい。
 ここは頭を下げてでも、冬吉や丹斎など、市井の協力者に動いてもらうしかなかった。



 話の意外性や滑稽さに埋もれてしまいがちだが、これは駆け落ち以前に、雨徳の弥四郎の娘、お絹の失踪事件なのである。

「お絹が居なくなって得をしたのは、浅草で雨徳一家と覇を争う黒羽根一家。しかし、それはたまたまそうなっただけに思われますね」
「娘を拐かして相手の親分の覇気を失わせるなんて、回りくどすぎるわなぁ」

 まだそこにいる丹斎も頷く。
 娘を持つ父親としては、雨徳の弥四郎の気持ちもよくわかる。
 しかし、落胆して覇気が無くなるか、怒髪天を突く怒りで、凄まじい反撃を受けるか、人の心は予想がつかない。
 回りくどい上に面倒な仕掛けで、結果もどうなるかわからないとなれば、普通はそんなことはしないだろう。

「するとやはり、自分で家を出ていったのかだか、お絹とはどんな娘なのだ?」
「私も会ったことはないのですが、大人しい娘で、あまり外に出ることもなかったようです。読み書きは堪能で、いつも何某かの書物を読んでいたとか」

 ヤクザ稼業とは言え、香具師の元締めともなればそれなりに裕福ではある。
 書物を読み漁るぐらいの贅沢は可能であろう。

「そんな大人しい娘が駆け落ちとはなぁ。それもうちの倅と? どこで知り合うってんだよ」

 今更ながら、話の荒唐無稽さに呆れる平蔵であった。



 辰蔵は何も知らなかった。
 どうやら、浅草からは遠い、目白台の長谷川家の屋敷までは噂は回っていないようであった。
 
「私もなんのことだかさっぱりでして、お絹と言う娘も知りませんし、まして駆け落ちなど」

 困惑はしている辰蔵であるが、こう言う時はむしろ正々堂々としていた方が良いと考えているらしい。
 特に浅草、本所界隈を正々堂々と歩けば、不都合な噂など、根も歯もないこととして消え去るに違いないと言うのだ。

 人の噂も七十五日。
 辰蔵は超然と構えており、呑気にすら思えた。
 世の人々からの評価など歯牙にも掛けない。
 悪評など根も葉もないものなら、いずれは忘れ去られるし、自分の思うがままに生きて恥じることはないと考えているのだ。

 

 辰蔵はそのまま清水門街の役宅に泊まり、冬吉と丹斎はそれぞれ家路に着いた。
 辰蔵も冬吉も、翌日は水野家の道場に行くことになっている。
 冬吉は元々は三日に一度しか稽古をしていなかったが、店をやってない今は、お深雪を伴って一日おきに通っているのだ。


 翌日の道場にはなぜかお夏までついてきた。
 風割り蒸しが大好きな水野老に、それをお届けすると言う建前でだ。
 仗助と熊七を早朝から叩き起こして、こさえさせたのである。
 長屋には店の様な大きなかまどはないので、なかなか大変なのにだ。


 稽古はいつも通りに行われた。
 雪枝がお深雪を含む娘たちを、辰蔵が水野家の若者たちを、元の門弟や経験者は木村を冬吉が手伝って教える。
 辰蔵はいつも通り懇切丁寧に、若者たちに基礎を教えていた。
 同じ流派の若手一番の男であるから、指導もお手のものであった。



「お深雪ちゃん、水野様がお話ししたいって。風割り蒸しもいただけるよ」

 子供に聞かせられない話というのがある。
 お夏は冬吉たちからお深雪を引き離すために、水野老にまで頼み込んで一芝居を打ったのである。
 そこまでやる必要があるのかは怪しいが、とりあえず、何かと聞かせられない話があるのでありがたかった。



「ところで辰蔵殿」
「はい」

 辰蔵は雪枝の呼びかけに何気なく答えた。

「香具師の娘と駆け落ちしたとか」
「えっ、あっ、いえ、その」
「いやぁ、辰蔵殿も大人しく見えて随分と大胆なことを行うものだと思いました。それで何もなかったかのように道場に来るのですから、これまた凄い」

 いかにも感心したかのように、雪枝は何度も頷きながら言う。
 辰蔵は真っ青になりながら弁解しようとするが、パクパクと口を動かすだけで声が出ない。
 
 動揺の仕方が半端なく、先日の超然とした様子とは全く違う。

 なるほど、雪枝の耳にさえ入らなければ辰蔵はどうでも良いのだ。
 しかし、今はその急所に的確な一撃が入ってしまった。
 
「ゆ、雪枝殿、そ、それは、ね、根も歯もない噂と言うもので……」
「そうですか。でも、火のないところに煙は立たないとも申しますが」

 確かにそうなのだが、今回の場合は、火がついているのは女の方で、辰蔵は風下で一方的に燻されているだけである。

 とは言え、これは雪枝もちょっと意地悪過ぎはしないか。
 辰蔵の想いに未だに気づいていないのだとしたら、雪枝は壊滅的に鈍い。
 気づいていて、こんな言い草をしているのなら、相当に人が悪い。

「ええと、浅草あたりから広がっている噂ですが、根も歯もないものですよ。相手の娘が姿を消したのは確かなのですが」
 
 冬吉なりの必死の手助けである。

「そうなのですか。何とつまらない」

 もう、やめてあげてほしい。
 辰蔵は気の病にでもかかったかのように、ぐったりと項垂れている。
 滝のように変な汗を流し、魚のように口をパクパクとしていた。

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