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辰蔵駆落騒動始末
浅草遊び
しおりを挟む「あの、お夏さん、私、剣術の稽古をしないといけないんですけど」
「あら、昨日も道場に行ったでしょう? 冬吉さんだって毎日行ってるわけじゃないんだから、剣術ばかりしていれば良いわけじゃないよ」
お夏は朝からお深雪を連れ出し、浅草に遊びに来ていた。
墓参りの旅から戻ったお夏は、数日の留守の間に、すっかり冬吉や熊七がお深雪と打ち解けいるのに、妙な嫉妬を覚えたのである
人付き合いが苦手な筈の冬吉が手を引いて、一緒に水野家の道場に通ったり、人見知りの激しい熊七が、覚えたばかりの風割り蒸しを作って振る舞ったりしている。
特に、熊七が長屋の空き部屋にしまっていた、小さい方の蒸籠まで引っ張り出して、お深雪のおやつをこさえたのには驚きを隠せない。
なにか、自分だけ出遅れたような気になってしまう。
とにかく早く仲良くならなければと、強引にお深雪を連れ出したのであった。
「あっ、団子屋が出てる。食べていこっか」
「お夏さぁん、ついさっき朝餉をいただいたばかりですよ~」
これでは、どちらが年上か分かりはしない。
いつもわけ知り顔で、同年輩の追っかけ娘達には、キセル職人佐近次の妻となったお里のように、姉御肌で付き合うお夏であるが、それは仕事の顔である。
羽を伸ばす時のお夏は、少々理屈っぽいところはあるものの、年相応、追っかけ娘達と変わらなぬ、箸が転がっても笑いだす年頃なのである。
冬吉は、お夏や仗助のように墓参りに行けるようなゆかりの地もなく、熊七のように手伝いに行くところもなかった。
店の主人なので、新しい店を建てている大工達に顔を見せたり、差し入れの飯を作るが、それ以外に仕事はない。
故に剣術の修行以外は、あちこちのご機嫌伺いや、食べ歩き修行ぐらいしかすることがないのだ。
とは言え、そう言うことは嫌いではないので、今はほとんど毎日どこかに出掛けている。
評判の店を探して味を見にいくこともあれば、まだ扱ったことのない食材を求めて、河岸を彷徨くこともある。
だが、今日はハズレであった。
噂に聞いた上方風の寿司の店の味は悪くなかったが、もしやと思って期待していた、好物の鮒寿司や鱒寿司は扱ってなかった。
やはり、自分で工夫して作るしかないのだ。
日本海側にある冬吉の故郷と江戸ではどちらも鱒や鮒は獲れるが、どうも味が違う。
冬吉好みの寿司にはならず、うまく作るための工夫を続けていた。
その手がかりを求めていたのだが、今日は収穫がない。
他の寿司はいくつか口にしたが、がっかりして腹が膨らむ前に出てきてしまったのだ。
冬吉は見た目の割に大食いである。
そもそも食うのが好きだから料理に熱中したのである。
朝餉を抜いて出てきたので、どうしても食い足りない。
冬吉は別に高級なものばかり食い漁る男ではないから、ざっけない食い物でも構わなかった。
足は自然と浅草寺の門前町に向かう。
浅草寺の門前は大変な賑わいであった。
浅草の裏側には吉原がある。
江戸出張中で羽目を外したい武士たちなどは、吉原に向かうし、女性や冬吉のように吉原に興味を持たぬ者たちは浅草寺をお参りしつつ、門前の店を冷やかし、見せ物や食い物を楽しんだりしていたのだ。
その、浅草門前の店を出していた人々の中には、香具師と呼ばれる者たちがいる。
香具師は、寺社の門前で辻医者や薬を売る商売人のことを意味していた。
この、寺社の門前で商売をする者というのは、無宿、いわゆるアウトローな人々が多い。
実態として、この物語でここまで『破落戸』と記した者のうち、武士や武家奉公人以外の者の中には、こうした無宿たちを含んでいる。
とは言え、無宿たちも生活のある普通の人々には変わりなかった。
荒々しい、ヤクザ者が多かったのも確かであるが、仁義を重んじ、周辺住人に慕われる者もいないではない。
冬吉の知り合いにも、そんな香具師の親分がいたりする。
「テメェっ! 誰の許しでここで商売してやがるっ!」
「ああっ!? うちの親分に決まってるだろうがっ?!」
「ここは雨徳一家の縄張りだっ!」
火事と喧嘩は江戸の華。
こんな言い合いは、日常茶飯事である。
冬吉の記憶では、この辺りは確かに、雨徳の弥四郎と言う親分の縄張りであったはずだ。
弥四郎はたまには草間にも顔をだすが、香具師の親分としてはかなり真っ当な男で、仁義に厚く、組の統制もしっかりしている。
真面目な商売人の気質でもあり、手下にもいかがわしい商売をさせない。
江戸では絶大な人気を持つ、長谷川平蔵を大変贔屓にしており、犯罪の捜査にも密かに手を貸すことすらある。
他の組との間でも、できる限り話し合いで揉め事を解決し、一目置かれている存在だ。
そのため、縄張り荒らしをするような組というのもあまりなかったはずであった。
「知るかっ! テメェらの親分が寝込んじまって役立たずになったから、うちの親分がこの辺を盛り上げてやろうとしてんじゃねぇかっ! 」
香具師の仕事は一応、寺社仏閣の非日常的な盛り上がりを演出することが含まれている。
親分が寝込んで、組の仕事が回らなくなっては、寺の方も困る。
だから、助けってやってるんだと言う言種だが、さすがに無理はあろう。
親分が倒れたぐらいでぐらつくほど、雨徳一家の手下たちはやわではない。
取っ組み合いの喧嘩が始まった。
いつの間にか喧嘩をしている二人の周りに野次馬が集まり、遠巻きに囲むようにして見ている。
これが江戸庶民の悪いところ。
喧嘩が大好きで、すぐに野次馬が集まってしまうのだ。
冬吉もただの喧嘩であれば、別に気にもしない。
店の中や近所での揉め事ならともかく、浅草では首を突っ込むつもりはない。
目立ちたくないのだ。
本所では、もう日常茶飯事なので諦めたが、ここで喧嘩の仲裁などをして目立ってしまうと、この辺りにまで、追っかけ娘みたいなのが量産されるようになってしまう。
巻き込まれる前に、さっさと離れていくのが得策であった。
「あれ? 冬吉さんっ!」
そそくさと離れようとした冬吉に、声をかけてきたのはお深雪である。
片手に団子の串を持ち、もう片方の手はお夏に握られていた。
お夏も団子の串を持って、口をモゴモゴしている。
それを飲み下し、若干咳き込んでから、いつもの寸鉄人を殺す一言が口から出た。
「冬吉さん、お得意様が難儀しているのに、逃げだすのは不義理ではありません?」
弥四郎を接客していたのはお夏である。
お夏の記憶力は高く、一見の客も顔と名前は必ず覚えているし、二回目以降にはその生業まで把握してしまう。
好物などは、顔を見ただけで予想がついてしまうと言うのは、もはや異能としか思えない。
つまり、冬吉は逃げるに逃げられない。
確かに、常連が難儀しているのに逃げようとしていたからなのだ。
まして、お深雪がいる。
この娘の目の前で、お夏に論破されたまま逃げようなどとは、できるはずもなかった。
せめてちょっとはやり返したい。
冬吉は無言でお夏の手から団子の串をもぎとった。
一つ残っていた団子は自分の口で始末し、わざわざ懐紙で拭ってから構える。
雨徳一家の子分ではない方が馬乗りになり、相手を散々に叩きのめしていた。
野次馬の輪から少し離れているので、誰もこちらを見ていない。
好都合であった。
「死に晒せっ!」
上になっている男、勢いあまって叫ぶ。
「やっちまえっ!」
喧嘩に興奮しただけで、事情も知らぬ野次馬も叫ぶ。
さすがにやりすぎであろう。
相手の鼻はもう潰れている。
「い、いだぁっ!」
上になっていた方の男が急に飛び上がった。
尻に団子の串が突き刺さっている。
団子の串、竹串であるから、釘の重さも、針の鋭さもない。
それでも、冬吉の『打針・旋』の技で投げたため、そこそこ深く尻の肉に食い込んだ。
怪我というほどのこともないが、痛いものは痛い。
野次馬から爆笑が湧きあがった。
指をさして笑われた男には、すごすごと尻を抑えて逃げるしかない。
「凄いですね。団子の串であんな……」
「子供の前で、あんまり下品な技は使わないほうがいいのではありません?」
草間の娘二人の感想には何も答えず、とりあえず背中を押してその場を離れた。
冬吉も、ここで目立っては、尻を刺された男と同じぐらい恥ずかしいのだ。
結局、冬吉たちは、参道からは少し離れた小体な料理屋に入って、昼餉を済ますことになった。
露店の食い物はお預けである。
どこで誰が見ていたかわからないので、一旦人目を避けねばならなかったのだ。
という訳で逃げ込んだのは、参道から少し離れたところにある知人の店である。
元は柏屋で銀次郎の前に煮方を務めていた男、寛助の店、杉屋だ。
杉屋は料亭というほど大きくも高価でもないし、居酒屋と言うには手の込んだ料理が多く、小綺麗である。
今日で言う小料理屋に近いものだが、当時は小料理屋という言葉はない。
看板には『即席料理 杉屋』と書いてある。
この場合の『即席』とは、今日のインスタントのような意味ではなく、席についてからの注文で料理を出すことを意味する。
料亭は予約制で、料理もコース料理のようにあらかじめ決まった献立のものであるから、それとの対比でこう呼ぶ。
この定義で行けば、居酒屋も即席料理の店には入るし、改築後の草間は規模も内容もよく似たものになる。
しかし、冬吉はあくまで草間は居酒屋、居酒をする店と拘っている。
お夏は大して変わらないのにムキになる冬吉を面白がっていた。
結局、団子一個を取られたお夏が、お深雪と二人して冬吉に奢らせる気満々で、ここに連れて来させたのである。
元煮方の寛助は出汁の取り方では銀次郎に一歩譲るも、煮物の味付けには非凡な腕を持つ。
特に煮魚が得意で、今日は良い鰈が入ったとかで、鰈の煮付けがうまい。
鰈は冬の産卵期なら子持ちのものが出てきてうまいが、夏の物も悪くない。
娘二人は団子を食べたあとだというのに、丼飯と一緒にをバクバクと口に運んでいった。
醤油と生姜の加減が絶妙で、飯が進む。
「へえ、雨徳の弥四郎親分が寝込んでいるというのは聞いてたけどね」
そう言ったのは、寛助の妻、お杉である。
店の名に妻の名をそのまま付けたのだ。
寛助とお杉は柏屋の包丁人と女中で、大恋愛の末に半左衛門の許しを得て一緒になった。
「縄張りに手を出したのは、黒羽根一家だな。元々目の敵にしていたところはあったが、弥四郎親分には敵わないと大人しくしてやがったんだが」
勘助は腕組みをして、顔をかきながらいった。
黒羽根一家も浅草を根城にする香具師の組である。
あまりよくない噂を聞くことが多い。
「冬吉さん、これは雨徳の親分のお見舞いに行かないといけませんね」
「あ、うん。そうだね」
それは考えていたのだが、お夏の魂胆が見えない。
「私も行きます」
「へ?」
「冬吉さん、雨徳の親分の顔、覚えてます?」
冬吉はほとんど厨房に篭って仕事をしている。
雨徳の親分のような一角の人物が店を気に入ってくれたなら、顔を見せて挨拶ぐらいはするが、確かにはっきりと顔を覚えているほどではない。
「私が行かないと、門前払いもありますよ。何人かは組の方も連れてきたことがあるので、私なら顔が効きます」
つまり、冬吉が顔を覚えていないだけでなく、冬吉の顔も覚えられてないかもしれないのだ。
「しかし、子どもまで連れて行くわけには……」
さすがに年端もいかない娘を、真っ当な方とは言え、香具師の元締めのところに連れて行くのはどうかと思うのだ。
が、それよりもお夏が一緒だと自分の対応について何を言われるかわからないというのが、本当のところなのだが。
「それなら、私がお深雪ちゃんを送ってってあげるよ。ついでに大道芸でも見ていくかい?」
お杉としては気を遣って言ったのであるが、冬吉にとってはありがた迷惑である。
「ありがとうございます!お深雪ちゃん、お杉さんに浅草を案内してもらって楽しんできてね」
杉屋も昼を過ぎれば、あとは夕刻までは暇なのだ。
可愛い娘に浅草を案内するぐらい朝飯前である。
「と、いう訳で、私と冬吉さんで雨徳の親分の様子を見に行きましょう」
にっこり笑うお夏の顔は、やはり意地悪なものであった。
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