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蟷螂闇始末
面倒くさがりなのに苦労性
しおりを挟むお詩乃は怪訝に思った。
半左衛門の機嫌が妙に良いのである。
長年、自分の用心棒を務めてきた篠塚龍右衛門を失い、冬吉には知られたくはない己の闇を感づかれたかもしれない。
どちらも、この主を憂鬱にさせるに足ることである。
お詩乃も、半左衛門との付き合いは長い。
およその心の動きは察することはできる。
巨大な闇を抱えつつも、情の熱い人物であるのに、今、上機嫌であるのは不思議だった。
それは、隣にいる百田虎之助も同意見のようである。
この男も、全く顔に出すことはないのだが、普段ならうずくまって顔も上げず、微動だにしないところを、視線だけ動かして、チラリと主を見て、僅かに首をかしげた。
とは言え、まずは報告である。
「逃げた刺客を深川まで追い、今回の段取りをしたと思われる赤首の勘兵衛およびその手下、五人を始末して参りました。刺客は佃島まで逃げましたが、逃げ込み先には見張りをつけています」
「良いでしょう。手負の刺客はそのままで。こちらの力を喧伝できる。勘違いも含まれますがね」
江戸周辺の村々に拠点を置く凶賊たちに対して、半左衛門の組織の方が小規模である。
曲がりなりにも、力の均衡を保っているのは、百田率いる仕込みの情報網と、数名しかいない仕留めの中でも、最強の者、蟷螂への畏怖、そして半左衛門自身の知謀によってである。
たとえ、半左衛門暗殺の目論見が失敗したにしても、用心棒や仕込み数名の被害で弱体化したと思われてはならない。
報復は感情の発露ではなく、傾きかけた均衡を崩さぬために必要なことであった。
そして、望んでのことではないが、謎の剣客、冬吉こと草間冬士郎の存在は相手を混乱させることだろう。
半左衛門には、冬吉を仕留めにするつもりはないが、相手がそう勘違いしてくれる分には都合が良い。
お詩乃の感情のない、能面のような顔が、僅かに険しくなった。
元々細い目がさらに、鋭くなる。
冬吉を仕留めにはしないと言いながら、半左衛門はなし崩しに、真兎田との戦いに巻き込もうとしているのではないか。
その疑問は邪推であると分かっている。
だが、今は、冬吉が決定的ではないにしろ、半左衛門の組織に気づきかけていることが問題だ。
冬吉は、真兎田の剣客たちが、己の過去の業が産んだものであることに、思い悩むことになるだろう。
「お詩乃さん、どうやら親や兄姉が余計に気を使うのは、思わぬ落とし穴に落ちることがあるようです。もう彼も大人です。自分でどうにかするでしょう」
いきなり言われた言葉に、お詩乃は、絶句せざるを得なかった。
「冬吉さんは、自分で全て解決するでしょう。私やあなたが悩むことではない」
お詩乃は、何も言えなかった。
冬吉の強さは、自分が一番知っている。
にもかかわらず、冬吉のためにと自分がやっていることはなんなのか。
「私はあなたに感謝している。あなたがいなければ、真兎田流と組んだ奴らとは勝負にもならなかった。でも、冬吉さんはそんなことと関係なく、包丁人として、剣客として、伸びていくのです。」
お詩乃は何も言えなかった。
今回のことは、冬吉にとって経験したことのない出来事のはずである。
だから、巻き込みたくなかったのだ。
だが、冬吉も二十四。
いい大人の年頃である。
自力でどうにかなることを、姉の立場の自分がどうこうするのは、過保護ではないのか。
「まあ、問われない限り、この仕事のことを教えるつもりはないし、あなたのことは私の口から話すことはありません。そこは安心してください」
「は。で、今後はどのように」
話を元に戻すために、真面目腐って百田が言った。
受けた損害に対し、釣り合いを保つために、間髪入れずに報復を行ったわけだが、相手の方が回復力がある。
関東近隣に拠点を持つ凶賊は数え上げればキリがないし、真兎田の剣客については、いったい何名いるのかも分かっていない。
「まずは人探しが必要でしょうな。用心棒の剣客、冬吉殿と言うわけに行かないのであれば、十二分に腕のある剣客が一人は必要。仕込みについては、修行中の者が何名かございますので、仕上がり次第使います」
虎之助は、冬吉を仕留めか用心棒として、なぜ使わないのかと疑問に思っている。
徹底した現実主義者、諜報を任とする者が考えれば、あれだけの剣客を使わない手はない。
この男が、一応に納得しているのは、今回の件で、冬吉を最大の切り札として温存するのが、得策と思ったからである。
だが、仕込みはともかく、用心棒については早急に補充が必要であった。
「とは言え、篠塚殿ほど、物わかりの良い用心棒というのはそうそうは」
「では、しばらくの間は、私がここの屋根裏に潜むことになりましょう」
「……」
今日は刺客が来ることがわかっていて、一晩だけのことであるから良かったが、長期に屋根裏だの床下だのに、女であるお詩乃が潜んでいるとなると、これはまた苦しい。
「いや、当面は大丈夫でしょう。とりあえず、店の周りに仕込みを増やしておけば」
「はあ、すでにその様に手配はしておりますが、用心棒の当ては?」
半左衛門の逃げに、虎之助がぴしゃりと釘を刺した。
半左衛門は困ったが、ここで少なくとも、用心棒には当てがあると言わない限り、お詩乃は本気でしばらく屋根裏に潜むことになる。
そう言う強情な女なのだ。
一方で、どこか迂闊なところがあり、ちょっと意地悪をするとその反応が妙に可愛い。
ついつい、からかいたくなってしまう。
「そうですねぇ、ああ、そうだ。冬吉さんの店には、江戸中の剣客が出入りするようになっているそうです。冬吉さんなら、良い用心棒を斡旋してくれるでしょう。それぐらいなら良いでしょう?」
冬吉の名前を出すたびに、目がキツくなるお詩乃を愉快そうに眺める半左衛門を見て、虎之助は小さくため息をついた。
主人のこれは悪いくせだと思うのだが、お詩乃も百田には感情を押し殺すように言っておきながら、これである。
「お詩乃さんは、しばらく姿を隠してもらいましょう。敵には、あなたがどこにいるかわからないと言うのが一番恐ろしい。仕掛けた直後に突然現れて頭を殺されたとなれば、どこにいるのかわからないと言うのが一番不気味です」
大倉十兵衛を殺したのが蟷螂のお詩乃であることは、相手方は知らない。
当の本人が死んでしまったので、知り用がないのである。
知っているのは、暗殺失敗直後に深川の拠点を襲われ、次郎左以外は全員が殺されたこと。
これについては、次郎左の口から蟷螂の仕業であることが伝わるはずである。
半左衛門の組織は戦力では敵方に全く及ばない。
複数の凶賊の連合体とも言えるものに、刺客の技、真兎田流の剣客を加えた集団と、まともにやりあえるような勢力は持っていないのである。
半左衛門にあるのは、情報網である仕込み、数人しかいない刺客の仕留め、あとは火頭改方頭、長谷川平蔵との密かな協力関係だけが武器であった。
実態としては、戦えるものではないのだが、そこに、最強の仕留め『蟷螂』の役割がある。
真兎田の剣客であっても、『蟷螂』には恐怖心を抱く。
無視し得ない不気味な存在であり、神出鬼没の刺客がいつどこに出てくるかはわからない。
凶賊たちも、蟷螂に殺されたくないので、真兎田の剣客を護衛につけることを求めたりする。
敵も手数はいつもギリギリなのだ。
こうして、半左衛門は『蟷螂』の虚名を用いることで身を守り、敵方との拮抗状態を作っている。
今は、無理に一気に攻め込もうとするのではなく、相手の動きを封じ込めながら、長谷川平蔵が次々に凶賊を捕らえていくことを待っている状態であった。
「ま、しばらくは、陰気な仕事をする必要もありません。どこかで羽を伸ばすなり、表業の方に精を出すなりされると良いでしょう」
「は、はあ」
仕留め、暗殺者は本業ではない。
お詩乃は女性でも大変見入りの良い仕事をしており、時間も自由に使えるので、蟷螂としての仕事もできると言うだけなのだ。
確かに、最近はそちらの方は疎かになっていた。
「冬吉さんには、何がしか、助っ人と刺客を追い返したことへのお礼は考えておきます。ちょうどお店も大きくするし、いろいろ入用でしょうからね」
そう言って、半左衛門は手を振って見せた。
出て行けと言う意味である。
面倒なやりとりを終わらせる流れは、先に考えていたのだろう。
お詩乃と百田虎之助は、無言で半左衛門の前から消えた。
結局、冬吉は六日で助っ人から解放された。
あまりにも忙しく、結局、元の約束通りに数日に一回帰ることすらできなかったが、期間としては当初考えていたよりも短いものとなった。
熱の下がった宗兵衛は、銀次郎の碗を見て泣き、口にしてまた泣いた。
すでに半分諦めていたせがれが、一皮剥けたのだ。
店が始まる前に、一度、自宅に戻って妻の仏壇に報告したほどである。
そして、ことの次第を半左衛門から聞いて、冬吉のやりように舌を巻いた。
せがれよりさらに若いこの男が、自分の犯した致命的な間違いを正したのだ。
息子にとっては生涯の好敵手となるだろう、包丁人としての腕だけではない。
それは包丁人としてだけでなく、人としての器の大きさを示していた。
半左衛門ですら、気づいていなかった、銀次郎に欠けているものの本質を見抜いて見せたのである。
まだ若い。
しかし、この男はまだまだ大きくなる。
宗兵衛はそう直感した。
柏屋の花板である自分とは違う、その主人たる半左衛門ともまた違う形だが、この男は江戸の料理界に名を残すことを確信したのであった。
などと、たいそうに思われた冬吉であるが、草間に戻ればいつもの日常が始まる。
お夏は、事前に手紙で銀次郎とのやりとりを知っている。
だが、それ以外に、但し書きのように、冬吉が親しみを覚えていた、用心棒、篠塚龍右衛門の病死も伝えられたため、それほど意地悪なことは口からは出なかった。
しかし、別に意地悪ではなくとも、冬吉の耳に心地よくない話はいくらでもある。
樋口道場には、辰蔵と雪枝が通うようになり、店にも現れる。
店の拡張の話は本格化し、伊八が棟梁役をすることになり、段取りはほとんど済んでいた。
仗助は舐役を長く務めていたこともあって、商家の様式に詳しく、伊八と毎晩、議論を重ねている。
冬吉の居住する部屋も含む、建物の造作もほとんど決まってしまっていたのだ。
仗助はすまなそうにしているのだが、なにせ自分の得意分野だから、引くことはない。
嫌な顔をされるとお夏は思っていたのだが、冬吉は頷くだけであった。
ありがたい話もある。
冬吉が帰ってくる前日、草間には半左衛門が現れた。
宗兵衛の熱が下がり、助っ人が終わるとともに、謝礼として新しい草間には、半左衛門が全額負担して穴蔵と深井戸を作ってくれることとなった。
穴蔵は地中に作られる、いわゆる地下倉庫である。
食糧を保管する場所としては、非常に優れているが、費用がかかるので、居酒屋程度の店にあることは珍しい。
深井戸はさらに輪をかけて高価である。
『水道の水で生湯を使う』
これは、江戸っ子が生粋の江戸生まれであることを誇った言葉である。
江戸の町は、神田上水、玉川上水と言う、上水道の水を使っていた。
江戸の町では『井戸』と言えば、この上水道から引かれた水を貯めることができる溜井戸である。
『井戸端会議』と言う言葉は、この溜井戸に水が溜まるまでの待ち時間の間の雑談を指した言葉である。
しかし、本所には上水道は届いていない。
もう少し前の時代であれば、本所上水と言うのもあったようだが、自然災害で破壊されたのちに放棄された為、本所の人々は料理や飲用には水屋が売りにくる水を使い、それ以外は浅井戸の水を使っていたのである。
本所界隈は本来水は良くない。
浅い井戸では、水に塩分が含まれてしまい、料理や飲用には適さないのである。
深井戸は、その不味い水が出る層を貫いて深く掘られた井戸で、塩分が多量に含まれることもないし、何より地表の温度に影響されない為、水が冷たい。
江戸全般、あまり水の良い土地柄ではなかったのだが、柏屋のような料亭では深井戸を堀り、冷たい水を得ることで、料理の味をよくするだけでなく、冷たい水を使って食材を冷やすことを行っていたのである。
これは、高々居酒屋には身に余るほどの贅沢である。
深井戸も、かなりの費用がかかり、高級料亭や大きな武家屋敷ぐらいにしかない設備なのだ。
お夏も仗助も、お静でさえも、いったい冬吉は花板不在の柏屋の厨房で、どんな貢献を成したのか訝った。
お夏は冬吉の変化が気になった。
草間の拡張は隣の空き家も壊しての立て直し、それも穴蔵を作った上である為、二月以上は店を閉めることにはなる。
冬吉が戻ってから半月後のことと決まったのだが、その間、熊七に豆腐の仕込みを教え始めた。
今までは仗助には豆腐の作り方も教え、風割り蒸しと一緒に手伝わせていたのだが、熊七にも教えることで、早朝の仕込みに自分が参加しなくても良いようにしようとしている。
これは、親方らしく振る舞うことを嫌う冬吉には珍しいことであった。
五日後には、熊七の豆腐作りもそれなりにこなすようになってきたので、朝の仕込みの時間にはどこかに出かけるようになる。
篠塚龍右衛門の形見であると言う脇差と、元々所有していた大脇差を持ってだ。
そして帰ってくると、水を浴びて汗の処理をする。
剣術の稽古であることは疑いない。
三日に一度の樋口道場での稽古では、木村矢太郎に代わって、長谷川辰蔵や中村雪枝と激しい稽古をしているが、そこでは念流の技に拘らなくなったと言う。
常連たちには、半月後の一時閉店を告知した。
食材や酒の仕入れなどで、いくつかの問屋には話を通さないといけないし、修行中の熊七や奉公人であるお夏や仗助についても、その間どうするかを考えないといけない。
店の備品の一時的な保管場所や、冬吉の仮住まい先も探す。
お夏は、それらの手伝いをしながら、冬吉の観察を続けていた。
何か、良からぬ事があったのだろう。
だが、それに冬吉が対処しようとしていることもわかる。
なら、これは悪いことではない。
冬吉は、問題があれば、解決しようとする。
そのための努力は惜しまない男だ。
それだけわかっていれば、奉公人である自分にとっては心配事はなかった。
「冬吉さん、無理はしないでくださいね。やれることは奉公人に任せるのも、店の主の器と言うものです」
いきなり声をかけられた冬吉は、刺身を切っていた手を止めて顔をあげた。
「根を詰めすぎて体でも壊されると、奉公人は途方に暮れてしまうし、お客様にも迷惑がかかります」
微笑を浮かべて、うなずいた冬吉は、相変わらず無口ではあった。
しかし、お夏には、冬吉が何か重い決断をしたことと、そのための工夫に取組み始めたことだけはわかった。
「面倒くさがりなのに苦労性。まあ、そこがいいところなんでしょうけど」
いつも通り、仗助が寝たあとで日記を書きながら、お夏はくすりと笑った。
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