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第五章
嗤う女
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洞窟から吹きぶさむ風のごとく不気味に響くそれは、女の嘲笑とも男の笑い声とも思えるほどに、二重になって聞こえた。
柄の悪い話し方をした男と女の声が重なっているようだ。ついに耳までおかしくなったのだろうか。あれだけ殴られたのだから、当然かもしれない。
茫然とそんなことを思い、止まない女の嗤い声を聞いた。
『あの目を使ったのだな、アレク。しかも生きるためではなく、自分勝手な都合で利用した! あれほど嫌悪していたのに使った! あははは!』
嗤う影が身をよじる。なぜこうもゾッとするのか。
男と女。声が二重に聞こえるからか。いや、違う。女の性根が声色に乗っているからだ。醜く腐ったヘドロのような性根が体にまとわりついて這い上がってくる。傍にいることでさえ、おぞましい。
まるで別人がもうひとり、ここにいるようだ。
ニックは瞬きを繰り返し、鉄格子の奥に目を凝らす。何度見ても、やはり影はふたつしかない。間違えようもなく、女の笑い声であるのに。
『ほうら、言ったでしょう。バレリアの呪いは存在するのだと。少しは信用できたかしらね』
「確かに不可思議ではあるが、まだだな。そのアレクとかいう少年が王子だということも、何もかもが証拠不足だ」
ニックにはその会話の意味を理解することができない。バレリア……証拠……王子?
それらの単語だけを漠然と耳に入れて黙っていると、フードの下で紫色の瞳がこちらを覗き見た。
アレクの瞳よりも激しく鮮明に、妖しい輝きを放つ紫水晶のような瞳。薄らと見えた顔は男のものだった。お世辞にも人相がいいとはいえない。その瞳に被せて、彼女はひとのものとは思えないその目を三日月型に細める。
その瞳はぞくりとする危険性を孕むものの、決して脅威にはなり得ない。なぜなら彼女が生み出したあの呪いは、既に自分の手を離れてしまったからだ。
けれど彼女は視ていた。
アレクの瞳を通し、ロナルドの瞳を通し、時にはケルトの瞳を通して彼女は世界を視ていた。だから分かる。この男が何を思い何を望むのか。すべて手に取るように分かっていたのだ。
『おまえに機会を与えよう。見事完遂できれば、ロナルドはあるべき姿に戻る。彼をアレクの呪縛から解き放て。それがおまえの望みだろう?』
ねっとりとした女の囁きに、ニックは潰れかけの目を見開く。副隊長を元の姿に。憧れてやまなかった、あの姿。勇敢で聡明で決して情に流され判断を見誤り様なことなどしない、あの姿に。
「わたしは……どうすれば」
『アレクの正体を暴く物が保管庫に眠っている。ロナルドが隠していた記録用魔道具だ。おまえには分かるだろう? あれを取っておいで』
「そうすれば、副隊長は元に戻るのか?」
『もちろん……あはっ、あははは!』
女の笑い声は、いつまでも地下牢に響き渡った。
◇
やっと解放されたニックの肉体的損傷は内臓にまで及び、いまにも抉られた肉の所々からウジが沸いてきそうなほど酷い有様で、騎士団専属魔法医が五人がかりで緊急回復に努める事態となった。
騎士団専属魔法医は王族担当医に次ぐ地位と実力があり、次世代の王族担当医は彼らから生まれる。
そんな彼らが絶え間なく回復に努め、ニックが五体満足で起き上がるまでに半日という時間を要したことを考えれば、単身でエレノアやロナルドの傷を瞬く間に治したアレクの魔法がどれほど優れたものか、大方予想がつくというもの。
そうして、あの夜と変わらない風貌のままニックはここにいる。
服装は警備隊のそれであったし、体の汚れは当然のこと、靴は土埃ひとつなく新品のように輝いていた。
ニックは長年、ロナルドの補佐官として務めあげてきた男だ。数え切れないほどの捜査を行い、マーリナスとロナルドが胸に掲げる崇高な夢の実現のため、苦難を共にしてきた。
その努力と汗は、入隊時に支給された制服に染み付いている。
余りにも古くなったり損傷が大きい場合は申請を出して新たな物を支給して貰えるが、ニックは慣れない手つきで何度も綻びを直しては、これもまた勲章なのだと誇らしげに着用し続けていた。
ロナルドは不器用な縫い目を見ては呆れながらも笑っていたし、時には酒のつまみにして当時の思い出話に花を咲かせたりもしたものだが。
それが綺麗さっぱりなくなっている。
ロナルドは眉をひそめる。
「なにをしているんだい、ニック。いままでどこに……」
「詳しいことはお話できません。いまは、優先すべき任務がありますので」
ニックは慌てる様子もなく、そっと魔道具を背中に隠した。
その素振りには、まったく悪びれがない。
それを見たロナルドは、ひそめた眉間に皺を刻む。
ニックが部下となり、規律の重要性を叩き込んだのはロナルドである。彼は規律に順ずるロナルドに倣い、警備隊の恥となる行為はいままで一度足りとも行わなかった。それなのに。
ロナルドの中に動揺が走る。
ニックが魔道具を手にし、背中に隠したのも見た。それでもまだ信じられない。何か誤解をしているのかもしれないと、ざわざわとうるさい胸中に半ばむりやり蓋をして平静を装ってみせた。
「その任務というのは、まさかそれを持ち出すことじゃないだろうね」
「規律違反だと責めるおつもりですか? いいえ、わたしを止めるのならば、あなたこそが規律違反に問われることになる」
「どういう意味だい」
「わたしはいま、総督閣下の命によってここに来ているからですよ」
冷たい笑みを浮かべたニックに、ロナルドの表情が凍り付いた。
柄の悪い話し方をした男と女の声が重なっているようだ。ついに耳までおかしくなったのだろうか。あれだけ殴られたのだから、当然かもしれない。
茫然とそんなことを思い、止まない女の嗤い声を聞いた。
『あの目を使ったのだな、アレク。しかも生きるためではなく、自分勝手な都合で利用した! あれほど嫌悪していたのに使った! あははは!』
嗤う影が身をよじる。なぜこうもゾッとするのか。
男と女。声が二重に聞こえるからか。いや、違う。女の性根が声色に乗っているからだ。醜く腐ったヘドロのような性根が体にまとわりついて這い上がってくる。傍にいることでさえ、おぞましい。
まるで別人がもうひとり、ここにいるようだ。
ニックは瞬きを繰り返し、鉄格子の奥に目を凝らす。何度見ても、やはり影はふたつしかない。間違えようもなく、女の笑い声であるのに。
『ほうら、言ったでしょう。バレリアの呪いは存在するのだと。少しは信用できたかしらね』
「確かに不可思議ではあるが、まだだな。そのアレクとかいう少年が王子だということも、何もかもが証拠不足だ」
ニックにはその会話の意味を理解することができない。バレリア……証拠……王子?
それらの単語だけを漠然と耳に入れて黙っていると、フードの下で紫色の瞳がこちらを覗き見た。
アレクの瞳よりも激しく鮮明に、妖しい輝きを放つ紫水晶のような瞳。薄らと見えた顔は男のものだった。お世辞にも人相がいいとはいえない。その瞳に被せて、彼女はひとのものとは思えないその目を三日月型に細める。
その瞳はぞくりとする危険性を孕むものの、決して脅威にはなり得ない。なぜなら彼女が生み出したあの呪いは、既に自分の手を離れてしまったからだ。
けれど彼女は視ていた。
アレクの瞳を通し、ロナルドの瞳を通し、時にはケルトの瞳を通して彼女は世界を視ていた。だから分かる。この男が何を思い何を望むのか。すべて手に取るように分かっていたのだ。
『おまえに機会を与えよう。見事完遂できれば、ロナルドはあるべき姿に戻る。彼をアレクの呪縛から解き放て。それがおまえの望みだろう?』
ねっとりとした女の囁きに、ニックは潰れかけの目を見開く。副隊長を元の姿に。憧れてやまなかった、あの姿。勇敢で聡明で決して情に流され判断を見誤り様なことなどしない、あの姿に。
「わたしは……どうすれば」
『アレクの正体を暴く物が保管庫に眠っている。ロナルドが隠していた記録用魔道具だ。おまえには分かるだろう? あれを取っておいで』
「そうすれば、副隊長は元に戻るのか?」
『もちろん……あはっ、あははは!』
女の笑い声は、いつまでも地下牢に響き渡った。
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やっと解放されたニックの肉体的損傷は内臓にまで及び、いまにも抉られた肉の所々からウジが沸いてきそうなほど酷い有様で、騎士団専属魔法医が五人がかりで緊急回復に努める事態となった。
騎士団専属魔法医は王族担当医に次ぐ地位と実力があり、次世代の王族担当医は彼らから生まれる。
そんな彼らが絶え間なく回復に努め、ニックが五体満足で起き上がるまでに半日という時間を要したことを考えれば、単身でエレノアやロナルドの傷を瞬く間に治したアレクの魔法がどれほど優れたものか、大方予想がつくというもの。
そうして、あの夜と変わらない風貌のままニックはここにいる。
服装は警備隊のそれであったし、体の汚れは当然のこと、靴は土埃ひとつなく新品のように輝いていた。
ニックは長年、ロナルドの補佐官として務めあげてきた男だ。数え切れないほどの捜査を行い、マーリナスとロナルドが胸に掲げる崇高な夢の実現のため、苦難を共にしてきた。
その努力と汗は、入隊時に支給された制服に染み付いている。
余りにも古くなったり損傷が大きい場合は申請を出して新たな物を支給して貰えるが、ニックは慣れない手つきで何度も綻びを直しては、これもまた勲章なのだと誇らしげに着用し続けていた。
ロナルドは不器用な縫い目を見ては呆れながらも笑っていたし、時には酒のつまみにして当時の思い出話に花を咲かせたりもしたものだが。
それが綺麗さっぱりなくなっている。
ロナルドは眉をひそめる。
「なにをしているんだい、ニック。いままでどこに……」
「詳しいことはお話できません。いまは、優先すべき任務がありますので」
ニックは慌てる様子もなく、そっと魔道具を背中に隠した。
その素振りには、まったく悪びれがない。
それを見たロナルドは、ひそめた眉間に皺を刻む。
ニックが部下となり、規律の重要性を叩き込んだのはロナルドである。彼は規律に順ずるロナルドに倣い、警備隊の恥となる行為はいままで一度足りとも行わなかった。それなのに。
ロナルドの中に動揺が走る。
ニックが魔道具を手にし、背中に隠したのも見た。それでもまだ信じられない。何か誤解をしているのかもしれないと、ざわざわとうるさい胸中に半ばむりやり蓋をして平静を装ってみせた。
「その任務というのは、まさかそれを持ち出すことじゃないだろうね」
「規律違反だと責めるおつもりですか? いいえ、わたしを止めるのならば、あなたこそが規律違反に問われることになる」
「どういう意味だい」
「わたしはいま、総督閣下の命によってここに来ているからですよ」
冷たい笑みを浮かべたニックに、ロナルドの表情が凍り付いた。
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