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第二章

ケルト・リッシュ

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 内心安堵のため息をついたアレクの思惑など知らぬバロンは、満足そうな笑みを浮かべながらアレクから離れると、戻り際にノーランの亡骸を蹴り飛ばして唾を吐きかけ部屋を後にした。

「アレク様……」

 再び静けさを取り戻した部屋にすすり泣く声がする。

 床の上に仰向けになったまま、アレクは顔を音のする方に向けた。

「ケルト……泣かないで。僕は大丈夫だから」

「だから! だから、おやめになった方がいいと申し上げたのです! 見知らぬ荒くれものにはずかしめを受けて満足なのですか!?」

 その言葉はどんな刃物よりも鋭くアレクの心に突き刺さる。

 ケルトは知らないのだ。国を離れたアレクが何度こういった行為を繰り返して生きてきたのか。

 毎日が地獄のような日々だった。ひとを恐れ、自分を恐れ、呪いを恐れ。

 それでもみっともなく生にしがみついて生きてきた。

 愚かだろう。無様だろう。万人に罵倒されても許されない生き方だろう。

 こんなことで生をつなぐ自分に本当に吐き気がする。

 でも望んだわけじゃないんだ。望んでこうなったわけじゃない。

 いくらそう声をあげても、誰も耳を傾けないだろう。はたから見れば自分は好色家にしか見えないのだから。

 でもそんな自分に理解を示し、真摯に向き合ってくれたひとが現れたんだ。

 恐れずに他人と向き合えたのは、いつぶりだっただろうか。他人と向き合うことで安堵感を得られる日がくるなんて想像もしていなかった。

 地獄の中に救いの手を伸ばしてくれたひと。

 そのひとのために自分にできることがあるのなら。

「マーリナスのためにやれることがあるなら、僕はなんでもする。その覚悟を持ってここにきたんだから」

 突き刺さった胸の痛みは消えない。きっと一生かかっても消えることはないだろう。だけどアレクはまっすぐに自分の心を見据えていた。

「マーリナス……あの警備隊長殿ですか。その方のためにそこまで……」

 ケルトにとってアレクの覚悟は理解の及ばないものだった。確かに恩義はあるのだろうが、ここまで身をていするほどの相手なのか。

 理解ができない。アレクの覚悟をみた上で、ケルトの胸に黒い感情がこみ上げる。

「わたしのことはどうでもいいのですか?」

「ケルト?」

「わたしはアレク様をお慕いしているのですよ。それはご存じでしょう!? 目の前であんな行為を見せつけられて、わたしが傷つかないとでも?」

「ケルト……」

 アレクの顔がくしゃりと歪む。

 ケルト・リッシュ。亡命前アレクの従者として長年に渡りつき従ってくれていたこの男は、バレリアの瞳に魅了された一人目の被害者だった。

「おまえは呪いで……」

「違います。確かにわたしはあなたの眼を見てしまった。だけどそうじゃありません。わたしはその前からずっとあなたに恋い焦がれていた。その気持ちをずっと押し殺していただけなのです。その呪いのおかげで抑えていたものがあふれ出した、ただそれだけなのです。それはアレク様もご存じのはず」

 アレクはきゅっと口を結んだ。

 このセリフは亡命前に何度もケルトの口から聞かされていたものだったから。

 呪いのせいだと何度いい聞かせても、ケルトは違うという一点張りで聞く耳を持たなかった。

 もともと幼少時代から従者として傍にいてくれたケルトとは友のように親しかった。くだらないことでよく笑い、秘密だって共有するような間柄だったのだ。

 社交界で見知らぬご令嬢と気を遣って話すよりもケルトといた方が断然楽しかったし、気がらくだった。

 そんなケルトが瞳に魅了され、アレクに熱い眼差しを向けたあの夜。

『頼みますから、拒まないでください』と泣きそうな顔でささやかれたあの夜。

 アレクは胸にこみ上げる感情がなんなのか理解できぬまま、ケルトと唇を重ね合わせた。

 嬉しかったのか、悲しかったのか、ケルトのつらそうな表情に胸が痛んだからなのか。

 だが一度受け入れたケルトの想いを突き返すことはアレクにはできず、それからケルトが求めるたび何度も唇を重ねた合わせた。抱きしめ合った互いの肌の温度。ケルトの潤んだ眼差し。甘い言葉。

 夜ごと重ね合ったその情事に、いつの間にかアレクも溺れてしまったのだ。

 だがそんなおり、アレクの瞳に魅了されてしまった人間が再び現れた。
 
 その相手を――ケルトは嫉妬心から殺してしまったのだ。

「アレク様。どうかわたしのことも受け入れてください」

 アレクはそっと目を閉じる。本来ケルトは心優しく、人殺しなどできるような人間ではなかった。

 バレリアの呪いのせいだと、ひとことで言えば済むのかもしれないが、ケルトがこうなってしまったのは自分のせいなのだ。

 だからこそアレクはケルトを遠ざけた。だが、こうして再び目の前に現れたケルトを拒むことなどアレクにできはしない……それは責任感と同情に他ならなかったが。

 アレクはゆっくりと体を起こすと、すこしずつ不自由な足腰を動かしてケルトの傍に移動した。

 ケルトの目を覆っている目隠しはうっすらと涙でにじみ、隙間から頬を伝って涙が零れている。

「わかってる。ごめんね、ケルト」

 幾人もの相手と重ね合わせた穢れた唇。こんなものでケルトを穢すのはアレクにとっても身が引き裂かれる思いだ。だがそれでも、泣いて求めるケルトを突き放すなどアレクにできなかった。

 泣け叫び悲鳴を上げる心に蓋をして、アレクはそっとケルトの唇に自身の唇を重ね合わせた――

 
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