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伊吹は

10*

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「じゃあ触るよ」
「ンっ……」

 ごく、と喉が鳴った。
 ちゃんと申告してくれる有都さんは優しい。その分恥ずかしい思いもあるんだけど。
 シャツを捲っててね、と言われて素直にそのシャツを握り締めて、そのぬちゃっとした感覚に、自分の手がローションに塗れていたことを思い出す。
 ぬるついたシャツに、思わず玲於さんを見てしまった。だって汚してしまったこれは玲於さんのシャツだ。

「……ごめんなさい、」

 値段なんて知らないけど、きっとこれはおれなんかは買わないような値段のシャツだろう。無駄に着心地が良い。自分の家着なんて安物しか買わないのに。それで十分なのに。
 玲於さんは一瞬きょとんとした表情になって、それからすぐにくしゃっと笑った。そんなことは気にしないでいい、と。

「洗えばいいよ、そんなん」
「でも……」
「そんなに気にするなら捲っておいてやろうか」

 玲於さんがシャツを捲るというその絵面を想像して、なんだか間抜けだなと思って首を横に振った。
 というか脱げばいいんだろうけど、それは言わないでおく。世の中には藪蛇という言葉があり、そしてそれをつつかせるのが上手なひとがいるということももう知ってるのだ。

「あ……っ」
「こっちに集中して」
「んっ、う……!」

 たっぷりのローションを纏わせた有都さんの指がナカに入っていく感覚。痛くはない。
 自分でした時はそんなに入らなかったのに。準備不足だったとはいえ。
 ……そう考えると、きゅうと有都さんの指を締め付けてしまった。
 力を抜いて、と言われたけど、そんなことを器用に出来る余裕がない。
 首を横に振ると、仕方ないなあ、と苦笑する有都さんの声が耳に入った。

「玲於さん」
「ん」
「もう十分でしょう、最後まで何もしないつもりですか」
「そうだなあ」
「伊吹の緊張を解いてあげて」
「伊吹がそれを望むのなら」

 まだそんなことを言う。年齢だとか、立場とか、そんなのを気にしてるんじゃなくていじわるがしたいだけの癖に。
 今日くらいそんないじわるしなくたっていいじゃん、伊吹は初めてなんだから。
 イヴとは何度だってあれからもしたのかもしれないけど、おれの躰とは初めてなんだから。

「そんないじわる言ったらやだ……」

 有都さんの言う通り、もう十分でしょ、もういいでしょ。
 それともまだそんな気になんないの。
 こんなにおれとイヴはそっくりなのに。おれにはそんな気になってくんないの。
 涙声の癖に不満を隠さないおれに、玲於さんは口元を緩ませて呟いた。

「……こういう時に幼くなるのは変わらないな」

 思い出したように、懐かしそうに、そう瞳を細めた玲於さんに、知らないよと悪態を吐いてしまう。
 知らない。イヴの行為の時のそんな癖なんて。
 おれにはイヴになる前の記憶はあるけれど、イヴに躰を返した後の記憶は何もない。家族のこと、竜たちのこと、国のこと、ふたりのこと、知りたいことを何ひとつ知らない。
 イヴがどうやってアルベールとレオンに抱かれてたかなんて知らない。どうやって愛されたかなんて、知らないのだ。

「ああ馬鹿、泣くな、そういうつもりじゃない」
「泣いてらい……」
「泣いてるじゃないか」
「ない……」
「比べたんじゃない、お前の話だよ」

 頬に大きなあたたかい手が触れた。親指で目尻を拭われる。近くに来るのが遅い、と思った。
 お前の話だと言われても。だってこんなことするの、おれは初めてなのに。
 今日は何度玲於さんを睨んだだろうか。自分に迫力なんてないのもわかってるけれど。

「わかってないみたいだな」

 わかんない、とまた憎まれ口を叩くおれに苦笑いを浮かべた玲於さんは、あの夜躰を重ねたのは伊吹だろう、と口にした。

「あの夜……」
「……あの時は伊吹だったろ、躰はイヴだったけれど」
「……」
「お前が見つけてほしいって言ったんだぞ」
「そ、だけど……」

 そう、だけど。
 そんなピンポイントで覚えていてほしかった訳じゃない。忘れられててもそりゃむっとしちゃうけど。
 ただ、そこに伊吹がいたことを忘れてほしくなかっただけ。
 イヴには悪いことをしたと思ってるけど、ふたりが彼のものだとわかっていたけど、それでも。

「じゃあ逆に訊くけれど」
「え」
「伊吹は僕たちじゃ不満?レオンとアルベールじゃない僕たちはもう存在しない彼等の代わり?」
「そ、んなんじゃ……」

 すぐ頭の上からかなしそうに声を落とす有都さんにひやりとした。
 そんなんじゃない。
 見た目とか性格とか、そりゃ違うところもあって、そんなの人種だとか魔法のない世界だとか育ってきた環境とかで違うのは当たり前で、でも彼等の前世はもうそれは間違いなくレオンとアルベールで、だからふたりともレオンとアルベールそのもので、でもやっぱり玲於さんと有都さんで。
 代わりなんかじゃなくて、違うのも、そうなのも、ちゃんとわかってる。
 ふとした時に思い出す笑顔だとか仕草だとか声音だとか、同じだなと思う瞬間と、口調だとか趣味だとか生活感だとか、ああ別のひとなんだなと思ってしまう瞬間とあって、でもやっぱり根っこは同じところ。

 玲於さんはレオンだったし、有都さんはアルベールだった。
 おれはイヴだったし、おれがイヴにならなきゃ、あんなことを言わなきゃふたりはおれのことを思い出したり探したりなんてしなかった。

 今の状況は、自分が望んだことなのに。
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