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初めての社交月

第86話

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「そうです。皇国では、皇位を継承する際に号を賜ります。これは歴史の長い皇国では、ご尊名の同じ皇王が複数いらっしゃるため、号とご尊名の組み合わせですぐにどの時代の皇を指しているか判別するためでもあります」
「へぇ、そうなんだ」
 コラ! ローデリヒ! 高そうなジレの裾でパイの油を拭かないッ! バターの油脂はね、この世界の石鹸じゃ落ちにくいんだよッ! しかもそれ、絹だろッ! ぬるま湯で押し洗いした後、濯ぐ時もたっぷりの水で押しながら濯がなくちゃなんなくて洗濯、面倒なんだぞ!
「……リヒ……君はきちんと後継者教育を受けているんだろうな……?」
 イェレミーアスが長い指で額を押さえた。美形は何をしても絵になるなぁ。ローデリヒに多くを求めてはいけないよ。剣術の腕だけは確からしいからね。
「号は代々、鳥の名前から付けられます。それは皇太子の時から決まっていて、その号のことを『象徴鳥《ティーテル》』と呼ぶのですよ。けれど普通は十歳過ぎてから決まるものですよね?」
「ああ。父上なりの今回の件への褒美なのだろう。リヒと、アスにも紋章証がある。これでオレの部屋まではいつでも入れる」
「ジーク様のお部屋って……星嬰宮《せいえいぐう》まで?!」
 驚くぼくに誰も共感してくれない。王太子の宮に入れるんだよ? すごいことなんだよ?
 オーベルマイヤーさんが差し出したトレイの上には、豪奢な飾り紐とチェーンが付いた手のひら大の盾を模した金細工が三つ、置かれている。盾の中にはレーヴェデアデンブリッツバイセン雷を噛む獅子と、喜鵲きじゃくが彫られていた。鳥の瞳の部分にはサファイヤが嵌め込まれている。飾り紐も、金糸と青と碧でまとめられている。ジークフリードの瞳と髪の色だ。
「鵲《かささぎ》、ですか。鵲の鳴き声は慶事を呼ぶといいます。良き号を賜りましたね、ジーク様。皇王の愛情がよく分かります」
「ん……? おう……。つまりだ、このタイミングでルーヘンが父上との関係をスヴェンにほのめかしたということは、父上はお前を信頼しているということだ」
「大変光栄にございます、喜鵲皇子《きじゃくこうし》殿下。象徴鳥のお決まりになりましたこと、お慶び申し上げます」
 ソファを降り、床へ跪く。本来ならば正月の儀式で公式に賜るものを、早急に準備したのだろう。それは間違いなく、皇王の温情だ。ぼくに倣い、イェレミーアスも膝を付く。ローデリヒも同様に床へ膝を付いた。三人の頭へ軽く手を触れ、ジークフリードが頷く。
「お前たち三人を、信頼している」
「はっ」
 短く答えて頭を垂れたローデリヒは、すでに騎士の風格がある。イェレミーアスは一層頭を低くした。ぼくは頭を上げて、ジークフリードの手へ触れる。
「さ、皇王陛下のお許しも出ましたし、悪巧みをしましょうか。ジーク様」
「……頼もしい幼なじみを持って、オレは幸せだよ。スヴェン」
 微笑んでぼくが首を傾げると、ジークフリードは何とも複雑な表情で頷いた。
 人払いをし、ローデリヒにも分かりやすいように、紙へ書き出しながら説明し始める。が、当のローデリヒはミートパイを口に詰め込みながら、ぼんやりとぼくの手元を見ている。
「美味しいですか、リヒ様」
「うん!」
「……よかったです……」
「……リヒ……」
 イェレミーアスが頭を抱えている。うん。いいんだよ、イェレミーアス。ローデリヒはね、野生の勘で動ける子だから心配してないよ。ちょびっと嫌な予感は過る時があるけど多分、やる時はやる子だよ。おそらく。大方。きっと。そうじゃないかな。だといいな。
「……確認したいことがあるのでまずはどうにかして、薬学士に会えるといいんですけど……。そういえば、皇后陛下のお加減はいかがですか、ジーク様」
「うむ。変わりないようだ。皇宮医も毎日様子を見ているしな」
 昨日の宴を見るに、まだお腹が目立っていなかった気がする。二カ月も経てば皇国の長い冬の始まりだ。何か、腹と腰を温めるようなものを考えておこう。
「でも、まだ妊娠三、四カ月といったところですよね。この先寒くなりますし、妊娠の初期は何かと不安定な時期ですので無理はなさらぬよう、お伝えください」
「うむ。伝えておく」
 興味なさそうというか、脳みそ素通りという様子で聞いていたローデリヒが突然ぼくへ顔を向けた。
「なぁ、スヴェンはそういうの、どこで知るんだ?」
「へ?」
「妊娠三、四カ月が妊娠初期だとか、不安定だとか。寒いのなんでよくないんだ?」
「……」
「……」
「……」
「……えっ?」
 ジークフリード、ローデリヒ、イェレミーアスが同時にぼくの顔を見る。え、だってそんなの常識じゃん? そこまで考えて、はっと我に返った。
 ――常識じゃなかったあああああああああああ!
 この世界、治療法として瀉血《しゃけつ》がまかり通ってるくらい全然、医学が進んでないんだったあああああああ!
「えっ……と、本で読んで……?」
 ぼくの目は今、回遊魚かというくらいに激しく泳いでいるだろう。何かを察したジークフリードは、膝に両手を付いて項垂れた。イェレミーアスはにこにこと笑っている。ローデリヒは、あっさり納得した。
「ふ~ん。すげぇな、本。やっぱオレも本読まないとダメか」
「……リヒ様は、すでに皇国の剣としての才能を開花させておいでですのでそのままでよろしいかと」
「そうか? だよな! オレはこのままで行くわ!」
 実際、ただの脳筋ではないんだよな。ローデリヒは。ぼくの何気なく放った言葉で「寒いのはよくない」という無意識の意味までちゃんと読み取ったわけだから。
「ふふっ」
「? なんだ、スヴェン。何がおかしい?」
「いいえ。つくづく、ジーク様は人を見る目がおありだな、と」
「お? ……うむ。ごほんっ」
 それは君のいいところで、才能でもある。人に恵まれるというのは運もあるし、なかなかに得難いものだ。ジークフリードは、頬を染めて難しい顔をし、それから唇を尖らせた。
「その、そんなに母上が気になるなら見舞いに来ればいいぞ? 紋章証もあるのだし」
「――!」
 突然ひらめいた。そうだ。その可能性があるじゃないか。
「ジーク様、アイスラー先生の診察の時に、薬学士の方は同行されていますか?」
「ああ。その場で薬の指示をすることもあるからな」
「……! 近いうちにお見舞いに上がりましょう。みんなで、です。できれば薬学士が同行している、診察の際に」
 ぼくの髪を弄って遊ぶ妖精たちに、リボンを渡しながらイェレミーアスが少し表情を曇らせた。イェレミーアスには妖精が見えているから、妖精たちもすっかりイェレミーアスと打ち解けている。なんせ気難しいルチ様が、イェレミーアスからはぼくを直接受け取るくらいだ。やっぱ妖精や精霊が美しいものが好きって話は本当なんだな、と実感する。
「スヴァンテ様。診察の際にリヒが居ては騒がしい上に邪魔になります。リヒは同行しなくてもよいのでは?」
 幅が五ミリほどの、甘い光沢のあるアイボリーをシルクのリボンの中から選んで、イェレミーアスは妖精へ渡した。イェレミーアスからリボンを受け取った妖精は満足気に頷いて見せる。
「お、なんだぁアス。オレだけ仲間はずれかよぉ~」
「アスはよいがリヒはなぁ」
「なんだよ、ジークまでひでぇな」
「スヴェンだけを伴って、リヒとアスはオレの執務室で待つのはどうだ?」
「それでいいよ。じゃあ、その時に食うおやつ作ってくれよ、スヴェン。オレ、ミートパイがいい!」
「私はスヴァンテ様がお疲れになった際、スヴァンテ様を抱えて移動する必要がありますので同行します」
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