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辺境伯

第71話

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 皇国には五つの公爵家と五つの侯爵家、それから八つの伯爵家が存在する。
 その中でも、皇国の南にある大国レンツィイェネラとの境目である最南端の国境に領地を持ち、最重要な国境防衛の任務を担うのはシュレーデルハイゲン公爵家である。シュレーデルハイゲンに次ぐ国境警備を担う四家が東南のシェルケ辺境伯、西南のヴァルター辺境伯、北西のアイゼンシュタット辺境伯、そして北東のラウシェンバッハ辺境伯だ。この五つの家門は現皇王に忠実な腹心と言えるだろう。
 現皇王が即位して真っ先に行ったのが、腐敗して周辺国と癒着し各所に反乱の火種を抱えていた辺境伯家の総入れ替えであった。このことからも他国を侵略して国土を拡大して来たこの国に於いて、国防が最優先であることは明らかだ。
 だからこそ、ぼくは侵略による国土拡大は割に合わないと思うんだけど、まぁ今さら止めますと言ってもそうは行かないのが世の常だ。変革は緩やかに行うか、多くの血を流して一気に行うかのどちらかになりがちだ。そしてそのどちらにも反発は必至である。
 現皇王はその辺の使い分けが上手い。そういう意味でも、鶺鴒せきれい皇は無能ではないとぼくは思う。ただ何事も机上で考えた通りに運ぶとは限らない。そう、ぼくの両親の件のように。
 周囲を見回しつつ、思考を巡らせる。
 ルクレーシャスさんと挨拶をしようと群がる貴族たちから逃れ、少し離れたところでローデリヒ、イェレミーアス、ぼくと並んで人だかりを眺めていた。
 ヨゼフィーネ伯爵夫人とベアトリクスは同派閥のご婦人方と別室へ移動して行った。社交場では、女性には女性の戦場がある、らしい。ちょっと怖い。できれば関わり合いになりたくないなぁ。
「わたくしは今日、弟子に付き添ったに過ぎない。それなのにわたくしのかわいい弟子へは挨拶もしないような者と、話す口は持ち合わせていない」
 ぴしゃりと言い放ったルクレーシャスさんの前へ、日に当たって劣化してしまったプラスチックみたいなちょっときたな……薄い色の金髪と、レーズンのように暗い紫色の瞳の男が這い出た。媚び諂うように笑い、下からわざと上目遣いでルクレーシャスさんを仰ぐ様は卑屈そのものだ。
 男は揉み手をしそうな勢いで、しかし周りに聞こえるよう大きくゆっくりと放った。
「これは、これはベステル・ヘクセ様。ではそちらに居るのが、あの『離宮の亡霊』ですか? なるほど、実に草の民らしい青白い肌です……な……?」
 「離宮の亡霊」というのは歌劇「椿の咲くころ」で、宴の際に誤って離宮の池へ落ち死んでしまう、「悪妻レーヴェ」の幼い息子「セヴァステ」がその後悪霊となって現れた時の呼び名である。
 そう、ぼくだ。ちなみに「草の民」というのは、薬草に精通しているフリュクレフの民を揶揄する呼び方である。
「えっと、どこかでお会いしましたでしょうか?」
 悪意が丸見えすぎやしないか。誰だよ、こいつ。ぼくが経年劣化したプラスチックみたいな薄い金髪を見上げると、劣化プラスチックはぽかんと口を開けたまま動きを止めた。ぼくの顔を見つめたままの男が、何か言葉を続けるのを待つ。
「?」
 ぼくが首を傾けると、オダマキの花がぼろん、と零れ落ちた。妖精たちが一斉に舌を突き出し、威嚇したり嫌悪感を露わにしている。さらに首を傾げていると、イェレミーアスがしゃがんでぼくの耳へ囁く。
「スヴァンテ様、リヒテンベルク子爵です」
「!」
 ああ、こいつがリヒテンベルク子爵かぁ! 
 想像してたのとちょっと違う。もう少し狡猾そうな人間かと思っていたが、口を開いたまま固まっている姿は滑稽なくらいだ。ぼくはにっこりと微笑んで、左足を少し後ろへ引き、胸へ手を当てた。
「ご紹介に預かりました、離宮の亡霊です。はじめまして、リヒテンベルク子爵」
「挨拶なんかしなくていいよ、スヴァンくん。不愉快極まりないな、失せるがいい」
「あ、う……っ」
 口を開いて何か言いかけたリヒテンベルク子爵は、ぼくらの目の前から消えた。杖を掲げて満足そうなルクレーシャスさんを仰ぐ。
「気にしなくていいよ。ちょっと堀の外へ飛ばしただけだからね」
「ああ……それはルカ様、大分配慮なさいましたね……?」
 エーベルハルトを豚にするとか言ってたことを考えれば、ルクレーシャスさんにしてはものすごい譲歩だ。ぼくの師匠、我慢出来てすごい。
「さ、こっちへおいでスヴァンくん」
 人の垣根を越えて、ぼくを手招きしたルクレーシャスさんへ歩み寄る。壁際へ立つルクレーシャスさんを目指して歩き出したぼくに付き添いながら、イェレミーアスはすれ違った給仕係へ何かを言づてた。給仕は頷いて離れて行く。再び戻った給仕は、いくつかのグラスが乗ったトレイをイェレミーアスへ差し出した。トレイの上のグラスを一つ、掴んでイェレミーアスは屈みながら前髪を耳へかけた。さら、と甘やかなピンクブロンドが流れる。
「スヴァンテ様。スヴァンテ様がホールを出ている間に、ミレッカー宮中伯とご子息が入場しておいでになられましたよ」
「……そうですか」
 そう囁いてぼくへ果実水の入ったグラスを差し出した、イェレミーアスを仰ぐ。こういう気づかいができるところがすごくポイント高いと思うんだよ。イェレミーアスは「デキる」男だ。なるほど、これがモテる男の技巧か。
「ありがとうございます、イェレ様」
「どういたしまして。スヴァンテ様」
 ぼくがにっこり微笑んで見上げると、イェレミーアスもぼくへ微笑みかけて少し顔を傾けた。イェレミーアスは話しやすいし穏やかだし、何となく馬が合うというか、生きているテンポが同じ気がする。
 しゃがもうとするイェレミーアスへにっこり笑って首を横へ振る。残念そうにぼくへ手を差し出したイェレミーアスの所作は優美だ。軽く首を横へ振る。だって手を繋いでもらうの、なんだか照れくさいんだもん。
 周囲からため息と感嘆の声が聞こえた。
「……」
 ローデリヒはぼくとイェレミーアスを眺め、それから周囲を見渡した。
「……こりゃ明日から大変だぜ? さっきうちの母上に散々お前のこと聞かれまくったし。うちの母上、明日からお茶会だのなんだのでお前らのこと聞かれまくるだろうなぁ」
「ええ。イェレ様は聖アヒムの化身が如く麗しさですもの」
 えっへん。うちの子、美少年。ぼくが頷くと、ローデリヒは残念な子を見る目をした。イェレミーアスはおっとりとした仕草でぼくへ囁く。
「知っていますか、スヴァンテ様。妖精や精霊は美しいものが好きで、美しいものへ寵愛を授けるのですよ」
「なるほど。だからイェレ様には、妖精が見えるのですね」
 納得してぼくが頷くと、ローデリヒは大げさに肩を落として見せた。イェレミーアスはにこにこしている。なんだよう。
 ローデリヒは諦めたように首を左右に振ると空になったグラスを給仕係へ渡し、頭の後ろで腕を組んだ。
「なぁ、スヴェン。帰りはお前んちの馬車に乗せてもらっていいか? ここのメシお前んちのメシより不味いんだもん。腹減っちまった」
「スヴァンテ様のお屋敷はリヒの食堂じゃないんだぞ?」
「いーじゃんか。な、スヴェン?」
「うーん、うちの馬車は六人乗りなのでリヒ様が乗ると窮屈だと思いますよ?」
「大丈夫だよ、スヴェンはアスの膝に乗ればいいじゃん」
「リヒ!」
 例えぼくの後見人が唯一無二の偉大なる魔法使いだとしても、辺境伯家のご令息を侍従扱いはできないし、してはいけないってことくらい分かる。
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