まったく知らない世界に転生したようです

吉川 箱

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花便りの月

第36話

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「スヴェン」
 バルタザールは、ぼくへ向けて手を伸ばしたのだろう。背中で感じて身を縮める。覚えずルクレーシャスさんの服をぎゅっと掴んでしまったようだ。ルクレーシャスさんが杖を出してバルタザールの手を払い除けたのだろう。杖がぶつかる乾いた音がした。
「下がりなさい。これ以上の無礼はわたくしが許しません」
「……っ」
「覚えておくがいい。わたくしはこれ以上、お前がわたくしの弟子を脅かすことを許さない」
 普段のルクレーシャスさんからは想像もつかない低い声が、頬を寄せた胸から響く。ぼくはぎゅっと目を瞑った。このぼくとしたことが、ルクレーシャスさんが途中で司書に「机の上に本を置いたままだ。すまないが片付けてくれ」と声をかけるまで、そんなことにも気づかなかった。再びルクレーシャスさんが歩き出した振動に体の力が抜けた。それでもぼくは、バルタザールが追いかけて来やしないかとしばらく全身で周囲を警戒した。政宮の庭を抜け、皇宮側への門扉に立つ衛兵の声を聞いてようやく顔を上げる。
「スヴァンくん、大丈夫かい。怖かったね」
「……うあ……っ」
 涙腺が崩壊した。最近ぼく、体に引っ張られてか精神年齢が下がっている気がしてならない。遠慮なく顔をくしゃくしゃにして、泣き声を上げる。
「こわかったですぅ! なんなのあの子、なんなのあの一族ぅ!」
 衛兵が振り返ったけどそんなの構ってられない。ルクレーシャスさんの襟を掴んで訴える。
「よしんばぼくに執着してるなら良くないけどまぁ理解もできるんですよ? なのにね? 一族挙げて高祖母にずっと執着して来たからとかぼくに失礼だと思いませんか。どうせぼくなんてね、凡顔ですよ魅力なんてありませんよ身代わりに執着されるとか理不尽過ぎて腹が立つぅぅぅぅ!」
「うーん。まぁ君の認識は色々間違ってるってわたくし今、再確認したけど、とりあえずお疲れ。よしよし」
「うええ……」
 美味しいものを食べて甘やかされないとやってらんない。ルチ様に抱っこしてもらってお庭を散歩してもらうんだ。ルチ様が一緒だと、寒さも感じないし。ラルクには一緒にお風呂に入ってアヒルちゃんで遊んでもらわなきゃやってらんないし、ベッテにもぎゅってしてもらうし、フレートにも抱っこしてもらって甘えちゃうことにする。
 ぼくは文字通り、離宮へ泣き帰ったのである。
 ジークフリードにも図書館での一件が耳に入ったのだろう。ぼくが皇宮図書館へ行かなくなってから一週間ほどして、前触れなくやって来た。
「……」
「……」
 しばらくは無言でお茶を飲んでいたが、ジークフリードはまるで鉛でも飲み込んだように重たそうに口を開いた。
「バルタザールは、侍従こうほから外した」
「えっ」
 ジークフリードがそこまでする必要はない。それにミレッカー家の成り立ちや、宮中伯という役職を考えると侍従候補から外されるのは痛手のはずだ。初代のミレッカー宮中伯、ヴォルフラム・ミレッカーは「裏切り者の鼠伯クヴィーク・グラーフ」と死ぬまで揶揄された。クヴィークというのは鼠の鳴き声。薄汚い鼠野郎、チューチュー鳴いて主を欺く卑怯者。そんな汚名を着てまで望んだ女王との婚姻は、なされなかった。主を裏切るにはそれなりの覚悟が必要ではある。当然の報いとも言えるかもしれない。
 宮中伯とは名誉伯と言われることからも分かるように、限定的かほとんど領地を持たない文官伯爵のことを指す。逆に言えば、普通ならその限定的かつ、小さな領地でも財を成せるくらいの特別な領地や、役職を与えられた者のことを宮中伯と呼ぶのだ。だがそれだけに宮中で重要な役職に就けなければ、家を維持することができない場合もある。侍従候補から外されたというのは、次期伯爵である令息が表舞台から落とされたも同然だろう。このことでさらに恨みを買わないとも限らない。バルタザールもそんなことが分からぬわけではないはずなのに、ぼくへあんな態度を取ったのだ。それなりの覚悟はあったかもしれないが、冗談じゃない。
「ジーク様がそこまでなさる必要はありませんよ……?」
 遠慮がちに言ってみたが、正直これ以上巻き込まれたくない気持ちでいっぱいである。しかしジークフリードは静かに頭を横へ振った。
「ならぬ。オレがスヴェンへ図書館使用の許可を出したのだ。オレが特別にそれを許した。だがそれをオレの侍従こうほになろうという人間が害した。厳しく罰せねば、今後オレの侍従は他の貴族にどんな横暴を働いても許されることになってしまう。オレの許可を得た人間に対しても、無礼を働いていいことになる。何より己の欲望を優先し主の考えに背く人間など、側にいらぬ」
「……!」
 それにジークフリード自身が気づいたにしても、側近が教えたにしても、正論である。ここ数カ月のジークフリードの変化は目を瞠るものがある。まだ幼い横顔を眺めて、ぼくは初めてジークフリードの瞳に碧《あお》と翠《みどり》が混じっていることを知った。
「……思慮深く、なられましたね」
「うむ。スヴェンに褒められるのであれば、オレの考えに間違えはないようだ」
 ティーカップを置いたジークフリードは、テーブルの上に置いた手を組んで仄かに笑みを浮かべた。いつの間にか、随分と信用されたものだ。
「ぼくだって間違うことはございますよ?」
「そうだろうか。そうだとしても、お前には間違いを正してくれる者があろう」
 それは、ジークフリードにはなかったものだ。誰もが彼の言うなりにするばかりだった。たった六歳でそのことに気づく孤独はいかばかりか。
「そうですね。ありがたいことです、ジーク様。人は宝にございますれば」
「そうか。なれば出会いは宝さがしのようなものかもしれぬな」
「真にございますね。人生とは大海原へ小舟でこぎ出すようなものかもしれません。広大で悠然として、途方もなく恐ろしい。けれど己の手でオールを持って漕がなくては、どこへ流れるとも知れぬ酷く孤独な旅にございますね」
「だからこそ、信じられる友というものは尊い。今日はな、スヴェン。お前に頼みがあって来た」
「ぼくができることならば、何なりと」
 初対面のジークフリードの印象は最悪だったけれど、今はそこまで彼のことが嫌いではない。数カ月で王としての可能性を見せた彼を、見守りたい気持ちになるくらいには。
「オレはお前を、側近にしたい」
「……え?」
 それとこれとは話が違うっていうか、ぼく二年後には離宮を出るつもりでいるって今は言えないからどうしよう。どうやって断ろう。テーブルセットのソファへ座るルクレーシャスさんへ横目で視線を送る。ルクレーシャスさんはゆったりと紅茶を一口含んで、にっこり微笑んで見せた。面白がってる、完全に面白がってるこの人。
「……謹んで、……お受けいたします……?」
 断ったら理由を聞かれるだろう。だがぼくは離宮を出るまで極力、波風立てたくない。狡猾な皇王に知られたら怪しまれるに決まっている。ならこれ以外の答えなど出せるわけがない。
「うむ。お前の体調が良い時だけでいい。週に二、三日ほど、オレの部屋に顔を出すが良いぞ。なんならお前の望む授業をオレと一緒に受けてもいい。詳細はのちほどオーベルマイヤーと話し合ってくれ。それだけを取り急ぎ伝えに来たのだ。今頃オーベルマイヤーがオレを探しているだろうから、今日はこれで失礼する。ではな」
「オーベルマイヤー様の白髪が増えぬうちに、お戻りになってください」
「ははっ、戻ったらねぎらうとしよう。外はまだ寒い。見送りはここまでで良いぞ」
「ではこちらで失礼いたします」
「うむ」
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