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extra65 澪の果てしない道のり、その陰で

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「あーーーーーー!?!?!?」

 亜空某所とあるキッチン
 数々の偶然が重なり合った眩い奇跡、例えるならどこぞの竜殺しがどこぞの魔人を仕留める程の超がつくそんじょそこらのもんじゃない奇跡が儚くも露と消えた。

「これは……っ!! 複雑極まりない食欲を誘う香りを追って来てみれば、何という美味でしょう!!」

『……』

 絶望の悲鳴の後半と歓喜の絶賛の前半が少しだけ交わっていた。
 前者は亜空では珍しいヒューマンの娘のもの、後者は亜空で知らぬ者はいない女傑澪のものだった。
 うっとり恍惚、ほのかに頬を染めた澪の手には真っ白な皿が一枚。
 二人の周囲には様々な種族が集い、何とも言えない雰囲気を醸し出していた。

「あ、ああ……」

 自我が崩壊したかのように皿を見つめ、涙ぐんで手を伸ばす娘。
 名をキーマという。
 諸般の事情で巴の、そして彼女に関しては澪の事情も関わって亜空に姿を見せるようになった少女だ。
 巴のみの事情でいえばキーマの姉にあたるキャロが漆器に関わって同じく、そうとは知らぬままクズノハ商会の深部に触れている。

「お前がこれを作った料理人ですか! これはどうやって作るのです!? 何という料理なのですかっ!?」

 澪がキーマの胸倉を掴んでゆっさゆっさと前後に揺らす。

「わか、わかりませんー……」

 されるがままのキーマは絞り出すような小声で呟く。

「わからないとは何です!? ちょ、お前! 寝るんじゃありません! 起きて、もう一度作って見せなさいな!」

「そ、そんな、理不尽、あんまりだよぅ……ガクッ」

 キーマは泣き笑いの表情で、ガラス玉の様な空っぽの瞳のまま目を開けて意識を失った。
 ただの絶望ではない、まだ若いのに多くの苦難を感じさせる渋い気絶であった。

「澪様! どうか落ち着いて下さいませ!」

「その者、明らかにもう意識がございません!!」

 キーマが気絶したのをきっかけにして、亜空の住人達が澪の傍に寄っていく。

「なんじゃ? どうした事じゃこの騒ぎは」

 大きくなってきた騒ぎを聞きつけて巴がひょっこりと顔を出す。
 亜空において真の記憶の一つだったカレーが奇跡的に再現され、そして失われた瞬間だった。


◇◆◇◆◇◆◇◆


 ライム、キャロ、キーマ。
 レンブラント商会の系列とは別口でクズノハ商会に協力するヒューマンたちだ。
 それぞれの思惑はありながら利害という面でもクズノハ商会と協力し合える関係が築かれている。
 まあ彼ら三人の誰もがクズノハ商会に頭が上がらない関係という意味では部下、と言っても差し支えないのだが。
 一人目のライム=ラテは元冒険者であり、かつてレンブラント商会との敵対関係から真、巴、澪に戦いを挑んだ過去を持つ。
 その上で五体満足で生き残りクズノハ商会に仕える身に転身したというかなりの幸運に恵まれた男だ。
 元々が実力ある冒険者で面倒見も良く人望ある男だった為、今では巴の下でツィーゲの動向情勢を密偵として探る役割を担っている。
 キャロとキーマは偶然にもライムと同じ孤児院出身の孤児であり姉妹だ。
 姉妹揃って引き取られた先で裏家業を叩き込まれ暗殺を生業としていた。
 がボスの引退宣言に伴って少しばかり宙ぶらりん、姉のキャロは細工師として生きていく道を模索し始めていたところクズノハ商会代表のライドウと出会う。
 木工の技を見込まれて作品を買い取ってもらう関係が生まれ、やがて巴の目に留まり亜空における漆器作成のキーパーソンの一人となる。
 今では亜空の不思議な樹木の加護を得て冒険者としてもそれなりの実力を身につけ、妹とコンビを組んで日々を細工師兼冒険者として忙しい毎日を送っていると言う訳だ。
 妹のキーマは裏家業に居心地の良さを感じる性質を宿し優れた素養と能力も持っていたのだが姉のキャロ、そして自らの名がライドウにとってスパイシーな語感であったという理由から巴に見初められてしまった。
 そして半ば強制的にクズノハ商会に取り込まれて裏家業との縁はぶった切られて今に至る。
 情け容赦なく巴からライドウの記憶にあるカレーライスの味やイメージを頭に刻まれ、その再現を命じられて給仕から料理人に転身、兼冒険者として姉と荒野にも繰り出す羽目に。
 姉妹はともにライムの密偵仲間としても活動し、これまでにも様々な陰謀をかぎつけたりと活躍も中々のもの。
 巴はちょっとした鬼平気分を味わえてご満悦、とまあそこそこに上手く事は運んでいたのだが。

「はやまったのう、澪」

「あれが、カレーライス!?」

「正確にはカレー、の部分じゃがな。ほれ、キーマが号泣しとるじゃろうが」

「う……、まさか奇跡的に配合が叶った一皿だとは夢にも思わないじゃないですか……」

「ま、可能性がゼロじゃなかったとわかっただけでも儲けもの。むしろ確実に、かなりの前進をしたんじゃが……一足跳びに成功までこぎつけてしまったからには即座にそう思うのは難しかろうなぁ」

 巴と澪がいる部屋だというのに、キーマはひたすら号泣していた。
 もう殺すなら殺せとでも言わんばかりの開き直りっぷりだ。

「それで……大体のレシピも残していませんでしたの?」

「何とか周りのもんに聞いた話の感じじゃと……」

 料理を作る、それも新しい料理の開発となれば工程や材料、分量に至るまで細かに記録しながら進める事も珍しくはない。
 それなりに料理のあれこれを学んだ澪だからこそ、そこに触れたのだ。
 だが巴の説明によればこの日はツィーゲ、荒野、そして亜空の各地から香りの強い食材を持ち寄って片っ端から色々試してみようという試作の場だった。
 そもそも毒でない事以外は良くわからない珍しい食材も多々あり、今回の奇跡の成功についてもベース位しかまだはっきりと決めていなかった中で出来てしまった偶然中の偶然。
 悲惨な事に突然乱入した澪というイレギュラーから起きた騒ぎもあって、誰もベースとしたスパイスとその他一品位しか覚えていなかったためにレシピの再現は結局叶わなかった。
 折角の大成功だったというのに、今回はっきり使用する筈と見極められた食材は二つ三つ。
 持ち寄られた数百の食材から数十を選択して作成したとしても……中々に厳しい結果だ。
 せめて完成品がまだ残っていれば模索はもう少し簡単だったろうが、現品は最早一滴も残っていない。
 澪の手に残った皿はそう、真っ白だったのだから。

「トウガラシにこの種、それ以外はまた一からですか。あれほど玄妙なスパイス料理……流石に申し訳ない事をしました」

「お、料理の事となるとお前も少しは話が出来るようになったか」

「感動するような美味しい料理のレシピはどれも工夫に満ちていますから。技はもちろん、使う食材やその見極め方一つにも彼らの苦労が凝縮しています。逆にありふれた料理のレシピは余計を削ぎ落した基本形であり、そこからどう好みに合わせていくのかという余地を残すという――」

「あーわかった、わかった。料理話はまた飯を食うとる時にでもゆるりと聞く。でな、澪よ」

「はい?」

「このキーマこそはお前が最初に皆を戦慄させのたうち回らせたカレーの再現を我らクズノハ商会に代わって快く引き受けてくれた元給仕の娘なのだ」

「……そのようですね。アレがカレーとなれば私にだってわかります」

「ツィーゲで手に入る食材やら荒野でこやつら姉妹が取ってきた食材はまあ、何とでもなるが。問題はこちらで手に入れたであろうこの娘の協力者たちが集めた方の食材じゃ」

「……」

「香り野菜であれスパイスであれハーブであれ薬草なんかじゃとしても。これらはキーマが再び求めようにも容易い事ではない。実際、これは間違いないというそこの種もこちらの物のようじゃ」

 風味を考えれば間違いないとキーマが断言した種子は日本でクミンシードと呼ばれるものに形状、味、香りともに酷似していた。
 ちなみに真はカレールウを使用するごく一般的なカレーの作り方しか知らない。
 使用されている詳細なスパイスの知識はゼロに等しい。
 特徴的なものとはいえ、味とイメージだけを頭に叩き込まれた未知の料理を模索する状況でクミンシードをはっきり特定できたのだからキーマの舌がそれなり以上であるのは確かだ。

「なるほど、であればしばらく私がこちらで彼女の食材探しに協力」

「などされたりしたら亜空クズノハの方が回らんくなる」

「? では」

「アルケーなら十分じゃろうから、しばらくキーマに付けてやろうと思う。どうじゃ」

「護衛兼食材集め役という訳ですか。しかしそこらならともかく『樹園』や『菜園』となるとあの子たちでもお荷物を抱えていては危険な場合もありますよ?」

「そこは承知よ。あそこはオークやリザード、森鬼の鍛錬ついでに収穫もやらせようかと考えとる。要はそうやって得られたこちらの食材をキーマの所に届けつつ、あちらでのキーマの活動全般を手伝う役回りが良かろう」

「それなら……アリですわね」
 
 少し考えた澪が巴に頷いてみせる。
 澪が多少なりとも責任を感じるのは巴としても世間への適応能力を考えると大きなプラスだ。
 しかしそれで澪という大駒がツィーゲの密偵一人にかかりきりになられても困るというが事実。
 ならば澪の眷属でもあるアルケーを澪の代わりに詫びに行かせる辺りが巴としても良い落としどころ、という訳だ。

「人当たりを考えればアキナ辺りが妥当かの」

 時折店にも出る女アルケーを推薦する巴。
 しかし澪が首を横に振った。

「あの子は戦い方に少々問題があります。ツィーゲにも行かせるのでしたらハルナの方が上手くできますわ」

「ふむ……確かにあの姉妹は荒野にも出とる。余り癖のある戦い方をする者では却って危険が増すか」

「ええ」

「あいわかった。ではキーマにはハルナをつけるという事で良いか」

「了解ですわ。それで……」

「?」

 号泣からの虚無状態になってテーブルに頬をべったりとつけ、無言でどこか遠くを見つめているキーマに視線を送る澪。
 巴はまだ何かあったかと首を傾げた。

「あのカレーはいつ完成するんですの? 明日? 明日? 明日ですか?」

 キラキラした顔で奇跡の味を反芻し、つつ、とはしたない液体を唇からしたたらせる澪に巴は大きなため息とともに額を手で押さえた。
 
「……な訳なかろう! しばらくはしばらくじゃ! 半年か一年か! 自業自得なんじゃから余計なプレッシャーはかけんで黙ってみとらんか!」

「……ちょっとした冗談ですのに」

「どこが冗談の顔じゃ! 思いっきり明日の夜にはカレーを食う気じゃったろうが! それにライスもまだ見つかってなかろう!!」

「さてハルナにお役目を言いつけてきまーす、わ」

「念話で済ませい! 大体澪! お前は若がおらんと大概――!」

「あー忙しい忙しい」

「澪ーー!」

 実際、巴の言葉は正しかった。
 再びカレーの香りが亜空に生まれるのは約半年後の事。
 さらにローレル連邦の粘り気が強いやや小粒のライスに合わせたカレー、入れる具材に合わせたレシピ、辛さの調整などを含めカレーライスがツィーゲで料理として確立されるまでには一年近い期間が必要だった。

「私はこのこんちくしょう、ターメリックを忘れない」

 彼女の研究ノート原本、カレーライスの頁には最後のピースとなったスパイスについて殴り書きが残されている。
 スパイスの魔術師、後に天才料理人の一人として数えられるキーマ。
 彼女を取り巻くのは姉のキャロ、頼れる兄貴分ライム=ラテ、冒険者仲間にして朋友ハルナ、偉大なる料理道の先達にして優しい謎の黒髪師匠。
 やがてツィーゲで長く愛される笑いあり涙ありの定番の物語の一つは、いつもカレーライスの話から始まるのだった。
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