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extra57 魅惑極楽湯の誘い

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 今日という日を革命と呼ばずに何と呼べば良いだろう。
 後にリサ=レンブラントはこの日を振り返って革命という強い言葉さえ惜しまずに使った。

「どうじゃ奥方。良き湯であろう?」

「答えは聞くまでもありませんけれどね」

 女三人が身を沈めていたのは細部まで工夫が施された岩風呂だった。
 巴、澪、そしてレンブラント商会代表の妻リサ。
 裸の付き合いをするのがこれが初めて、大浴場での入浴どころか習慣自体が無いリサには抵抗もあったが相手がクズノハ商会の幹部となれば今後の関係も考慮すれば断る選択肢はない。
 半日ほど時間を作って欲しいという、中々無茶なお願いをされたリサは先約を幾つか延期、またはキャンセルした上でこの場にいるのだった。
 
「はふぅ」

 何度目かになる気の抜けた声がリサの口から漏れる。
 その様も十分な色気が漂ってはいたがそれは彼女生来のモノであり意識して出したものではない。
 普段他人のいる空間でここまで油断しリラックスしたリサの姿は中々見られるものではなく、もしこの場に娘二人がいたら目を真ん丸にして母親を凝視していた事だろう。
 湯の水面から彼女の右手がゆっくり出され、対の左手がそれを撫でる。
 白く濁った湯が湯舟へと滴り帰っていく。

「やはり、この湯は毎度〆確定じゃのう澪」

「はい、あがった後のお肌が違いますもの」

 巴と澪は言葉少なに湯を楽しむリサを見つめつつ、この魔の山温泉郷でも傑作、と二人が共感している白濁の湯を褒め合った。
 肌に絡むようなぬめりをわずかに感じさせ、立ち昇る湯気からはかすかに甘い香りが漂う。
 お気に入りの湯だけに、巴も澪もまだここには名前をつけていない。
 真から名付けは好きにしていいと言われているものの、数ある候補から決めきれずにいるのだった。
 実は二人がこれならと思う名はあったのだが即座に主から却下され、代わりに識から提案された名を二人が両断して今に至る。
 ちなみに前者は森鬼のエリスの影響で漢字に興味を持ったゴルゴンからの提案で「貴精の湯」、後者は甘い香りと色から「薄クリーム湯」であった。
 
「やっぱり、このお湯は普通ではないんですね?」

 リサが巴を見つめて尋ねる。

「その通り。山底から湧き出す熱湯を程よい温度まで冷ましたり、薬湯にしたりして溜めておる」

「山の下からこのようなお湯が湧くのですか。知りませんでした」

「一部地域では温泉と呼ばれておるな。入浴によって冷え性や関節痛、傷の早期治癒や虚弱体質の改善など各地によって様々な効能があるとされて大切にされとるんじゃ」

「温泉……。存在は知っていましたけど、これが。想像とは全く違うものでした」

 巴の説明にしっかりと受け答えはするものの、表情は多少蕩けたままだ。
 日常的な習慣として入浴が存在しないリサは初めての快楽に身を委ねていた。

「今日は初めてでしたから一通り回ってもらいましたもの。あがってからも身体の中にここの熱が残って暖かなまま過せますよ」

 澪も解説を加える。
 肌をつるりと仕上げる上、しっとりとした質感を保ち保湿効果は抜群。
 入浴後に付ける香水や香油の香りも一段上に押し上げる。
 疲労回復は言うに及ばず、人々を、特に世の女性を虜にするには十分な効果を持ったお湯。
 それが魔の山温泉郷の実力だった。
 しかし問題点も無いわけではない。
 効果が高い故に最初から数回は入浴後は意欲的に動く気持ちになれなくなる、という副作用があるのだ。
 もちろん疲労回復、気力回復するのだから本来はより一層元気に動けるのだが、それ以上にリラックス効果が前に出てしまい、慣れるまで数回は一日をまったり過ごす事になる。
 巴と澪は入り慣れているので問題ないが、リサの方は既に一日の終わりを感じさせるお休みの雰囲気を全身から放っていた。

「夫が神殿を見限ってから、一つだけどうしても不便な事がありました。この世で神殿がどこよりも最先端を走る分野、美容です」

 リサはのんびりしながら苦労話を口にし始める。
 これもまた、書かれてはいない温泉の効能だろう。
 気持ちが良くてリラックスすると人の口は多少軽くなる。

「けれど、今日こんなに素晴らしい体験をさせてもらって。少しは取り返せた気持ちになりますわ。お誘い頂いたお二人にはどうお礼をしてよいか。本当にありがとうございます」

 エステや化粧品はこの世界では溢れかえっている。
 人々の美意識がナチュラルに高いだけに化粧品の種類は無数にあり、ブランドの数も数えきれるものではない。
 競争も激しく、粗悪品も多く、だが商人にとっては成功できさえすれば巨万の富を築く特殊な業界。
 余談だが荒野から持ち帰られる素材の中でも化粧品の原材料になるものは高値を付ける物が多い。
 けれどそんな業界で常にトップに君臨するのは神殿印だ。
 これはエステの方も揺らぐ事がない。
 真は呆れるばかりだったが、美は学園でも盛んに研究されている分野である。
 にも関わらず神殿は一強であり続けている。
 信仰の意地というものかもしれない。
 
「神殿の美への執着は凄まじいモノがあるからのう。提供される品は儂らから見ても大したものが幾つもある。無論、値も相当じゃが……奥方ならその辺りは気にしておられんじゃろうから、手に入らぬのは悔しいばかり、かの」

「……こればかりはこっそり、ともいきませんもの。特に美容に関しては人の口に戸は立てられません。どんなルートであれ私が神殿製の化粧品を取り寄せたという噂はすぐに出回ってしまいますから」

「では、今日はこちらで少しばかり身体を磨いていけば良いですわ。クズノハ商会でも美容、化粧品には最近真剣に取り組み始めてますの。私自身は専門ではありませんけど……中々気持ちが良いものですよ」

「……? このお風呂は確かに気持ちが良いですが……もしや」

「うむ。奥方であれば厳しい目で儂らの提供する物の良し悪しを意見してもらえるとも思ったゆえ、こうして特別に他に先行してのご招待をした訳じゃ」

「まだ、この後にも色々とあるのですか?」

 リサの目は期待に満ちていた。
 最初の入浴でこれだ。
 休み休み、半日ほど過ごしても良いとまで思っていた所に何と嬉しい提案だろう。
 巴、澪の肢体は同じ女として見ても圧倒される、いや自らの身体にそれなりの自信があるリサからすればわずかに嫉妬さえ覚える見事なものだった。
 だがそのかすかな嫉妬さえ消し飛ぶような魅力的な申し出。
 リサに頷かない理由は無かった。

「蒸気風呂とオイルマッサージ、ブレンドハーブのパックなどを予定しておる」

「全部終わったら汗を落として体の中をケアする食事もありますよ」

「!」

 エステ。
 それもかなり値の張るコースのそれに見劣りしない内容が二人の口から明かされる。
 思わずリサの口元がにへら、と彼女にしてはかなり珍しい表情に歪む。
 半日空けると決めた時は後の仕事を思って少しばかり憂鬱にもなった。
 だが今日はどうやら極楽だ。
 ゆっくりと身体を磨き、リラックスして過ごす。
 たまにはこんな日があっても良い。
 自分へのご褒美とはこの事だ。
 しかし。
 同時にリサは思った。
 これは、癖になったりしないだろうかと。
 その予感は、ばっちり的中する事になる。
 一通りのコースを体験したパトリック=レンブラントの妻リサは。
 その夜、夫に初めての伝言をした。
 今日は泊まる事にしました。明日の昼には戻ります。
 伝言を受け取ったパトリックが慌てふためいたのは気の毒という他ない。


◇◆◇◆◇◆◇◆


「あなた、帰りが遅れてごめんなさいね」

「あ、ああ。珍しい事だったからモリスと少しばかり心配していたが、うん、おかえり」

 伝言通り、翌日の昼前にはツィーゲに戻ったリサ。
 夫に謝罪と帰宅の挨拶をすべく商会に顔を出した。
 
「……おかえりなさいませ、奥様。クズノハ商会に招待されてお出かけとの事でしたが、どちらへ行かれていたのですか?」

 モリスもまた、リサの変化に内心驚きながら行き先を尋ねる。
 本来なら、最高の体験に招待する、行き先はまだ内緒じゃ、などという輩にリサを預けたりはしないモリスだが相手は家族の如き付き合いを持つようになったクズノハ商会だ。
 恩人でもあり、本人も行く気になっていた以上見送るしかない。
 そして当然の様に、モリスでさえ彼女たちの向かった先は全くわからなかった。
 つくづく規格外の存在だと思い知らされるだけに終わったのだ。

「温泉。素晴らしかったわ」

 リサは言葉少なに答える
 その仕草がどこか気怠けだるげで色気を纏っている。
 
「温泉……? はて、この界隈に温泉などありましたか」

 長い付き合いの女主人は、一晩で昔に戻ったような若々しさを放っていた。
 文字通り若返った、とは少し違う。
 そうなる寸前といおうか、薄皮一枚の下に昔の彼女がいるような。
 温泉の存在はモリスも知ってはいたが、若返りの湯など聞いた事がない。
 クズノハ商会にはそんな施設まであるのか、と軽い戦慄を覚えるモリスだった。

「かなり遠くの様ね。ただ巴さんや澪さんには転移なんて大した事ないみたいなの」

「転移、お二人ともですか」

「とんでもないわね。それで、雪を眺めながら高い山の中腹で、お風呂三昧してきたのよ」

 雪。
 高山。
 お風呂。
 次々にツィーゲで聞くには現実離れした言葉が出てくる。
 荒野と人の世を分かつ山脈はあるとはいえ、登ったりバカンスを楽しんだりする場所では決してない。

「温泉、風呂。蒸気風呂とは違う、体を浸す入浴というやつか。しかし君がそんなに満足したのを見たのは久しぶりだ、それほど快適なものなのか。……そろそろ、ウチもクズノハ商会と協力して化粧品にも本気で手を出してみるか。私の意地で君にいつまでも不自由はさせたくないと常々思っていたからね」

 妻が不満を感じていた美容について、パトリック=レンブラントもこのままではいけないと感じてはいた。
 しかし商品として通用するレベルの化粧品というだけならともかく、これまで使用していた神殿製に匹敵するレベルの代物を作るとなると、それなりの博打だ。
 化粧品はハイリスクハイリターンの代名詞。
 中途半端に手を出せる業界ではない。

「……」

「? リサ?」

「巴さんが言っていたけれど。クズノハ商会が考えているアレはまだまだ神殿の品質や技術力には及ばないらしいわ」

「……だろうね。いくら彼らでも一朝一夕で神殿に追いつける訳が無い」

「ただ」

「?」

「物凄く、満足出来たわ。温泉や蒸気風呂が組み込まれているのもあるんでしょうけど、身体も、心も、全部揉み解された気分なの」

「ほう……」

 本当に心底から満足した。
 こんな妻の表情はあまり見られるものではない。
 レンブラントは短く感嘆すると、彼女が次に紡ぐ言葉を待った。

「今度あなたやモリスも是非って言ってくださってたわ。その時はライドウ様がエスコートして下さるって」

「彼と裸の付き合いか。それも悪くないな」

「ええ。それで、私もまだコースを洗練させたいから何度か招待したいって誘って頂いているの。いいかしら?」

「……」

「あなた? モリス?」

 お互いにまだ若かった頃。
 レンブラントが何度も見てきたリサの表情を、今、彼は再び目にしていた。
 柔らかく、時に蠱惑的に。
 尋ねているようで、有無を言わさないリサの問いかけの表情かお
 獲物を見定めている肉食獣のような瞳。
 本当に若返った妻を見ているようで、レンブラントとモリスはお互いを見合って苦笑する。
 同じ事を考えていたのだと男二人、お互いを察して。

「……ああ。わかった。化粧品についてはウチの今持っているノウハウくらいなら開示しても良かろう。君が満足するモノを彼らが作り上げてくれるというなら、夫として全力で協力しようじゃないか」

「ありがと。愛してるわパトリック。でもね、一度行けば絶対に貴方も気に入るから。最初に言っておきますね。ウチにお風呂が欲しいと言い出しても私は反対しませんから」

「はは、凄い自信だな。ライドウ君と温泉に行ける日が楽しみだ。なあ、モリス」

「ええ」

「それに……完成したら、どんな商会の奥様だって虜になるわ。凄いんだから」

 リサの目が再び獣のソレに変わる。
 レンブラント商会の奥様が最近物凄くお綺麗になった。
 そんな噂がツィーゲに広がるのはすぐ後の事。
 美容について秘密など守り切れないと自ら口にしていたリサは、しかし決して口を割らず。
 やがて神殿も情報収集に動くほど水面下の動きは激化していくのだが……。
 クズノハ商会が会員サービスと銘打って温泉体験を解禁するその日まで、秘密は守り通されるのであった。
 魔建築に続く美容業界での恐るべき革命の日は、すぐそこまで近づいている。
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