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「…………湖……。……そうか」

トエイはディアナドラゴン。"水竜"と呼ばれる種族だ。その気質は穏やかで、慈しみ深く、美しい自然と清らかな水をこよなく愛するという。
彼女がこの絵に描かれた湖を知っているのかどうかは分からないが、遺伝子の記憶というやつだろう。懐かしむようにずっとそれを見つめている。

「欲しいか?」

アインがそう言うと、トエイは気を遣ったのか首を横に振った。

「いいよ、ほら。おーい、これ幾らだ?」

「へえ、二百ルーンです」

年老いた店の主人がそう言うと、アインは財布から銀貨を取出し彼に渡した。

「まいどあり」

「ほら、遠慮すんなって」

アインはその本を取ると、トエイに無理矢理渡した。彼女の小さな手に余る大きさだが、トエイはそれをしっかりと抱え、幸せそうな笑みを浮かべた。心の中が暖かい何かで満たされていくのを感じながら、トエイはアインにこう言った。

「アイン、アイン。大好き、ありがとう」

「はは、サンキュ」 

アインはくしゃっとした笑顔を見せた。 

アインとトエイは,、それから様々な店を回った。
生活洋品店や、果物屋。魚屋。戦争の絶えない国なので、そんなに豊富に物があるわけではないが、トエイは物珍しさに瞳を輝かせていた。
アインはそんなトエイに、妹を見守るような暖かい眼差しを向けていた。遊びに行ったのか買い物に行ったのか分からない程に、二人は声を上げて笑い、はしゃいでいた。

「よく遊んだなあ」

両手に荷物を抱えたアインが、その重量をものともせず伸びをした。

「ルピナス、待ってるね」

トエイは買ってもらった絵画集を大事そうに抱き締めたまま、笑みを見せる。
そして、その角を曲がればもうルピナスの雑貨屋が見えるといった位置に来たところで、彼は急に立ち止まり何かぶつぶつと呟きだした。

「ルピナス…………、ルピナス…………、なーんか忘れてるような…………。あっ!!」

すると、アインが急に弾かれたように後ろを振り返った。

「どうしたの?」

「やっべ……組合寄るの忘れてた」

「組合?」

アインは自分の腰辺りまでしかないトエイに視線の高さを合わせると、焦りながら彼女に説明を始めた。

「トエイ、俺今から組合…………"ギルド"ってとこに寄ってくるから。そこ曲がったら家見えるから、先に帰っててくれるか?」

「え」

あからさまに不安がるトエイに後ろ髪を引かれながらも、余程大事な用なのだろう。アインは立ち上がり走りだした。

「すぐ帰るから!」

「あ…………っ、アイン!  アイン!!」

淋しそうに名を呼ぶも、彼は一瞬にして雑踏の中に消えていった。
トエイの持ち物は、買ってもらった本一冊なのだが、やけに重たく感じるのは心の沈みがそうさせているのだろう。諦めたように、トエイはとぼとぼと歩きだした。
言われた通り角を曲がると、前方にルピナスの雑貨屋が見えた。二階の窓が開いている。掃除をしているのだろう、布団らしきものが窓から垂れ下がっている。
トエイはルピナスの顔を思い浮べながら、焦る気持ちと一緒に走りだした。
しかし、子供というのは不思議なもので。よく足元を見ないでそうすることが多い。そうするとどうなるかは容易に予測出来るのだが、まだ見た目は幼いトエイも例外なく浅はかだった。
道の歪みに気付かないまま、彼女の足はスピードにのった。その結果。

「あっ」

トエイは、勢い良く前に転げてしまった。
咄嗟に手をついたおかげで大事には至らなかったが、手の平と膝を少々擦り剥いてしまった。服も、土に汚れてしまっている。
大事なあの絵画集はというと、トエイの前方に淋しそうに寝転がっていた。

「本…………」

そんなトエイを見ても、道行く人々は誰も手を貸そうとはしない。トエイは泣きだしそうになるのを必死に堪え、立ち上がり衣服を叩いた。
そして本を取りに行こうと足を進めた瞬間。彼女はとてつもない緊張感を感じ硬直した。
本の向こう側、誰かがこちらをじっと見つめている。 頭から足元まで白いローブを被って、尚且つ口元も布で隠している為はっきりとは分からないが、アインと同じくらい背の高い男性だ。
その貫く槍のように尖った表情の瞳はトエイをずっと捕らえていたが、ふと、下に落とされた。
意外なことに、男はトエイが落とした絵画集を拾い上げると、その土埃を丁寧に払い始めた。男は本が綺麗になったのを確認すると、トエイの前まで歩み寄り、先程アインがしたようにその視線の高さを合わせ、本を差し出した。
顔の距離が近い。そうしたことで、トエイは初めてその尖った瞳の本質を知ることが出来た。
清流のように、透き通った紫苑の瞳。
何て美しいのだろう。

「……ありがとう」

トエイは本を受け取ると、守るようにその腕のなかに抱え込んだ。その様子を見て、男性は尖った瞳の目尻を下げた。

「湖が好きなのか?」

「うん」

「俺も、湖は好きだ」

その言葉は何故か、トエイの胸に強く響いた。

「しかし、この国は枯渇している。ほとんどが岩と砂漠だからな」

トエイの顔が曇る。見た目はまだ幼いとはいえ、ディアナドラゴンである彼女にとってこの枯渇した大地はストレスを溜める要因だ。
男性はそんなことは知らない筈だが、少し小声でこう言った。

「秘密の湖の場所を教えてやろうか」 

「うん!」

トエイは顔を輝かせる。
男性はフッと笑いを洩らすと、トエイに囁くようにその場所を教えた。

「南門を出てまっすぐ進むと、蜃気楼にまぎれて岩山が見える。だがそれはまだ目印だ。そこを更に…………」

「うん、うん」

覚えようと必死に頷くトエイ。その目は真剣だ。

「覚えたか?」

「うん!」

「秘密だからな」

そう言うと、男性は静かに立ち上がり、その場から立ち去ろうとした。が、トエイはそのローブを必死に小さな手で掴む。

「なんだ?」

男性は怒りもせず、トエイを見る。

「あたし、トエイ」

「トエイ…………。誰が付けたかは知らんが、良い名前だな」

「あなたのなまえは?」

「え?」

男性は名乗ることを躊躇ったが、「まあいいか」とため息をつくと、小さな声で名を名乗った。

「ヘリオス」

「……ヘリオス?」

「何もかも、秘密だからな。父親や母親にも言うな」

「秘密…………」

「じゃあな」

男性は、そのまま振り返ることなく立ち去っていった。
トエイはぎゅっと本を抱き締め、その背中を見送っていたが、ルピナスの事を思い出すとすぐさまその場から駆け出した。
すると、雑貨屋の二階からタイミングよくルピナスが顔を出し、走ってくるトエイに気付くと手を振って声をかけた。

「お帰りトエイー!  可愛い可愛い!」

「ルピナス!」

雑貨屋の前まで走り、トエイはルピナスを見上げる。干してある布団はなんとも柔らかそうで、トエイの頭を眠気が襲う。

「あら、アインはー?」

「わすれものだってー…………ふあ…………」

トエイは目を擦りながらそう言うと、急いで雑貨屋の扉を開けて中に入っていった。

アインがルピナスとトエイの待つ家に帰ってきたのは、もうすっかり月が空に昇った頃だった。
待ちくたびれたのか、買ってもらった本を抱き締めたままベッドで眠るトエイを見て、アインは慈しむようにその頭を撫でてやった。

「お帰り。どう? 二階のこの部屋。綺麗になったでしょ」

廊下からルピナスが声をかけると、アインはトエイから離れ、彼女を起こさぬよう部屋の扉をそっと閉めた。
ルピナスは手にシーツを持ち、階段に足をかける。アインもその後に続く。階段を降りきったところで、ふいにルピナスが振り返り口を開いた。

「組合(ギルド)に行ってきたんでしょー? 何か言われた?」

アインは少し動揺したが、平静を装いながら視線を合わせた。

「べつに。また探してこいだとよ。もう国内探してもディアナドラゴンなんかいないってのに」

「バカ正直なくせによく嘘がつけたわね」

「ああ、うん。そんなに追求されなかったし…………」

アインはそこまで言い掛けたが、ルピナスの発言の意味をよくよく思い返すと、一粒汗を流した。

「ルピナス…………」

「あたしに隠し事なんて出来ると思ってるの?」

眼鏡越しのルピナスの瞳が、鋭く光る。

「ディアナドラゴンなんでしょ、あの子が」

「いや…………その。…………バレてたのか」

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