神創系譜

橘伊鞠

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第23話「天つ日、雨隠れ」

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 何故拒むのか! 見つけたのに。やっと辿り着いたのに!
 天高くそびえる山も、藍深く沈む神殿も。全てを巡り、貴方を見つけた。
 そうして私が、貴女を導いてみせる。蒼い世界ではなく、解放された世界に。
 なのに、何故拒むのか。人の心の、祈りを捨てて。





 ――何故だ。何故、負ける。何故退かねばならない。
 こちらは騎馬隊を率い、優秀な魔導師のクレアスィオン、双璧の一人クルヴェイグがいた。
 更に、手の中にはこの剣もあった。
 いや、仕方ない。セイレがあのような機で現れるなど予想外だったのだ。加えて、奴らは時間の経過とともに強くなり、確立されていない不可思議な力を持っている。

 分が悪かった。私は負けたのではない。
 ――負けたのでは、ない!!

「でも、セイレを連れて帰ってはこれなかったね」

 マリアベルは、今までこんなに無感情なアルフレッドの声を聞いたことはなかった。
 彼の冷たい声や、静かに怒りに満ちた声は知っている。だが、ここまで無関心で感情の無い声は聞いたことがない。
 誰もいない、二人きりの彼の部屋。胸が高鳴るのではなく、その恐怖に身は震えていた。壁のほとんどを占める窓の向こうに色は無く、まるでマリアベルが置かれた状況を現しているかのようで、酷だった。
 頭上から降る氷の声に耳を傾けることは出来ても、その主の顔を見ることは出来ない。地に付いた自身の膝を見つめていると、そこに水滴が落ちた。
 汗。極度に緊張し、震えた時に流れる不自然な汗が二つ三つ、石の床に痕跡を残した。右膝に添えた手には白い手袋がはめられているが、黒くうす汚れていた。

「楽しみにしていたんだよ。君が帰還した知らせを聞いた時、きっとセイレを連れて帰ってきてくれたんだって」

「しかし、セイレの意志が頑なに我らを拒み」

「そうなんだねえ」

 短い言葉に、あらゆる否定の感情が見えた。それを鼓膜が受け入れた瞬間、マリアベルは息を吸うことすら忘れてしまうほどに、絶望した。
 戦うこと、剣を振るうこと、死ぬことに恐怖は無い。ただ怖れるのは、否定。

 ――否定されたくない。貴方にだけは!

 マリアベルはようやく顔を上げた。だがアルフレッドはこちらなど見ていなかった。窓の外、遙か彼方を見つめる瞳に自身が映ることが適わない。
 暁の髪、すらりと高く伸びた背。彼女は前のめりになりながらも立ち上がると、その背中に手を伸ばした。その背に触れることをためらってしまうのは、更なる否定を怖れてしまうから。
 だが、彼女は意を決してその背に両手で触れた。そしてそのまま、頬を寄せた。高価な布に幾重にも包まれたその向こう側にある体温に、この手は届くだろうか。
 彼女の行動を、アルフレッドは否定しない。今どんな表情をしているのだろう、とマリアベルは不安になったが、触れても嫌がられてはいないということに一時の喜びを感じた。

「陛下……そんな事仰らないで下さい……」

 そう熱の籠もった声で囁くマリアベルは、まるで幼い恋を実らせようとする少女のようで。 身を寄せていても、決してその体を武器にどうこうしようという浅ましい考えを抱いているのではなく、ただ寄り添いたいという想いのみでそうしていた。

「マリアベル」

 不意に、彼は振り返り、その腕の中に彼女を抱き締めた。思ってもみない抱擁にマリアベルは動揺したが、すぐにアルフレッドの体に合わせて身を柔らかくし、同じように両手を背中に回した。

「陛下……私は……」

 アルフレッドは何も言わずとしてその紺碧の髪に顔を埋めた。その腕に包まれ、マリアベルはこれ以上無いというほどに歓喜した。
 やはりこの方のためならば、必ず成し遂げよう。セイレを求めていようが、リリスティアを求めていようが、構わないじゃないか。
 彼の願いさえ叶えば、こうして、抱き締めてくれるならば。そう、優しい決意をしたのだが、それは無残に砕かれることとなった。

「満足かい? マリアベル」

 その一言で、彼女が浸されていた幸福の世界は黒い墨でぐちゃぐちゃに汚された。そして、今さっきまで自分を強く抱き締めていた腕と体は、惜しむこともなくするりと離れた。

「しばらく休むといい」

 彼はマリアベルを顧みず、無情にも扉を締めた。拒否、するかのように。
 作戦の失敗を咎められるのではなく、抱き締められた。だが、すぐに突き放された。なるほど、これが罰。彼は私の気持ちを知っている。こうすることが私に対しては一番効果ある罰なのだ。
 そんなアルフレッドに対してマリアベルは絶望するのではなく、更に深く想いを強くした。否定されないのならば、

「次は御心に適うように尽くします」

 だが伴って、セイレとリリスティアに対する憎しみもまた、強くなった。

「悪魔は殺しません。セイレも、リリスティアも。連れ帰れというならば、そう致します。ですが」

 紅の唇が、ゆるやかに弧を描いた。

「他は、どうしようと構わないですよね。陛下」

 一途に、想う。その力の強さが導くのは、正しき道だけではない。
 想うが故に狂え、と彼女に囁いた。


 * * *


 リュシアナ王城の中にある第二神殿では、定例祭儀を終えたバロンが苛々とした様子で佇んでいた。
 右手には分厚く大きな教本を持ち、左手には先端に白い玉の付いた祭儀用の杖を持っている。
 第一から第三まである神殿では、毎日こうしてバロンが祭儀を奉り、集まった貴族たちが創世神に祈りを捧げている。
 この第二神殿は中流階級、つまり軍役している者が祈りを捧げる場である。
 あとは、更にその下の階級の者たちが待つ第三神殿の祭儀を終えれば、バロンの朝のとりあえずの仕事は終わるのだが、彼はなかなか動こうとはしなかった。

「たかだかローエン家に縁があるからと言って、政にまで口を挟むではないわ」

 と、独り言を吐き捨てると、バロンは片方の瞳にだけ取り付けたレンズの位置を正した。
 議院に対しての、何か柔らしい嫌味を耳にしたのだろう。彼の眉間には深い皺が刻まれていた。

「お父様?」

 そんな彼の様子を伺うように、神殿内の、神官が出入りする時に使う小さな扉から、クレアスィオンが顔を覗かせた。

「なんだクレアスィオン。お前はもう祈りを終えたじゃろうが」

 父親が苛々しているのが目に見えて分かるので、クレアスィオンは顔だけを見せ、体は扉に隠しながら問い掛けた。

「ね、ねえ、マティス知らない? この前から城にいないみたい」

「マティスは陛下の勅命で任務に就いておるのじゃよ」

「任務?」

 首を傾げるクレアスィオンに対し、バロンは少々面倒臭いような顔を見せた。

「多くは話せん。マティスに何か用があるのか?」

「用とかじゃないんだけど、気になったから」

「……それよりクレアスィオン、体はどうだ?」

 バロンがその体を一瞥すると、クレアスィオンは背中を見たり足元を見たりして、どこかに異常が無いか確認した。
 そして笑みを浮かべ、無言に頷いた。

「順調か。ふむ」

「不思議だねお父様。こんなにも体が自由だなんて」

「だが無茶をするでないぞ。あくまでも」

「『人間らしく』」

「そうだ」

 返事と共に、バロンの口の端に笑みが見えたので、クレアスィオンは嬉しくなり得意そうに両手でピースサインを作ってみせた。
 しかしふと、その動作に続けて、不安そうな声で言葉を紡いだ。

「お父様……あのね。ボク、昔の知り合いに会ったの」

「会うこともあるじゃろう。あれから、そう幾年も時は経っておらぬ」

「その人ね、ボクをちゃんと覚えていたの」

「良き友、良き知人。大切にするが良いのお」

 半ば、聞いて聞かぬふりをするバロンだったが、それよりもクレアスィオンの脳裏には、あの昼の太陽に染まる青年ばかりが浮かんでいた。

『クレアちゃん!!』

 懐かしい、声。
 呼応して、自然と彼の名前を紡いだ口。

「レイム……」

 神殿を去るバロンの背中をぼんやりと見つめながら、クレアスィオンは小さな胸の中心をぎゅ、と両手で抑えた。

「レイム。レイム」

 締め付けられるような感覚に戸惑いながらも、神殿に差し込む透き通る朝日の先を目で追った。

「なんなんだろう、この気持ち」

 そこには、彼のような白き陽がこちらを向いていた。

「レイムって、『あの時のボク』の何だったんだろう?」

 灰の瞳は、虚ろに陽を写し歪む。
 何かに激しく混乱しているかのように頭をかきむしったクレアスィオンは、やがて自分の両手で瞳を覆い、視界を闇に染めた。

「レイム。君は、君に聞けば、この体は、安定するかな」

 そう呟いた瞬間、クレアスィオンの額に、音を立てて小さな亀裂が入った。まるで、石か何かが割れたように。
 だが、すぐにそれはまるで粘着質な物質が結合するかのように、見る間に修復された。
 彼女はそれに、気付いてはいなかった。


 * * *


 空がぐるりと色を変えて、回廊の石畳が白く光り始める頃だった。もう何杯目になるか分からない紅茶を運んでいるミリアは、光差す庭をちらと見つめた。この景色だけなら、本当に美しいのに。そう心で溜息を吐くが決して表に出さずに、歩を進めた。
 この先には、紅茶を望んだ客がいる。だがどういうわけか、深夜に二回も紅茶を頼んできたのだ。眠れなくなるのではと心配をしたが、本人はその間にも寝息をたてて熟睡をしていたのだ。かと思えば、ミリアが近くに寄った瞬間に、その翡翠の瞳をかっと開いて、屈託のない笑顔で礼を言う。
 不思議な人だと、ミリアは思った。ああして笑顔を見せられると、なんだか何もかも預けてしまいそうになる。
 つまり、ミリアが今運んできた紅茶は三回目になる。さすがに体によくないと思ったので、朝食にもなりえる簡単な菓子を添えた。そうして、客の部屋に向かって曲がり角を曲がった瞬間、ミリアはある人物を認めて足を止めた。

「リリスティア陛下……」

 客室の扉の前で、深呼吸をしているリリスティアがいた。こちらに気付く様子はなく、神妙な面持ちで扉をたたく。中から返事がしたのを確認したリリスティアは、おそるおそる扉を開けた。
 そうして吸い込まれていく彼女を見送ったミリアは、嬉しそうに笑みを浮かべて、背中を向けた。

「姉さん」

「リリー!」

 リリスティアは少し俯いたまま、上目遣いにセイレに視線を合わせた。蒼銀の前髪が無造作にその瞳に被さっていたので、セイレはそれを掻き分けて耳にかけてやった。
 だが、何も言わずただこちらを見つめてくるので、セイレはもう一度声をかけた。

「なんだ? もしかして緊張しているのか?」

 すると、リリスティアはようやく反応を示した。およそ剣を握り戦っているとは思えないほど華奢な手を、胸の前に組み合わせた。

「えっと……その、何を話せばいいのか」

 その様子を見ながら、セイレは大笑いをした。

「ははは! お前昔もそうだったな。そうやって私が怒るかもしれないって気にしている」

「だって」

「お前を怒る? 私がか? 私はお前の姉だぞ」

 セイレはそう言って笑った。
 話したいことがたくさんあるだろうに、リリスティアの口からはなかなか言葉が出てこない。
 そんなリリスティアの事をよく知っているセイレは、自ら言葉を発した。

「お前、不器用なところは少しも変わっていないんだな。背もそんなに伸びたのに」

「背は関係ないよ」

「ふふ、小さくても大きくても可愛いからいいなお前は」

 言いながら、セイレは大きな瞳でリリスティアを捉えた。そしてその眉を下げ、こう問い掛けた。

「なあ、一体今までどんなことがあったんだ? 十四年の間に妹が王になってリュシアナと戦をやらかしてるんだから、理解が追い付かない。さあ! 説明してくれ!」

 まるで、子供のように目を輝かせるセイレ。これから冒険話でも聞くかのように、うきうきとした様子で口端を上げている。リリスティアはあの頃のように幼く笑い、話し始めた。

「あの日、姉さんが出発してから──」

 姉妹は、久しぶりに過ごす同じ時間を、ゆっくりと味わっていた。
 セイレは、リリスティアの話すことを真剣に聞いているように見えた。だが時折、目が虚ろになったり、頭をがくりと揺らしたりするので、リリスティアは心配になって話を中断させた。

「――姉さん?」

「ん、んん? ああ、聞いてるぞ」

 この姉は、昔からこのような感じだった。どうやらあまりの話の長さに退屈を感じてしまったようで、目を擦る回数が時間とともに多くなっている。
 だがリリスティアは、一方的に経過を話すのみでは誰しも退屈だろうと考え、質問を投げ掛けてみた。

「姉さんも、私に話したいことが山ほどあると言っていたけど、それは?」

 それにより、ようやく頭を覚醒させたらしく、セイレは斜めになっていた上半身をまっすぐに伸ばした。

「ああ。お前の親の話か何かをしてやろうかと思ってな」

 彼女はそうして、男性のような口調で話す。

「人間の?」

「違う違う。小さいお前を世話していた「親」は、リュシアナ軍部の人間だ。そうじゃなくて、ジオの話」

 ジオ、という聞き慣れない名前にリリスティアが眉を寄せていると、セイレは慌てて言葉を足した。

「名前はジオリオ。ジオリオアシュトレーとなんちゃらとかいう名前らしいが長いからな。だから私はジオと呼んだ」

 などと、セイレはさも親しげに言った。確か、王とセイレは何日にも渡って死闘を続けた敵だった筈だが。

「あいつと戦った後、私はしばらく此処に世話になっていたんだよ。その時に、あいつらから色々聞いてな。驚いたぞ、悪魔じゃないって知った時は」

 目を丸くして大げさに動作するセイレだが、そう驚きはしなかっただろうとリリスティアは予想した。
 以前、レオンがセイレの質問攻めにあったと聞いていたので、きっと彼女は驚くよりも先に喜んだのだろう。その、頭の切り替えの早さこそがセイレだ。

「ジオも私も怪我がひどくてな。おまけに極寒の国だっただろ? 寝たきりで退屈だったから、その間眼鏡の男に話をたくさん聞いた」

「レオンね。緑の髪の」

「そう、そいつだ! でな、それからジオに会って、「剏竜」にも会ったぞ」

「ヒルに?」

「いや、ヒルじゃなかったぞ」

「……それって」

 リリスティアは以前レオンが話していたことを思い出していた。セイレが言う剏竜は、ヒルではない。となると、彼女が見た剏竜は恐らく、ヒルの父親だ。

「一応悪魔って思ってたし私も恨みがひとつもないわけじゃない。だから会った時にこう一発くらい食らわせる気でいたんだが……ジオもそいつも妙にのんびりしていてな。何がおかしいのかにこにこしているものだから、戦う気なんか失せた」

「のんびり……」

「ここ自体が私たちが知る国家とはだいぶ雰囲気が違うからな。ジオは、楽器を演奏するのも上手かったぞ。ただ寝起きになんかよくわからん横笛を吹きにくるのはやめてほしかった」

「余裕があるのね。落ち着いて政務をこなせていたのかな。そんなことをしてもレオンが何も言わないなんて、よほど……」

 怒濤の毎日故、今まで詳しく聞いたことが無かった、いや聞こうとはしなかった、父親とその剏竜の話。セイレの言葉により再び生まれた父親たちは、リリスティアの興味を誘った。

 王は、どんな感覚で政を行っていたの?
 リュシアナへの対策は、どうしていたの?
 復興に向けて、具体的な策は練っていた? 

 と、次々と質問を出すリリスティアだったが、何故かセイレは呆れ顔で溜め息を吐いた。

「……リリスティア、もっと他に聞くことがないのか?」

「え?」

「今は、お前の親の話をしているんだぞ。政治の話じゃない」

 はっきりとたしなめられ、リリスティアは閉口した。と同時に、自分を恥ずかしく思い、手の平で口元を覆った。

「ま、アルフレッドも王位を継いでからはそんな感じだったから、分からなくもないが」

 セイレは上を向き、やれやれとソファに手を広げる。そしてそのままの体勢で瞳だけを動かし、心配そうに尋ねてきた。

「お前が亡国の王だなんてなあ。辛くはないか?」

「辛いなんて……これが私のやるべきことだから」

 リリスティアは、まるでお決まりの台詞のように即答する。セイレは何かを思惑を巡らせた後、少々話の向きを変えてみた。

「私はな、お前が人間じゃないというのは、最初から知らされていたんだ」

「……え」

「軍部から通達があってな。極秘に、悪魔の子を育ててほしいと言われた」

 当時、セイレはまだ中間の位置にある聖騎士だった。
 しかしその実力は郡を抜き、最高位に上り詰めるのは時間の問題だとまことしやかに囁かれ、いつしか民は彼女を「英雄」として崇め始めていた頃だった。

「確か、軍部の天覧試合の後だったかな。家に帰ったら、急に家族が出来ていたんだよ」

 誰もいない筈の家の扉を開けると、かぐわしい料理の香りと、赤子の泣き声がした。
 家を間違えたわけではないらしいことを確認して台所に向かうと、そこには、やけに幸せな家族の姿があった。
 鍋のスープを混ぜる女性、生まれたばかりの赤ん坊を抱く男性。いつの間にか飾られた、パッチワークの壁飾り。
 しかしよく見ると、赤子を抱いている男女は、軍部で見知った顔だった。ああ、どうせ何かの通達で来たのだろうと思ったが、腕の中にいる赤ん坊の存在だけは理解出来なかった。
 まだ薄くしか生えていない蒼銀の髪に、小さな小さな手。必死に何かを訴える、純粋な泣き声。
 セイレは思わず歩み寄り、その赤ん坊をじっと見つめてしまった。
「気に入りましたか?」と男が聞いてきたので、セイレは何気なく「ああ」と頷き、その手に人差し指で触れてみた。
 なんと脆く、小さい手なのか。まるでおもちゃだ。自然と微笑んでしまうセイレに、鍋のスープを混ぜていた女性がこう言った。

「国王陛下の命により、今日から我々は家族です」

 は?と聞き返す間もなく、次は男性が喋った。

「セイレ・ウルビア。貴殿の実力を見込んだ上での任務です。この「悪魔の赤子」を来たるべき日まで監視。妹として扱うように」

 悪魔だと!?
 こんなに小さく、愛らしい赤子が?

 セイレは赤子をまじまじと見つめ、どこか悪魔らしい箇所はないものかと探す。しかしやはり赤子は赤子で。自分が今まで斬ってきた悪魔とは似ても似つかない。
 疑いの眼差しを向けるセイレに、男性は更にこう続けた。

「極めて特殊な、女児の悪魔です。実験的な理由からも、貴殿は“これ”を厳しく監視するように」

 まるで、物のような言い方。赤子に会って間もないセイレだが、妙な腹立たしさを感じた。
 セイレは男の腕から赤子を奪うと、少し不器用に抱いてみた。
 急に感触が変わったことに驚いたのか、赤子は大きな声で泣き始めた。どうしたものかと探っていると、首がくにゃくにゃとして頼りないことに気付いた。急いでしっかり支えると、赤子の泣き声は段々と小さくなった。
 まだはっきりと見えてはいないだろう瞳が、ぱちりと開く。見ればそれは自分と同じ、宝石のような翡翠色だった。

「この子の名前は?」

「は?」

「今から家族をするんだろう、名前を付けないと」

 セイレのその問い掛けに、男性と女性は、相手を馬鹿にしたような笑いを洩らした。

「リリスティア、とそれの母親は叫んでいましたがそれでは素性が感づかれる。とはいえ気の毒ではございますので、せめて似た名前をと考えました。リリーでよろしいかと」

「ふふ、悪魔にしては美しい名前ですわね」

 くすくすと笑う二人を余所に、セイレは赤子を見て微笑んでいた。

「リリー、か。よし、リリー! 今日からお前は私の妹だ」

 そうして胸に引き寄せ、壊さないようにそっと頬を寄せた。
 セイレはそれから、実の姉のように接した。どんな日も、まるで暖かな木漏れ日のように。時には厳しく、時に優しく。任務故の役目であるとは思えぬほどに。
 その甲斐あってか赤子は素直に育ち、僻むことなく、明るい少女になった。
 ここまでが、セイレの知るリリスティアだ。

「……私は、やはり変わった?」

 セイレの話をただ黙って聞いていたリリスティアは、その内容から姉の愛情を強く感じた。だが、セイレはどうも表情を晴れさせないので、リリスティアは不安そうにそう問い掛けた。

「変わったな」

 はっきりと物事を言う性分なのだろう。悪気はないだろうが、今のリリスティアには耳に痛い。

「私の知る色々な国王も、お前みたいな感じだから、別に悪いとは言わないが」

「私は、姉さんがいなくなってから戦いの日々ばかりで。私自身もまさか、こんなことになるとは予想していなかった」

「だよなあ。ごめんな」

「……姉さんは、私が王になったことを……良くは思わないの?」

 沈黙を返すセイレ。リリスティアは返ってくる答えが恐ろしく、まるで判決を待つ囚人のような気分になった。
 しかしそんな心配は無駄だったようで、セイレは息を吹き出して笑った。

「っはは! だから、悪いだなんて言ってないだろう」

「だけど!」

「私はな、色々な国とその王を見てきたから。無理にお前が王になっているならば、そりゃ怒るさ。けど、そうじゃないだろ?」

 セイレはにっと口端を上げた。怖じけるリリスティアをきつく追い詰めないように、言葉尻を優しくしながら。

「なあリリスティア。王なんて孤独なものだ。けど、傍に信頼できる誰かがいるなら、何も心配することはない」

「姉さん……」

「だからな、決して一人で成し遂げようとするなよ」

「そうしないと、押し潰されそうで……」

「心配するな!」

 大声と共にセイレは立ち上がり、腕を組んだ。そして自信に満ちた態度で、リリスティアの横に勢い良く座った。ソファは上下に揺れ、呆気にとられるリリスティアだったが、セイレはおかまいなしに言葉を続けた。

「私も、お前と一緒に歩いてやる。どんなことがあってもだ」

 そう言われても、セイレは皆に顔を知られている。世界的英雄である彼女を、知らぬ者はいないだろう。士気は上がり、願ってもない戦力になる。しかし。

 ──輝かしい姉の功績が、汚れやしないだろうか。

 いくら偽りの歴史といえど、ヴァイスを悪魔として差別する人間や種族が、まだ世界の過半数を占めている。
 憧れであり、希望であった姉が、自分の歩む泥道を敢えて進むことはない。
 ただでさえ、平穏に暮らす筈だった友人たちが敢えてこちらに来ているのだ。自分にはそこまでしてもらう価値など、ない。
 そう言いたいのだが、どうにも上手く言葉にならない。
 するとセイレは、不意に立ち上がり部屋の中を歩き始めた。その行動の意味が分からず、リリスティアはただ目でそれを追っていたが、そのうちにセイレは棚の引き出しを開け、何かを取り出した。
 それは、小さな小型ナイフ。
 セイレはナイフを鞘から抜き、じっと見つめると、おもむろにその切っ先を自身の方に向けた。

「姉さん!?」

「丁度邪魔だったんだ」

 ナイフは勢い良くセイレの背後に軌跡を描いた。さすが、というべきか。小型ナイフすらまるで長剣と見誤るかのような風が吹き、リリスティアは絶句した。
 ナイフを抜き去った後、少しの間沈黙が流れ、床には金の髪の束が、ゆっくりと落ちた。
 セイレの髪はふわ、と空気に浮きながら、肩ほどまでに斬り揃えられて治まった。

「どうだ? これならアストレイアじゃないだろう? お前の不安は消えたぞ!」

 と、さも良い案だと言わんばかりに胸を張るセイレ。そんなことをしても顔は変わらないのに、と思ったが、それよりも先に、リリスティアは笑みを零した。昔のように、顔全体で。

「姉さん……」

「なんだ、似合わないか? あ、前髪は勘弁してくれよ。額を出すのは好きじゃないんだ」

「そうじゃなくて……ははっ」

 笑えた。意識もせず、やけに自然に笑えた。頬が浮き、明るい声が出る。その声も、だんだんと大きくなる。
 嬉しい。なんだろうか、この安心感。友人や仲間とに感じるそれと同じようで、また違う。手放しの安心感。
 血など、繋がってないというのに。

「むう、やはりおかしいか?」

「だから違……あはは……! わ、わからないけど、おかしくて……!」

 まだ、二十年しか生きていない。リリスティアはその年齢に相応しく、無邪気に、だが女性らしく笑った。
 セイレは切り落とした後ろ髪を整えながら、つられて笑顔を見せた。

「お前に降り掛かる不安なんて、これから全部私が斬ってやるさ。十四年も、一人きりにしてしまったんだからな」

 笑うリリスティアに聞こえないよう、セイレはそっと呟いた。
 明るい笑い声が響く部屋の外では、一体誰の声だろうと仲間たちが首を傾げていた。
 やはり心配になったベリーとレイムは顔を見合わせると、菓子や紅茶をこのまま持って入っていいものかと、尻込みをしていた。

「やれやれ、デスね」

 そんな彼らから遠く離れた場所でも、レオンが壁に持たれかかって頭を掻いていた。
 手にはやはり、彼女が好きであろう紅茶の葉が入った袋を持って。

「ほんと、手のかかる陛下デスねえ」

 だが、あの笑い声を聞いていると、何も不安を感じることはないのかもしれない。
 落ち着いたなら、今度は歩くような速さで彼女に聞いてみよう。君は、どんなことを思っているのかと。
 どうか、他の王のように、孤独になんてならないでほしい。ヴァイスは、慈愛と情に満ちた民の国なのだから。
 姉との、気兼ねの無い空間に一時の幸せを感じるリリスティア。
 だが、だが。

 それは、知らずうちに彼に背を向けてしまったのだと、何故、気付かなかったのだろう。


 * * *


 孤独とは、何だろうか。
 大勢の人の中、まるで自分が存在しないかのような空虚を感じた瞬間をそう言うのだろうか。
 あるいは、夜の静寂に瞬く星の美しさに感動しても、それを語らう相手がいないような切なさを言うのだろうか。
 陽の温もりの中で彼らは、氷の華ばかりを胸に抱いている。
 たとえ、其の身冷え、やがて震えながら赤の海に沈もうとも、力ある者たちはただひたすらに戦い続けるのだろう。
 その身に、春を抱く権利があることすら、分からずに。

 詩文は、黙して意味を語らず。解釈は星の数ほど、海の広さほど。
 もうすっかり使い古されたその本を閉じたヒルは、額にそっと手をやった。
 遠い記憶が迫ってくる。ヒルの額に広がる紋様が、更に濃くなり、彼に痛みをもたらした。
 幸い周りには人はおらず、回廊を歩いていた彼は、安心して壁に寄り掛かった。
 ゆっくりと息をすると、少しは楽だったので、彼は額を抑えてじっとしていた。
 そんな彼に、またあの囁きが聞こえた。

「苦しいかい?」

 今までは陽炎のように揺らめいて消えていた声が、はっきりとその場に響いた。
 痛みより何より、それにひどく驚いたヒルは、壁に寄り掛かることを止め、急ぎ周りを見回した。
 しかし、誰の姿も無い。一度は安堵した彼だが、その背後から声は続いた。

「まだ君は分からないのかい?」

 ヒルは、振り向くことを躊躇った。何故なら、今確かに「それ」が居ることを感じたからだ。幻ではなく、はっきりと、現実としてそこに居る。
 自分を縛る、彼が。
 背後から、白い指が伸びてヒルの目蓋を覆う。ヒルは逆らうこともなく、ただ汗を流した。

「可哀相に」

 ヒルの額の紋様は更に濃くなり、まるで生き物のように広がっていく。それは額だけではなく、彼の首元、手にも存在を広げた。

 背後からもうひとつ白い手が伸びて、ヒルの胸元を掴んだ。
 鼓動が煩く鳴り響く中、冷たい鎖は容赦なくヒルの中へと広がった。
  


 * * *



 あの聖騎士アストレイアがヴァイス城内にいるという噂は、瞬く間に広がり皆の混乱を呼んだ。
 勿論、アストレイアと言えば聖騎士の最高峰、剣の道に於いてはあの昴と同列であるし、戦神に愛されし女神として持て囃しすぎなくらいに有名だ。余程の田舎者でなければ、彼女を知らぬ者はいない。
 そんな人物がヴァイスにいるとなれば、やれ間者だ、やれリュシアナと裏で内通だと言われるのは当然だった。
 各国や傭兵への言い訳をどう立てるかと考え頭を抱えていたリリスティアだったが、その悩みは一瞬の内に水の泡となって消えた。
 それは「セイレが髪を切ったから、誰も気付かなかった」などという単純な理由ではないが、さして複雑な理由でもない。
 なんとセイレは、堂々と皆に自己紹介をしてしまったのだ。

「今ここで世話になっているセイレだ。割と戦場で知った顔もいるな? 特技は剣術で、朝は苦手だから起こしにこないでほしい。あと表向きには死んだことになっているようだから、名前を変えようか悩んでいる。いい名前があったら教えてくれ!」

 それを言ったのは、玉座の間だった。
 しかも、各国王、要人が集まり今後の同盟の在り方と同盟主の任命を相談し議論をしている最中でのことだった。
 事の発端は、「そちらの女性は、リリスティア陛下の護衛ですかな?」と、北の国家タユラハルの貴族がわざと知らぬふりをして発言したのがきっかけだった。

「似ていると思ったが、本人だったのか?」

 恐らくその戦に居たであろう昴が、珍しいくらいに驚きを全面に出してそう問い掛けてきたので、リリスティアはつい楽しそうに頬を緩めて頷いた。
 昴は「そうか」とだけ答えたが、今だに信じられない様子だった。
 他の同盟国の王や要人たちも、互いに顔を見合わせ囁き合っていたが、やがて仕方なく苦笑いを見せた。
 そんな微妙な空気を壊すように、セイレが口を開いた。

「なんだなんだ、私がいると嫌なのか。確かにレブルラとはよく小競り合いをしたし橋から川に一部隊を蹴落としたのはよくなかった。あと傭兵部族のお前がチビだった時に意味もなく泣かせたこともあったけどそんなの時効だろ!」

「お前よく覚えてるな! あの作戦で親父がめっちゃ怒ってよ! そん時の指揮隊長が中佐から降格したんだぞ!」

 出席していたレブルラの第二王子がそう言ってあんぐりと口を開けて呆れる。

「……なんで覚えているんですか」

 傭兵部族ガザルドのリーダーは、赤面してうなだれた。
 そんな各国代表の様子を見た他の面々は、つい絆されて口の端に笑みを浮かべた。
 まだ半ば納得のいかない様子の者もいたが、この場でどうこう議論しても無意味だということは誰もが感じたらしく、社交辞令の拍手とともにセイレは迎えられた。その場に列席していなかったカイムは、それを後に聞いて大笑いしたと言う。
 泣きそうなのは、レオンとヒルだった。
 この場は同盟主を決める場であるから、体裁を保つ為にとりあえず誰も逆らわなかっただけ。後から質問攻めに合うのは、行政を担うこの二人なのだ。
 会議が終わってから部屋に帰るまで、一体何人に引き止められるだろうと考えただけで二人は憂鬱になった。

「何デスかコレ。誰デスかセイレさんを此処に入れたの」

 びく、と出席しているレイムの肩が跳ね、その瞳は助けを求めるかのように潤んで、ヒルの方に向けられた。

「いいじゃないか、賑やかで」

 ヒルがどこか遠くを見つめながらそう答えると、レオンは溜め息を以て返した。

「では、よろしいでしょうか。此度の同盟主の話ですが」

 ヒルが穏やかにそう言うと、各国の王は気を取り直したかのように咳払いをし、姿勢を正した。
 それらを視界の端に見ながら、ヒルはリリスティアに視線を遣った。
 彼女は、凛として美しい翡翠の瞳を彼に向けた。
 傍らの姉に、笑顔を支えられながら。 



 * * *



「ハギリ」

 穏やかな日差しの中、芝生に寝転がる図体の大きい男を上から見下ろし、ルピナスは口を尖らせた。どうやら先程から何度も声をかけていたらしいのだが、ハギリは喧しいいびきを立てて寝こけたままである。
 しかしそれが狸寝入りだということは、彼女には分かっていた。そのまま横に腰を降ろすと、石造りの城の渡廊下を見上げた。丁度そこをリリスティアが歩いていたので、話を始めた。

「同盟主、女王サマがなるらしいわよ」

 その彼女の発言にもしつこく狸寝入りを続けるハギリだったが、その眉が僅かに動いた。

「北の大国タユラハル、傭兵部族ガザルド、小さいとは言え工業技術が発展したレブルラ……みんなそんなにアルフレッド王が嫌いなのかしら?」

「嫌いなんだろ……よっと」

 腕を振り子代わりにして、ハギリは勢い良く上半身を起こす。芝生のついた頭をそのままに鼻の頭を擦った。

「リュシアナは土地もでけえし資源も豊富だし、気候も良い。輸入に頼らなくても国内生産が出来る。一般家庭への援助も厚いし、他みてえに貧民街もない。そこへもって宗教国家みてえなもんだから、そりゃみんな嫌いにもなるさ」

「……あら、詳しいんだ」

「これ見ろ」

 ハギリは、おもむろに尻の下に敷いていたらしいセピア色の紙の束をルピナスに渡した。しわくちゃになってはいるが、よく見るとそれは新聞だということが分かる。ルピナスは少し嫌々ながらも、その新聞を手に取った。

「リュシアナの国営新聞じゃない」

「花謡族から買った。ちっとだけ日付は古いけどな。ま、読んでみな」

 新聞の日付は、ハギリの言う通り三日ほど古い。
 開くと、まず大きな塔の絵があった。『祈りの塔、神喚びの祭儀の日程とその内容について』と、敢えてリュシアナ文字で書かれている。
 次の頁を開くと、今度はとりわけどうでも良い町の記事や、役所からの知らせなどが載っていた。それらに順番に目を通す間、ハギリは何も言わず傍らでぼうっとしている。
 だが、これを見せるということは何かある。そう感じたルピナスは、注意深く記事を読んでいた。すると、

「……これは!」

 ルピナスの新聞を持つ手に力が入り、紙面に皺が寄った。
 ハギリはまだ、ただ黙ってぼうっとどこかを見つめている。

「何よこれ……こんな嘘がまだ通ると思ってるの!?」

 記事の内容は、こうだった。

 ――昨日深夜未明。北側国境付近の農村に悪魔の軍隊が突如として出現した。奴らは村民をその暴力の限りに蹂躙し、家屋を破壊。
 聖王国軍騎馬隊が到着するも、勇虚しく既に戦の跡。最後まで生存者を探し続けた騎馬隊隊長イヅア・ワーガは、その時の様子を唯一言「地獄」とだけ語った。
 当新聞社記者が到着した頃には、既に辺りは焼け野原。人が住んでいた痕跡すら、見つけることは難しい。 
 村民の冥福を祈る葬儀が、明日王宮内祈りの塔で執り行われる。葬儀にて鎮文を捧げるのは、国議院議長でもあらせられるバロン神官長で―――。

「まァ落ち着け。通るから書いてんだろ」

「“国王陛下はこれを聞いて「ただ悼む。悪魔と呼ばれる彼らにも、死を悲しむ心があれば」と、その悲しみを”……って!! ねえハギリ!!」

 新聞を皺くちゃにして憤怒するルピナスの背中をなだめるように軽く叩きながら、ハギリはへらっと笑った。

「お前さんが怒っても仕方ねえだろー? こんなん、今に始まったことじゃねえんだからよォ」

 ルピナスは少し他意が含まれて背中に触れるハギリの手を払い、大きくため息を吐いた。

「そうよね……」

「だろ?」

 重い沈黙が流れる。対して空はやけに高く、ハギリの髪のように青さを走らせている。

「これ、女王サマ知ってるわよね」

 ぽつ、とルピナスが呟く。

「まあなあ。御庭番っていうやつらのおかげで、各国の情勢はよく理解出来ている筈だ」

「それにしても、リュシアナ国民は何故こんなことをあっさり信じちゃうのかしら?」

 馬鹿みたい、とルピナスが俯く。
 するとハギリは、ごつごつとした太い肩の凝りをほぐすようにぐるぐると回し、ぶはっと大きい息を吐いた。そして勢いをつけてから跳ぶように立ち上がると、その天を仰ぎ目を細めた。

「生きていくために頼るものがひとつしかないとするだろ。したら、人間ってやつはそれの言うことなら馬鹿みてえに信じちまうのさ」

「リュシアナ国民にとって、それはアルフレッド?」

「ああ。行政、福祉、医療、あの兄ちゃんは国の財をそれらに尽くして「自分の」国民を豊かにしている。他種族排他なんぞ、問題にならねえくらい完璧にな」

「でも、だからといって他種族排他をしていいわけないじゃない?」

「ま、アレだ。民が求めてるのは、「自分達に幸せをくれる国」だ。そうなると、女王様はまさに魔王で、アルフレッドは勇者なんだろうなあ」

 少し悔しそうにハギリはそう言ったのだが、ルピナスからはその表情は読み取れなかった。

「対リュシアナの同盟主になることの意味、女王さん自身分かってんのかねえ」

 石造りの、ヴァイス王城。空高く鳥が飛び、緑の木々に腰を掛けた有翼人が楽を奏でる。それを聞いてのんびりと寝息を立てる竜の姿も、もう慣れたもの。
 こんなにも、多くの種族が集まり、その文化の違いを越え志を同じくするなど、なんと素晴らしいことか。
 それらを成し得たのは、まさに王の人徳故。だが、その中心にいるリリスティアが、まだ少し「若い」ということだけが、ハギリの唯一の気掛かりだった
 だが、若き翡翠は輝きを失わない。玉座におわすその姿は、盤石の如し。膝をつく家臣たちは、彼女に決断を問う。
 玉座へ続く段差のすぐ近くには、手に幾束もの書類を持ったヒルがいた。
 その身は、金縁の黒い軍服に包まれている。詰め襟の服の前は少し開き、中のシャツには彼の髪によく似たえんじ色のネクタイを締めている。
 ビロードのように高価そうな輝きを見せる夜のマントは長く、彼以外にも人一人すっぽりと入ってしまいそうだ。

「リリスティア、各国との同盟の名称を考えてくれるか? そうだな、出来たら明日までに」

「もう決めてある。使者たちは?」

「全員国に帰った。今この国に滞在しているのは、カイムに、昴、ディモルフォセカ殿下のみだ」

「そう」

 そこまで話して、ようやくリリスティアは緊張を僅かに解き、玉座の上で頬杖を付いた。
 真剣に書面に目を通す彼を何気なく見ていたリリスティアだが、不意にその口が動いてしまった。

「ヒル」

「ん?」

 優しい瞳が、顔が、こちらを向く。
 リリスティアは玉座から立ち上がると、慣れた様子で人払いの合図を出した。さ、と護衛の兵士たちはその場から去り、玉座の間は二人だけになった。

「どうした?」

 階段をゆっくりと降りてくるリリスティアは、王の装いをしている。見る角度によって黒から紫に変わる、軍服にも似た衣服の裾を僅かに持ちあげながら、リリスティアはヒルの前に立った。
 リリスティアの右手が、ヒルの額付近に伸ばされる。ヒルはされるがままだが、瞳だけはしっかりと、揺るぎない強さを湛えてリリスティアを見つめている。
 その強さに負けないくらいに、リリスティアは真っ直ぐと彼を見つめ返した。

「体は大丈夫?」

「……レオンが何か言ったのか?」

「心配なの」

「それよりも、今はやることが山ほどある。まずはそれからだな」

 静寂の玉座の間に、低く穏やかで、抑揚の無い声が響く。

「マイアはお前を心配していた」

「マイアが?」

「同じように、私も心配だ」

 目の前の彼女の、小さな肩が震えている。頬は赤みを帯び、瞳は潤み、唇は魅惑的な輝きを放つ。
 その白い肩を、思わず抱き締めてしまいたくなる衝動に駆られたが、彼はそれを見据えながら、言葉を返した。
 だがふと、ヒルの言葉が止まる。まるで何かが、彼を後ろから戒めたかのように。人形師が人形に繋いだその糸を、軽い力で引っ張ったように。
 ヒルは、無感情に、何かを抑えるように、囁くように小さく。
 一言、こう言った。

「あまり俺のことは考えなくていい」

「え……?」

 瞬間、リリスティアの体が、凍り付くような冷たさを帯びた。だが、氷のような言葉は、そこで終わらなかった。

「俺を気遣ってくれるのはありがたい。だが、線は必要だ」

「ヒル……な、何を……私はただ」

 初めて見る、彼の冷たい横顔。
 こちらを見ず、どこか通り越した向こう側を見ている。温もりを持った瞳は硝子玉のように緋色に透けているのに、そこに彼が見えない。
 彼の意志が、見えない。
 こんなに近くにいるのに、彼はまるで知らない人物のようだ。
 時が止まった。そう思えるほどに、表情を変えないヒルに、リリスティアはもう何を言っていいのか全く分からなかった。頭の中は、白い霧に包まれた。

「俺も、少し軽率だった。何も知らないお前に、要らぬ感情を与えてしまったから」

「ヒ……ヒル……」

「――恋情に溺れ堕落するとは言わないが、今のお前にはその恐れがある」

「ヒル!!」

 無知な子供のように名を呼ぶリリスティアを呆れたような表情で見た後、ヒルはその体を反転させた。

「部屋に戻る。何かあれば、また呼ぶといい。……リリスティア、陛下」

 いつもの台詞。だが、いつものような暖かな笑みは無い。背中でそう言い残し、ヒルはリリスティアから離れた。
 ブーツが鳴らす足音が、リリスティアの心に亀裂を走らせる。
 食い下がることも、追い掛けることも出来ず、リリスティアは遠ざかる彼の背中を見つめていた。
 あの、眩暈がするような暖かな気持ちを「要らぬ」と言うヒルは、リリスティアの瞳にどう写ったか。
 リリスティアはただその場に無言で立ち尽くし、頭の中で彼の台詞を必死に反復し、何が悪かったのかと。
 だが今の自分では、考えても思考は混ざり合い記憶が混乱するだけ。
 こんな心の海に落ちたことが無かったリリスティアは、ただ、そこで扉の閉まる音の残響を聞いていた。

 扉の残響を外で聞いていたヒルは、厳しい表情のまま、前を向いて歩き始めた。
 回廊を行くと、何人か兵士やメイドたちとすれ違う。ヒルは、瞬時にいつもの穏やかな笑みを浮かべる。
 すると相手も、いつも通りだと安心して、笑む。
「先の戦はお疲れさまでした」と話題を振ると、彼もまたそれに応え、「そうだな」と優しい言葉を返す。
 誰も、彼の完璧な心の仮面に、気付かぬまま頭を下げる。微笑む。
 ただ一人、あの蒼い瞳を持つ静かな男だけは、すれ違う彼に違和感を感じた。

 仲間に負けないぐらい、戦う為の強い力がただ欲しかった。人知を越えた、天を裂き、地を崩すような力が。
 あの呪咀解除の儀式の中、時は一瞬その息吹を止めた。
 まるで女神のように、リリスティアに優しく囁きかけてきたのは、光り輝く女性だった。
 見たことはない、だが全く知らないわけではない気がする女性だ。
 彼女はその手に赤い石を持ち、力が欲しいかとリリスティアに語り掛けてきた。その言葉から邪心は感じられない。むしろ、安心する。
 まだ何も語らず、意味が分からないまま、リリスティアはそれを受け入れた。

『力が欲しいのよね。私の手を取ればいい。それだけでいい』

 クレアスィオンを前にして、為す術もない時のこと。時間はまた、息吹を止め、「それ」に発言権を与えた。

「私は……」

 ――悔しかった。
 秀でたかった。友のように、仲間たちのように、姉のように。
 マイアのように。

 強くなりたい。愛されたい。支えになりたい。
 特別な「人間」に、なりたい。

『さあ』

 魔導術は苦手。剣圧を飛ばすほど手練れではない。
 努力では埋めようのない溝を、どうにか越えたい。
 そうでなければ、たった一人の忠誠すら得られないではないか。

「私は……!!」

 リリスティアの頭の中に、あの瞬間の光景が蘇る。
 相反する意志の中、体だけは正直に、その手を取った。弾け飛ぶような意識をなんとか保ち、そのまま受け入れた後にやってきたのは、今までどう足掻いても手に入れられなかった未知の力。
 得体も知れぬ者の手を取った自分が、気持ち悪かった。
 いや、違う。リリスティアは識っていた。その時自分に手を差し伸べたのが、何者なのかを。
 その力の持ち主が、力を与えた瞬間口にした言葉を。

『優しくて可哀そうな貴方。今こそ私ものに』

「――リリスティア」

 陽の当たらぬ意識の海に落ちていたリリスティアを引き摺りだすように、低く、落ち着いた声がかけられた。
 は、と目を見開くと、リリスティアの目の前にはいつのまにか男が一人立っていた。

「昴……」

「何をしているんだ?」

「え?」

 気が付くと、リリスティアは玉座の間に一人立ち尽くしていた。しかも、先程ヒルと話していた位置からほとんど変わらない場所で。
 その様があまりにも不可解にだったらしく、昴は眉間に深い皺を寄せていた。

「……ごめんなさい。ぼうっとしていた」

 リリスティアは誤魔化すように前髪をかきあげると、鼻を少し啜り、表情を整えた。

「何か用?」

「ああ」

 少し赤くなった白目、ぎこちない動作。昴はそれらを気にしたが、深く事情を聞こうとはしなかった。さも、気にしていないような無表情のまま、言葉を続けた。

「頼みがあってな」

「頼み?」

「暫し、里に帰っても構わないだろうか」

 昴は今、傭兵としてヴァイスにいるものの、本来は世闇一族を率いる長だ。
 リリスティアへの恩義を返す為、そして聖王国に味方する実の娘アメリを諭す為に此処にいる。なので、昴が「里に帰る」と申し出ることは、リリスティアにとって意外なことだった。だが、反対する理由も無論ありはしない。

「私用で、戻らなければいけない。期間は……どれほどになるか。だが、早急に事を片付けるつもりだ」

 やはり無表情に淡々と言葉を続ける昴だが、リリスティアは彼が妙な気遣いを以て話していることが分かった。やはり彼はどこかリリスティアと似ているのだろう。

「ええ、勿論構わない」

「久世たちに当面の指揮は任せておくが……」

「そんなに気にしないで昴。昴は、厚意で此処にいてくれているのだから」

 と言うと、リリスティアは柔らかな華のように微笑んだ。
 随分昔に見た気がするその笑顔をもう一度目にした昴は、瞳を細め、安堵した。

「弥生さんは?」

「弥生は体がまだ弱い。面倒をかけてすまないが、置いてやってほしい」

「もちろん」

「しかし御庭番筆頭のウェラーは連れていく」

「分かったわ」

 そこまで了解を得ると、昴は無言に頷き、軽く頭を下げた。礼儀を尽くす男である昴は、堅苦しくなるくらいに紳士な面がある。
 かつては師だった人物に頭を下げられると、やはり些か気まずいもので。リリスティアはそれを誤魔化す為に、こう言った。

「世闇の里は、どんなところ? 確か東の……」

「ああ。俺たちの里は東の国「アキツイリ」の、更に東にある。今は暦の上で言うならば秋だな」

「秋?」

「……赤い紅葉が、里を囲む季節だ」

 昴は、天を仰ぎ想いを馳せた。
 赤い紅葉の美しさを想像し、見たいという衝動に駆られるリリスティアとは反対に、昴の心中には異なる紅さが広がり、胸を締め付けた。



 * * *



「だ、だ、誰か!! もうほんと勘弁してほしいッスよぉぉお!!」

 情けない声が、円形の訓練場に響いた。前にもこの光景を見たような気がする、と観客になりきっている兵士たちは笑った。

「なんだなんだ。竜だと聞いたから気合い入れてきたのに。お前弱いのか?」

 逃げまどうレイムを、大剣を振り回しながら追い掛けているのはセイレだった。まるで、猫が獲物を追い掛けじゃれつくように、彼女は心の底から楽しんでいる。
 レイムは逃げながら、ちらりちらりとセイレを見る。そうする度に彼の頬は、若さ故に赤く染まった。

「つうか、ふ、服! も、もっと着てほしいッスよ! 鎧つけるとか! 厚着するとか!!」

「うん?」

 セイレは立ち止まると、下を向いて自身の服装を見直した。
 リリスティアよりも大きいのではないかと予想される豊満な胸は、ごく薄い三角の布でのみ支えられている。当然腹部は露で、下半身こそ借りた軍服を履いてはいるがそれはそれでなぜか扇情的であった。
 そんな服を着ているにも関わらず豪快に動くものだから、若いレイムは気が散って仕方がない。勿論、悪い服装だとは思っていないのだが。

「いや、今の私は居候みたいなものだからな。活躍するまでは服に贅沢は言えないだろ?」

「遠慮して布の面積狭くしたってことッスか! 駄目ッスよ、こんな男ばっかのとこで!」

「余計なこと言うなレイムー!!」

「そうだそうだ! 黙れバカ野郎!!」

 そう言って野次を飛ばすのは、傭兵部族ガザルドの面々だ。赤くなるレイムを楽しそうにからかい、互いに顔を見合わせている。

「ふむ、男ばかりか」

 セイレはそう呟くと、腕を組んで何かを考え始めた。意味が通じたか、と安堵するレイムだったが、セイレ相手にそんな筈も無かった。

「心配するな! 私は男が相手だろうと、怪我をするようなヘマはしないさ」

 がくり、とレイムの肩が落ちた。
 確かに彼女は強い。だがその容姿はそこらの美姫など問題にならないくらい愛らしく美しく、その細い腕から一体どうやってそれだけの力が繰り出されるのかと、つい首を傾げてしまう。
 世界最高の聖騎士アストレイアなのだから当然と言えば当然だが、彼女を想う男は気が気ではないだろうなと、レイムは笑った。

「おーい、ちょっといいデスかー?」

 騒めきの中を擦り抜けて、遠くから声がした。見ると、観覧席の中央辺りで、レオンがこちらを見て微笑んでいた。

「訓練中すみマセンねえー」

 それにより皆がそちらに注目したので、今の内だとレイムは端の方へと逃げた。

「なんだー?」

 セイレはその大剣を肩に担ぎ、リズム良く上下に揺らしながら、レオンが出したのと同じくらい大きな声で答えた。

「セイレさん、ちょっとだけお時間クダサーイ」

 手招きをするレオンに、セイレは何の警戒も見せず訓練場の端の方まで来ると、手に持っていた大剣を背中に担ぎ、観覧席と場を隔てる壁に手をかけた。

「よっ」

 と言う掛け声と共に難なく地上から跳躍したセイレは、まるで羽毛が浮いて落ちるように軽くレオンの目の前に着地した。

「おおっ、よく飛べマスねえ」

「まあな、これぐらいは出来るぞ」

 得意気に親指を立てるセイレに、レオンは愛想笑いだけを返した。

「ちょっと聞きたいことがありマシて。歩きながらでいいんで、行きマセンか?」 

「ああ、いいぞ」

「んじゃ、こっちへ」

 レオンが先を行き、付いてくるよう促すと、セイレもその後に軽い足取りで続いた。

「はあ~……」

 なんだか良く分からないが助かった、と安堵して、レイムは壁に背を預けその場にへたりと座り込んだ。

「――スミマセンねえ、お楽しみ中に」

「ああ、楽しかったぞ。若い人型の竜を相手にするのは久しぶりだったからな」

 訓練場を出たセイレは、どこへ向かうとも聞かされぬままただレオンの背中を追っていた。長い回廊から見える城の中庭には訓練兵が居て、セイレに気付くと愛想笑いと共に手を振ってきた。

「しかし、変わりマセンねえセイレさん」

 中庭と回廊を隔てる、幾本もの円柱の影の間を縫いながら歩くレオンが、前を向いたままそう言った。

「お前からすれば十四年ぶりかもしれないが、私からすれば何日も経っていない。だが、お前も変わらないな!」

 と笑いながら言い、セイレはレオンの背中を後ろから叩いた。
 衝撃で眼鏡がずれたことに眉を寄せながらも、レオンは笑みを浮かべた。

「でも、この十四年の間、人間である貴方が老けもせず変わらないなんて不思議デスよ」

 レオンは丁度柱の影になった所で立ち止まり、振り返った。眼鏡だけが光を集め、光っている。
 立ち止まったセイレは、その瞳を細めて答えた。

「考えられるとしたら、「聖石」の中にいたからじゃないか。まあ、バロンが私に何をしたのかなんて寝ていたから知らないけどな」

「大変だったみたいデスねえ。そんなところから、どうやって脱出を?」

 探るような瞳を見せながら、レオンが問う。するとセイレは暫らく閉口した後に、「ああ」と手を叩いた。

「お前はそれを聞きたくて私を呼んだのか。なら最初からそう聞けばいいだろ?」

 さっぱりとした口調で言い放つセイレに毒気を抜かれつつも、レオンは咳払いをして誤魔化した。

「いやね、リュシアナは貴女を捕まえることに躍起になっているのは分かるんデスが……それはただアストレイアってだけでなく、もっと他の思惑があるように思えマシて」

「ふむふむ」

「リュシアナの取る行動はどうも賦に落ちない部分が多々ありマス。なので、セイレさんも何か知らないかと思ったんデスよ」

「ほうほう」

「聞いてマス?」

 レオンは、余りに軽い返事ばかりするセイレを軽く睨む。だがセイレはあっけらかんとした様子で、躊躇う事もなくリュシアナについて、彼女なりの答えを出した。

「アルフレッドは可愛い奴だぞ」

「……は」

 レオンは、絶句するしかなかった。彼が聞きたかったのは、内部の者しか知り得ないであろう国家機密。聖王国登録聖騎士であるアストレイアなら、何かしらその断片でも知り得ないかと踏んだのだが。

「あいつはリリスティアとも仲が良くてな。ほら、年が割と近いだろう? 王子だった頃は、こっそり家に遊びに来ていたからな」

「えっとデスね。俺が聞きたいのは思い出話じゃなくて」

 レオンは期待外れな答えに頭を振りながら、ため息を吐く。ちゃんと答えてほしいと促すも、やはり返ってくる答えは同じだった。

「私が話せるのはそれだけだ」

「セイレさん」

「それだけ、だ」

 レオンの問い掛けに対する答えはそれが全てだと言わんばかりに、セイレは強く言い切った。
「だから」とレオンは言葉を追従しかけたが、そうはしなかった。セイレの笑顔が彼の探求を制し、自身で答えを導くように、促した。

「それだけ、デスか」

「ああ、それだけだ。十分だろ?」

 そう言うと、セイレはそのままレオンの横を通り過ぎて、柱の影と光の中を歩いていった。



 * * *



 城の上階に幾つかあるテラスは、以前はただ漠然と椅子とテーブルが置かれているだけだったが、最近になってから、女性たちの憩いの場へと変わっていた。
 伸びたままだった草の蔓は綺麗に刈り取られ、雨ざらしで苔が生えていた椅子たちは真白に塗り替えられた。
 今日は天気も良い。そして、日当たりも高さも良いので、時折小さな青い鳥たちが羽を休めにテラスの縁にとまる。しかし、彼女たちが騒ぎ始めると、その鳥たちは直に飛び立ってしまった。

「見てみて!! これタユラハル細工の腕輪~! 小花が可愛いんだよね~」

「こんな細かな細工、ユア・ラムダでは見たことがない!」

「少し、カデン地方の物にも似ているわ。素敵ね」

 白いクロスがかけられた丸いテーブルの上には、幾種類もの装飾品が並べられている。
 それはピアスやペンダントに留まらず、宝石箱や化粧品と実に様々で、それぞれが七色に光を放ち、周りを囲む女性たちの視線を欲しいまま輝いていた。

「ねえ、リリーはどれが好き~?」

 それを一番興味深そうに囲んでいるベリーが、一歩離れた場所でチェアに座るリリスティアに声をかけた。
 遠くを見つめ、ぼうっとしていたリリスティアは戸惑いがちにベリーの方に視線を移した。

「どれって……、……え? 何が……」

「もー、なんで話に入ってこないの~!!」

 ベリーは頬を膨らませると、腰に両手を当ててリリスティアを睨んだ。

「ほら、綺麗な首飾り。ベリーちゃんが、花謡族さんから買ったんだって」

 と言いながら、青い宝石をちりばめた首飾りを手に取ったのはユア。リリスティアにその首飾りがよく見えるよう、高く掲げている。

「リリスティアさん、首が綺麗だから……こんな耳飾りも似合いそうね」

 そう言って、大きな白い宝石を金であしらった揺れる耳飾りを持ったのは、弥生。流れる黒髪に白が映えて光るので、彼女が付けた方が似合うだろうとリリスティアは微笑んだ。

「でも、こんなにたくさん買って……ベリーちゃん、何かあるのかな?」

 ユアは何かを知った風な笑みを浮かべて言ったので、ベリーは少々慌てた様子で答えた。

「や、べ、別に! 何かあるとかじゃないけど~。可愛かったから……買っただけで……」

「あら、そうなの?」

 テーブルに頬杖を付き、向かいのベリーを見つめるユアはやはり含みを持った笑みを浮かべている。ベリーは負けじと見つめ返しながらも、頬を染め、一筋の汗を流した。

「いいじゃない。誰かの為に自分を飾るのは、決して悪いことではないわ」

 口元に手を添え上品に微笑む弥生に、ユアが視線を向ける。

「お洒落は女性の特権、ですよね」

「だーから~! ゆーちゃんもヤヨさんも何言ってんの!? あたしはただ可愛かったら買ったの~!」

「そんなに照れなくても。ほら、今着ている軍服にも、これなら似合うわ」

 弥生はそう言って、装飾品の中からシンプルなデザインの耳飾りを手に取り、ベリーの耳元に合わせた。

「どうかしら、ねえ見てリリスティアさん」

 小さな銀色の蝶がチェーンの先で揺れる耳飾りは、そう自身を目立たせることはなく、彼女の桃色の髪に華を添えた。
 リリスティアはベリーとは真逆に、見た目にそう気を遣う女性ではない。が、それが良く似合っていることは分かったので、素直に頷いた。

「……可愛い、と思う」

「ほんと? じゃあ今日はこれ付けてよっと~」

 笑顔の印象が、柔らかい。きっと彼女は恋をしているのだ。
 その笑顔が、今のリリスティアには余りに眩しくて、ついその視線を落としてしまった。

「リリスティアさん?」

 俯いたすぐ後に、弥生がリリスティアの前に現れて、少し腰を折ってその顔を覗き込んだ。
 そして額にそっと手をやり熱の具合を確かめ、心配そうに眉を下げている。

「……いや……別に」

 神秘的な美しさを持つ弥生の顔をこんなに間近で見たのは、熱を出して寝込んだ時以来で、リリスティアは少し身を引いた。

「外の風、辛い?」

「中入る~?」

 続けてユアとベリーが心配そうに声をかけてきたので、さすがに申し訳なく感じたリリスティアは取り繕った笑顔を見せた。

「いや、そんなことはない」

「そう?」

 やはりまだ心配そうにこちらを見る弥生の胸元に、変わった首飾りがあるのをリリスティアは認めた。
 赤で彩られた、蝶と花の首飾り。何という種類の花だろうか、と考えながら見つめていると、弥生はその視線を察知し、自ら説明をした。

「私のこれは、撫子の花と蝶をかたどったものよ」

「ナデシコ?」

「そう。この辺りには咲いていないわね」

 折っていた腰を伸ばし、弥生は広がる平原を見渡した。立ち上がると風が髪で遊び始めるので、手でその根元の方を抑えている。

「どこかで、見たような気がする」

 リリスティアがそう言うと、弥生は少し淋しそうに微笑んだ。

「アメリが、持っていたんじゃないかしら?」

「……あ」

 戦いの最中、薙刀を振るうアメリの胸元に忙しなく煌めいていた赤。
 よくよく思い出してみると、それは。

「同じものなの?」

「そうね……」

 聖騎士ティアレーゼとして、未だ聖王国に居る、彼女。
 そういえば、あれ以来姿を見ていない。娘の安否が知れぬというのに、そう感情を揺らすことのない弥生の強さを、リリスティアは美しく思った。
 空気が重くなったのを感じたのか、弥生は不意に笑顔を見せた。

「これはね、今はこうして使っているけど、元は昴のお母様の家に代々伝わる一対の耳飾りだったのよ」

「え、あ……昴の?」

 不意な話の転換と弥生の笑顔により、場の空気が和らいだことを感じたベリーとユアは二人の元に歩み寄り、それぞれリリスティアの両側のチェアに腰を掛けた。

「あら、私先生みたいね」

 一人立ったままの弥生が、そう言って笑う。確かに、三人が座って弥生一人が立っていると、まるで授業をやっているように見える。

「はーい先生~。じゃあそれ世闇式の求婚道具ですか~」

 ベリーが片手を上げる。

「そうね、そうなるわね」

 クスクス笑いながら答える弥生に、ユアが両手を組み合わせて憧れの眼差しを向ける。

「素敵ね。世闇は、求婚時に耳飾りを渡すのね」

 真ん中に挟まれたリリスティアはというと、こういう話にはてんで疎いのでどう反応すべきか困り果てた末に、黙り込んでいる。

「いえ、世闇はそんなことはしないわ。これは昴のお母様の家に伝わる習わしらしいから」

「え? だから~世闇だよね?」

 ベリーが問い掛けると、弥生は首を左右に軽く振った。

「昴のお母様は、世闇の一族ではないのよ」

「ええええっ!?」

 大声を両側で上げられ、咄嗟に耳を押さえたリリスティアも、その顔を驚きの色に染めた。

「他種族なの!?」

 リリスティアが声を上げる。

「そうね、人間だったと聞いたわ」

「じゃ、じゃあすーさんは混血!? アメリは四分の一!?」

「そうよ」

「ほあ~」

 すると、ユアが遠慮がちに問い掛けた。

「混血……でも、健康に、生きているのですよね?」

 期待を胸に問いかけてくる若い娘に、弥生は快く返事をした。

「昴は、見てのとおりとっても元気よ。アメリもね」

 瞬間、ユアの顔が晴れやかになった。安堵するように、組み合わせた両手を胸に抱き、頬を赤らめた。
 それを横目に見たリリスティアは、鈍いながらも彼女の中に恋情を感じとった。
 三人の中、先程から一人違う反応を見せるリリスティアを見て、弥生はまるで娘を見守るような表情で微笑んだ。

「リリスティアさんも、好きな人はいる?」

「えっ!?」

「いる?」

「私は……そんなことにかまけているわけには……」

 何か、あったのだろう。
 弥生たちは既にそれに気付いていたが、壊れそうな声で呟くリリスティアの心に触れていいものかと、呼吸を置いた。
 そのうちに陽が真上から下へと傾き始めたので、風に吹かれるのを嫌った女性たちは、城の中へと入った。まだ話し足りない様子のベリーが、弥生に忙しなく質問している。それをぼうっと見ながら歩いていたリリスティアに、ユアが歩調を揃えた。

「聞いていいかな?」

 と、優しい笑みを浮かべてユアが小声で問いかけた。リリスティアは肯定の代わりに視線を返した。

「リリスティアの思う王様って、どんな風なものなの?」

 リリスティアは少し躊躇い、そして慎重に答えた。

「皆の期待に、応えれる人物だと思う」

「……そっか」

 知らぬ間にリリスティアの歩調が少し急いたので、ユアもそれに合わせて小走りになった。

「ユアは?」

「私?」

「ユアは、どう思うの」

 同じ高さにある翡翠の瞳が、その答えを期待しているらしいことを感じたが、ユアは特に困ることなく答えた。

「怖がったり、悲しんだりできるヒトだと思う」

「え?」

 その詩的な答えに、リリスティアは思わず足を止めた。もっと明確に、とつい言ってしまいそうになってしまった。
 するとユアは、数歩進んだ先で足を止め、リリスティアの方に振り向き、その両の手を組み合わせた。

「誰かを失って、泣いて」

 ふわり、彼女の背の羽根が僅かに広がった。白い羽毛が二、三舞い散り、リリスティアの足元に落ちる。

「そうして悲しみを辿ってきた時、他人の心に合わさることが出来る」

「合わさる?」

「自ら経験しなければ、他人の痛みを本当に理解することは難しい」

 はっきりと、自信を以て答えるユアから、普段のような大らかな雰囲気は消えていた。だが、その毅然とした態度の中にも優しさを含み、彼女はリリスティアに向かって手を差し出した。

「だからねリリスティアさん、貴女はきっといい王様だと思うの。だって貴女は、人を愛することを知っている」

「ユア……」

「誰かを愛するって、本当はとても難しいことなんだよ。だって、約束も無い、血の繋がりも無い、全く知らない誰かに自分の全てをぶつけるんだから」

 愛は不確かで、虚ろ。そう言えるのは、彼女がそんな経験をしたからであろうか。

「それでもヒトを愛せるなら、それはとても勇気があって素敵なことなのよ。私は、そう思うけどなあ。どうかな?」

 何時の間にかユアはリリスティアのすぐ目の前にいて、やはり微笑んだままでこちらを真っすぐ見つめてくる。
 返事に困っていると、ユアはまるで何もかも見透かしているかのようにこう言った。

「恋をすると王でいられないのなら、私なんかもうとっくに王じゃないよリリスティアさん」

 脳裏に、カイムの姿が過った。
 そうだ、この美しく透明な女性は、あの男に恋をしているのだ。故に、恐らく同じ悩みを抱えているであろう自分に対して声をかけてきたのだ。
 その心が、痛いほどに理解できるから。

「ヒルシュフェルトさんだよね。リリスティアの好きな人」

「……なぜそう思うの?」

「分かるよ、同じ女の子だもん」

「私と貴女は大分違う。女としても、王としても」

 そう言って視線を逸らすリリスティアは、ユアから離れるように体さえ横に向けた。
 それが気に食わなかったのか、ユアは若干頬を膨らませた後、何か思いついたかのように瞳を輝かせた。

「そうだ!」

 するとユアは、不意にリリスティアの両手を掴み、そのまま後ろ歩きに引っ張り始めた。

「ね、ちょっと来てみない?」

「え……ユア……!」

「いいから!」

 言葉を無理矢理押さえ付け、ユアはそのままリリスティアの片方の手だけを持ち、引きたくるように走りだした。
 揺れる、金の髪。何とも心地よさそうな背中の対の羽根が、時折リリスティアの頬を掠める。
 意味が分からないまま走っていると、ついに前を歩いていたベリーたちを追い越してしまった。

「ゆーちゃん!? リリー!?」

「あら……」

 驚くベリーと弥生を後ろに小さく見ながらも、二人はひたすらに走った。
 幾つもの回廊を抜けて、人を追越し、二人の女性は走る。いつのまにか笑みを浮かべていたのはユアだけではなく、リリスティアも同様だった。
 そうして、走りに走った二人が辿り着いた先は、新設された兵舎と旧兵舎が一望できる、小さなテラスだった。
 人二人が入れればいいぐらいの小さなそこにまずはユアが入り、続けて後ろにいるリリスティアを引き入れた。

「見て」

 ユアに促され、彼女の指差す先を見つめると、そこには兵舎の外で歓談する兵士や、訓練をする兵士で溢れていた。皆、種族も様々であったが諍いを起こすことなく過ごしている。
 ふと、その中の一人がこちらに気付き手を振ってきた。すると波紋が広がるように他の兵士もリリスティアたちに気付き、歓声と共に手を振り始めた。

「リリスティア様ー! もしお暇でしたらこちらに来ませんか! 一応お菓子ならあります!」

「バカ、陛下に向かって暇はねえだろ!」

「ははははは!」

 暖かな笑い声、笑顔。心地の良い空気。その全てが、リリスティアに全て向けられている。
 リリスティアはテラスの縁をぎゅっと握り締め、溢れだしそうになる胸の想いに眉を寄せた。 
 下を見ると、待ち兼ねたように歓声を上げる兵士たち。皆一様に手を挙げ、二人の王を賛美している。

「行こうリリスティア」

「え?」

「みんなリリスティアと話したいんだって! だから行こう!」

 瞬間、軽やかな羽音がしたかと思うと、リリスティアはもう空の中にいた。
 細く白い手が自身の手を引いて飛び立ち、舞い踊る羽と共に重力から解き放った。
 ユアはその羽を大きく広げ、まさに天使の如く、微笑みながらゆっくりと空へと舞い踊った。
 足が付くものが無いと急に不安になったが、それよりもリリスティアは妙な高揚感に包まれ、ユアを見上げた。彼女は、笑っていた。
 なんて無垢で、汚れの無い笑みを浮かべる女性なのだろうか。その笑顔を見せる相手は、私などでなくてもいいだろうに。
 同じ王でありながら、まるで自分に無いものを持っている彼女に嫉妬さえ感じてしまう。
 次第に無重力の恐怖は失われ、ユアとリリスティアは同じ目の高さになり、互いに見つめ合い、小さく微笑んだ。
 そして地上が近くなると、ユアはリリスティアの手をそっと離した。リリスティアは勢い良く落ちることはなく、花びらが風に浮くようにゆっくりと着地した。

「……ありがとう、ユア」

 するとユアは、そのまま降り立ちはせず、兵舎の横にある巨大な緑の大木の枝に飛び上がり、ふわりと腰を掛けた。
 そして、長い金の睫毛で頬に影を落とし、美しく高い声で歌を紡いだ。
 それは、まるで竪琴を優しく撫でるような透明で清らかな歌。歌詞こそ分からないが、アーリア共通言語ではないことは分かる。
 神秘的で、だがどこか懐かしくなるその歌声に、その場にいた兵士たちは皆こぞって目尻を下げ、恍惚とした様子で聞き惚れていた。
 その声量は華奢な体のどこから出ているのかと疑いたくなるくらいで、だが耳に心地いい。
 歌声はヴァイスの城に広く響き渡り、全ての人の意識を捕まえた。

「歌……天使の……」

 城の書庫で、熱心に本を読んでいたシャジャの耳にも、歌は届いた。
 シャジャは大きな窓に手を当て、青い空を見上げた。聞こえてくる歌の所為で、胸には言い知れぬ切なさと悲しみがこみあげてきたが、彼女はそれを表には出さず、また本を読み始めた。
 そして、その書庫からいくらか離れた場所。
 一人、城壁の端に座り、風に赤い髪をなびかせて佇む竜の王も、その歌に耳を塞ぐことなどせず、むしろ甘えるかのように瞳を伏せていた。歌は彼を包み、その冷たい体に熱を持たせていく。
 彼がどんなことを思い、その歌を聞いているのかは分からない。だが、ただひとつ確信できるのは、彼はその歌の意味を知りえているということ。
 何故ならば、彼の鋭い瞳が時折、熱に浮かされた若い青年のようにその表情を変えているのだ。

「いつか」

 歌の旋律と、カイムの言葉が重なる。

「解き放たれた、世界で」

 カイムはそう一言、断片的に、だが感情を以て呟いた。

 歌が終わると、兵士たちからは割れるような歓声が上がった。にこやかに手を振りながら降り立ったユアに我先にと群がる兵士たちだったが、すぐさまあの護衛剣士が現れて壁を作った。

「またかよグレン!」

「ちょっとぐらい話させろよ!」

 非難を一身に浴びながらもグレンはその姿勢を崩さず、険しい表情のまま犬か何かにするように兵士たちを追い払った。
 いつのまにか見物に来ていたジークフリードやレイム、そしてベリーたちが、少し離れた場所で歓談していることにリリスティアはふと気付いた。
 だが彼らはこちらに気付いていないらしいことを理由に、リリスティアはその光景を見て一人笑んだ。
 このような暖かさは、聖王国にはあるまい、と。

 だが、その光の中、リリスティアは何かに揺さ振られたかのように一つの存在に気付いた。

 音が途絶え、時が止まったかのようにさえ感じてしまう静寂の後、彼女は導かれるようにゆっくりとある一点に向けて振り返った。
 振り返ってはいけない、という不安にかられながらも、彼女は振り返ってしまった。
 そこには、長い乳白色の髪を持った人物が、冷然とした表情で静かに佇んでいた。

「……誰……」

 瞬間、リリスティアの視線はその人物から離すことが出来なくなった。
 男か女か判別が付きにくい顔立ち。地に付いて尚、緩やかに流れる髪。それを映えさせるように、蒼い綾が光沢を放つ。
 その人物は決して笑ってはいなかったが、かといって無表情でもない。
 ユアとグレンを囲む兵達は、そこにいる人物に不自然なほどに気付かない。警備の兵たちも、どういうわけか無反応だった。時の流れがやけに遅くなり、耳鳴りが思考に蓋をする。
 その人物は、変わらぬ表情のままこちらを見つめていたが、ついに背を向けた。そして城内へと続く回廊にゆらりと入っていった。
 すると、やっとリリスティアの五感に周囲の音や温度が戻った。リリスティアは衝動的にその後を追い掛けた。先程の場所に人が集中している所為か、昼間だというのに城内は薄暗い。
 その人物はゆらりゆらりと回廊の先へ歩んでいるのだが、不思議なことに、必死に走るリリスティアの足が全く追い付かない。
 そして、その人物は角を曲がった。続いてリリスティアも急いで角を曲がったのだが、その姿は幻のように、消えてしまっていた。

「消えた……」

 乳白色の髪。見慣れない顔だった。
 出で立ちからして、魔導師だろうか?
 考えても、思い当たる人物が浮かばない。この城に滞在している者ならば、大抵の顔は把握しているのに。
 ふと、腰のイスタリカの光に気付く。何故抜かなかったのか、と言いたそうにこちらに向けて光を放っている。だがリリスティアは、イスタリカの意志を無視し、呼吸を鎮めた。
 白昼夢でも見てしまったのだろう。ユアの歌に、ひどく酔い痴れてしまったのだろう。
 様々な言い訳を自分自身にしながら、リリスティアは前髪を掻き上げた。
 額は、じんわりと汗を孕んでいた。

「……戻ろう」

 きっと疲れているのだろう、と結論づける。反転し、兵舎の方へ戻ろうと足を進めた時だった。

「―――近い日、里に……でしょう」

 抑えたような、小さな声。
 だが人気の無い回廊にはそれがよく響き渡り、リリスティアの耳にも聞こえた。

「やっぱりねぇ。急にウェラー様と連れ立って帰るなんてそれしか無いですもの」

 声は、リリスティアが曲がった角のすぐそこ、吹き抜けになった小さな緑の園から聞こえてくる。

「どうしますのん、久世」

 ウェラーに、久世?
 となると、この艶のある特徴的な口調は詩帆で間違いない。
 リリスティアはそっと背を石壁に預けると、あまり誉められた行動ではないことを知りつつ、息を潜めた。

「昴様は――ですからね。このまま此処にい――けにも……ね」

「世――が焼け――わァん。――様……に――も」

 一体、何の話を、しているのだろうか。
 息を潜めながらリリスティアは、何とか話の全容を聞き取ろうとしてみたが、やはり小声で話されているので正しくは分からない。
 そのうちに話はまとまったらしく、声の主たちは落ち着いたかのように小声で話すことを止めた。

「――我らもすぐに里へ向かいましょう」

「んじゃ、先に行ってるわん」

 葉の散るような乾いた音がしたかと思うと、人の気配がひとつ減ったのが分かった。
 昴やウェラーについて何か話していたようだが、二人の口調にはどこか焦りが感じられた。
 私用があると言って里に帰った昴。確かに、御庭番筆頭を連れていくと言っていた。

 嫌な予感がする。出ていって、聞いてみようか。だが立ち聞きしていたなどと、格好が付かない。
 だが、気になる。
 石壁から離れ、回廊の中央でどうしようか、どうしようかと迷っているリリスティアの視界が、急に真っ暗に塞がれた。

「だーれだ」

「わッ!?」

 これでもかというぐらいに驚いたリリスティアだったが、なんとか声を上げることなくその手を振り払った。
 だが彼女の心臓は正直に早鐘を打っており、呼吸を整えながら振り向いた先に居た人物を見て更にその鼓動を早くした。

「久世……!」

「あまり驚きませんでしたね」

 久世は悪怯れた様子も無く、両手を開いた状態で、無表情にリリスティアを見つめる。
 気まずそうにリリスティアが咳払いをすると、久世はまた無表情に言い放った。

「聞いていました?」

「え、いや……その」

「聞いて、いました?」

 同じ口調で、同じ質問をされ、リリスティアは観念したように頷いた。そしてそれに乗じて、事の核心を尋ねてみることにした。

「断片的にだけ。昴に何かあったの?」

「これから、あるんです」

「……どういう意味?」

 すると久世は、周囲に細やかに目を配り、人の気配が自分達以外に無いことを確認すると、口を開いた。

「近く、アメリ様率いる東の国アキツイリの軍が、世闇の里に侵攻を開始します」

「な、何!?」

「アキツイリの北東領を統括する鏡人衆……あなた方で言う議会が、リュシアナからの援助物資を受け、本格的に世闇の一族への弾圧を決めたようですね」

 昴の言う私用とは、これのことだったのだ。
 何も、聞いていない。昴は、私用とだけしか言わなかった。
 何故、言ってくれなかったのか。
 そんなリリスティアの心中を察したのか、久世は彼女が質問を始める前に、淡々と答えを述べていった。

「アキツイリとは過去にも戦があり、以来、あまり良い関係ではありません。また世闇は、生まれついてある不思議な刺青や能力から、アキツイリの一部の地方では「あやかし」などと呼ばれ差別されることもありますから、疎む人間が多いのは仕方がないこと」

「そんな差別が……昴はそれを鎮圧するために戻ったのか」

「昴様は、昔からいつも、ただ黙って動く御方です。御自分の身が傷つこうと、ただ無心に、戦の中を駆けておられました」

「弥生さんはなんと……?」

 先程まで、朗らかに話をしていた。そんな雰囲気は一切見せていなかったのに。

「奥方様は、昴様を信頼しております」

「親子が再び刄を交えるのに、止めなかったのか!?」

 思わず声を上げたリリスティアにも、久世は表情を変えることはなかった。視線を少し下についと落とした。

「昴様は、我らにも話しては下さらなかったのです。陛下に暇の伺いを立てた後、すぐに発たれたようで」

「そんな……!」

 あの親子が、刄を交えるなど、もう二度とあってはいけない。
 あの戦いで刀を静かに下ろし、娘の刄を甘んじて受けた昴の潔さが恐ろしかった。その後、狂いそうなぐらいに声を上げたアメリも。
 ただその光景を、まるで観客のように見ることしか出来なかった自分がいた。
 そして、感じた。次に相間見えれば、どちらかが死ぬのではないかと。
 拳をわなわなときつく握り締めるリリスティアに、久世はやっとその視線を上げ、灰色の虚ろな瞳を凛と開き、こう言った。

「陛下、御庭番という卑しき影の立場を承知の上、お願いがあります」

「……何?」

「どうか、共に征き、昴様を止めては下さいませんか」

 意外と思える申し出に、リリスティアは目を丸くした。
 この久世という人物、自ら人に何かを懇願したりするような性格には思えないからだ。
 だか、それほどに彼女は事を急いているということ。すなわち、時間が無いと。

「あの御方は……命を擲(なげう)つ気でございます。妙な願いであることは知っています。しかし、万が一の時、陛下のその御力があれば、或いは」

 表情のまるで無い久世の顔に、言葉に、千切れそうなくらいの哀感が垣間見えた。
 リリスティアは、躊躇うことはなく頷いた。

「勿論だ」

 止めなければ、いけない。
 それが私に出来るならば、喜んで受けよう。
 自分に生きる道を教えてくれた、あの空の瞳を持つ師を救うためならば、何でもやろう。

「感謝の言葉もございません」

 久世は深く、腰を折った。



 * * *



「昴様、あの」

 道無き道を征く昴の背中に、後ろを静かに走っているウェラーが、恐る恐る声をかけた。

「なんだ」

 昴は振り向かぬまま返事をした。抑揚の無い声だが、緊張がこちらに伝わってくる。

「いえ……」

「なんだ、構わん言ってみろ」

 黒の着物の袖が地を蹴る度に揺れるのを見つめながら、ウェラーはついにはっきりとした声で問い掛けた。

「あの者たちに! 支援を頼むわけにはいかなかったのでしょうか!」

 しかし、昴はそれに答えず、重い沈黙が流れた。
 言ったそばから後悔に苦しむウェラーだったが、彼とて無闇にそんなことを聞いたわけではない。

 主君が、死を覚悟しているのを知っているのだ。
 しかし、御庭番筆頭である以上、彼は主の命令には絶対な服従を誓っている。そして昴を心から敬愛している以上、反発するなど己自身が許さないのだ。

「出過ぎました……」

 ウェラーはそれを最後に押し黙ってしまい、もう何も話すことはなかった。
 昴は瞳を閉じ、石のように動かない。だが、やがてゆっくりと瞼を動かすと、空色の瞳に月を映した。
 月を一瞥した後、彼は忍に向かってこう言った。

「アメリを討て」

 第23話・終
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