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第21話「霧の谷」
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夢を見ていた。いつか、誰とも隔たりのないその世界で。
全ての花が平等に咲き誇る、満たされた大地で。
光を受けて、祝福されるのがお前だけではないその世界で。
私はまた、生まれてくるのだ。
揺れる夜に気付かず、レオンはその時を重ねる指針の音を聞き顔を上げた。
部屋の壁で、夜が深まった事を告げるそれは、暫くして黙り込んだ。同時に、部屋の隅に人影が降り立った。世闇の忍だ。
連絡を持ってきたのは、世闇の御庭番衆の一人だった。「これを」と静かに言い、巻物を残してすぐに影となって消えた。
レオンはそれを見送ると、自身の居るこの執務室の窓枠に両手を付き、眼鏡の位置を正した。アルヘナ山脈が、段々と暁色から黒に変わっていく。
それをただ空虚に見つめているレオンだったが、次の瞬間覚醒した。
「軍師!」
自分だけしか居ないと思っていた部屋に、急に男の声が響いた。レオンは驚きはしなかったが、声の主の方に振り返ると、あからさまに嫌悪感をむき出しにした。
「ノックも無しデスかお二人さん」
「すまない。だが」
「う、伺いは立てたぞ! 倦怠のままに外を見つめていたようだが、我々の声まで聞こえぬほど放心していたのか」
「調子が悪いなら、また機会を見て来るが……」
部屋の扉を開け、その前に立っているのはグレンとウェラーだった。グレンは気を遣っているようだが、ウェラーは怒った顔で腕を組んでいる。
彼らがそれぞれに言葉を繋ぎ合わせて理由を言うと、レオンは手をひらひらと左右に振りながら笑顔を見せた。
「いや、俺は元気デスよ。そこはお気になさらず。用件をどーぞ」
すると、グレンにおかまいなしにウェラーが前に歩み出て、ずいと巻き物を渡した。
「わ、報告書が世闇式デスね」
「御庭番の情報網を駆使した結果だ」
「随分早かったデスねえ。これ、信じられる情報デショーか」
「我らを馬鹿にするな! クレアスィオンなどという名前はありふれた物ではない。故、そう時間がかかるわけがない!!」
「あっはは、冗談デスよ。若いデスねえウェラー君」
「っな……!?」
ウェラーは言葉に詰まり、益々顔を赤くする。その感情の起伏の荒々しさを笑いながら、レオンは巻き物を開き速読を始めた。
「確かに渡したぞ!」
ウェラーはそう言い残すと、レオンに背を向けた。退出しようとした瞬間、巨体を持つグレンとぶつかりそうになった為、「失礼した」と行儀良くお辞儀をしてから消えた。
「礼節ある少年だな」
「デショ。もうカチッカチで息苦しいデス」
「ははっ。貴殿はそう思うだろうな」
二人はそう言って笑い合うが、不意にレオンが口火を切った。
「で、グレン君が此処に来たってことは、あのことについて何か分かったってことデスよね」
「ああ。しかしどうして今そのようなことを?」
「好奇心デスよ。ただのね」
レオンの視線は、手元の巻き物に落としたままだが、時折グレンを見据える。その目は、自身が事を話すのを急かしていると感じたグレンは、扉が閉まっていることを確認した後、こう言った。
「ティアイエラの話など聞いても仕方ないと思うが」
「でも、君は陛下を見て「ティアイエラ」って言ったそうじゃないデスか」
「女王陛下はそれを気にしておられるのか。失礼な発言だっただろうか」
「なんで?」
「女神ティアイエラなど、シデラたちの残したおとぎ話だからな」
その髪は金にも銀にも輝き、瞳は美しく透き通る翡翠の宝石。儚げな白の指からは慈愛が溢れ、唇は豊穣の歌を紡ぐ。衣服など纏わずとも、その身体には常に光が集まり地を照らす。彼女が地上に手をかざすと、大地には瞬く間に花が咲き、農作物が実ったという。
それが、女神ティアイエラ。
シデラと呼ばれる古の人々はその女神を崇拝し、手足となって動いたという。
「シデラの間では、ティアイエラが世界を作り慈しみ育てたという話だ。だが、人間ほどの信仰があるわけではない。子供に読み聞かせる程度のおとぎ話だ」
「人間が崇める「神」は創世神デスからねえ」
「ああそうだ。世界にとっても、今や一般常識として「創世神」が唯一神だと浸透しているというわけだが」
グレンにとっては、他愛ない話。だがレオンは、手に持っている巻き物からいつのまにか目を離し、食い入るように耳を傾けている。
「だがティアイエラという名前は、ノーブルやユア・ラムダといった西方の伝承によく登場するのだ。本来は女神の名前だが、時には半円の月をそう呼んだりもする」
自分はただ淡々とおとぎ話を語っているだけなのに、あまりに真剣な様子のレオンを見ていると、グレンはなんだか心苦しくなってきた。
「こんなものでいいのか?」
「うーん。もっと詳しく話してくれマセンかねえ。由来とか……あっ、竜と関わりがあったりしマセンかねえ?」
煮え切らない様子で頭を捻るレオンに、これは真剣に答えねばと思ったのか、グレンも同じように頭を捻った。
「そこまで深く知りたいならば、俺よりもユア様の方がよくご存じだろう。幼き頃から、そういう物語をよく読んでおられたからな。すまんな、役に立てなかったようだ」
グレンが顔を曇らせながらも笑みを浮かべた為、レオンは眉間に寄せていた皺を消した。
「あ、いやいや。十分デスよ」
「明日ならば、ユア陛下の都合もつくが」
「そりゃ助かりマス。時間を取って頂きたい」
「分かった。伝えておこう」
グレンはそう言うと、軽く手を上げて部屋から去っていった。
ひとひら散って床に落ちた白い羽根を見ながら、レオンは影を落としたその眼鏡を外しながら、一人呟いた。
「女神ねえ。そもそも神って、何デスかね?」
神様を、まだ好きでいるのね。
そんな囁きが、どこからか響いて消えた。
* * *
――思い当たる事が無いわけではない。今まで、自身の中に蠢く感情と向き合ってはいなかっただけ。すぐ背中合わせにその意志は在ったのだ。狂気と呼ぶに相応しい醜い力が。あの時、あの瞬間に、それが形となっただけ。
何よりも強い、力として。
リリスティアの変貌ぶりに、一時は驚いたライザーだったが、馬鹿のように取り乱しはしなかった。
それよりも、彼女のことが気がかりだった。
「……なんだ今の。魔導元素ないんだぞここ。おい、何したんだ今!」
追い立てるように、ライザーは早口に言葉を発した。だが、リリスティアの呼吸が荒くなっていることに気付くとすぐさま口をつぐむ。そして頼りなく下を向く頭を、手のひらで包んだ。
「ライザー……」
「っ……とりあえず行くぞ」
瞬間、遠くから遠吠えのような呻き声が響いてきた。それと共に、馬が駆ける音が重低音に響く。
危険を察知したリリスティアは、二人に進むよう促した。
「行こう」
「そ、そうだね。やばい感じだよ~!」
力を封じられて一番不安であろうベリーは即答する。ライザーは二人が駆け出すのを見ながら、煙草をひとつポケットから取出し、口にくわえた。しかし、着火する物が無いことに気付くと、苛立った様子でそれを地面に投げ捨てる。
捨てた煙草を踏み付けると、ライザーもまた二人の後を追った。
この霧深い谷の中、不思議にも方角を見失うことは無かった。先頭を走るリリスティアが、まるで道が見えているかのように一直線に走っているからだ。霧の中ゆらめく蒼銀の髪は、彼らを導く燈の如く輝いていた。
背後から、確実に迫ってくる何かの遠吠えと馬の蹄の音。最後尾を走るライザーは、今に追い付かれやしないかとしきりに警戒をしている。
「止まれ!」
リリスティアはそう言って、急にその足を止めた。
「わっ、わわ!!」
続いて走っていたベリーは、反応が追い付かずリリスティアの背中に激突する。
「なんだよ!?」
ライザーもすぐに踏み留まったが、リリスティアの行動に異を唱えた。
しかしリリスティアは、ただひたすらに空を仰いでいる。一体この白の世界の中に何を見ているのか。不思議に思いながらも、ライザーとベリーは彼女の傍らに立ち視線を同じくした。
「これは……」
白い霧の中、巨大な影が見えた。影の途切れるところは見えず、空すらも覆い隠しているようで。
茫然と三人がそれを見上げていると、彼らを待ちわびていたかのように、霧が左右に晴れていった。
「神殿~?」
現われたのは、誰が見ても一目でそうだと分かる、荘厳な「神殿」だった。
「なんでこんなとこにこんなもんがあるんだ?」
ライザーは建物に近寄り、改めてその巨大さに感心した。
全てが汚れなき白い石で出来た巨大な壁。空を突きぬくような、幾重にも重なった柱たち。それらを彩る、羽根の生えた神々の彫像。中心には針の無い時計があるが、よく見ると時刻を示す数字すら無い。
入り口らしき扉は、人の手で開けられるのか分からないほど細長く、大きく。その扉の両側には、剣を構えた女神のように美しい女性と、咆哮する獅子の彫像が、高い台の上に据えられていた。
リリスティアはこの二つの彫像に見覚えがあった。確か、と思い出しながら頭を抱える。
「確か、祈りの塔に」
そうだ。あの日、幽閉された時にこの彫像に似たものを見た。
リリスティアは女神像に歩み寄り、そっとその膝元に手を置いた。大分長いこと雨風に晒されていた所為か、ざらりとした土と苔の感触がした。
ベリーは神殿の窓や扉の状態を確認すると、残念そうにため息を吐いた。
「放棄されてから、結構時間立ってるね~。人はいないだろうね」
「居ても人間だろうが」
「ベリー、やっぱり魔導術はまだ使えない?」
リリスティアがそう問うと、べリーは人差し指を立て、何とか魔導術を使えないかと試みてみた。
だが、やはり結果は変わらない。完全な無楚地帯に居る以上、べリーはただの人になってしまったようだ。
「今追い付いてこられたらやべえな」
ライザーは、先程から確実に近づいている敵の気配を懸念している。神殿以外には鬱蒼とした森林しか無い。逃げ道の無いこの場所にいつまでも居れば、聖王国軍との戦闘は不可避だ。
「じゃあ、中に入る~?」
ベリーはそう言って、神殿の扉に手をかけた。
「阿呆。中に入っても、外から火をつけられたら終わりだろうが」
「でも、裏口とかあるかもしれないじゃん?」
べリーは扉に手を当て、それを押してみた。だが、何かが引っ掛かっているかのような金属音がするだけで、扉は彼女を受け入れなかった。
「鍵がかかってる~。残念」
気落ちしたベリーは、とぼとぼと扉から離れ、その場にうずくまる。
「中から閂でもかかってんのか?」
ライザーはベリーの言葉を疑っているわけではないのだが、その扉を押したり引いたりしてみた。
「無理だな」
「諦めるの早い~。剣でかっこよく扉を切り刻むとかさあ」
「鉄やら木やらがんな簡単に切れるか! 昴と一緒にすんな」
「仕方ないわね。じゃあ別の――」
そう言って、リリスティアがその扉に手をかけた瞬間だった。二人がどれほど苦戦しても開かなかった扉が、まるで何の支えも無かったかのように軽く開いたのだった。それも、勢い良く口を開けたせいで、リリスティアは中に向かってよろけてしまった。
「は……?」
扉を押したつもりの無いリリスティアは、さすがに惘然とするしかなかった。
「な、なんで~!?」
「はああ!? なんだよ一体!? 鍵かかってたじゃねえか!!」
そのあっけなさに憤慨する二人にどう言っていいものかと、リリスティアは複雑な表情を浮かべた。
「私にもよく分からない」
そう言いながら、ゆっくりと開いた先を見る。そこには、空虚とした暗闇が広がっていた。だが、不思議と恐怖は無かった。闇は夜の淵に現われるような果ての無いものではなく、深い眠りを誘うゆるやかな闇だった。
「入る?」
リリスティアが二人に意見を求める。
「こういう場所好きじゃねえんだよ。逃げ場がねえだろ?」
ライザーはやはり渋った。得体の知れない建物に足を踏み入れ、包囲されてはたまらない。
「そうよね。やはり、危険かもしれないけど森を抜けよう」
今は、少しでも安全な道を進みたい。そう考えた一行は、その扉に背を向け立ち去ろうとした。
だが、
「――中へ」
不意に、この場に似付かわしくない、不自然なほど澄んだ声が響いた。
まさか他に人がいるのかと、リリスティアとベリーはすぐに視線を周囲に飛ばしてみる。だが、それらしい気配は無い。
「こっちへ」
その声は、どうやら女性のもののようだ。だが、声を張り上げているわけでもないのに、どういうわけか三人の耳のすぐ近くから響いてくる。
その奇異な声に、リリスティアとベリーは顔を見合わせて不安がる。だが、何故かライザーだけはそうではなかった。
「キンパツ?」
彼の様子の変化に気付いたベリーが声をかける。
「どうしたの?」
固まったまま動かないライザーに、リリスティアもまた心配そうに声をかけた。彼はその場に立ち尽くしたまま茫然としているように見えたが、その場から弾かれたように、血相を変えて走りだした。
「まさか……」
ライザーは一目散に、神殿の扉へと走りだした。開かれた扉は彼を拒否することはない。そのまま、彼の体を中へと飲み込んだ。
「ライザー!」
「キンパツ!?」
咄嗟にリリスティアとベリーも後を追い、扉の中に吸い込まれる。三人が入ったのを確認すると、大神殿の扉は勢い良く口を閉じた。
瞬間、一気に室内は暗さを増す。光のようなものが窓から差し込んではいるものの、外は霧に覆いつくされた世界。光はほとんど無いに等しい。
「閉じ込められた!?」
重厚な木の音と共に口を閉じた扉に振り返り、リリスティアは警戒心からイスタリカを抜いた。
何も出来ないベリーは、必死にリリスティアに寄り添うしか出来なかった。暗闇にまだ慣れぬ目を忌まわしく思いながら、リリスティアはライザーの名を叫ぶ。
「どこだライザー!」
先に入った筈の彼の姿が近くに無い。罠だったのだろうか。あの声の主は、まさか聖王国軍だったのか。悪い方向にしか働かない意識を振り切るように、リリスティアは剣を一振りして、しっかりと前に構えた。
「俺はここだよ」
薄暗さの中から、ライザーの声がした。すると、暗闇に慣れてきたおかげもあり、彼の金色の髪が少し遠くに見えた。
「な、なーんだ近くにいたんじゃん」
安心したベリーが、安堵の息を吐く。
「ライザー、いきなりどうしたの?」
リリスティアもまた、小さく息を吐くと、遠くにいる彼に向かって足を進めた。ただし、イスタリカは握り締めたまま。
しかし不思議なことに、彼に近づくにつれ、何故か神殿内は明るさを増していく。先程までは闇が広がっていたのに、どういうわけか窓から差し込む光が強くなっているのだ。霧が、晴れていっているとでもいうのだろうか。
そうして光が差すことにより、神殿の内部の美しさが絢蘭として浮かび上がった。放棄されて久しいなどと誰が言ったのか。その内部に飾られた彫像は未だ光沢を放ち、床を這う水路には透明な水が流れている。それに沿って、中心には透明な綿毛をつけている桃色の花が咲き誇っていた。
リリスティアたちが立っているのは、どうやら祈りを捧げる祭壇に続く道のようだ。両側には、礼拝者たちが腰を掛ける長い椅子が幾つも据えられている。突き当たりの、祭壇とおぼしき物の両側にはやはり女神と獅子の像が在った。
部屋はここだけで終わりではなく、左右には二階へと繋がる階段がある。吹き抜けになった天井には、あまり見たことのない金色の文字と紋様が、絡み合うように描かれていた。
美しい内装に見惚れてしまいそうになりながらも、リリスティアたちは彼に歩み寄った。そして、視線を彼に戻し、声をかけようとした時だった。彼の佇む向こう側に、もう一人誰かがいることにやっと気付いたのだ。
浅黒い肌、飛び出た骨。妖しく光る、獣のように割れた翡翠の瞳。人に近い、華奢な体。視界に入った瞬間、悪寒が体中を走る。
その者の凶々しさを目の当たりにして、剣を構えぬ者など居ないだろう。ただ一人、彼を除いて。
「悪魔!?」
ベリーがそう叫ぶのも当然。そこにいる「それ」は、彼女の知る悪魔と同一にしか見えないのだから。だが、ライザーは黙って「それ」の前にいた。その背中は小刻みに震え、拳は固く握られていた。
「……悪魔じゃねえよ」
「え?」
リリスティアは、僅かに剣を降ろした。
「こいつは悪魔じゃねえ」
ライザーは、沸き上がる感情を必死に押さえているような、切ない声でそう繰り返した。
それを見兼ねたように、そこにいる「異形」は、リリスティアたちに向かって言葉を発した。
先程聞こえたような、あの澄んだ声で。
「リリスティア……様?」
外見からは想像もつかないような声。更に、自身の名前を明確に呼ばれたことに、リリスティアは目を丸くした。
彼女の戸惑いを見て取った異形は、顔らしき部分を僅かに下げ、申し訳なさそうにこう言った。
「こんな姿でごめんなさい」
異形は、骨が飛び出た両手を前で組み、きちんと立ってみせた。
瞬間、あの女性の姿が異形に重なった。絵画でしか知らない、あの女性。自分を信じたまま死んでいった、あの女性が。
だが、まさか。似ても似つかない。しかし、傍らでライザーが何かを必死に堪えている。まさか、まさか。
「お前は誰?」
リリスティアが尋ねると、異形はやっとこの時が来たのだと言わんばかりに、瞳を柔らかく細め、こう答えた。
「マイアです。マイア・レギ・ヴァイスです。リリスティア様」
マイアというその名前を、彼は、彼女は、忘れたことは無かっただろう。だが、既に命が息づく場所には居ない人だと認識して久しい存在。
それが、今目の前にいる異形が、自らをマイアと名乗る。それはあのマイアだと言うのだろうか。疑念を持ちながらも、リリスティアは改めてその顔を見つめ直した。
「マイア? もしかして、あのマイア?」
「どんなマイアを知っているか分からないけど、私はマイアです」
声が、優しい。自分達に会えたことをめいっぱい喜んでいるのがその言葉の調子からありありと分かる。
だがしかし、知能の高い異形の罠かもしれない。そう考えることも出来た。リリスティアは聖騎士だった頃に、そのような異形と遭遇したことも確かにあるのだから。
だが、その予想はあっけなく崩された。嬉しさ余った異形の手が、ほんの僅かだがライザーにぶつかった瞬間だった。
異形のおぞましい姿が、みるみるうちに変化した。淡い光を放ちながら、その渦に巻き込まれていく。そして現れたのは、顔つきが彼によく似た若い女性だった。
肩より少し長い、麦の穂のような金色の髪、白く華奢な四肢。青い紋様で縁取られたロングドレス。その姿を見せ付けられては、皆は彼女を彼女だと認めざるを得なかった。
変化した自分自身に驚いていた女性だが、気恥ずかしそうに頬を赤らめると、リリスティアたちに向かって笑顔を見せた。そして、傍らで固まっている自身の兄の胸に向かって、大きく腕を広げて飛び付いた。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん……!!」
「マイア……」
ライザーは、確かめるように名前を呼んだ。目の前に鮮やかに現れた彼女の体は、どこか実体が無いかのように揺らめいてはいるが、触れる。息遣いを感じる。
もう二度と会えないだろうと、心で決着をつけていた肉親との再会。それは、彼の胸を優しく締め付けた。
「マイアって……」
事態をうまく飲み込めないベリーが、リリスティアに説明を求める。
「ライザーの、妹。もうずっと前に死んだ筈だった」
「何故あんな姿に……?」
「それは分からない。でも」
あの幸せそうな兄妹の姿に水を差すようなことは言うまい、とリリスティアは口端に笑みを浮かべた。
「お兄ちゃん……ごめんね……先にいなくなってごめんね……! 心配かけてごめんね……!!」
ライザーの腕に包まれたマイアは、その瞳から幾つも雫を零し続ける。
「何とも思ってねえよ」
ライザーは、「兄」の顔で微笑んでいる。しがみつく妹の頭に優しく手を置き、その髪を撫でてやった。
「……リリスティア様!」
ひとしきり泣きじゃくったマイアは、赤くなった目を擦りながらリリスティアに向き直った。
「そして、えっと」
次にベリーに視線を遣るも、見知った顔では無い為に言葉に詰まる。ベリーは明るい笑顔を見せると、元気良くこう言った。
「ベリー、ベリー・ハウエルだよ~。よろしく~!」
「ベリーちゃん。ふわふわの髪が可愛い」
マイアは明快な女性なのだろう。ハキハキとした口調が、初対面でも好印象を持てる。しかしライザーと兄妹だと言われると、よく出来た妹なのだなと、リリスティアは考えてしまった。
「皆、私に色々聞きたいことはあると思うけど……何から話せばいいのか、ちょっと迷ってます」
マイアが眉間に皺を寄せ腕を組む。何気ない仕草や表情は、やはりライザーとよく似ている。
「とりあえず、この場所は、何なの?」
リリスティアが問うと、マイアは視線を中央の裁断に移した。
「此処は、アニムスの大神殿です。獅子と、女神と、そして「あの人」を喚ぶ謳が綴られた神殿」
視線の先の祭壇には、女神と獅子の像。動かぬ石膏で出来ているというのに、今にもこちらに振り向きそうな程に精巧だ。
「ここはもうずっと前に放棄されています。どのくらい前なのかなんて分かんないけど……」
そう言いながら、彼女は流れる水路の端に咲き誇る花々に手を伸ばした。
「この花は、私が来た時には一人で綺麗に咲いていた」
「お前、なんでこんなとこにいるんだよ。なんでヴァイスに戻ってこなかったんだ!」
生きていたのなら。そう言い掛けて、ライザーは言葉を止めた。
彼女の姿は陽炎のように時折揺らめき、その足から景色に続くところには影が無い。それは即ち、この世ならざる者の証。
ライザーの顔色が変わったのを見て取ったマイアは、寂しそうに眉を下げた。
「少し、この中を歩きながら話そっか。お兄ちゃん」
静かな、静かな神殿。人が居ないのだから当然だとはいえ、その静寂は寂しさよりも安らぎをもたらしてくれる。
階段を昇り、二階に上がると、長い回廊に出た。そこに連なる窓は随分汚れていた為、外の様子はほとんど見えなかった。
歩き回っていると、時折その物陰から、先程の異形たちとおぼしき者たちがこちらを伺っていることに、リリスティアは何度も気付いた。しかし襲ってくる気配は無い為、見て見ぬふりをした。
「大丈夫! 襲ってきませんよ、リリスティア陛下」
先頭を歩くマイアがくるりと体をこちらに向け、後ろ歩きをしながらそう言った。
「彼らは?」
「悪魔です。人間が言う、悪魔。でも私たちには襲ってきません!」
何故、と聞くことすら虚しかった。彼女があの異形をはっきりと悪魔と言った。それはすなわち、彼女自身も悪魔であると肯定したようなもの。彼らと自分は同一だから、襲ってこないと言うのだろうか。
無言で表情を暗くする面々を見たマイアは、頭をかいた。
「ぐるぐる歩き回ってごめんなさい。頭の中整理してたんです」
無邪気なその仕草から、先程のおぞましい姿は想像もつかない。マイアは、顎に人差し指を当て、これからまるで思い出話を語るかのような明るい表情をした。
「うーん。どこから、話そうかな……。とりあえず、お兄ちゃんが知ってる通り、人質になった私は解放された後死んだの」
マイアは、死んだ。それは揺るぎない事実であることを、彼女はまず口にした。
聖王国に幽閉された彼女は、一度は解放されたものの、その後しばらく経ってから、男たちになぶり殺されたのだと言う。
戦争の卑劣さを、ヒルから嫌というほど教わっていたリリスティアだったが、その犠牲者の無念に深く心を痛めた。
「そして、気付いたらあんな姿になってたんだ」
意識が途切れた瞬間、すぐにまた別の意識が覚醒し、自分の体が動くことに気付いた。だが、もうそれは自分自身では無く。
醜い体を目の当たりにした彼女は、何が何だか分からないまま、狂うように走った。涙とも液体とも取れぬ汚らしいものを撒き散らしながら、ひたすらに走った。そうして、辿り着いたのは。
「この、アニムス大神殿」
そこにはもう、マイアと同じような姿をした異形がたくさん居た。その異様さには、恐怖を覚えた。だが、異形たちはマイアに構う事はなかった。それどころか、壊れ物を扱うように、距離を置き、敬いとも取れるような態度で接してきたのだ。
だが、彼らは時折そこを離れ、人間を襲う。餌を求めているわけでもないのに、人里に現れては殺戮を楽しんでいる。
「そこで、私は気付いたんだ」
悪魔って、もしかして。
「私たちの行きつく先なんじゃないかなって」
「んなわけあるか!!」
ライザーは壁に拳を打ち付け、吠えた。突然のことにベリーは肩を震わせたが、マイアは凛として兄を見つめていた。
「んなわけねえだろ! お前があの化け物と一緒なわけねえだろが!!!」
「お兄ちゃん……」
「悪魔は得体の知れない化け物で、俺らは人間が都合良く事を運ぶ為に、勝手に同一視されただけだ!!」
「化け物って言わないで!!」
マイアは悲痛な声でそう言うと、自身の体を両腕できつく抱き締めた。
「化け物って言わないでよ……お兄ちゃんが、そんなこと言わないでよ」
マイアは唇をぎゅっと噛み締め、その細い肩をふるふると震わせていた。
あのおぞましい姿を彼女だと認めたくないのは誰も同じ。だが、まぎれもない事実。頭の中がぐしゃぐしゃになってしまいそうなライザーは、どうすることも出来ず、背を向けた。
「マイア」
リリスティアはそんなマイアに歩み寄り、その腕で優しく抱き締めた。
「陛下?」
「貴方のこと、そしてその願いは、レオンから全部聞いていた」
「レオン先生から?」
「私は今、王としてヴァイスに居る。貴方の志が、私をそうさせた。貴方の言葉が国の復興に繋がった」
ハッ、とマイアは目を見開いた。「そんなことない」と言い返そうとリリスティアの顔を見るも、彼女は優しく微笑んでいた。
「心配要らない」
「……ヒルは陛下と、出会えましたか?」
マイアの瞳から、また涙が幾つも流れ落ちる。
「出会えた。貴方の、おかげで」
マイアは涙を拭うと、リリスティアの顔に手を添えて笑顔を見せた。
「陛下とヒルなら、大丈夫。陛下は私が、想像していた通りの方でしたから。出来れば一緒に、国を再興したかった」
ああ、何と美しい涙を流すのか。何と美しい笑顔なのか。こんな女性なら、ヒルも愛さずにはいられなかっただろう。彼女のような者こそ、ヒルと幸せにならねばいけないのではないか。
自分のような、血に染まった女ではなく。
「陛下?」
「いや、なんでもない」
「でもさ、なんでマイアちゃんがあんな姿になっちゃったの~?」
ベリーは聞くべきかどうか迷ってはいたが、おずおずと前に歩み出た。
「マイア。もし悪魔がヴァイスの民の慣れの果てだというのなら、その根拠は何だ?」
「ヴァイスの、というのは間違いかもしれません」
「何?」
「悪魔はこの世界に住む全ての命の「罪の烙印」を押された者ではないかと」
「でも、それじゃマイアちゃんも何か悪いことしちゃったみたいだよ~」
するとマイアは、背を向けたままの兄の存在が気になったのか、そちらに視線を遣った。が、こちらを見る様子は無い。
長く妹をやっていたのだから、きっと何かに怒っているのだろうということは安易に予測出来た。
しかし、これから話すことは、その兄を更に怒らせるかもしれない内容だったが、マイアは静かに語り始めた。
「ベリーちゃん。私は罪を犯したの。それは、ヴァイスの民として有り得ない事。今も、昔も、それだけは思想として有り得ない」
心優しきヴァイスの民。魔導術を人間にたくすも、裏切りに合い、悪魔と罵られた歴史の被害者。
しかし、悪魔はもしかすれば命の慣れの果てであるかもしれない。しかも、罪を犯した命の。
歴史はまた新たな側面を見いだし、それを語るマイアに、悪魔とヴァイスの民の真実が隠されているというのだろうか。
マイアは、頭を深く下げ、こう言った。
「私をお斬り下さい陛下」
「何言ってんだよマイア!」
ライザーが物凄い剣幕で、マイアに詰め寄る。
「ごめんね、お兄ちゃん。私は、一度祖国ヴァイスを捨てたの。裏切ったの。皆を」
「……何言ってんだよ。意味分かんねえよ」
「愛してしまったの」
「……は?」
「私は、あの人を。投獄された私を密かに助け、愛してくれたあの人を」
そして、新たな歴史の被害者を。望んでも、世界には望まれぬ命を。
「あの人の、赤ちゃんを産んだの」
「――破壊しろ!!!!」
刹那、マイアの言葉を遮るように、凛として通る女性の声と巨大な地響きが、神殿全体を揺るがした。
神殿全体を戦慄が包んだ。猛々しい声と共に、神殿の扉は木っ端微塵に破壊されたのだ。遮るものが無くなった神殿は、侵入者たちを次々と飲み込んでいくしかない。
「探せ! この中にいる筈だ!」
はっきりとそう聞こえたわけではないが、リリスティアたちは互いに顔を見合わせた。今まさに、あの女性が自分達を追い詰めている。追い付いてこられたのだ。しかも、内部に侵入してきている。
「こっち!」
大事な話をしていたのだが、悠長に構えているわけにもいかない。マイアは体を反転させると、三人をどこかへ誘導する為に走りだした。
「逃げ道が?」
走りつつ、リリスティアが問う。
「勿論! 絶対に逃がしてあげます!」
前を走る彼女は、自信満々にそう答えた。生き生きと金色の髪を風になびかせながら走る彼女だが、やはり影は無い。
――一体、誰の子を産んだというのか。立場的にも衝撃の大きいであろうライザーは、苦悶の表情を浮かべていた。
一方、リリスティアもまた様々な憶測を並べていた。裏切るなど、この女性がするわけがない。現に今も、こうして自分の為に必死に動いている。死して久しく、あんな姿になったにも関わらずだ。
その理由を聞いて同調することはあっても、自分が彼女を斬るなどということは無いだろうとリリスティアは考えていた。
* * *
「おやおや、此処は」
神殿内を意気揚々と包囲した聖王国軍は、鼠が炙り出されるのを今か今かと待っていた。その中に勿論、あの男の姿も在った。
「嫌な場所ですねえ、私は役立たずですか」
クルヴェイグはそう言うと、細く長い人差し指の上に小さな風の流れを作ろうと試みた。が、何もそれらしい現象は起こらず、彼は微笑みながら五本の指全てを伸ばし、そのまま腰にやった。
「閣下。馬をお借りしますよ」
今まさに神殿内部に入ろうとしていたマリアベルは、呼び止められたことにより不機嫌に首をうねらせた。
「どうした。馬になど乗れるのか貴様は」
「教養のひとつとしてそれくらいは当然です」
兵士が乗ってきた馬にまたがるクルヴェイグに、マリアベルが声を張る。
「何処へ行く気だ。皇帝との取引で、貴様はヴァイス制圧に最後まで協力する約束をした筈だ」
「しますよ。ですが、腹立だしいことにですね……この辺り一帯が無楚になっているんですよ」
「無元素、無精霊地帯というやつか? 貴様、怠惰故の口実ではあるまいな」
「私と離れがたいですか? あちらには大勢いましたからね」
「戯言を」
「ふっふふ。こちらより、あそこに行った方が楽しめるかもしれませんのでね…」
そう言うと、クルヴェイグは馬を走らせその場から立ち去った。
何処に行くのか大体の見当がついたのか、マリアベルは鋭い瞳でそれを見送ると、再び神殿内へと体を向けた。
「気味の悪い男だ」
* * *
「早く! 此処から外に逃げられます!」
回廊を進み、階段を降りる。そうして行き着いた先には、地下へと続く薄暗い階段がぽっかりと口を開けていた。
「地下に?」
リリスティアが問う。
「この先は水路に繋がっています。アルヘナ山脈のふもとに流れる河近くに抜けれる筈です」
どんな城にも神殿にも、万が一の事態に備え脱出口が据えられているのは普通だ。助かった、とライザーは息を吐いた。
「じゃあ、行くか」
「けど」
リリスティアが尻込みをする。その心中を知るライザーは、すかさず言葉を返した。
「ヒルか? 心配しなくても、死んでねえよ」
「ヒルも来ていたの?」
マイアが尋ねると、リリスティアはなんとも答えにくそうに視線を落とした。
「村でね、あたしたちを助ける為に戦って、そこからはぐれちゃって」
ベリーが当たり障りの無いように答えると、マイアは悲しむことはなく逆に笑顔でこう言った。
「なあんだ。ヒルならきっとすぐ追いついてきますよ陛下!」
「根拠はなんだよマイア」
「お兄ちゃん、そんなこと聞くなんて野暮よ? ヒルは、陛下の為だけに在るんだから! そうよね?」
元気づける為、一点の曇りも見せずに語るマイアの表情の温かさに、リリスティアは泣きだしてしまいそうなくらい胸を締め付けられた。
四人はそのまま、地下へと続く階段を駆け降りた。明かりは申し訳程度に据えられている、発光する石のランプしか無い。ひとつ間違えれば、一気に転げ落ちてしまいそうだ。
長い階段を下まで降りると、今度は真っすぐに続く地下水路に出た。幸いなことに道はそう枝分かれしておらず、マイアが先立って走ることにより、迷う心配は無さそうだ。
だが、やはり明かりは頼りないものばかり。人が歩く為の通路の横を流れる水路は、黒く不気味に濁っていた。
「追い掛けてはこないみたいね」
後ろを気にしながら、リリスティアは呟いた。
「まだ油断は出来ねえけどな。……って、おい何へばってんだよ」
横を走るベリーの変化に気付いたライザーは、一度立ち止まり、彼女の様子を伺った。同じく、前を走るリリスティアとマイアも立ち止まる。
「っは……はあっ……はあっ、ご、ごめん」
「真っ青じゃねえか。大丈夫かよ」
ベリーの顔色は、まるで病人のように青白く変色している。いつものあの笑顔も、この時ばかりは出せないようだ。
「ベリー、少し休みましょう。今は、追っ手の足音もしないし」
「へ、平気だよ~……! ごめん、まだ走れるから! 行こっ!」
空元気だということは、誰の目にも見て取れた。この彼女の消耗しきった様子は、やはり無楚地帯だということに関係があるのだろうか。
だが、ライザーは疲れた様子は無い。リリスティアは彼ら二人を見比べ、首を傾げた。
「お兄ちゃん、抱っこして!」
「はあ!?」
マイアの突然の発言に、ライザーは彼女に向けて思い切り目を見開いた。しかしマイアはそれ以上に目くじらを立て、ベリーの方を手で差した。
「違う! あたしじゃなくて、ベリーちゃん! 走るの無理だよ」
「そうよね。ライザー、悪いけど」
二人の女性にそう言われ、恥ずかしいだの重いだのと拒否するのかと思いきや、ライザーはすぐにそれに応じた。
「言われなくてもやるっつうんだよ」
そう言って、前かがみになり辛そうに息をするベリーの腕を取り、そのまま背中と足を支え、自身にぴたりと密着させ、抱き上げた。そこに、照れなどなんだのという感情は無く。大切な物を扱うように、彼はその手に優しい力を込めた。
「行くぞ」
「お兄ちゃん、おんぶじゃ駄目だったの?」
「……後ろだとずり落ちるだろ」
その体勢のほうが走りにくいのではと思いながらも、リリスティアは口を挟むことなく、ただ微笑んだ。
「あのっ、陛下」
不意に、マイアがリリスティアに声をかける。その視線はリリスティアの瞳一点ではなく、時折別の物を見つめている。
「うまくいけば、戦わずに逃げられます」
「……ええ、そうね」
ただなんとなく肯定するリリスティアに、マイアは更に言葉を続けた。
「よく分かりませんが、あまり使わない方が、いいかと思います。その、剣を」
マイアが指差したのは、イスタリカだった。リリスティアは不思議そうにイスタリカを持ち上げ、マイアを見る。
「イスタリカを?」
「はい。あの、それはきっと怖い剣です」
マイアは少し身を引きながら、イスタリカを見る。なるほど、先程からこれを見ていたのかとリリスティアは納得すると、彼女の不安を取りのぞくべくこう答えた。
「大丈夫。云われは確かにあまり穏やかではない剣だけれど……使い方を間違ったりはしないから」
「ならいいんですが……」
「うん。さあ、先を急ごう」
リリスティアはそのまま、先頭を走りだした。道に迷ってはいけない、とマイアもすぐに走りだし、ライザーたちも後に続いた。水路の終わりまで、もう少し。出口らしき光が遠くに揺らめいて見え始めた時だった。
彼らの行く手を阻むように、突如として「奴」が現れた。 目の前に立ちはだかったのは、体中が鈍く光る目玉とヘドロに覆われた異形だった。骨格らしき骨格は無く、どろどろと体を揺らしている。ヘドロは体の登頂部から流れては水路に落ち、水を黒く濁している。
道を完全に塞いでいる巨大な異形は、さあ倒してみろと言わんばかりに、体中の目玉をこちらに向けた。
「またかよ……!」
ライザーが低く唸る。これも、「悪魔」なのか。世界に生きる生命の変わり果てた姿だというのか。だが、こんなおぞましい化け物が、妹と同じ輪廻を経た姿などとは考えられない。
現れた異形はその体の一部分を硬質化させ、鋭い剣のように尖らせた。その切っ先が高く高く掲げられたかと思うと、間髪入れずにこちらに向かって振り下ろされた。それに対し素早く反応したリリスティアは、イスタリカを鞘から抜き刀身で弾いた。
「そう力は強くない。でも」
リリスティアは異形の体を見て、眉を寄せた。あのどろどろした体を剣で斬り付けられるだろうか。魔導術が使えるならば、どうにかダメージを与えることが出来る。
だが、ここは魔導師にとっての鬼門、無楚地帯。加えてベリーは疲弊し、彼女を守るためライザーの手も封じられている。ならば、とリリスティアはイスタリカを構えた。
リリスティアは一瞬、何か力を込めるようにその瞳を閉じた。だがすぐに凛として瞳を開き、異形に向かって走りだした。
「リリスティア!!」
ライザーたちがリリスティアの背中に向かって叫ぶ。異形は、急な接近に対しその体から無数に刄を精製し、その切っ先を一斉にリリスティアに向けた。鈍く光っていた目玉に赤い血管が浮かび上がり、警戒色に染まる。
リリスティアはイスタリカを一度後ろに引くと、そのまま疾風のごとく振りぬいた。どろどろした体に剣撃は効かないだろうと思われたが、彼女の太刀は硬質化した部分だけを捉え、凪ぎ払った。
「ギュイィッ」
異形から、甲高い人の声のような奇怪な音がした。体の一部を凪ぎ払われたことにより、異形は益々目玉を赤く染め、こちらに向けて大きく剥き出した。そしてすぐに他の部分から同じような刄を精製し、リリスティアに向かって縦横無尽に振るい始めた。
「一度冷静さを失うと、後は闇雲に攻撃するのは異形の特徴ね。聖騎士だった頃の経験が、こんなところで役に立つなんて」
自分で自分を皮肉るようにそう呟くと、リリスティアは低く態勢を構え、重心を崩さぬようそれらを迎え撃った。その反応速度と立ち回りにただ口を開けて見ていた仲間たちだったが、何とか加勢出来ないものかとやきもきしている。
「髪も服も邪魔!」
長い髪は立ち回る度にその軌跡を追い掛け顔にかかる。レースがたっぷりとあしらわれたスカートは足の動きを邪魔する重い鎖にしかならない。
リリスティアはそのドレスの裾を剣で思い切り引き破り、切れ端を投げ捨てた。それにより動きやすくなったはいいが、彼女の太ももがほとんど露になった。だが、リリスティアはそんなことは気にせず、再び剣を構えた。
「ライザー、私がこの異形を凪ぎ払い道を作る。その隙に、先へ進んで」
「馬鹿言うな! 出来るかそんなこと!」
「言うことを聞け!!」
リリスティアは強い口調で言葉を遮った。怒りとも取れるその口調に、ライザーもマイアも、驚き目を見開くしかなかった。だが、リリスティアもまた自身の言葉の強さを思い返したのか、申し訳なさそうな表情で彼らに瞳を向けた。
「このぐらいの異形なら、戦い慣れている」
「陛下……でも」
マイアは、リリスティアよりもその手にあるイスタリカを見つめていた。美しい装飾、銀の刀身。見た目はまるで、舞姫の手に持たれてこそ輝くようだが、発せられる気配は、血に飢えた獣にしか見えない。
「ィギィ」
異形から、また小さく音が聞こえた。同時に、その体から生えた刄は秒刻みで数を増やしていく。その形は一定ではなく、鎌のようだったり、斧のようだったり。まるであらゆる武器をひとつに集めたかのようだった。
「無駄だ」
リリスティアはそう呟くと、イスタリカを騎士のように垂直に顔の前に構えた。そしてゆっくりと異形に切っ先を向け、再び斬り付けた。だが、剣はヘドロのような体に手応え無く当たっただけだった。
「馬鹿め」と言わんばかりに、異形の体から生えた無数の刄が勢い良くリリスティアに向かって振り下ろされた。
「陛下ぁッ!!」
マイアが思わず目を瞑り悲鳴を上げた。瞬間、暗闇に閉ざされた彼女の耳には、何か液体が勢い良く吹き出すような音が響いた。
血の気が引く思いをしながらマイアが瞳を開くと、そこには予想とは真逆を行く光景があった。
異形から生えた無数の刄は、リリスティアの体から一寸離れたところでぴたりと静止しているのだ。赤く蠢いていた目玉は見開かれたまま完全に停止し、明後日の方向に向けられている。
そして、イスタリカを異形に斬り付けたリリスティアは、そこから噴出された黒い体液により、黒く、黒く汚れていた。蒼銀の髪は輝きを無くし、白い肌さえ薄汚れた布のように見える。イスタリカはしっかりと異形の体に食い込み、捕らえて放さない。その異様さにライザーは、恐怖した。異形にではなく、それに剣を突き立てるリリスティアに。
「行け……」
頭から滴る黒い液体を拭いもせず、リリスティアが呟いた。当然ながら、すぐに反応できない仲間たちに、リリスティアは再度声を上げた。
「――行け!!」
急かすような苛立った声に、返事をすることも忘れてライザーたちは走りだした。異形とリリスティアの横をなんとか擦り抜け、逃げる。その瞬間に垣間見たリリスティアの瞳だけは、汚れた黒い体の中、美しく輝いていた。
ライザーは走りながら、背後で妹が恐怖に震えて泣いているのが分かった。同じ女性であるリリスティアがあれほどまでに容赦無く戦い、平然と剣を突き立てていることに驚いたのだろう。
ライザーも、体中に戦慄が走るのを感じていた。
「……また、俺は逃げなきゃいけねえのか」
遠ざかる気配を置き去りに、水路に空しい足音が響いた。
仲間が無事に逃げたのを確認すると、リリスティアはイスタリカを異形から引き抜いた。瞬間、噴水のごとく吹き上げた黒い液体に、リリスティアの体はまた汚れた。
「ギィ、ギィ」
異形は激痛に耐えかねているのか、生やした刄を体に再び吸収し、目玉すらもその体内に隠した。もうただのヘドロの固まりと化したそれを冷たく見下ろしながら、リリスティアは言葉を発した。
「お前が、罪を犯した生命のなれの果てというなら、どんな罪を犯したの」
「ギィ、ギギ。ギッ」
異形からは錆びた鉄が擦れるような音しかしない。それらしい返事など返ってくるはずはないと分かっていても、リリスティアは言葉を投げ掛ける。
「お前は、「元」は何だったの」
静かに紡がれる問い掛けに反応したのか、異形の体から目玉がひとつ浮かび出た。
その目はリリスティアを捉えると、何かを訴えるかのように、一雫の涙を流した。異形の視界に映るリリスティアは、どんな顔をしているのだろうか。
「……そうか」
リリスティアは何かに対し頷くと、イスタリカを異形に向け、無情にも勢い良く突き立てた。
刹那、イスタリカから彗星の如く光が弾け、異形の体を瞬時に消し去った。破裂させたのではなく、消し去ったのだ。その攻撃の後、光の残骸すら残さずに、地下水路は静寂に包まれた。
薄明かりの中、リリスティアはイスタリカを鞘に納め、改めて自身の姿を見つめ直した。
「汚い。やっぱり私は、汚い」
それは、かつて自分が呟いた言葉。だが彼女は噛み締めるようにそれを口にすると、汚れながらも、穏やかに微笑んだ。
そう呟いて、彼女はその場に力なく倒れた。
* * *
「――出口か!?」
ライザーの足が悲鳴を上げ始めた頃、その進む先にやっと光に続く階段が見え始めた。腕の中で限界近くまで疲弊しているベリーを見遣ると、彼はその足の速度を上げ勢いのまま光の中へ飛び込んだ。
光から抜けた彼らのその目の前には、深い森と見覚えのある山脈が大きくその姿を現した。
「アルヘナ! ここまでくれば……」
だが、歓喜に浸り息をつく間は無かった。
「お兄ちゃん!!」
マイアが叫ぶ。それに反応したライザーが咄嗟に振り返ると、そこにはすでに待ちくたびれた様子の聖王国軍の姿があった。
剣を手にした兵士たちは素早く彼らを包囲すると、じわりじわりとその距離を縮め始めた。
「っくそ!」
来た道を戻るわけにもいかず、三人は完全に逃げ場を失ってしまった。
「お兄ちゃん、無楚地帯はまだ抜けてないの?!」
「抜けてるけどな。まだ体に影響が残ってやがる」
ライザーの手の平に、黒い光が少し浮かんで消える。体に影響が残ってしまい、元の体に戻るには時間がかかるということなのだろう。
「あたし置いていって……」
力なくベリーが訴える。しかし、そんな頼みを彼が聞き入れる筈もない。ライザーは左手だけでベリーを支えると、空いた手でその腰の剣を抜いた。
「出来ねえって分かってるくせにんなこと言うんじゃねえよ馬鹿女!」
「キンパツ……」
「いいから黙って寝てろ!! 俺はそんなに弱くねえ!」
切り抜ける策など、無いだろうに。自分を守るために奮い立つその顔を見上げながら、ベリーは彼の服の端を強く握った。
マイアはそんな兄の様子を見て、喜ばしく感じもしたが、同時に淋しさも感じていた。影もなく揺らめく自身の体は、もうその暖かな領域には入れないのだから。
「お兄ちゃん。私が引き付けるよ」
「あァ?」
「私がこの人たちを引き付ける。だから、その隙に逃げて!」
反論する暇も無く、マイアは兄の傍から離れ敵に向かって走りだした。突然走り込んできた女性に兵士は戸惑ったが、すぐにそのためらいを後悔した。
マイアの体は一瞬にして変化し、先程までの愛らしい姿は消え去った。そこに居たのは、醜悪さを撒き散らす異形だった。
「悪魔が本性を現したぞ!」
「恐れるな! かかれッ!」
姿が変わるや否や、兵士たちは一斉に剣を振り上げマイアに飛び掛かった。マイアはその両手を大きく振り、男たちを次々と凪ぎ払うが、全てを防ぐことは出来ない。そのうちに体を斬り付けられ、黒い液体が吹き出た。
「やめろマイア!!」
叫ぶライザーの背後から、兵士の剣が勢い良く迫ってきた。あまり自由が利かぬ彼だったが、剣を力の限り振り上げ、兵士の太刀を弾いた。
「ァァアァアッ!!!」
低い声と高い声が混じったような叫び声が響いた。マイアの叫び声だ。弾かれたようにライザーがそちらに振り向く。
すると、マイアの背中が縦一文字に斬り付けられ、そこから黒い液体が勢い良く噴出していた。その瞳からはどろりとした液体が流れ、マイアは狂ったように地面を転がった。
「っげ、気持ち悪い悪魔だな」
斬り付けた兵士は苦い顔をして、唾を吐くと、傷ついたマイアの背中を足下にした。そうすると、また背中からは黒い液体が吹き出す。それを見た周りの兵士たちは、そのおぞましさに口を押さえ顔を歪める。
地べたに這いつくばった彼女は、兄の方を見ようとはしない。ただその痛みに耐えながら、目の前の地面の草を見つめていた。
――また、死んじゃうのかな。
兄の叫び声が頭に響く。だが、何と遠いのか。
まるでひとつ違う世界から、客観的にそれを聞いているよう。マイアはその曇る眼を、そっと彼の方に向けてみた。彼は、やはり叫んでいた。それだけで、マイアは少し嬉しくなった。
――お兄ちゃん。また死んじゃうけど、泣かないでね。
ディグの家を、お兄ちゃん一人にしちゃうね。
ごめんね。私も、お兄ちゃんと一緒に。陛下を。
あの世界を、見てみたかった。
その声は、ライザーだけに聞こえていた。瞬間、ライザーの中の何かが弾ける。
見開かれた瞳の灰色はぐるりとして真紅に染まり、その周囲には夜の色を纏った球体が次々と姿を現したのだ。
「なんだ!?」
兵士たちは一斉にライザーの方に向き直る。ライザーは怒りに燃えた瞳で兵士たちを睨み付けると、その剣を水平に構えた。
すると、複雑な紋様が刀身の周りに螺旋を描きながら出現した。それは一斉に天空へ浮かび上がると、兵士たち全てを飲み込むかのような、紋様の檻を作り出した。
そして、兵士に叫ぶ間も与えず、彼の報復が始まった。
「ああああああッ!!」
ライザーが猛々しく吠えた瞬間、出現した死の檻は容赦なく兵士を圧縮した。その圧力に生身の人間が耐えれる筈も無く、檻の中からは次々に肉片と血が飛び出していく。
倒れたマイアの体にも鮮血が広がり、その黒い液体と混ざってどす黒さを増した。
「死ね! てめえらなんざ一人残らず死んでしまえ!!」
ライザーの頭上に、今度は鎌状の黒い光が現われた。それも、人の五倍以上はありそうなほどとてつもなく巨大な鎌だ。
「っあ……あああ!!」
先程の檻の地獄から逃げ延びていた何人かの兵士は、恐怖に顔を引きつらせ腰を抜かしている。四つんばいに逃げる者、油汗を流しながらも勇敢に剣を構える者。そんな彼らを、ライザーは見逃しはしなかった。
「逃がすかよ……てめえらもずっとそうやって俺たちを殺したんだからなあッ!!」
兵士の悲鳴も短く、ライザーの出現させた鎌は無慈悲に彼らを断罪した。役目を終えると、鎌も檻もその姿を消し、後には、吐きそうなくらいな異臭と屍の山が出来た。
さすがに体力を消耗したのか、ライザーはその場に膝をつき、ベリーを支えていた手の力を抜いた。
ベリーはふらつきながらも傍らに降り、今度は逆に彼の体を支えた。
「キンパツ……」
「触んな。なんでもねえこれくらい」
「無楚の影響を無理矢理振り払ったの?」
「これぐらい出来ねえでどうすんだよ! ……っぐ!?」
瞬間、ライザーの右手首付近の血管が膨れ上がり、中から斬り裂くようにして鮮血が吹き出した。
「媒介無しな上に詠唱も無しだから力が逆流したんだよ! 貸して!」
ベリーは自身の衣服の裾を引き千切ると、すぐに傷口に当てた。だが、それは瞬く間に赤に染まり、水分を吸収しきって重くなった。
「……いい」
ライザーはそれに構わず、立ち上がった。
そうして歩を進めた先には、一人孤独に横たわるマイアがいた。ライザーはよろよろとした頼りない足付きで、屍の中を歩いていった。
「お兄……ちゃん」
醜く変化したマイアの体は、黒い液体と赤い液体にまみれ汚れていたが、ライザーは側に座り込むと、そっとその体を抱き上げた。
不思議なことに、彼が触れるとマイアの体は生前の姿に変化する。ただし、やはりその体に影は無いのだが。
「お兄ちゃんが、私の姿を覚えていてくれてるからかな。やっぱりこの体が、いいよね」
自分の手の平の裏表を見ながら、マイアは微笑む。
「無理して喋んなよ。待ってろ、すぐに治してやるからな」
「えへへ……ちょっと無理なんじゃ……ないかな……?」
「今ヴァイスにはカミワタシの巫女が仲間にいる。そいつなら、このぐらいの傷すぐに治せる」
「他国の人が、仲間に?」
ライザーは無理な笑顔を見せ、必死に声をかけ続けた。
「ああ、世闇に、ユア・ラムダに、竜に……ほら、お前さ、竜好きだろ。他にも、今ヴァイスは色んな国と同盟を結んでんだぞ」
「ほんと……!?」
「ああ」
「じゃあ、ヴァイスは復興したの?」
「まだ……完全じゃねえがな」
それを聞いたマイアは、零れるような笑顔を見せた。
「良かった……リリスティア様はもう、一人じゃないね」
「ああ。お前も居るし、な」
だが、マイアはその兄の言葉を緩やかに拒絶した。傷ついた体を僅かに強ばらせ、首を横に、振った。
「……マイア?」
「そろそろ、行かなきゃ……私……」
そう言って、マイアは視線を落とした。その先には、白くぼやけ始めた細い足があった。
ライザーはそれに気付いたが、見て見ぬふりをしてマイアに語り掛ける。
「だから……! 治せるっつってんだろ! 弥生って女がいてな、そいつは巫女で治癒能力が――」
「お兄ちゃん」
マイアは、か細くも強い声で言葉を遮った。そうして震える右手を兄の頬に添えた。
離れた場所では、青くなったベリーが呆然としたまま膝を付いている。マイアはそんなベリーの方に視線を遣り、安心させるかのような笑顔を見せた。
「私ね……好きな人が出来たの」
「あ……?」
何故かマイアは、ベリーの方に視線を向けている。その理由を聞く間も与えず、マイアはベリーに向かって語り続けた。
「その人はね、私がヴァイスの民だって分かってて助けてくれて。皆から……匿ってくれて」
「は……ええ? な、何言ってんだよマイア……」
マイアは、語り続けた。だが、言葉を紡ぐ度に、彼女の体は白んでぼやける。ライザーはそれを止めようと、何度か声をかけるが、彼女はうわごとのように、語り続けた。
「その人はね、少し頼りなくて、優しくて。戦いが、嫌いだったんだねきっと。なのに、命令を破ってあたしを……」
あの日、聖王国の城から、あの人と私は手を取り合って逃げた。
雨が降ってきて、足が痛くなって。でも、優しいあの人は。
“あんたは、死んじゃ駄目だ。俺がそんなことさせない”
マイアを逃がしたの男は、彼女を連れてどこまでも走ったという。
繋いだその手は震えるていたが、決して離されることはなかったという。
「すぐに追っ手はついて……でも、なんとか逃げて、逃げて」
その内にマイアは身籠り、逃亡者たちに刹那の幸せが訪れ、春の木漏れ日に包まれた新しい生命が誕生した。
だが、見つかった。
「あの人たちは、あの人と、赤ちゃんを連れていってしまった」
絶望に染まる夕焼けの色。消えていく愛しい人の背中。泣き叫ぶわが子の声が未だに頭に響いて離れない。
叫んでも、懇願しても。救いなどなかった。腕はしっかりと拘束され、そのうちに口には猿轡がかけられ。
死の瞬間まで視界にあったのは、男たちの肌に彫られた多種多様な紋章。そうして彼女の人生は、荒々しく、壮絶な最期を迎えた。
「マイア……お前……お前………!」
ライザーの腕が、肩が、唇が震えた。ついに胴体まで白み始めたマイアは、力を振り絞って、兄に真実を伝えた。
「私の好きになった人は、優しい、リュシアナの人だった」
「な……」
「国も、皆も捨てて。あの人とあの子と、暮らそうとしたの。それが、私の……」
「いい……もういい……」
「お兄ちゃん……」
「俺は……俺は……ッ!!」
何と、答えてやれば妹の心に適うだろう。だが、反して広がるのは、憎しみと混乱の海。
幸せだったのだろうか、どうにかしてやれなかったのだろうか。その間、自分は悪戯に聖騎士を弄び、殺していた。その中に、マイアのような女性がいなかったと言い切れるだろうか。
だが彼は、「たかが人間」と軽く踏みにじった。その行為が、正しいか間違っているかなどと考えもせず。ただひたすらに自身の正義のみを信じ、動いた。
――妹を殺したのは、自分だ。
マイアの頬に、ぽつり、ぽつりと雫が落ちた。
「お兄ちゃん?」
見上げた兄の瞳は、抑えきれない衝動に溢れ、その欠片を零していた。
「泣かないで……」
マイアの体は、もう半分以上が背景に溶け込み、透けている。これが最期だと悟った時、彼女は遺言とも取れる言葉を発した。
「リリスティア様に伝えて」
瞳の色が、消える。唇が、白くなる。それでもマイアは、口を動かし続ける。
「あの子を……」
震える手は、宙を掴み。
「私の赤ちゃんを……」
そのまま力なく、地に落ち。
「マリアベルを探して……助けてあげて……」
刹那の幸福しか味わえず生を終えた彼女は、今また二度目の終焉を迎えた。
聞いたことがあると思った。マリアベルという名前。それは、妹が未来の夢を語る時によく口にしていた名前だったのに。
“でね! 女の子なら、ぜーったいマリアベル! どう? 可愛い名前でしょ?”
“その前に相手見つけろバーカ”
“そっちこそ。彼女くらい見つけなよ”
“はっ、お前の世話で手いっぱいだよ”
「……ライザー!!」
ベリーは、立ち上がり彼に駆け寄った。恐る恐る近づいてみると、彼の腕の中は既に空っぽだった。
空虚となった手のひらを握り締めると、ライザーはそれを思い切り地面に叩きつけた。
「マイアぁぁあッ!!」
――マリアベル。どうか、幸せになって。
「誰だ?」
空から声が聞こえた。間違いなく聞こえた。それで返事をしたのだが、従える兵達は、誰一人マリアベルを顧みる事は無かった。
紺碧の髪の下で、翡翠が揺れた。
「……まさかな」
第21話・終
全ての花が平等に咲き誇る、満たされた大地で。
光を受けて、祝福されるのがお前だけではないその世界で。
私はまた、生まれてくるのだ。
揺れる夜に気付かず、レオンはその時を重ねる指針の音を聞き顔を上げた。
部屋の壁で、夜が深まった事を告げるそれは、暫くして黙り込んだ。同時に、部屋の隅に人影が降り立った。世闇の忍だ。
連絡を持ってきたのは、世闇の御庭番衆の一人だった。「これを」と静かに言い、巻物を残してすぐに影となって消えた。
レオンはそれを見送ると、自身の居るこの執務室の窓枠に両手を付き、眼鏡の位置を正した。アルヘナ山脈が、段々と暁色から黒に変わっていく。
それをただ空虚に見つめているレオンだったが、次の瞬間覚醒した。
「軍師!」
自分だけしか居ないと思っていた部屋に、急に男の声が響いた。レオンは驚きはしなかったが、声の主の方に振り返ると、あからさまに嫌悪感をむき出しにした。
「ノックも無しデスかお二人さん」
「すまない。だが」
「う、伺いは立てたぞ! 倦怠のままに外を見つめていたようだが、我々の声まで聞こえぬほど放心していたのか」
「調子が悪いなら、また機会を見て来るが……」
部屋の扉を開け、その前に立っているのはグレンとウェラーだった。グレンは気を遣っているようだが、ウェラーは怒った顔で腕を組んでいる。
彼らがそれぞれに言葉を繋ぎ合わせて理由を言うと、レオンは手をひらひらと左右に振りながら笑顔を見せた。
「いや、俺は元気デスよ。そこはお気になさらず。用件をどーぞ」
すると、グレンにおかまいなしにウェラーが前に歩み出て、ずいと巻き物を渡した。
「わ、報告書が世闇式デスね」
「御庭番の情報網を駆使した結果だ」
「随分早かったデスねえ。これ、信じられる情報デショーか」
「我らを馬鹿にするな! クレアスィオンなどという名前はありふれた物ではない。故、そう時間がかかるわけがない!!」
「あっはは、冗談デスよ。若いデスねえウェラー君」
「っな……!?」
ウェラーは言葉に詰まり、益々顔を赤くする。その感情の起伏の荒々しさを笑いながら、レオンは巻き物を開き速読を始めた。
「確かに渡したぞ!」
ウェラーはそう言い残すと、レオンに背を向けた。退出しようとした瞬間、巨体を持つグレンとぶつかりそうになった為、「失礼した」と行儀良くお辞儀をしてから消えた。
「礼節ある少年だな」
「デショ。もうカチッカチで息苦しいデス」
「ははっ。貴殿はそう思うだろうな」
二人はそう言って笑い合うが、不意にレオンが口火を切った。
「で、グレン君が此処に来たってことは、あのことについて何か分かったってことデスよね」
「ああ。しかしどうして今そのようなことを?」
「好奇心デスよ。ただのね」
レオンの視線は、手元の巻き物に落としたままだが、時折グレンを見据える。その目は、自身が事を話すのを急かしていると感じたグレンは、扉が閉まっていることを確認した後、こう言った。
「ティアイエラの話など聞いても仕方ないと思うが」
「でも、君は陛下を見て「ティアイエラ」って言ったそうじゃないデスか」
「女王陛下はそれを気にしておられるのか。失礼な発言だっただろうか」
「なんで?」
「女神ティアイエラなど、シデラたちの残したおとぎ話だからな」
その髪は金にも銀にも輝き、瞳は美しく透き通る翡翠の宝石。儚げな白の指からは慈愛が溢れ、唇は豊穣の歌を紡ぐ。衣服など纏わずとも、その身体には常に光が集まり地を照らす。彼女が地上に手をかざすと、大地には瞬く間に花が咲き、農作物が実ったという。
それが、女神ティアイエラ。
シデラと呼ばれる古の人々はその女神を崇拝し、手足となって動いたという。
「シデラの間では、ティアイエラが世界を作り慈しみ育てたという話だ。だが、人間ほどの信仰があるわけではない。子供に読み聞かせる程度のおとぎ話だ」
「人間が崇める「神」は創世神デスからねえ」
「ああそうだ。世界にとっても、今や一般常識として「創世神」が唯一神だと浸透しているというわけだが」
グレンにとっては、他愛ない話。だがレオンは、手に持っている巻き物からいつのまにか目を離し、食い入るように耳を傾けている。
「だがティアイエラという名前は、ノーブルやユア・ラムダといった西方の伝承によく登場するのだ。本来は女神の名前だが、時には半円の月をそう呼んだりもする」
自分はただ淡々とおとぎ話を語っているだけなのに、あまりに真剣な様子のレオンを見ていると、グレンはなんだか心苦しくなってきた。
「こんなものでいいのか?」
「うーん。もっと詳しく話してくれマセンかねえ。由来とか……あっ、竜と関わりがあったりしマセンかねえ?」
煮え切らない様子で頭を捻るレオンに、これは真剣に答えねばと思ったのか、グレンも同じように頭を捻った。
「そこまで深く知りたいならば、俺よりもユア様の方がよくご存じだろう。幼き頃から、そういう物語をよく読んでおられたからな。すまんな、役に立てなかったようだ」
グレンが顔を曇らせながらも笑みを浮かべた為、レオンは眉間に寄せていた皺を消した。
「あ、いやいや。十分デスよ」
「明日ならば、ユア陛下の都合もつくが」
「そりゃ助かりマス。時間を取って頂きたい」
「分かった。伝えておこう」
グレンはそう言うと、軽く手を上げて部屋から去っていった。
ひとひら散って床に落ちた白い羽根を見ながら、レオンは影を落としたその眼鏡を外しながら、一人呟いた。
「女神ねえ。そもそも神って、何デスかね?」
神様を、まだ好きでいるのね。
そんな囁きが、どこからか響いて消えた。
* * *
――思い当たる事が無いわけではない。今まで、自身の中に蠢く感情と向き合ってはいなかっただけ。すぐ背中合わせにその意志は在ったのだ。狂気と呼ぶに相応しい醜い力が。あの時、あの瞬間に、それが形となっただけ。
何よりも強い、力として。
リリスティアの変貌ぶりに、一時は驚いたライザーだったが、馬鹿のように取り乱しはしなかった。
それよりも、彼女のことが気がかりだった。
「……なんだ今の。魔導元素ないんだぞここ。おい、何したんだ今!」
追い立てるように、ライザーは早口に言葉を発した。だが、リリスティアの呼吸が荒くなっていることに気付くとすぐさま口をつぐむ。そして頼りなく下を向く頭を、手のひらで包んだ。
「ライザー……」
「っ……とりあえず行くぞ」
瞬間、遠くから遠吠えのような呻き声が響いてきた。それと共に、馬が駆ける音が重低音に響く。
危険を察知したリリスティアは、二人に進むよう促した。
「行こう」
「そ、そうだね。やばい感じだよ~!」
力を封じられて一番不安であろうベリーは即答する。ライザーは二人が駆け出すのを見ながら、煙草をひとつポケットから取出し、口にくわえた。しかし、着火する物が無いことに気付くと、苛立った様子でそれを地面に投げ捨てる。
捨てた煙草を踏み付けると、ライザーもまた二人の後を追った。
この霧深い谷の中、不思議にも方角を見失うことは無かった。先頭を走るリリスティアが、まるで道が見えているかのように一直線に走っているからだ。霧の中ゆらめく蒼銀の髪は、彼らを導く燈の如く輝いていた。
背後から、確実に迫ってくる何かの遠吠えと馬の蹄の音。最後尾を走るライザーは、今に追い付かれやしないかとしきりに警戒をしている。
「止まれ!」
リリスティアはそう言って、急にその足を止めた。
「わっ、わわ!!」
続いて走っていたベリーは、反応が追い付かずリリスティアの背中に激突する。
「なんだよ!?」
ライザーもすぐに踏み留まったが、リリスティアの行動に異を唱えた。
しかしリリスティアは、ただひたすらに空を仰いでいる。一体この白の世界の中に何を見ているのか。不思議に思いながらも、ライザーとベリーは彼女の傍らに立ち視線を同じくした。
「これは……」
白い霧の中、巨大な影が見えた。影の途切れるところは見えず、空すらも覆い隠しているようで。
茫然と三人がそれを見上げていると、彼らを待ちわびていたかのように、霧が左右に晴れていった。
「神殿~?」
現われたのは、誰が見ても一目でそうだと分かる、荘厳な「神殿」だった。
「なんでこんなとこにこんなもんがあるんだ?」
ライザーは建物に近寄り、改めてその巨大さに感心した。
全てが汚れなき白い石で出来た巨大な壁。空を突きぬくような、幾重にも重なった柱たち。それらを彩る、羽根の生えた神々の彫像。中心には針の無い時計があるが、よく見ると時刻を示す数字すら無い。
入り口らしき扉は、人の手で開けられるのか分からないほど細長く、大きく。その扉の両側には、剣を構えた女神のように美しい女性と、咆哮する獅子の彫像が、高い台の上に据えられていた。
リリスティアはこの二つの彫像に見覚えがあった。確か、と思い出しながら頭を抱える。
「確か、祈りの塔に」
そうだ。あの日、幽閉された時にこの彫像に似たものを見た。
リリスティアは女神像に歩み寄り、そっとその膝元に手を置いた。大分長いこと雨風に晒されていた所為か、ざらりとした土と苔の感触がした。
ベリーは神殿の窓や扉の状態を確認すると、残念そうにため息を吐いた。
「放棄されてから、結構時間立ってるね~。人はいないだろうね」
「居ても人間だろうが」
「ベリー、やっぱり魔導術はまだ使えない?」
リリスティアがそう問うと、べリーは人差し指を立て、何とか魔導術を使えないかと試みてみた。
だが、やはり結果は変わらない。完全な無楚地帯に居る以上、べリーはただの人になってしまったようだ。
「今追い付いてこられたらやべえな」
ライザーは、先程から確実に近づいている敵の気配を懸念している。神殿以外には鬱蒼とした森林しか無い。逃げ道の無いこの場所にいつまでも居れば、聖王国軍との戦闘は不可避だ。
「じゃあ、中に入る~?」
ベリーはそう言って、神殿の扉に手をかけた。
「阿呆。中に入っても、外から火をつけられたら終わりだろうが」
「でも、裏口とかあるかもしれないじゃん?」
べリーは扉に手を当て、それを押してみた。だが、何かが引っ掛かっているかのような金属音がするだけで、扉は彼女を受け入れなかった。
「鍵がかかってる~。残念」
気落ちしたベリーは、とぼとぼと扉から離れ、その場にうずくまる。
「中から閂でもかかってんのか?」
ライザーはベリーの言葉を疑っているわけではないのだが、その扉を押したり引いたりしてみた。
「無理だな」
「諦めるの早い~。剣でかっこよく扉を切り刻むとかさあ」
「鉄やら木やらがんな簡単に切れるか! 昴と一緒にすんな」
「仕方ないわね。じゃあ別の――」
そう言って、リリスティアがその扉に手をかけた瞬間だった。二人がどれほど苦戦しても開かなかった扉が、まるで何の支えも無かったかのように軽く開いたのだった。それも、勢い良く口を開けたせいで、リリスティアは中に向かってよろけてしまった。
「は……?」
扉を押したつもりの無いリリスティアは、さすがに惘然とするしかなかった。
「な、なんで~!?」
「はああ!? なんだよ一体!? 鍵かかってたじゃねえか!!」
そのあっけなさに憤慨する二人にどう言っていいものかと、リリスティアは複雑な表情を浮かべた。
「私にもよく分からない」
そう言いながら、ゆっくりと開いた先を見る。そこには、空虚とした暗闇が広がっていた。だが、不思議と恐怖は無かった。闇は夜の淵に現われるような果ての無いものではなく、深い眠りを誘うゆるやかな闇だった。
「入る?」
リリスティアが二人に意見を求める。
「こういう場所好きじゃねえんだよ。逃げ場がねえだろ?」
ライザーはやはり渋った。得体の知れない建物に足を踏み入れ、包囲されてはたまらない。
「そうよね。やはり、危険かもしれないけど森を抜けよう」
今は、少しでも安全な道を進みたい。そう考えた一行は、その扉に背を向け立ち去ろうとした。
だが、
「――中へ」
不意に、この場に似付かわしくない、不自然なほど澄んだ声が響いた。
まさか他に人がいるのかと、リリスティアとベリーはすぐに視線を周囲に飛ばしてみる。だが、それらしい気配は無い。
「こっちへ」
その声は、どうやら女性のもののようだ。だが、声を張り上げているわけでもないのに、どういうわけか三人の耳のすぐ近くから響いてくる。
その奇異な声に、リリスティアとベリーは顔を見合わせて不安がる。だが、何故かライザーだけはそうではなかった。
「キンパツ?」
彼の様子の変化に気付いたベリーが声をかける。
「どうしたの?」
固まったまま動かないライザーに、リリスティアもまた心配そうに声をかけた。彼はその場に立ち尽くしたまま茫然としているように見えたが、その場から弾かれたように、血相を変えて走りだした。
「まさか……」
ライザーは一目散に、神殿の扉へと走りだした。開かれた扉は彼を拒否することはない。そのまま、彼の体を中へと飲み込んだ。
「ライザー!」
「キンパツ!?」
咄嗟にリリスティアとベリーも後を追い、扉の中に吸い込まれる。三人が入ったのを確認すると、大神殿の扉は勢い良く口を閉じた。
瞬間、一気に室内は暗さを増す。光のようなものが窓から差し込んではいるものの、外は霧に覆いつくされた世界。光はほとんど無いに等しい。
「閉じ込められた!?」
重厚な木の音と共に口を閉じた扉に振り返り、リリスティアは警戒心からイスタリカを抜いた。
何も出来ないベリーは、必死にリリスティアに寄り添うしか出来なかった。暗闇にまだ慣れぬ目を忌まわしく思いながら、リリスティアはライザーの名を叫ぶ。
「どこだライザー!」
先に入った筈の彼の姿が近くに無い。罠だったのだろうか。あの声の主は、まさか聖王国軍だったのか。悪い方向にしか働かない意識を振り切るように、リリスティアは剣を一振りして、しっかりと前に構えた。
「俺はここだよ」
薄暗さの中から、ライザーの声がした。すると、暗闇に慣れてきたおかげもあり、彼の金色の髪が少し遠くに見えた。
「な、なーんだ近くにいたんじゃん」
安心したベリーが、安堵の息を吐く。
「ライザー、いきなりどうしたの?」
リリスティアもまた、小さく息を吐くと、遠くにいる彼に向かって足を進めた。ただし、イスタリカは握り締めたまま。
しかし不思議なことに、彼に近づくにつれ、何故か神殿内は明るさを増していく。先程までは闇が広がっていたのに、どういうわけか窓から差し込む光が強くなっているのだ。霧が、晴れていっているとでもいうのだろうか。
そうして光が差すことにより、神殿の内部の美しさが絢蘭として浮かび上がった。放棄されて久しいなどと誰が言ったのか。その内部に飾られた彫像は未だ光沢を放ち、床を這う水路には透明な水が流れている。それに沿って、中心には透明な綿毛をつけている桃色の花が咲き誇っていた。
リリスティアたちが立っているのは、どうやら祈りを捧げる祭壇に続く道のようだ。両側には、礼拝者たちが腰を掛ける長い椅子が幾つも据えられている。突き当たりの、祭壇とおぼしき物の両側にはやはり女神と獅子の像が在った。
部屋はここだけで終わりではなく、左右には二階へと繋がる階段がある。吹き抜けになった天井には、あまり見たことのない金色の文字と紋様が、絡み合うように描かれていた。
美しい内装に見惚れてしまいそうになりながらも、リリスティアたちは彼に歩み寄った。そして、視線を彼に戻し、声をかけようとした時だった。彼の佇む向こう側に、もう一人誰かがいることにやっと気付いたのだ。
浅黒い肌、飛び出た骨。妖しく光る、獣のように割れた翡翠の瞳。人に近い、華奢な体。視界に入った瞬間、悪寒が体中を走る。
その者の凶々しさを目の当たりにして、剣を構えぬ者など居ないだろう。ただ一人、彼を除いて。
「悪魔!?」
ベリーがそう叫ぶのも当然。そこにいる「それ」は、彼女の知る悪魔と同一にしか見えないのだから。だが、ライザーは黙って「それ」の前にいた。その背中は小刻みに震え、拳は固く握られていた。
「……悪魔じゃねえよ」
「え?」
リリスティアは、僅かに剣を降ろした。
「こいつは悪魔じゃねえ」
ライザーは、沸き上がる感情を必死に押さえているような、切ない声でそう繰り返した。
それを見兼ねたように、そこにいる「異形」は、リリスティアたちに向かって言葉を発した。
先程聞こえたような、あの澄んだ声で。
「リリスティア……様?」
外見からは想像もつかないような声。更に、自身の名前を明確に呼ばれたことに、リリスティアは目を丸くした。
彼女の戸惑いを見て取った異形は、顔らしき部分を僅かに下げ、申し訳なさそうにこう言った。
「こんな姿でごめんなさい」
異形は、骨が飛び出た両手を前で組み、きちんと立ってみせた。
瞬間、あの女性の姿が異形に重なった。絵画でしか知らない、あの女性。自分を信じたまま死んでいった、あの女性が。
だが、まさか。似ても似つかない。しかし、傍らでライザーが何かを必死に堪えている。まさか、まさか。
「お前は誰?」
リリスティアが尋ねると、異形はやっとこの時が来たのだと言わんばかりに、瞳を柔らかく細め、こう答えた。
「マイアです。マイア・レギ・ヴァイスです。リリスティア様」
マイアというその名前を、彼は、彼女は、忘れたことは無かっただろう。だが、既に命が息づく場所には居ない人だと認識して久しい存在。
それが、今目の前にいる異形が、自らをマイアと名乗る。それはあのマイアだと言うのだろうか。疑念を持ちながらも、リリスティアは改めてその顔を見つめ直した。
「マイア? もしかして、あのマイア?」
「どんなマイアを知っているか分からないけど、私はマイアです」
声が、優しい。自分達に会えたことをめいっぱい喜んでいるのがその言葉の調子からありありと分かる。
だがしかし、知能の高い異形の罠かもしれない。そう考えることも出来た。リリスティアは聖騎士だった頃に、そのような異形と遭遇したことも確かにあるのだから。
だが、その予想はあっけなく崩された。嬉しさ余った異形の手が、ほんの僅かだがライザーにぶつかった瞬間だった。
異形のおぞましい姿が、みるみるうちに変化した。淡い光を放ちながら、その渦に巻き込まれていく。そして現れたのは、顔つきが彼によく似た若い女性だった。
肩より少し長い、麦の穂のような金色の髪、白く華奢な四肢。青い紋様で縁取られたロングドレス。その姿を見せ付けられては、皆は彼女を彼女だと認めざるを得なかった。
変化した自分自身に驚いていた女性だが、気恥ずかしそうに頬を赤らめると、リリスティアたちに向かって笑顔を見せた。そして、傍らで固まっている自身の兄の胸に向かって、大きく腕を広げて飛び付いた。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん……!!」
「マイア……」
ライザーは、確かめるように名前を呼んだ。目の前に鮮やかに現れた彼女の体は、どこか実体が無いかのように揺らめいてはいるが、触れる。息遣いを感じる。
もう二度と会えないだろうと、心で決着をつけていた肉親との再会。それは、彼の胸を優しく締め付けた。
「マイアって……」
事態をうまく飲み込めないベリーが、リリスティアに説明を求める。
「ライザーの、妹。もうずっと前に死んだ筈だった」
「何故あんな姿に……?」
「それは分からない。でも」
あの幸せそうな兄妹の姿に水を差すようなことは言うまい、とリリスティアは口端に笑みを浮かべた。
「お兄ちゃん……ごめんね……先にいなくなってごめんね……! 心配かけてごめんね……!!」
ライザーの腕に包まれたマイアは、その瞳から幾つも雫を零し続ける。
「何とも思ってねえよ」
ライザーは、「兄」の顔で微笑んでいる。しがみつく妹の頭に優しく手を置き、その髪を撫でてやった。
「……リリスティア様!」
ひとしきり泣きじゃくったマイアは、赤くなった目を擦りながらリリスティアに向き直った。
「そして、えっと」
次にベリーに視線を遣るも、見知った顔では無い為に言葉に詰まる。ベリーは明るい笑顔を見せると、元気良くこう言った。
「ベリー、ベリー・ハウエルだよ~。よろしく~!」
「ベリーちゃん。ふわふわの髪が可愛い」
マイアは明快な女性なのだろう。ハキハキとした口調が、初対面でも好印象を持てる。しかしライザーと兄妹だと言われると、よく出来た妹なのだなと、リリスティアは考えてしまった。
「皆、私に色々聞きたいことはあると思うけど……何から話せばいいのか、ちょっと迷ってます」
マイアが眉間に皺を寄せ腕を組む。何気ない仕草や表情は、やはりライザーとよく似ている。
「とりあえず、この場所は、何なの?」
リリスティアが問うと、マイアは視線を中央の裁断に移した。
「此処は、アニムスの大神殿です。獅子と、女神と、そして「あの人」を喚ぶ謳が綴られた神殿」
視線の先の祭壇には、女神と獅子の像。動かぬ石膏で出来ているというのに、今にもこちらに振り向きそうな程に精巧だ。
「ここはもうずっと前に放棄されています。どのくらい前なのかなんて分かんないけど……」
そう言いながら、彼女は流れる水路の端に咲き誇る花々に手を伸ばした。
「この花は、私が来た時には一人で綺麗に咲いていた」
「お前、なんでこんなとこにいるんだよ。なんでヴァイスに戻ってこなかったんだ!」
生きていたのなら。そう言い掛けて、ライザーは言葉を止めた。
彼女の姿は陽炎のように時折揺らめき、その足から景色に続くところには影が無い。それは即ち、この世ならざる者の証。
ライザーの顔色が変わったのを見て取ったマイアは、寂しそうに眉を下げた。
「少し、この中を歩きながら話そっか。お兄ちゃん」
静かな、静かな神殿。人が居ないのだから当然だとはいえ、その静寂は寂しさよりも安らぎをもたらしてくれる。
階段を昇り、二階に上がると、長い回廊に出た。そこに連なる窓は随分汚れていた為、外の様子はほとんど見えなかった。
歩き回っていると、時折その物陰から、先程の異形たちとおぼしき者たちがこちらを伺っていることに、リリスティアは何度も気付いた。しかし襲ってくる気配は無い為、見て見ぬふりをした。
「大丈夫! 襲ってきませんよ、リリスティア陛下」
先頭を歩くマイアがくるりと体をこちらに向け、後ろ歩きをしながらそう言った。
「彼らは?」
「悪魔です。人間が言う、悪魔。でも私たちには襲ってきません!」
何故、と聞くことすら虚しかった。彼女があの異形をはっきりと悪魔と言った。それはすなわち、彼女自身も悪魔であると肯定したようなもの。彼らと自分は同一だから、襲ってこないと言うのだろうか。
無言で表情を暗くする面々を見たマイアは、頭をかいた。
「ぐるぐる歩き回ってごめんなさい。頭の中整理してたんです」
無邪気なその仕草から、先程のおぞましい姿は想像もつかない。マイアは、顎に人差し指を当て、これからまるで思い出話を語るかのような明るい表情をした。
「うーん。どこから、話そうかな……。とりあえず、お兄ちゃんが知ってる通り、人質になった私は解放された後死んだの」
マイアは、死んだ。それは揺るぎない事実であることを、彼女はまず口にした。
聖王国に幽閉された彼女は、一度は解放されたものの、その後しばらく経ってから、男たちになぶり殺されたのだと言う。
戦争の卑劣さを、ヒルから嫌というほど教わっていたリリスティアだったが、その犠牲者の無念に深く心を痛めた。
「そして、気付いたらあんな姿になってたんだ」
意識が途切れた瞬間、すぐにまた別の意識が覚醒し、自分の体が動くことに気付いた。だが、もうそれは自分自身では無く。
醜い体を目の当たりにした彼女は、何が何だか分からないまま、狂うように走った。涙とも液体とも取れぬ汚らしいものを撒き散らしながら、ひたすらに走った。そうして、辿り着いたのは。
「この、アニムス大神殿」
そこにはもう、マイアと同じような姿をした異形がたくさん居た。その異様さには、恐怖を覚えた。だが、異形たちはマイアに構う事はなかった。それどころか、壊れ物を扱うように、距離を置き、敬いとも取れるような態度で接してきたのだ。
だが、彼らは時折そこを離れ、人間を襲う。餌を求めているわけでもないのに、人里に現れては殺戮を楽しんでいる。
「そこで、私は気付いたんだ」
悪魔って、もしかして。
「私たちの行きつく先なんじゃないかなって」
「んなわけあるか!!」
ライザーは壁に拳を打ち付け、吠えた。突然のことにベリーは肩を震わせたが、マイアは凛として兄を見つめていた。
「んなわけねえだろ! お前があの化け物と一緒なわけねえだろが!!!」
「お兄ちゃん……」
「悪魔は得体の知れない化け物で、俺らは人間が都合良く事を運ぶ為に、勝手に同一視されただけだ!!」
「化け物って言わないで!!」
マイアは悲痛な声でそう言うと、自身の体を両腕できつく抱き締めた。
「化け物って言わないでよ……お兄ちゃんが、そんなこと言わないでよ」
マイアは唇をぎゅっと噛み締め、その細い肩をふるふると震わせていた。
あのおぞましい姿を彼女だと認めたくないのは誰も同じ。だが、まぎれもない事実。頭の中がぐしゃぐしゃになってしまいそうなライザーは、どうすることも出来ず、背を向けた。
「マイア」
リリスティアはそんなマイアに歩み寄り、その腕で優しく抱き締めた。
「陛下?」
「貴方のこと、そしてその願いは、レオンから全部聞いていた」
「レオン先生から?」
「私は今、王としてヴァイスに居る。貴方の志が、私をそうさせた。貴方の言葉が国の復興に繋がった」
ハッ、とマイアは目を見開いた。「そんなことない」と言い返そうとリリスティアの顔を見るも、彼女は優しく微笑んでいた。
「心配要らない」
「……ヒルは陛下と、出会えましたか?」
マイアの瞳から、また涙が幾つも流れ落ちる。
「出会えた。貴方の、おかげで」
マイアは涙を拭うと、リリスティアの顔に手を添えて笑顔を見せた。
「陛下とヒルなら、大丈夫。陛下は私が、想像していた通りの方でしたから。出来れば一緒に、国を再興したかった」
ああ、何と美しい涙を流すのか。何と美しい笑顔なのか。こんな女性なら、ヒルも愛さずにはいられなかっただろう。彼女のような者こそ、ヒルと幸せにならねばいけないのではないか。
自分のような、血に染まった女ではなく。
「陛下?」
「いや、なんでもない」
「でもさ、なんでマイアちゃんがあんな姿になっちゃったの~?」
ベリーは聞くべきかどうか迷ってはいたが、おずおずと前に歩み出た。
「マイア。もし悪魔がヴァイスの民の慣れの果てだというのなら、その根拠は何だ?」
「ヴァイスの、というのは間違いかもしれません」
「何?」
「悪魔はこの世界に住む全ての命の「罪の烙印」を押された者ではないかと」
「でも、それじゃマイアちゃんも何か悪いことしちゃったみたいだよ~」
するとマイアは、背を向けたままの兄の存在が気になったのか、そちらに視線を遣った。が、こちらを見る様子は無い。
長く妹をやっていたのだから、きっと何かに怒っているのだろうということは安易に予測出来た。
しかし、これから話すことは、その兄を更に怒らせるかもしれない内容だったが、マイアは静かに語り始めた。
「ベリーちゃん。私は罪を犯したの。それは、ヴァイスの民として有り得ない事。今も、昔も、それだけは思想として有り得ない」
心優しきヴァイスの民。魔導術を人間にたくすも、裏切りに合い、悪魔と罵られた歴史の被害者。
しかし、悪魔はもしかすれば命の慣れの果てであるかもしれない。しかも、罪を犯した命の。
歴史はまた新たな側面を見いだし、それを語るマイアに、悪魔とヴァイスの民の真実が隠されているというのだろうか。
マイアは、頭を深く下げ、こう言った。
「私をお斬り下さい陛下」
「何言ってんだよマイア!」
ライザーが物凄い剣幕で、マイアに詰め寄る。
「ごめんね、お兄ちゃん。私は、一度祖国ヴァイスを捨てたの。裏切ったの。皆を」
「……何言ってんだよ。意味分かんねえよ」
「愛してしまったの」
「……は?」
「私は、あの人を。投獄された私を密かに助け、愛してくれたあの人を」
そして、新たな歴史の被害者を。望んでも、世界には望まれぬ命を。
「あの人の、赤ちゃんを産んだの」
「――破壊しろ!!!!」
刹那、マイアの言葉を遮るように、凛として通る女性の声と巨大な地響きが、神殿全体を揺るがした。
神殿全体を戦慄が包んだ。猛々しい声と共に、神殿の扉は木っ端微塵に破壊されたのだ。遮るものが無くなった神殿は、侵入者たちを次々と飲み込んでいくしかない。
「探せ! この中にいる筈だ!」
はっきりとそう聞こえたわけではないが、リリスティアたちは互いに顔を見合わせた。今まさに、あの女性が自分達を追い詰めている。追い付いてこられたのだ。しかも、内部に侵入してきている。
「こっち!」
大事な話をしていたのだが、悠長に構えているわけにもいかない。マイアは体を反転させると、三人をどこかへ誘導する為に走りだした。
「逃げ道が?」
走りつつ、リリスティアが問う。
「勿論! 絶対に逃がしてあげます!」
前を走る彼女は、自信満々にそう答えた。生き生きと金色の髪を風になびかせながら走る彼女だが、やはり影は無い。
――一体、誰の子を産んだというのか。立場的にも衝撃の大きいであろうライザーは、苦悶の表情を浮かべていた。
一方、リリスティアもまた様々な憶測を並べていた。裏切るなど、この女性がするわけがない。現に今も、こうして自分の為に必死に動いている。死して久しく、あんな姿になったにも関わらずだ。
その理由を聞いて同調することはあっても、自分が彼女を斬るなどということは無いだろうとリリスティアは考えていた。
* * *
「おやおや、此処は」
神殿内を意気揚々と包囲した聖王国軍は、鼠が炙り出されるのを今か今かと待っていた。その中に勿論、あの男の姿も在った。
「嫌な場所ですねえ、私は役立たずですか」
クルヴェイグはそう言うと、細く長い人差し指の上に小さな風の流れを作ろうと試みた。が、何もそれらしい現象は起こらず、彼は微笑みながら五本の指全てを伸ばし、そのまま腰にやった。
「閣下。馬をお借りしますよ」
今まさに神殿内部に入ろうとしていたマリアベルは、呼び止められたことにより不機嫌に首をうねらせた。
「どうした。馬になど乗れるのか貴様は」
「教養のひとつとしてそれくらいは当然です」
兵士が乗ってきた馬にまたがるクルヴェイグに、マリアベルが声を張る。
「何処へ行く気だ。皇帝との取引で、貴様はヴァイス制圧に最後まで協力する約束をした筈だ」
「しますよ。ですが、腹立だしいことにですね……この辺り一帯が無楚になっているんですよ」
「無元素、無精霊地帯というやつか? 貴様、怠惰故の口実ではあるまいな」
「私と離れがたいですか? あちらには大勢いましたからね」
「戯言を」
「ふっふふ。こちらより、あそこに行った方が楽しめるかもしれませんのでね…」
そう言うと、クルヴェイグは馬を走らせその場から立ち去った。
何処に行くのか大体の見当がついたのか、マリアベルは鋭い瞳でそれを見送ると、再び神殿内へと体を向けた。
「気味の悪い男だ」
* * *
「早く! 此処から外に逃げられます!」
回廊を進み、階段を降りる。そうして行き着いた先には、地下へと続く薄暗い階段がぽっかりと口を開けていた。
「地下に?」
リリスティアが問う。
「この先は水路に繋がっています。アルヘナ山脈のふもとに流れる河近くに抜けれる筈です」
どんな城にも神殿にも、万が一の事態に備え脱出口が据えられているのは普通だ。助かった、とライザーは息を吐いた。
「じゃあ、行くか」
「けど」
リリスティアが尻込みをする。その心中を知るライザーは、すかさず言葉を返した。
「ヒルか? 心配しなくても、死んでねえよ」
「ヒルも来ていたの?」
マイアが尋ねると、リリスティアはなんとも答えにくそうに視線を落とした。
「村でね、あたしたちを助ける為に戦って、そこからはぐれちゃって」
ベリーが当たり障りの無いように答えると、マイアは悲しむことはなく逆に笑顔でこう言った。
「なあんだ。ヒルならきっとすぐ追いついてきますよ陛下!」
「根拠はなんだよマイア」
「お兄ちゃん、そんなこと聞くなんて野暮よ? ヒルは、陛下の為だけに在るんだから! そうよね?」
元気づける為、一点の曇りも見せずに語るマイアの表情の温かさに、リリスティアは泣きだしてしまいそうなくらい胸を締め付けられた。
四人はそのまま、地下へと続く階段を駆け降りた。明かりは申し訳程度に据えられている、発光する石のランプしか無い。ひとつ間違えれば、一気に転げ落ちてしまいそうだ。
長い階段を下まで降りると、今度は真っすぐに続く地下水路に出た。幸いなことに道はそう枝分かれしておらず、マイアが先立って走ることにより、迷う心配は無さそうだ。
だが、やはり明かりは頼りないものばかり。人が歩く為の通路の横を流れる水路は、黒く不気味に濁っていた。
「追い掛けてはこないみたいね」
後ろを気にしながら、リリスティアは呟いた。
「まだ油断は出来ねえけどな。……って、おい何へばってんだよ」
横を走るベリーの変化に気付いたライザーは、一度立ち止まり、彼女の様子を伺った。同じく、前を走るリリスティアとマイアも立ち止まる。
「っは……はあっ……はあっ、ご、ごめん」
「真っ青じゃねえか。大丈夫かよ」
ベリーの顔色は、まるで病人のように青白く変色している。いつものあの笑顔も、この時ばかりは出せないようだ。
「ベリー、少し休みましょう。今は、追っ手の足音もしないし」
「へ、平気だよ~……! ごめん、まだ走れるから! 行こっ!」
空元気だということは、誰の目にも見て取れた。この彼女の消耗しきった様子は、やはり無楚地帯だということに関係があるのだろうか。
だが、ライザーは疲れた様子は無い。リリスティアは彼ら二人を見比べ、首を傾げた。
「お兄ちゃん、抱っこして!」
「はあ!?」
マイアの突然の発言に、ライザーは彼女に向けて思い切り目を見開いた。しかしマイアはそれ以上に目くじらを立て、ベリーの方を手で差した。
「違う! あたしじゃなくて、ベリーちゃん! 走るの無理だよ」
「そうよね。ライザー、悪いけど」
二人の女性にそう言われ、恥ずかしいだの重いだのと拒否するのかと思いきや、ライザーはすぐにそれに応じた。
「言われなくてもやるっつうんだよ」
そう言って、前かがみになり辛そうに息をするベリーの腕を取り、そのまま背中と足を支え、自身にぴたりと密着させ、抱き上げた。そこに、照れなどなんだのという感情は無く。大切な物を扱うように、彼はその手に優しい力を込めた。
「行くぞ」
「お兄ちゃん、おんぶじゃ駄目だったの?」
「……後ろだとずり落ちるだろ」
その体勢のほうが走りにくいのではと思いながらも、リリスティアは口を挟むことなく、ただ微笑んだ。
「あのっ、陛下」
不意に、マイアがリリスティアに声をかける。その視線はリリスティアの瞳一点ではなく、時折別の物を見つめている。
「うまくいけば、戦わずに逃げられます」
「……ええ、そうね」
ただなんとなく肯定するリリスティアに、マイアは更に言葉を続けた。
「よく分かりませんが、あまり使わない方が、いいかと思います。その、剣を」
マイアが指差したのは、イスタリカだった。リリスティアは不思議そうにイスタリカを持ち上げ、マイアを見る。
「イスタリカを?」
「はい。あの、それはきっと怖い剣です」
マイアは少し身を引きながら、イスタリカを見る。なるほど、先程からこれを見ていたのかとリリスティアは納得すると、彼女の不安を取りのぞくべくこう答えた。
「大丈夫。云われは確かにあまり穏やかではない剣だけれど……使い方を間違ったりはしないから」
「ならいいんですが……」
「うん。さあ、先を急ごう」
リリスティアはそのまま、先頭を走りだした。道に迷ってはいけない、とマイアもすぐに走りだし、ライザーたちも後に続いた。水路の終わりまで、もう少し。出口らしき光が遠くに揺らめいて見え始めた時だった。
彼らの行く手を阻むように、突如として「奴」が現れた。 目の前に立ちはだかったのは、体中が鈍く光る目玉とヘドロに覆われた異形だった。骨格らしき骨格は無く、どろどろと体を揺らしている。ヘドロは体の登頂部から流れては水路に落ち、水を黒く濁している。
道を完全に塞いでいる巨大な異形は、さあ倒してみろと言わんばかりに、体中の目玉をこちらに向けた。
「またかよ……!」
ライザーが低く唸る。これも、「悪魔」なのか。世界に生きる生命の変わり果てた姿だというのか。だが、こんなおぞましい化け物が、妹と同じ輪廻を経た姿などとは考えられない。
現れた異形はその体の一部分を硬質化させ、鋭い剣のように尖らせた。その切っ先が高く高く掲げられたかと思うと、間髪入れずにこちらに向かって振り下ろされた。それに対し素早く反応したリリスティアは、イスタリカを鞘から抜き刀身で弾いた。
「そう力は強くない。でも」
リリスティアは異形の体を見て、眉を寄せた。あのどろどろした体を剣で斬り付けられるだろうか。魔導術が使えるならば、どうにかダメージを与えることが出来る。
だが、ここは魔導師にとっての鬼門、無楚地帯。加えてベリーは疲弊し、彼女を守るためライザーの手も封じられている。ならば、とリリスティアはイスタリカを構えた。
リリスティアは一瞬、何か力を込めるようにその瞳を閉じた。だがすぐに凛として瞳を開き、異形に向かって走りだした。
「リリスティア!!」
ライザーたちがリリスティアの背中に向かって叫ぶ。異形は、急な接近に対しその体から無数に刄を精製し、その切っ先を一斉にリリスティアに向けた。鈍く光っていた目玉に赤い血管が浮かび上がり、警戒色に染まる。
リリスティアはイスタリカを一度後ろに引くと、そのまま疾風のごとく振りぬいた。どろどろした体に剣撃は効かないだろうと思われたが、彼女の太刀は硬質化した部分だけを捉え、凪ぎ払った。
「ギュイィッ」
異形から、甲高い人の声のような奇怪な音がした。体の一部を凪ぎ払われたことにより、異形は益々目玉を赤く染め、こちらに向けて大きく剥き出した。そしてすぐに他の部分から同じような刄を精製し、リリスティアに向かって縦横無尽に振るい始めた。
「一度冷静さを失うと、後は闇雲に攻撃するのは異形の特徴ね。聖騎士だった頃の経験が、こんなところで役に立つなんて」
自分で自分を皮肉るようにそう呟くと、リリスティアは低く態勢を構え、重心を崩さぬようそれらを迎え撃った。その反応速度と立ち回りにただ口を開けて見ていた仲間たちだったが、何とか加勢出来ないものかとやきもきしている。
「髪も服も邪魔!」
長い髪は立ち回る度にその軌跡を追い掛け顔にかかる。レースがたっぷりとあしらわれたスカートは足の動きを邪魔する重い鎖にしかならない。
リリスティアはそのドレスの裾を剣で思い切り引き破り、切れ端を投げ捨てた。それにより動きやすくなったはいいが、彼女の太ももがほとんど露になった。だが、リリスティアはそんなことは気にせず、再び剣を構えた。
「ライザー、私がこの異形を凪ぎ払い道を作る。その隙に、先へ進んで」
「馬鹿言うな! 出来るかそんなこと!」
「言うことを聞け!!」
リリスティアは強い口調で言葉を遮った。怒りとも取れるその口調に、ライザーもマイアも、驚き目を見開くしかなかった。だが、リリスティアもまた自身の言葉の強さを思い返したのか、申し訳なさそうな表情で彼らに瞳を向けた。
「このぐらいの異形なら、戦い慣れている」
「陛下……でも」
マイアは、リリスティアよりもその手にあるイスタリカを見つめていた。美しい装飾、銀の刀身。見た目はまるで、舞姫の手に持たれてこそ輝くようだが、発せられる気配は、血に飢えた獣にしか見えない。
「ィギィ」
異形から、また小さく音が聞こえた。同時に、その体から生えた刄は秒刻みで数を増やしていく。その形は一定ではなく、鎌のようだったり、斧のようだったり。まるであらゆる武器をひとつに集めたかのようだった。
「無駄だ」
リリスティアはそう呟くと、イスタリカを騎士のように垂直に顔の前に構えた。そしてゆっくりと異形に切っ先を向け、再び斬り付けた。だが、剣はヘドロのような体に手応え無く当たっただけだった。
「馬鹿め」と言わんばかりに、異形の体から生えた無数の刄が勢い良くリリスティアに向かって振り下ろされた。
「陛下ぁッ!!」
マイアが思わず目を瞑り悲鳴を上げた。瞬間、暗闇に閉ざされた彼女の耳には、何か液体が勢い良く吹き出すような音が響いた。
血の気が引く思いをしながらマイアが瞳を開くと、そこには予想とは真逆を行く光景があった。
異形から生えた無数の刄は、リリスティアの体から一寸離れたところでぴたりと静止しているのだ。赤く蠢いていた目玉は見開かれたまま完全に停止し、明後日の方向に向けられている。
そして、イスタリカを異形に斬り付けたリリスティアは、そこから噴出された黒い体液により、黒く、黒く汚れていた。蒼銀の髪は輝きを無くし、白い肌さえ薄汚れた布のように見える。イスタリカはしっかりと異形の体に食い込み、捕らえて放さない。その異様さにライザーは、恐怖した。異形にではなく、それに剣を突き立てるリリスティアに。
「行け……」
頭から滴る黒い液体を拭いもせず、リリスティアが呟いた。当然ながら、すぐに反応できない仲間たちに、リリスティアは再度声を上げた。
「――行け!!」
急かすような苛立った声に、返事をすることも忘れてライザーたちは走りだした。異形とリリスティアの横をなんとか擦り抜け、逃げる。その瞬間に垣間見たリリスティアの瞳だけは、汚れた黒い体の中、美しく輝いていた。
ライザーは走りながら、背後で妹が恐怖に震えて泣いているのが分かった。同じ女性であるリリスティアがあれほどまでに容赦無く戦い、平然と剣を突き立てていることに驚いたのだろう。
ライザーも、体中に戦慄が走るのを感じていた。
「……また、俺は逃げなきゃいけねえのか」
遠ざかる気配を置き去りに、水路に空しい足音が響いた。
仲間が無事に逃げたのを確認すると、リリスティアはイスタリカを異形から引き抜いた。瞬間、噴水のごとく吹き上げた黒い液体に、リリスティアの体はまた汚れた。
「ギィ、ギィ」
異形は激痛に耐えかねているのか、生やした刄を体に再び吸収し、目玉すらもその体内に隠した。もうただのヘドロの固まりと化したそれを冷たく見下ろしながら、リリスティアは言葉を発した。
「お前が、罪を犯した生命のなれの果てというなら、どんな罪を犯したの」
「ギィ、ギギ。ギッ」
異形からは錆びた鉄が擦れるような音しかしない。それらしい返事など返ってくるはずはないと分かっていても、リリスティアは言葉を投げ掛ける。
「お前は、「元」は何だったの」
静かに紡がれる問い掛けに反応したのか、異形の体から目玉がひとつ浮かび出た。
その目はリリスティアを捉えると、何かを訴えるかのように、一雫の涙を流した。異形の視界に映るリリスティアは、どんな顔をしているのだろうか。
「……そうか」
リリスティアは何かに対し頷くと、イスタリカを異形に向け、無情にも勢い良く突き立てた。
刹那、イスタリカから彗星の如く光が弾け、異形の体を瞬時に消し去った。破裂させたのではなく、消し去ったのだ。その攻撃の後、光の残骸すら残さずに、地下水路は静寂に包まれた。
薄明かりの中、リリスティアはイスタリカを鞘に納め、改めて自身の姿を見つめ直した。
「汚い。やっぱり私は、汚い」
それは、かつて自分が呟いた言葉。だが彼女は噛み締めるようにそれを口にすると、汚れながらも、穏やかに微笑んだ。
そう呟いて、彼女はその場に力なく倒れた。
* * *
「――出口か!?」
ライザーの足が悲鳴を上げ始めた頃、その進む先にやっと光に続く階段が見え始めた。腕の中で限界近くまで疲弊しているベリーを見遣ると、彼はその足の速度を上げ勢いのまま光の中へ飛び込んだ。
光から抜けた彼らのその目の前には、深い森と見覚えのある山脈が大きくその姿を現した。
「アルヘナ! ここまでくれば……」
だが、歓喜に浸り息をつく間は無かった。
「お兄ちゃん!!」
マイアが叫ぶ。それに反応したライザーが咄嗟に振り返ると、そこにはすでに待ちくたびれた様子の聖王国軍の姿があった。
剣を手にした兵士たちは素早く彼らを包囲すると、じわりじわりとその距離を縮め始めた。
「っくそ!」
来た道を戻るわけにもいかず、三人は完全に逃げ場を失ってしまった。
「お兄ちゃん、無楚地帯はまだ抜けてないの?!」
「抜けてるけどな。まだ体に影響が残ってやがる」
ライザーの手の平に、黒い光が少し浮かんで消える。体に影響が残ってしまい、元の体に戻るには時間がかかるということなのだろう。
「あたし置いていって……」
力なくベリーが訴える。しかし、そんな頼みを彼が聞き入れる筈もない。ライザーは左手だけでベリーを支えると、空いた手でその腰の剣を抜いた。
「出来ねえって分かってるくせにんなこと言うんじゃねえよ馬鹿女!」
「キンパツ……」
「いいから黙って寝てろ!! 俺はそんなに弱くねえ!」
切り抜ける策など、無いだろうに。自分を守るために奮い立つその顔を見上げながら、ベリーは彼の服の端を強く握った。
マイアはそんな兄の様子を見て、喜ばしく感じもしたが、同時に淋しさも感じていた。影もなく揺らめく自身の体は、もうその暖かな領域には入れないのだから。
「お兄ちゃん。私が引き付けるよ」
「あァ?」
「私がこの人たちを引き付ける。だから、その隙に逃げて!」
反論する暇も無く、マイアは兄の傍から離れ敵に向かって走りだした。突然走り込んできた女性に兵士は戸惑ったが、すぐにそのためらいを後悔した。
マイアの体は一瞬にして変化し、先程までの愛らしい姿は消え去った。そこに居たのは、醜悪さを撒き散らす異形だった。
「悪魔が本性を現したぞ!」
「恐れるな! かかれッ!」
姿が変わるや否や、兵士たちは一斉に剣を振り上げマイアに飛び掛かった。マイアはその両手を大きく振り、男たちを次々と凪ぎ払うが、全てを防ぐことは出来ない。そのうちに体を斬り付けられ、黒い液体が吹き出た。
「やめろマイア!!」
叫ぶライザーの背後から、兵士の剣が勢い良く迫ってきた。あまり自由が利かぬ彼だったが、剣を力の限り振り上げ、兵士の太刀を弾いた。
「ァァアァアッ!!!」
低い声と高い声が混じったような叫び声が響いた。マイアの叫び声だ。弾かれたようにライザーがそちらに振り向く。
すると、マイアの背中が縦一文字に斬り付けられ、そこから黒い液体が勢い良く噴出していた。その瞳からはどろりとした液体が流れ、マイアは狂ったように地面を転がった。
「っげ、気持ち悪い悪魔だな」
斬り付けた兵士は苦い顔をして、唾を吐くと、傷ついたマイアの背中を足下にした。そうすると、また背中からは黒い液体が吹き出す。それを見た周りの兵士たちは、そのおぞましさに口を押さえ顔を歪める。
地べたに這いつくばった彼女は、兄の方を見ようとはしない。ただその痛みに耐えながら、目の前の地面の草を見つめていた。
――また、死んじゃうのかな。
兄の叫び声が頭に響く。だが、何と遠いのか。
まるでひとつ違う世界から、客観的にそれを聞いているよう。マイアはその曇る眼を、そっと彼の方に向けてみた。彼は、やはり叫んでいた。それだけで、マイアは少し嬉しくなった。
――お兄ちゃん。また死んじゃうけど、泣かないでね。
ディグの家を、お兄ちゃん一人にしちゃうね。
ごめんね。私も、お兄ちゃんと一緒に。陛下を。
あの世界を、見てみたかった。
その声は、ライザーだけに聞こえていた。瞬間、ライザーの中の何かが弾ける。
見開かれた瞳の灰色はぐるりとして真紅に染まり、その周囲には夜の色を纏った球体が次々と姿を現したのだ。
「なんだ!?」
兵士たちは一斉にライザーの方に向き直る。ライザーは怒りに燃えた瞳で兵士たちを睨み付けると、その剣を水平に構えた。
すると、複雑な紋様が刀身の周りに螺旋を描きながら出現した。それは一斉に天空へ浮かび上がると、兵士たち全てを飲み込むかのような、紋様の檻を作り出した。
そして、兵士に叫ぶ間も与えず、彼の報復が始まった。
「ああああああッ!!」
ライザーが猛々しく吠えた瞬間、出現した死の檻は容赦なく兵士を圧縮した。その圧力に生身の人間が耐えれる筈も無く、檻の中からは次々に肉片と血が飛び出していく。
倒れたマイアの体にも鮮血が広がり、その黒い液体と混ざってどす黒さを増した。
「死ね! てめえらなんざ一人残らず死んでしまえ!!」
ライザーの頭上に、今度は鎌状の黒い光が現われた。それも、人の五倍以上はありそうなほどとてつもなく巨大な鎌だ。
「っあ……あああ!!」
先程の檻の地獄から逃げ延びていた何人かの兵士は、恐怖に顔を引きつらせ腰を抜かしている。四つんばいに逃げる者、油汗を流しながらも勇敢に剣を構える者。そんな彼らを、ライザーは見逃しはしなかった。
「逃がすかよ……てめえらもずっとそうやって俺たちを殺したんだからなあッ!!」
兵士の悲鳴も短く、ライザーの出現させた鎌は無慈悲に彼らを断罪した。役目を終えると、鎌も檻もその姿を消し、後には、吐きそうなくらいな異臭と屍の山が出来た。
さすがに体力を消耗したのか、ライザーはその場に膝をつき、ベリーを支えていた手の力を抜いた。
ベリーはふらつきながらも傍らに降り、今度は逆に彼の体を支えた。
「キンパツ……」
「触んな。なんでもねえこれくらい」
「無楚の影響を無理矢理振り払ったの?」
「これぐらい出来ねえでどうすんだよ! ……っぐ!?」
瞬間、ライザーの右手首付近の血管が膨れ上がり、中から斬り裂くようにして鮮血が吹き出した。
「媒介無しな上に詠唱も無しだから力が逆流したんだよ! 貸して!」
ベリーは自身の衣服の裾を引き千切ると、すぐに傷口に当てた。だが、それは瞬く間に赤に染まり、水分を吸収しきって重くなった。
「……いい」
ライザーはそれに構わず、立ち上がった。
そうして歩を進めた先には、一人孤独に横たわるマイアがいた。ライザーはよろよろとした頼りない足付きで、屍の中を歩いていった。
「お兄……ちゃん」
醜く変化したマイアの体は、黒い液体と赤い液体にまみれ汚れていたが、ライザーは側に座り込むと、そっとその体を抱き上げた。
不思議なことに、彼が触れるとマイアの体は生前の姿に変化する。ただし、やはりその体に影は無いのだが。
「お兄ちゃんが、私の姿を覚えていてくれてるからかな。やっぱりこの体が、いいよね」
自分の手の平の裏表を見ながら、マイアは微笑む。
「無理して喋んなよ。待ってろ、すぐに治してやるからな」
「えへへ……ちょっと無理なんじゃ……ないかな……?」
「今ヴァイスにはカミワタシの巫女が仲間にいる。そいつなら、このぐらいの傷すぐに治せる」
「他国の人が、仲間に?」
ライザーは無理な笑顔を見せ、必死に声をかけ続けた。
「ああ、世闇に、ユア・ラムダに、竜に……ほら、お前さ、竜好きだろ。他にも、今ヴァイスは色んな国と同盟を結んでんだぞ」
「ほんと……!?」
「ああ」
「じゃあ、ヴァイスは復興したの?」
「まだ……完全じゃねえがな」
それを聞いたマイアは、零れるような笑顔を見せた。
「良かった……リリスティア様はもう、一人じゃないね」
「ああ。お前も居るし、な」
だが、マイアはその兄の言葉を緩やかに拒絶した。傷ついた体を僅かに強ばらせ、首を横に、振った。
「……マイア?」
「そろそろ、行かなきゃ……私……」
そう言って、マイアは視線を落とした。その先には、白くぼやけ始めた細い足があった。
ライザーはそれに気付いたが、見て見ぬふりをしてマイアに語り掛ける。
「だから……! 治せるっつってんだろ! 弥生って女がいてな、そいつは巫女で治癒能力が――」
「お兄ちゃん」
マイアは、か細くも強い声で言葉を遮った。そうして震える右手を兄の頬に添えた。
離れた場所では、青くなったベリーが呆然としたまま膝を付いている。マイアはそんなベリーの方に視線を遣り、安心させるかのような笑顔を見せた。
「私ね……好きな人が出来たの」
「あ……?」
何故かマイアは、ベリーの方に視線を向けている。その理由を聞く間も与えず、マイアはベリーに向かって語り続けた。
「その人はね、私がヴァイスの民だって分かってて助けてくれて。皆から……匿ってくれて」
「は……ええ? な、何言ってんだよマイア……」
マイアは、語り続けた。だが、言葉を紡ぐ度に、彼女の体は白んでぼやける。ライザーはそれを止めようと、何度か声をかけるが、彼女はうわごとのように、語り続けた。
「その人はね、少し頼りなくて、優しくて。戦いが、嫌いだったんだねきっと。なのに、命令を破ってあたしを……」
あの日、聖王国の城から、あの人と私は手を取り合って逃げた。
雨が降ってきて、足が痛くなって。でも、優しいあの人は。
“あんたは、死んじゃ駄目だ。俺がそんなことさせない”
マイアを逃がしたの男は、彼女を連れてどこまでも走ったという。
繋いだその手は震えるていたが、決して離されることはなかったという。
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その内にマイアは身籠り、逃亡者たちに刹那の幸せが訪れ、春の木漏れ日に包まれた新しい生命が誕生した。
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「な……」
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「いい……もういい……」
「お兄ちゃん……」
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マイアの頬に、ぽつり、ぽつりと雫が落ちた。
「お兄ちゃん?」
見上げた兄の瞳は、抑えきれない衝動に溢れ、その欠片を零していた。
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マイアの体は、もう半分以上が背景に溶け込み、透けている。これが最期だと悟った時、彼女は遺言とも取れる言葉を発した。
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そのまま力なく、地に落ち。
「マリアベルを探して……助けてあげて……」
刹那の幸福しか味わえず生を終えた彼女は、今また二度目の終焉を迎えた。
聞いたことがあると思った。マリアベルという名前。それは、妹が未来の夢を語る時によく口にしていた名前だったのに。
“でね! 女の子なら、ぜーったいマリアベル! どう? 可愛い名前でしょ?”
“その前に相手見つけろバーカ”
“そっちこそ。彼女くらい見つけなよ”
“はっ、お前の世話で手いっぱいだよ”
「……ライザー!!」
ベリーは、立ち上がり彼に駆け寄った。恐る恐る近づいてみると、彼の腕の中は既に空っぽだった。
空虚となった手のひらを握り締めると、ライザーはそれを思い切り地面に叩きつけた。
「マイアぁぁあッ!!」
――マリアベル。どうか、幸せになって。
「誰だ?」
空から声が聞こえた。間違いなく聞こえた。それで返事をしたのだが、従える兵達は、誰一人マリアベルを顧みる事は無かった。
紺碧の髪の下で、翡翠が揺れた。
「……まさかな」
第21話・終
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