神創系譜

橘伊鞠

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第15話「鈍色の鼓動」

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 集いて巡る翡翠の華。創りて送る、原初の華。
 だけどそれを否定し、貴方は全てを波に還した。けどね、ズィルヴァリア。
 それは、ただの幻想よ。





 その日の夕暮れ時、予兆を感じたのはライザーだった。彼は「あの馬鹿だ」と呟くと、誰にも何も言わず、城の屋上へと駆け出した。
 足取りが、軽い。階段を上りきり、屋上に躍り出ると、沈みかけた夕陽が彼を照らした。ライザーは息を整えてそこで仁王立ちすると、少し照れ臭そうに髪をかきあげる。
 彼の予想は当たった。そこには、みるみるうちにあの"門"が出現していた。両側に女神や花の像を装飾した、彼女らしい門だ。
 舞い上がる風に髪を押さえながら、どこか落ち着かない様子のライザーだったが、ふとあることに気が付いた。

「ん?」

 違和感を感じた。門が完全に出現するまでの時間がいつもより明らかに遅いのだ。

「なんだ? 体力無えなアイツ」

 やっと門は完全に出現したが、その扉が開く様子は無い。手持ちぶたさに苛々しながらも、ライザーは少し待ってみた。が、扉は一向に開かない。いつもなら、あの煩い彼女が笑顔で飛び出す筈なのだが。妙な静寂が、その空間を包む。
 嫌な予感が、頭を過った。ライザーはすぐさま走り出した。この門の扉が手動で開く筈はないのだが、今の彼にそんな事を考える余裕は無かった。

「おい馬鹿女」

 両開きの石の扉、やはり手では開けられない。ライザーはその扉を拳で数回叩いた。

「おい寝てんのか?」

 返事は無い。

「おい!!」

 そう怒鳴りつけた瞬間、扉はゆっくりとその口を開けた。中に黒い人影を二つ見つけて、ライザーは小さく安堵した。

「なんだ、さっさと出てきやがれ馬鹿が」

「……ごめんなさい。少し手法が違ったから」

 返ってきたのは、あの甲高い元気な彼女の声ではなく。落ち着いた、深い場所から囁くような女性の声だった。二つの人影は寄り添いながらライザーの前に現われた。いや、違う。一人が、もう一人を支えた形で歩み出てきた。

「なッ!?」

 ライザーは咄嗟に魔導力を手に込めてしまった。扉から出てきた人物の容姿を見て、瞳を鋭く歪める。
 だが、そうしてしまうのも無理はなかった。その人物の髪は黒く長く、身に纏う服は異国の物で。まるであの聖騎士の女性にそっくりなのだから。
 ただ違うのは、瞳の色。深く、赤い、硝子玉。頭には、それと同じ色のかんざし。

「アメリじゃねえな」

「……私は。私の名前は、弥生」

 そして、ライザーは彼女に支えられている人物の様子に気付き、その動きを凍らせた。
 夕陽の色と、弥生の長い髪に惑わされていた。弥生に支えられていたのは、全身血塗れで、息も絶え絶えな彼女の姿だった。

「ベリー!!」

 意識は、無い。
 弥生は痩せきった白い腕を動かし、そっとベリーを彼に差し出した。ライザーはすぐさま彼女を支えると、その腕に抱き止め顔を覗きこんだ。

「おい……! おい馬鹿女!」

 しかしその顔は青白く、体を揺さ振ってみても、彼女が覚醒する気配は全く無い。血の量が酷い。柔らかい桃色の髪も、服も、赤く汚れている。

「おいコラ!!」

 ベリーを支えるライザーの手が、怒りとも悲しみとも分からぬ感情に震えた。
 弥生は悲しそうにそれを見下ろしていたが、やがて小さく静かな口調でこう言った。

「中へ、案内して頂戴、若い誓導師さん。直に、追い付かれるわ」

 陽が完全に沈みきり辺りが曖昧な暗闇に包まれると、弥生の深く赤い瞳が、妖しく輝いた。


 * * *


 東の国、外れの町。辺りは、天変地異でも起きたのかと思う程に崩壊していた。
 焼け崩れ倒壊し、燻る家屋。切り裂かれ横たわる木々。地面の至る所は深く抉れ、それを慰めるかのように冷たい雨が降り注いでいた。確か此処には、小さな病院があった筈なのだが。

「逃がしたか」

 軍服を身に纏った女性は、舌打ちをすると足元の瓦礫の中の看板を踏み付けた。そこには、墨で書かれた診療所という文字。女性は雨の滴る群青色の髪をかきあげると、背後に控える兵に向かって声を張り上げた。

「処理しろ!」

 兵士達は一斉に敬礼をすると、すぐさま瓦礫の処理を始めた。鎧は纏わず軍服のみの所為か、動きは速い。女性が滴る雨も気にせず、無表情にそれらを見つめていた時だった。

「閣下。そうカリカリせずとも、あれが後を追いましたよ」

 ふと、瓦礫の背後に広がる森林から男の声がした。閣下と呼ばれた女性はその切れ長の瞳を彼に向けた。

「神鉄の魔導師か」

「お久しぶりですマリアベル閣下。報復戦争以来ですねえ」

 クルヴェイグの周りには何故か雨は降っておらず、彼は軽やかに銀の髪を後ろにかきあげた。さらさらと指に絡まる銀の髪を睨みながら、マリアベルは額に滴る雨を拭った。

「目障りだ、消えろ」

「そんなに邪険にしないでください。手伝いに来ただけなんですから」

「瓦礫処理の手伝いをか? 笑わせるな」

「勿論」

 クルヴェイグは嫌味たらしい笑みを見せると、その手を伸ばし指を広げた。そして口の中で何かを唱えると、手の平から淡い紫の光を発した。
 次の瞬間、瓦礫の山はまるで蒸発する水の如く煙となって空に昇った。一瞬のことだった。兵士達は、急に煙となって消えたそれに戸惑い絶句したが、その中の一人が後ろに腰をつき、狂ったような悲鳴を上げた。

「ひ、ひいいい!!」

 見ると、その兵士の前には、まだ暖かい肉片と血溜りがあった。兵士は不様に後退りながら、胃の底から襲いくる吐き気を我慢し口を押さえる。それに気付いたクルヴェイグは、不適切な柔らかい笑みを浮かべた。

「おやおや、一人巻き込んでしまいましたか。可哀相に」

 何をわざとらしいことを言うのかと、マリアベルは鼻で息を吐いた。 

「撤収だ」

 部下である兵士の死を嘆くこともなく、マリアベルはそう言うと、その場に背を向ける。すぐに駆け寄ってきた従者らしき人物から軍帽を受け取ると、頭に押さえ付けるように被った。

「しかし、閣下は最近益々お美しくなられましたね」

 ぴたり、マリアベルの足が止まる。そして視線だけをクルヴェイグに遣った。

「日を追うごとに輝く翡翠の瞳。その姿だと、アルフレッド陛下も貴方を抱いてくれますか?」

 言い終わるや否や、クルヴェイグの喉元に、無数の銀色の剣が突き付けられた。完璧な軍教育の賜物か、兵士達は一糸乱れぬ動きで彼を追い詰めた。

「気を付けろ神鉄の魔導師。部下達は作戦の直後で気が立っている」

 マリアベルは背を向けたまま。だがその背中からは、業火の如く怒りを発していた。

「失礼致しました。いや、ね。これでも誉めているのですよ?」

「貴様と口を聞く時間が惜しい。去れ」

 マリアベルはそう言い放つと、彼の悪癖に付き合ってられんといった様子で、早足にその場から離れた。兵士達もクルヴェイグを気にしつつ、剣を鞘にしまいながら彼女の後に続いた。
 クルヴェイグはそんな彼女の後ろ姿に向けてにこやかに手を振っていたが、やがてその手を止めた。

「やはりご両親にそっくりですよ。アルフレッド陛下も酷な真似をする」

 クルヴェイグはクッ、と妖しく笑う。そして雨音に混じりながら、森林の中に吸い込まれるように消えた。

「……陛下」

 撤収する軍の中程を行くマリアベルは、自身の膨らんだ胸や長く伸びた手足を見つめながら、叶わぬ恋に身を焦がす少女のような切ない溜め息を吐いた。誰にも気付かれぬよう、軍帽の下にそれを隠して。


 * * *


「邪魔だどけ!!」

 回廊ですれ違う兵士やメイド達を突き飛ばしはねのけながら、彼は必死に走っていた。手の平に流れる生暖かい血の感触が恐ろしい。比例して冷たくなっていく彼女の体温に恐怖を感じる。
 ライザーは、とにかく走るしかなかった。ぐったりと力ないベリーなど、彼は見たことが無かった。

「医者はいるの?」

 なんとか後を追い掛ける弥生が静かな声をかける。走るというよりは、飛ぶように流れるような動きをしている。

「っせえ! 今話しかけんな!」

 彼は怒り混じりに吐き捨てた。走った後の石畳の回廊に、点々と血の跡がついていく。弥生はそれよりもやたらと後方を気にしながら、眉を寄せた。

「まだ若いのね。でも落ち着かないと、あれには勝てないわ」

「あ!? だから今話しかけんじゃ――」

 途端、ライザーの背筋に凍り付くような悪寒が走った。体の中を直接冷たい手で触られているような、気持ちの悪い感覚。思わず彼は立ち止まり振り返った。

「来たわ」

 弥生がそう言った次の瞬間、振り返った回廊の遥か彼方から、無数の光球が轟音をたてながらこちらに向かってきた。それが何なのか、すぐに理解したライザーは、ベリーを片手で支え空いた手で素早く空中に紋様を描いた。
 紋様は一瞬にして半円の透明な盾となり、襲いくる光球を弾き飛ばし昇華させた。

「こんな狭い場所で魔導術ぶっぱなしやがって! 誰だ!!」

 声を張り上げたライザーの視線の先、昇華した魔法の白煙が立ち上る中に、やたらと大きな人影が見えた。

「魔導術を弾くなんて、君すごいね。でもそれ、規則に反してない?」 

 煙が晴れてきてやっと分かったのだが、人影が大きく見えたのは目の錯覚だった。その人物はやたらと鍔の大きなとんがり帽子を被っている少女だった。
 フードのついたワンピース型のローブには細かい金の装飾。裾はかなり短く、細い太ももが半分見えている。帽子も服も、眩しいような純白だ。手には、自身よりも大きな、古めかしい木製の杖を持っている。

「なんだテメーは」

「呪文詠唱も媒介もなしで魔導術使うなんて、規則に反してる。君こそ誰?」

 少女はまるで街角で偶然会ったかのような様子で話し掛けてくるが、その杖から放たれている気配はまるで殺気の塊だった。

「ねえ、どこの学院に通ったの? 教授や師匠は?」

 少女は人懐こく質問を投げ掛けてくる。ライザーは苛々と唇を噛むだけで、それに応じない。

「いきなり攻撃仕掛けといて何言ってやがる! テメェ何者だ!!」

「あ! 違う違う! 君に仕掛けたわけじゃないよ。ボクが狙ったのはそっちの人」

 少女の口元に笑みが見える。そしてその杖をすっと前にかざすと、ライザーでも弥生でもなく、未だ意識の覚めぬベリーを指した。

「裏切り者のサウザンスロード。その人を始末しに来たの」

「あ?」

 嵐に荒れ狂う海のように、ライザーの心が激しくざわついた。

「魔導師である限り規則は守らなきゃいけないのに、サウザンスロードは好き勝手してる。千の字名を冠した人が、恩に報いる真似しちゃって」

「おい、テメェ……」

「ついでにその天照らす巫女、そしてヴァイスの女王も。みんなみーんな規則違反だよ!」

 幼い子供のように笑う女性。無邪気か、それとも邪悪なのか。どちらとも分からぬような声で笑っている。
 ふと、弥生がライザーを見遣った。彼はいつのまにか俯いていたが、その顔をゆっくりと上げた。

「つまり、テメェがやったんだな……?」

 金色の髪の間から、灰色の瞳が鋭く光る。

「え? 何?」

 とぼけた返事をする女性に、ライザーはまた低く呟く。

「テメェが……こいつを……?」

 すると女性は、杖を軽く振り回し機嫌良く返事をした。屈託の無い笑みを浮かべて。

「あはっ、ボクじゃなかったら出来ないよ」

 ライザーは、全身の神経が逆立ち悲鳴を上げるのが分かった。怒りよりももっと熱いものが込み上げてくる。

「やめなさい、貴方にはまだ勝てない」

 傍らで、弥生がその白い手をライザーの胸前に差出し制止する。

「あの子は普通の魔導師ではない。力の根源が違うから、貴方には……」

「そんな話じゃねえんだよ」

 ライザーが、それを素直に聞く筈は無かった。腕に抱いていたベリーを弥生に預けると、何かを必死に抑えながら言葉を続ける。

「この先まっすぐ行くと、てめえを待ってる奴らがいる。こいつを連れてそこに行け」

「貴方は?」

「何か知んねーけど……こいつがムカつくからブッ倒してから行く!」

 彼のその言葉から、並々ならぬ怒りを感じた弥生は、反論することなく素直に頷いた。
 ベリーの頬の血をその着物の袖でそっと拭うと、ライザーにお辞儀をしてふわりと羽根が舞うように走りだした。

「あっ?! ちょっと逃がしちゃ駄目よ! 君も規則違反?!」

「今まで規則なんざ滅多に守ったことねえよ! ふざけた事言ってねえでかかってきやがれ!」

 行く手を阻むライザーに、女性はむっと顔をしかめる。

「あたしによくそんなこと言えるね」

「テメエの事なんか知らねえ」

「魔導師だしあんまり名前とか名乗りたくないんだけど、君はもう死ぬからいいか」

 すると、女性はその大きな帽子のつばを杖でくいと上げた。影が晴れ、やっと見えたその顔はまだ年の頃十五、六歳。瞳は、銀糸のごとく透き通っていた。

「あたしは聖王国魔導教団のクレアスィオン。称号は大魔導師。魔法の規則は守ろうねお兄さん」

「上等だ」

 潰してやる。ライザーは強力な相手を前にしても、怯んだ様子は無かった。 

「詠唱無しで魔導術使えるからって、あんまりそれ過信しないほうがイイと思う」

 クレアスィオンは道化師のように、感情の読めない笑みを浮かべた。手に持った杖をライザーに向けながら、小さく舌を出す。
 自分がこの小女になめられていることを感じたライザーは、その右手に力を込め、空中に淡く光る魔術紋様を素早く描いた。

「てめえがうだうだ喋ってる間に、俺は術を行使出来んだよ!」

 紋様は一瞬強く輝いたかと思うと、すぐに黒い光を帯びた大きな球体となり、流星のごとく速さででクレアスィオンに向かっていった。

「力の源は魔法元素、媒介は無し。超自然的な重力場を凝縮した球体……なら」

 だが、クレアスィオンはまるで狼狽えることもなく。ライザーが紋様を描き始めた瞬間、瞳をあちこちに動かしながら早口にそう呟くと直ぐ様詠唱を始めた。

「荘厳なる神の御手に委ねよ、シェルレイア!!」

 呪文とともにクレアスィオンの周りに金色に輝く防御壁が出現した。それはライザーが放った黒い球体を弾き飛ばしていく。弾き飛ばされた球体は凄まじい爆発音とともに、回廊の壁を破壊した。音に気付いた兵が、騒ぎ始める。

「うひゃ……危ない。詠唱無しってほんと速いね。クルヴェイグやお父様の言ってたとおりだ」

 クレアスィオンが感心しながら息を吐く。

「けっ、一人で乗り込んでくるたあ良い度胸だな」

「だって巫女とサウザンスロードは殺せるなら殺さなきゃってマリアベルちゃんが言ってから」

「マリアベル?」

 先の戦いでは聞かなかった名。だが何か聞き覚えがあるような名前にライザーは眉を寄せた。

「とにかく、君は邪魔だよ。それに絶対あたしには勝てないから」

「ああ!?」

 カッと怒りを顕わにするライザーの迫力に、クレアスィオンは一瞬たじろいだが、小さく反論する。

「だって、お兄さんの魔導術の形式はヨルム式でしょ。空中に紋様書くのはヨルム式みたいな古代魔導術くらい。てかほんと誰から習ったの? そんな古代の魔導術を媒介無しでやり続けたら手の神経食べられちゃうよ」

 ライザーは彼女の魔導知識の深さに目を丸くした。全て、彼女の言うとおりなのだ。いくら魔導師といえども、余程熟練した者でなければ一瞬でここまでは見抜けない。

「なんなんだテメエは!」

「サウザンスロードもそうだよ。ハイ・ファントム式の魔導術は魔法元素の法則ねじまげて使ってるから、あの人体力減るの早いでしょ?」

 当たっている。これだけ聞けば分かる。彼女は魔法に関してかなり深い知識を持っている。恐らく、独学でここまでやってきたのではないだろう。
 大魔導師でもあるベリーが血塗れになっていた理由はこの分析能力にあるのだろう。

「根源や形式さえ分かれば、あとはそれの弱点を突けばいいだけ。サウザンスロードなんかは兵をたくさんぶつけてやればすぐ疲れてたよ。それでも、一兵団近くはぶつけたかな……ふふ、厄介すぎ」

 ライザーの脳裏に、戦うベリーの姿が浮かんだ。必死に呪文を唱え、戦う彼女の姿が。不利な戦いだったのだろう。無傷の弥生の姿からして、彼女はきっと自身を盾にしていたのだ。ライザーの拳に、なんともいえない力が込められる。
 クレアスィオンは武勇伝を語るかのように、嬉々として話を続ける。

「後はね、あたしとマリアベルちゃんがトドメ。まあ、色んな人を庇いながらやってたし、サウザンスロードに勝ち目は無いのは見えてたよね」

 そう言って、声を出して笑うクレアスィオン。余程楽しかったのか、口に手を当て、残酷に目を細める。

「私達ロストハウンドの一族を侮るからだよ」 

「ロストハウンドだと!? てめえまさか!」

 クレアスィオンは、杖でとんがり帽子の端を大きく上げてみせた。薄紫に光る短い髪と瞳。野心を潜ませたそれは、あの男を彷彿とさせた。

「バロン(お父様)の言う通り、災いの悪魔なんて早くみんな死んじゃえばいいのにねー」

 残酷なほどに、無邪気に笑い、少女は魔導術を放った
 轟音とともに、壁が破壊される。地震のような揺れと爆発音が、城全体に響き渡った。
 慌ただしくなる城内。反応の早い兵士達が、次々とリリスティアの前を走り去っていく。

「敵?」

 リリスティアもまた人の流れを追い、走りだそうとした時だった。
 突然、目の前に女性が現れた。慌ただしい空間から音を消し去るが如く、静かに現れた。
 そして奇妙なことに、その女性の顔や体は、彼女に瓜二つだった。黒く、風に流れる髪が妖艶で、背格好もほとんど同じだった。

「アメリ!?」

 リリスティアは一瞬身構えてしまった。しかし、一つだけ彼女とは違う箇所に気付いたリリスティアは、その緊張をゆっくりと解いた。
 それは、瞳だった。アメリの、あの空のような蒼さに対して、目の前の女性のそれは深く落ち着いた朱色だった。

「ヴァイスの、王ね?」

 薄い唇にはあまり色は無かったが、紡ぎだされた言の葉の色はどこか艶っぽい。リリスティアは声を聞いたその一瞬、金縛りのように硬直してしまったが、女性の脇に支えられている人物を見ると目を見開いた。

「ベリー!?」

 支えられているのは、ベリー。顔が青白い。全身血塗れで、一体何処を怪我しているのかすら見当がつかない。

「この子を早く、医者に」

 弥生はそう言うと、ベリーをリリスティアに差し出した。リリスティアはベリーを両腕でしっかり抱き留めると、厳しい表情で辺りを見回し、荒々しい口調で声を上げた。

「誰か! 誰かいないのか!?」

 リリスティアは血塗れのベリーを見て多少は混乱したが、表には出さなかった。だがその手に滴る血の感触が、リリスティアを焦らせる。すると、兵士が駆け付けるより先に、影がひとつ二人の間に現れた。

「奥方様!」

 現れたのはウェラーだった。しかし体はひどく汚れ、服も傷んでいる。その顔や腕には血がこびりついているのが、月明かりだけの薄暗い空間でもよく分かった。ウェラーはリリスティア達を顧みず、弥生の前に恭しく膝まづいた。

「やはり、貴方は」

 リリスティアがその様子を見て呟く。すると弥生は、悲しそうな瞳をリリスティアに向け、こう言った。

「私は、世闇の長、昴の妻弥生。感謝致しますヴァイス王。貴方の御友人は、私を賊から守ってくれた」

「昴の……」

 初めて見た昴の伴侶。そしてアメリの母親。彼女はリリスティアが頭の中でしていた想像よりも、ずっと厳粛で静かな人物だった。落ち着いた、弱い光の瞳で、ベリーを労わるように見つめる。

「その魔導師は致命的な体力の消耗と、魔導術の傷を負っている。あの状況では、逃げるのが精一杯だったのでしょう」

 ウェラーは立ち上がりそう言うと、悔しそうに眉を寄せた。傍らで、弥生も瞳を伏せ胸を押さえた。

「私共を守ることがなければ、勝てただろうに」

「そして、私に処置をしなければ……」

 弥生を迎える為にベリーが東の共和国の外れの小さな町に到着したのは、既に王国軍が周りを制圧した後だった。
 甲斐甲斐しく彼女を世話していた診療所の医師夫妻が最後まで抵抗していたが、多勢に無勢。蹂躙されていく村人達を目の前にして、ベリーはたまらず飛び出した。
 有無を言わさず大魔法を幾発も放ち、王国軍の兵士たちを薙ぎ倒していく。 だが、己の身体的負担も考えずにそうするのは、他から見れば自殺行為にも等しかった。

「彼女は奇跡の魔力の持ち主よ。こんな強い魔導師、見たことがない」

 弥生の言うとおり、ベリーの魔法は凄まじかった。それは圧倒的な威力と巨大さで、弥生に狙いを定める敵を一瞬にして消し炭に変えた。
 だが、彼女の登場を既に見越していたのか、王国軍は次々と兵をぶつけては、後退。突撃しては、待機を繰り返す。そのうちにベリーに疲れが見え始めると、マリアベルは"彼女"に指令を下した。
 とんがり帽子を被って現れたその少女は、どういうわけかベリーの放つ魔法の形式を全て見破り、"分解"してみせたのだ。それはまるで、組み上がったパズルが壊されるが如く。
 ベリーは経験豊かな魔導師だったが、こんな相手と戦ったことは無かった。普通に戦ってはいけない。味方もいない。不利だ。
 そう判断した彼女はまず何よりも、弥生を逃がすことを先決とした。背後で震える、まだ一人では満足に歩けない彼女を。

「この魔導師は、奥方様に不思議な魔法をかけた」

 ウェラーはそう言いながら、自身の腕を握り締める。

「話すことは出来ても、歩けなかった私の体。まるで、時間が戻されたかのように、奮い立った」

 弥生は自身の手のひらを見つめた。若い血潮が流れていくのが感じられる。そうなる直前、覚えているのは、彼女が自分に対して幾つもの形式の違う魔導術をかけていたこと。全て終わった時に、彼女の生気が無くなっていくのを感じた。

「そして、更に彼女は門を開こうとして」

「もういい」

 静かに、リリスティアが話を遮った。俯いている所為で、その表情は分からない。

「ヴァイス王」

 ウェラーが名を呼ぶも、リリスティアは反応しなかった。ベリーの乱れた髪を整え、その頬の血を拭った。もう、血は乾きかけている。

「道を開けろ!!」

 回廊の彼方から、レオンの声が響いた。行き交う兵士の間を縫うように駆けながら、こちらに向かって再度声を上げる。

「リリスティアちゃん!!」

 一瞬にして状況を理解した彼は、駆け寄りリリスティアとベリーを交互に見遣る。そしてその状況の深刻さに口を歪めた。途中、ちらっと弥生達にも目を遣ったが、声はかけなかった。

「すぐに処置しマス。運んで」

 難しい顔をしてレオンがそう言うと、彼の後ろについていた数人の兵士がベリーを抱え上げようと手を伸ばした。医療班なのか、腕には他の兵士には無い腕章がついている。

「あまり振動を与えないように。ああ、そうデス。そっと」

 そうしてる間にも、リリスティアは俯いたままだった。されるがままにベリーを兵士に委ねる。ベリーが兵士の手に渡っても、抱き抱えていたままの形で止まっているリリスティアを心配したレオンが声をかけた。

「心配ないデスよ、俺が助ける」

 早口にそう言うと、レオンはリリスティアの返事を聞かずに、兵士を引き連れてすぐに駆け出した。遠ざかる足音が耳に入っているのかいないのか、リリスティアもまた、ゆらりと立ち上がった。
 そして、弥生とウェラーの横を静かに通り過ぎながら、その瞳に何もかも飲み込みそうな暗い光を宿したまま、一言吐き捨てた。 

「消さないと」

 一方、白煙と埃が舞い上がる中、クレアスィオンは後ろに向けて尻餅をついた状態で目を丸くしていた。被っていたとんがり帽子はどこかに飛んでいったのか、彼女の近くには見当たらない。薄紫の髪を、爆風が揺らしている。

「あっぶない! 場所考えてよお兄さん。こんな狭いとこで暴走引き起こすなんて!」

「いちいち分析すんじゃねえ! うぜえんだよ!」

 手のひらを前にかざしたライザーが、怒声を上げる。その手からは、未だ淡い光が放たれていた。
 クレアスィオンとライザーの間の道は大きく大破し、壁や窓枠もほとんど原型を無くして瓦礫と化している。下手をすれば、天井が崩落しそうだ。

「ライザー様!」

 周りには、既に城の兵士が駆け付け剣や槍を構えていた。しかしその距離を縮めることは出来ず、包囲するだけに止まっていた。

「やば……いっぱい集まってきちゃった。どうしよう」

 クレアスィオンは杖をしっかり持ったまま、辺りを見回す。台詞とは裏腹に、焦った様子は無い。

「捕らえろ!」

 兵士の一人がそう言うと、一斉に他の兵士はクレアスィオンに向かっていったが、捕らえることは出来なかった。

「捕まらないよー、怒られちゃう!」

 クレアスィオンはひらりと飛ぶように空中に浮き上がり、包囲網の外に踊り出た。

「こっちこっち」

「ハイエント・ノヴァ!!」

 着地した瞬間を狙って、有無を言わさずライザーが魔導術を繰り出した。手の平から発生した黒い球体はクレアスィオンの周りに浮かび、たちまち空間を飲み込み始めた。が、彼女は何か小さく呟くと、その球体をひとつひとつ消し始めた。

「火を消すには水みたいに、これを消すには、逆式の魔導術をかけてあげればいい」

「くっ……そがあ!」

「だからあたしには絶対勝てないって言ったじゃない。魔導術なんて、法則さえ分かれば簡単なんだよね」

「――じゃあ、剣は?」

 刹那、疾風の如く速さで何者かがライザーの左を通り抜けた。かと思うと、それはクレアスィオンの目の前まで一気に跳躍し、その手に持った銀の刄を彼女に突き付けた。クレアスィオンは咄嗟に杖を前にかざし、呪文詠唱を始めようとしたが、すぐに口を手で塞がれ、体を地面に押し倒されてしまった。

「ぐ……ッ」

 石畳に叩きつけられ、背中の痛みに顔を歪めるクレアスィオンの目の前に、冷たい瞳の彼女の顔が現れた。クレアスィオンに馬乗りになり、剣を突き付ける、彼女は。

「ヴァ……ヴァイス女王……」

 塞がれた口の隙間から、クレアスィオンは呟いた。そして確かな恐怖に体が震えるのを感じながらも、その視線をリリスティアから離せなかった。

「私の顔は知ってるのね」

「……うぅん!? ……うう」

 すると口を押さえるリリスティアの手に更に力が加えられ、クレアスィオンは息すらも満足に出来なくなってしまった。両手でリリスティアの手を払い除けようと掴み藻掻くが、全く無駄な抵抗に終わる。

「お前のやり方、あいつそっくり」

 リリスティアは、片手に持ったイスタリカを更にきつく彼女に突き付ける。このまま腕を横に引けば、動脈が切れ、その先には死が彼女を迎えるだろう。

「お前がまだ小さい頃に、一度だけ見たことがあるわ。お前の父親の腕に抱かれている、お前を。バロン国議院議長の娘、ロストハウンド令嬢。なぜここにいる」

「……うぅっ!」

「なぜ、ベリーを殺そうとしたの? 教えて」

 憎しみのこもったリリスティアの瞳はきつく歪んだ。それを至近距離で目にしたクレアスィオンの額から、冷たい汗が滝のように流れだしていた。 

「せ、聖なる……、――っぐ!」

 クレアスィオンは押さえつけてくるリリスティアの手を必死に退かせ何かの詠唱を始めようとしたが、それは叶わなかった。憎しみを込めて押さえ付けてくるその手の圧力は強力だった。

「唱えると殺す」

 リリスティアはその翡翠の双眼をきつく歪め、クレアスィオンに顔を近付け冷たく言い放つ。片手のイスタリカは勿論、彼女の首に突き付けられたまま。
 突然の事に、ライザーも周りの兵士も固まったように動けずにいたが、視線はリリスティアの危うい横顔に釘づけになっていた。

「っふぐ……ッ」

「で、ベリーをあんな風にしたのはお前?」

 答えられないのを分かっているのに、リリスティアはわざと質問を投げ掛ける。クレアスィオンは悔しそうに眉を寄せ、リリスティアを見上げることしか出来ないでいる。それを知ってかリリスティアは、わざとその力を緩め反応を見た。それを好機とばかりに、クレアスィオンは勢い良く口を開いた。

「サウザンスロードは裏切り者なの! 悪魔は殺されて当然の種族なのに……あいつ助けたりなんかして! 魔術学院もみんな裏切って!」

 呪文を唱えず反論したのは、若さ故だろうか。クレアスィオンは必死にまくしたてる。

「あいつはロストハウンドの一族の顔に泥を塗った!!」

 幼く高い声は怒りに満ちていたが、リリスティアの比ではなかった。

「私たちには関係ない」

 イスタリカが妖しく煌めく。同時に、リリスティアの瞳の奥も妖しく蠢いた。

「ただはっきりしているのは、ベリーをあんな風にしたのはお前だということ」

 するとリリスティアは、彼女から一度体を離し立ち上がった。その妙な行動の意味を、クレアスィオンは瞬時に理解出来なかったが、すぐにその顔は青く凍り付いた。
 狂気とも言える殺意を抱いてクレアスィオンを見つめるリリスティアは、その手のイスタリカの切っ先を垂直に彼女に向けた。

「ひ……や……っ、やああ!!」

 そして、それを一気に下に突き降ろそうとした瞬間。鈍い音と共に、リリスティアの剣が何者かの剣により弾かれた。
 リリスティアはイスタリカを離しはしなかったが、その剣撃の重さに思わず身を退かせてしまった。が、すぐに体勢を立て直し、剣を前に構えた。
 そこには、クレアスィオンを後ろに下げ、守るように剣を前に構える男性が一人。白地の、紳士のような正装。栗色の髪に、深い海の色の瞳。襟足や前髪が伸びてはいるが、リリスティアは彼が誰だかすぐに認識出来た。

「マティス!?」

 当然、リリスティアは驚愕した。何も無いところから突然彼が現われたのだから当然だが、それよりもその雰囲気の豹変に驚きを隠せなかった。
 リリスティアの中での彼は、頼りない優男。祈りの塔で会ったきりとはいえ、そんな短期間でここまで人は変わるものだろうか。今の彼は、歴戦を勝ち抜いた軍人の如く落ち着いて見える。

「マティス! シェゾに送ってもらったの?!」

 クレアスィオンが喜びと共に、起き上がって彼に抱きついた。そのまま影に隠れると、リリスティアに舌を出して見せた。マティスは彼女の甘えに応え、優しく彼女の頭を撫でた。

「マティス、なの?」

「そうだよリリー。久しぶり」

 その物言いが、誰かと似ている。でもマティスだ。リリスティアは警戒を解くことはなく、剣を握る手に力を込めた。
 ライザーが、すかさずリリスティアの傍らに立つ。憎むべき敵が二人。彼は闘争心を炎のように燃え上がらせた。 

「あの野郎……あん時の……」

「君は、あの時の悪魔」

 刹那、マティスの目付きが鋭くなったかと思うと、その手の刄がリリスティアに襲い掛かってきた。普通では捉えられないような速さだったが、リリスティアはなんとかそれを防いだ。剣と剣は、双方からの力の負荷により鉄の音を奏でた。

「くっ」

「君と俺は剣を交えたことが無かったね。いい機会かもしれない」

 マティスは交わった剣を離すと、流れるように右からそれを振るった。長さのある剣をこの速さで操るには相当な筋力を使う筈。だが、彼はまるで枝か何かを振るように剣を操る。
 負けじとリリスティアも、防いだ直後に剣撃を浴びせたが、なんなくそれは躱される。互角、いや。マティスの方が、余裕のある顔をしている。

「やっぱり強いね。さすが、ヴァイスの女王だ」

「ふざけるなッ!」

 激しく斬り合うリリスティアを援護するべく、ライザーは背後で空中に呪印を描き始めた。

「させない!」

 だがそれは、瞬間的にクレアスィオンが放った光の球により、硝子が割れたように壊れていった。

「こっのガキ!!」

「マティスの邪魔させない!」

「上等だ! テメェからやってやらあ!!」

 ライザーが直ぐ様呪印を描き魔導術を放つ。クレアスィオンも速さに負けないよう呪文を詠唱し、魔導術を使う。
 強力な魔導術のぶつかり合い、そして荒れ狂う剣の円舞。彼らは苦痛に顔を歪め戦っていたが、ただ一人だけは、違った。

「楽しそうだね」

 剣を交えた状態で、マティスが小声でそう言った。

「何?」

「だって今の君、まるで本当の悪魔みたいだ。戦いが楽しいかい?」

 そう聞かれた瞬間、リリスティアの胸が大きく音を立てた。それを合図にリリスティアの顔からみるみるうちに殺気が消え、まるで少女のように弱い表情になった。

「楽しい……?」

 頭の中で、何かが必死に喚いているのが分かる。肯定しろ、肯定しろと喚いている。

「さしずめ殺戮王リリスティア、か。まるでダイアンサスの帝王みたいだ」

「ふざけるな!」

 カッとなったリリスティアの太刀筋は荒く、大振りだった。マティスは容易く彼女の懐に飛び込むと、微笑みを湛えたままその剣を横に振るった。

「うあッ!」

 マティスの剣はリリスティアの右手首を大きく切り裂いた。それによりイスタリカはあっけなく彼女の手から離れ、回転しながら地に落ちた。

「リリスティア!」

 ライザーが声を上げる。が、間を空けることなくクレアスィオンの魔導術が発動される為、駆け寄ることは叶わない。
 痛みに耐えながら右手を押さえるリリスティアに、マティスは容赦なく剣を振ろうとした。が、周囲から兵士が一斉に彼に斬り掛かり、その刄を止める。

「陛下をお守りしろ!!」

 だが、マティスは口端で笑うと、難なく片手で剣を振るい彼らを斬り倒していく。 

「油断するな!一気にかかれ!」

「でやあああッ!!」

 ヴァイスの兵士達は勇猛果敢だったが、技術は明らかにマティスの方が上回っていた。兵士たちの剣はどれも素早く力強いにも関わらず、マティスはその合間を優雅に躱している。

「っ間合いを詰めすぎるな!」

 傷を負った利き手を庇いながらも、リリスティアは反対の手にイスタリカを持ち立ち上がった。

「陛下! お下がり下さい!」

 周りにいた兵士の一人が彼女を止めたが、リリスティアはそれを振り切り尚もマティスに剣を向けた。それに気付いたマティスが、血の滴る剣を見せ付けるように構えながら微笑んだ。
 すると、ライザーと戦っていた筈のクレアスィオンがその戦線から離脱し、再びマティスの傍らに立ち眠そうな顔を見せた。

「ねえ、なんだかもう面倒くさくなっちゃったよマティス」

「クレアスィオン、そうは言ってもここで引くわけにはいかないよ」

「そうだけど~。サウザンスロードは放っといても死ぬし、この魔導師は弱いからつまんないし。そろそろ終わらせようかなって」

 クレアスィオンは杖に力を込め、何かを口の中で唱え始めた。早口に喋っている為、何を言っているのかは分からないが、彼女の周りの空気の変化からして、強力な魔導術を使おうとしているのは明らかだった。粉塵が勢い良く舞い上がり、彼女の足元の床がみしみしと音を立てている。
 ライザーはすかさず、周りに声をかけながら、防御壁を作り出す準備をした。

「近寄るなよてめえら! 今近寄ったら術式構成の巻き添え食らうだけだ! リリスティア、お前は俺の後ろに下がれ!」

「でもライザー……!」

「いいから言うことを聞け!!」

 強く怒鳴られ、リリスティアは不本意ながらもライザーの後ろに身を隠した。それを確認すると、彼は素早く空中に紋様を描き、半円型の防御陣を出現させた。

「床が割れていく!?」

 リリスティアの視界に映っているのは、床が崩れ重力を無視し上に組み上がっていく様子。石がどんどんと積み上げられ、何かを形どっていく。

「あれは地属性の魔導術だ。それも、特別厄介な奴だ」

 これで防げるか分からねえ、とライザーは小さく呟く。

「厄介?」

「具現化っつってな。あのガキがやろうとしてんのは……」

「出来た! おいで、猛き大地の豪傑、ガレム!」

 二人が話している間に、クレアスィオンの魔導術は完成した。それは今まで見たものとは違い、衝撃破や、光球を飛ばしてくるわけではなかった。
 現われたのは、リリスティア達の倍以上はあろうかという巨大な石の怪物だった。人の形をしているように見えるが、頭部は無い。石屑を繋ぎ合わせたような体は灰色で、所々からパラパラとその破片が落ちている。土煙を舞い上げながら出現したそれは、不気味な唸り声のようなものを発していた。

「言っておくけど、ボクのガレムは強いよ。ほら、行って!!」 

 クレアスィオンの合図と共に、ガレムはその太い石の腕をリリスティア達に向かって勢い良く叩きつけた。ライザーが作り出した防御壁がなんとかそれを防いだが、それでも衝撃はびりびりと中へ伝わってきた。

「これは魔導術なのか」

 リリスティアがライザーに問う。

「かなり型破りだけどな。精霊魔導術の式に外から働きかけて……なんて言ってもわかんねえだろうけどよ、とにかくガレムなんて普通は建設作業とかにしか使わねえんだ。地精霊自体が戦いを嫌うからな。頭部がないのは精霊の抵抗の証だ!」

「でも規則違反じゃないもん。戦いに使っちゃいけない、とは書いてないからね。ほら、もっとやってガレム!」

 クレアスィオンの魔導力の込もった声には逆らえないのか、ガレムは苦しそうな唸り声を上げながら両腕を交互に打ち付けていく。強力な拳の攻撃により、ライザーは攻撃魔導術を唱えられないでいた。

「っくそ!」

「あははッ、お兄さん打開策も分かんないの? 防御壁壊れちゃうよ!」

「リリスティアが魔法を使えたなら、違ったんだろうけどね」

 クレアスィオンとマティスは、二人の弱さをわざと突き嘲笑う。確かに、二人には秀でた能力はあるものの、致命的な弱点があるのも事実だ。こうなってしまった場合、どうすることも出来ない。
 リリスティアはまた、己の弱さに負けそうになっていた。だが、

「捕縛ッ!!」

「え?」

 リリスティアとライザーの背後から、光る長い紐が数本飛び出してきた。その光る紐はまるで意志を持っているかのように、瞬く間にガレムに巻き付き始めた。

「な、何これ……!」

 クレアスィオンが慌てている間に紐はガレムの体を何周もして巻き付き、ぴしりときつく縛り上げた。同時に紐から何か文字が浮かび上がり、ガレムの動きを静止させた。

「若い頃、暴走したガレムの捕獲によく行ったわ。懐かしいわね」

「ルピナス!」

 リリスティアは目を丸くした。そこに居たのは、何本もの光る紐を両手に持ったルピナス。その紐の先は勿論ガレムに繋がっている。

「遅れてごめんなさい女王様。援軍連れてきたから安心して」

「リリスティア!」

 ルピナスの後から息を急きらせて駆け付けてきたのはジークフリード。両手にはあの双剣を持っている。

「る、ルピナス先生にジークフリード皇子!?」

 クレアスィオンは二人を見て青ざめる。口に手を当て、気まずそうに目を逸らした。

「知り合いかい?」

 マティスが問うと、クレアスィオンは気まずそうに頷いた。

「覚えてるわよー、学院の特待生クレアスィオンさん。ジークフリード皇子と少しだけ同じ教室にいたわよね?」

 ルピナスが額に青筋を浮かべながら微笑むと、クレアスィオンは震えながら後退さる。

「え、まさかあの時の優待生? 何やってんだよ……」

 ジークフリードが呆れたように溜め息を吐く。

「ま、マティス。逃げよう! ルピナス先生がいるならあたし無理!」

「無理ってそんな……」

「無理なものは無理なの!」

 クレアスィオンはやけに必死な様子で、逃げる準備に入った。噛みながらも呪文を詠唱し、自身の背後に"門"を出現させていく。

「門を作れるまで強くなったくせに、そんな力の使い方しか出来ないの!? お仕置きね!」

「いやああ! ま、マティスゥ!」

 ルピナスが何故そんなに怖いのか、クレアスィオンはマティスの影に必死に隠れている。

「大丈夫だよ。なら、この場はガレムに任せて退却しよう」

 マティスが落ち着いてそう言うと、クレアスィオンは震えながらもガレムに向かって命令を発した。

「ガレム! みんな潰しちゃってよ!! 早く!!」

 すると、ルピナスの紐により縛られていた筈のガレムは、それらを引きちぎる勢いで体を膨張させ、唸り声を上げた。
 
「嘘! 引きちぎる気?!」

 ルピナスは強く紐を自身の方に引き付ける。だが、紐は痛々しい音を立て続ける。 

「まずいわ! ちぎられる!」

「僕に任せて!」

 ジークフリードはそう言って飛び出し、ガレムの体に連続して斬り付けた。だが、石の体には削ったような傷痕が付いただけで、ダメージを与えられた様子は無い。

「硬すぎる……!」

 ジークフリードは間合いを空け自身の刄とガレムを交互に見る。なんて防御力なのか、と感心せざるを得なかった。

「じゃあね、リリスティア。頑張って」

「待て!!」

 マティスは微笑みながら、クレアスィオンの出現させた門に足をかけていた。クレアスィオンも勝ち誇った様子で、リリスティアを見つめている。リリスティアはなんとか彼らを止めようと駆け出したが、ルピナスの紐を何本か引きちぎったガレムがそれを阻む。

「無理しないでリリスティア」

 ガレムを拘束している紐はあと何本も無く、このままではまた暴れだすのは必至だ。

「無理だと思うけどね。ボクのガレムを倒すには、ボクより強い魔導力を使わなきゃ。サウザンスロードがいない今は倒すのは無――」

 だが、その論理はあっさりと崩された。クレアスィオンが言い終わる前に、兵士の集団の中から何者かが素早くガレムの頭上高く飛び上がり、その太刀を浴びせた。
 太刀はまるで疾風の如く。ガレムの体を縦に二分した。太刀を浴びせた男は、その手に持ったやけに長さのある刀を一振りしてから器用に鞘に仕舞い、蒼の瞳を鋭く輝かせこう言った。

「石など、斬り慣れている」

「はァ!?」

 クレアスィオンが驚きの声を上げる。

「黒衣に長刀……世闇!!」

 マティスが問うと、男は静かに名乗りを上げた。

「──昴だ」

 だが、二分されたガレムは半身になりながらもまだその意志を失っていない様子で。ふらつきながらも、昴に向かって拳を振り上げた。しかし、昴はガレムに背を向けたままで。

「オイ!」

「昴!!」

 ライザーとリリスティアが叫ぶが、昴は全く動じた様子は無い。だがその行動の理由は、すぐに明らかになった。
 瞬間、マティス達の背後からヒルが飛び出してきた。赤い軌跡を描きながら、その手に持った剣をずらりと鞘から抜く。そして走る勢いに乗って、大剣を振り抜いた。斬るよりも、砕くと表現した方が正しいその圧倒的な剣撃に、リリスティアは言葉を失った。

「悪いな。残しておいてくれたのか?」

「お前が来るのは気配で分かっていた」

 昴がそう言うと、ヒルはふっと鼻で笑った。
 ガレムは十字に斬られた形でもうどうすることも出来なくなり、その場に石の瓦礫と化して崩れ落ちた。

「あー! あたしのロープがズタズタにッ! 弁償してくれるんでしょうねヒルさん!!」

「リリスティアを守る為の尊い犠牲だ」

 ヒルは悪怯れもせずそう言うと、ルピナスに構わずリリスティアに駆け寄った。

「斬られたのか」

 労りながらリリスティアの腕に胸ポケットから出した白い布を器用に巻き付けていく。リリスティアは何も言うことが出来ず、ただヒルを行動を見つめていた。

「……ヒルシュフェルト……竜の」

 マティスは瞳をきつく細め、リリスティアの傍らに寄り添うように立つヒルを睨み付ける。ヒルは振り返ると、同じような冷たい視線を彼に返した。
 二人はしばし睨み合っていたが、そのうちにマティスはその目を逸らした。

「君は、それでいいんだね」

 意味深にそう言うマティスに、ヒルは無言を以て返事をした。

「マティス、もしかしてあれって」

 クレアスィオンが問いかけるも、マティスは返事をせず彼女の肩を抱き寄せ、開かれた門の中へと足を進めた。

「後悔しないようにね」

 その言葉は、誰が発した言葉なのか。一筋の汗を流すヒルの横顔が、リリスティアは妙に気になっていた。 

 ライザーはそれを追おうとしたが、やはりヒルが制止した。深追いするな、と諭すと、彼は渋々その拳を下に降ろし握り締めた。そんな彼に、リリスティアが声をかける。

「有難うライザー」

「あ?」

「助かった」

「……助けれてねえよ」

 ライザーはあまり良い顔をしなかった。その心境を悟ってか、リリスティアもまたそれ以上は声をかけなかった。

「リリスティア大丈夫?」

 兵士たちが後始末を行っている中をくぐり抜け、ジークフリードはリリスティアに駆け寄り心配そうにその手を握った。

「平気。これくらいすぐ治る」

「それならいいけど……まさかクレアスィオンが出てくるなんてさ。あいつ、ちょっとだけノーブルの魔術学院にいたんだよ。ね、ルピナス先生」

 ジークフリードはそう言いながらルピナスに視線を遣る。ルピナスは引きちぎられた紐を握り締め落胆していたが、声をかけられるとすぐに明るい表情を取り戻した。

「そうね、ちょっとしか居なかったけど。でもガレムを斬るなんて、無茶やるわねお二人さん。普通剣の方が折れるわよ」

 ルピナスが笑いながらヒルと昴に目を遣る。

「最初に斬りつけたのは昴だが」

「お前もすぐに来ただろうが」

「斬れる確信は無かったわけね。呆れた人達」

「ハギリがいるから鍛え直しはきくだろうけど……すまない皆。有難う」

 リリスティアはそう言って頭を下げた。するとルピナスとジークフリードは慌てて手を左右に振った。

「やだ女王様! 台詞違うわよ!」

「リリスティア、王様なんだから「よくやった」とかでいいんだよ!」

「そ、そうなのか」

 反応に困るリリスティアだったが、すぐに気持ちを切り換えるとヒルに向き直る。

「ベリーは?」

「レオンが今治療に当たっている。まだ行っても会うことは出来ない」

「そう」

 リリスティアの胸の奧がきゅっと痛みを伴う。その痛みを持っているのは、リリスティアだけではなかった。昴もまた、ヒルの前に立つと頭を下げた。

「治療が終わったなら、俺もその魔導師に会わせてほしい。弥生を連れてきてくれたという魔導師に」

「彼女はレオンと同じくベリーの治療に当たっている。彼女には何か特別な力があるようだが」

 ヒルがそう言うと、昴は静かに頷いた。

「弥生は巫女だった」

「みこ……って、神官みたいな人のこと? え、もしかしてアメリのお母さんって神殿に仕えてたの?」

 ジークフリードが声を上げる。

「巫女は確か、神に仕える身だと聞いたが」

 ヒルが言い掛けると、昴は瞳を伏せその続きを語った。悔いているのか、無表情の中にも寂しさを湛えながら。

「巫女は通常、夫を持つことなど許されない。古より定められた事柄を俺が打ち破った」

 運命に逆らったのだと、昴は呟く。リリスティアにはその昴の姿がひどく自分と似ている気がして、どうしようもなくなっていた。

「悪いが、積もる話は場所を変えてしないか?」

 ヒルがそう提案すると、皆はとりあえずその場を離れることにした。後始末を兵士に任せ続々と立ち去る面々の中、彼だけはその場で立ち尽くしたまま下を向いていた。

「……女一人、守れねえ」

 ライザーはそう吐き捨て、足元に散らばる無機質な残骸を茫然と見つめていた。

「ライザー卿~! で、出遅れたッス! あーもう、指示なんか無視すれば良かったッス!」

 回廊の彼方から、切羽詰まった様子で走ってきたのはレイム。どうやら別の場所で警備をしていたらしく、出遅れた自分に地団駄を踏んでいる。

「うひゃー、えらく崩壊してるッスねー。こりゃ片付けが大変ッス」

 レイムは忙しなく辺りを見回すと、他の兵士に混じりながら後片付けを始めた。

「ん?」

 ふと、その瓦礫の山の中に妙な物を見つけた彼は、それを急いで掘り起こした。

「これは……」

 それは、白いとんがり帽子。

「クレアちゃん……」


 * * *


 陽が落ちた後の、優しい夜。竪琴の音が宵闇を抜ける白亜の城。彼の王が、月を見上げている。その横顔は、冷たく、色はなく。

「そう、か……色々大変だったみたいだね」

 暁の髪をした王、アルフレッドは、やけに優しい声でそう言った。一見、相手を気遣い労るような台詞だが、その心中はそうではない。それを代弁するかのように、傍らの老人が溜息を吐き声を荒げた。

「だからこれは遊びでは無いと言っておるだろうが! 一人で突っ走るなど愚の骨頂!! 分かっておるのかクレアスィオン!」

 罵声が部屋の中に響き渡ると、クレアスィオンは身を小さくしてうなだれた。

「ごめんなさい……」

「まあまあバロン」

「陛下、申し訳ありません。マティスともども、こやつにはよく言い聞かせますので」

 バロンが深く頭を下げる。すると玉座に座っているアルフレッドは、笑顔で首を横に振った。

「いや、確かにサウザンスロードと巫女の始末には失敗したみたいだけれど、彼らは良い情報を持って帰ってきてくれたよ。ね、マティス」

「……はい」

「あれが分かっただけでも、良かったよ。ご苦労だったね」

「しかし陛下。このままでは悪魔達はますます増長しますぞ」

 バロンが苦い顔をする。しかし、アルフレッドはなんら焦った様子も無く軽く返事をした。

「構わないさ」

「確かに軍事力は恐るるに足りませぬが、最近は奴らに同調して我らに牙を剥く種族や団体が増えております」

「いや、私は決して余裕ぶっているわけではないんだよバロン」

「と申しますと?」

「忘れたのかい君は。彼らがどうあがこうとも、世界の力が彼らを横行させはしない。リリスティアも、逆らうことなんてできないよ」

 アルフレッドは自身の両手の平を見つめ、口端を上げた。その姿だけを見ると、清らかな聖人君子が笑みを浮かべているだけのように見えるのだが。

「楽しみだよ、その時が。そうだろ?」

 その端正な顔からは想像もつかないような凶行を行う人物なのに、皆は何故か彼を敬い崇める。統治が上手いとか、カリスマ性があるとかではなく。聖王国の民は、未だに盲目的に彼を支持している。支持し敬うのは、"当たり前"の行為として刷り込まれているかのように。

「あれへの連絡はどうしますか?」

 マティスが問い掛けると、アルフレッドは小さく頷きこう言った。

「予定どおりに。それが終われば君とクレアスィオンは少し休んで構わないよ」

「分かりました」

「はい……失礼します」

 落ち込んだままのクレアスィオンを宥めながら、マティスは二人に背を向けた。アルフレッドは相変わらず笑みを湛えたままだったが、やはりそれはどこか裏のある表情だった。二人が玉座の間から立ち去ったのを確認すると、アルフレッドはその顔から笑みを消した。

「そういえば、バロン」

「はい?」

「リリスティアが妙な剣を持っていたという話だけど。あれ、早急に詳しく調べてくれないか?」

「……は。畏まりました」

 早急に。あまりそう言われ慣れてない所為か、バロンは僅かに間を置いて返事をした。
 アルフレッドはどんな時も呆れる程余裕で、臣下に対して命令を下す時も、「早く」「迅速に」などの言葉をつけることはほとんど無かった。
 それは、彼の焦りを垣間見た瞬間だった。

「もうやだー! 悪魔があんなに強いだなんて知らなかったんだもん」

 玉座の間から離れ、回廊を歩きながらクレアスィオンは文句を零していた。

「マティス、あのヴァイス女王の目見た? ほんと殺されると思ったよあたし」

「はは、確かに……。でもこっちにいた時もそうだったよ。戦いの時はあんな目をしてた」

 マティスは懐かしみながら昔を思い出す。彼女とヴァイスに任務に出かけたのは、もう遠い昔のことのよう。

「それに、ガレムを切っちゃったお兄さん達。あ、あの紅い髪の人、あれが噂のヴァイス王の竜なんだよね?」

「……そうらしいよ。よく知ってるね」 

 クレアスィオンはマティスの傍らから背伸びをしながら、興奮した様子で喋り続ける。

「剏竜なんて、存在自体が竜なのかなんなのかよく分かんない規則違反だけど、かっこいいよね。いいなあ、あたしもあんな奴隷竜欲しい」

「奴隷、か」

 おもしろい言い方だね、とマティスはほくそ笑んだ。

「クレアスィオンにも、昔一人いたらしいじゃないか。君をよく慕ってたらしい、竜」

「あたしを? 竜が?」

「うん。覚えていないかい?」

 クレアスィオンは、口元に指を当て考え込む。だが、その表情には困惑の色しか浮かばない。やがて彼女の瞳の中が、黒く渦巻きだした。

「いたっけ? いたような……? えっと、あの日の、森、夜明け前に、……飛んで」

 クレアスィオンが支離滅裂な言葉を呟きだしたことに気付いたマティスは、彼女の視界をそっと手の平で遮った。するとクレアスィオンは言葉を止め、大きく息を吐いた。

「はあっ……」

「まだ安定していないんだね」

「うん、そうみたい」

「心配要らないよ。俺も最初はそうだったから。すぐに分かる」

 マティスが手を離すと、クレアスィオンの瞳はいつものような輝きと意志を取り戻していた。

「一応、バロン様には言っておこうか」

「うん。また怒られるかもだけど」

「分かった。じゃあまた後で。ゆっくり休んでクレアスィオン」

「はーい」

 マティスは、手を振りながら彼女の元から離れていった。クレアスィオンも初めはにこやかに手を振り返していたが、段々とその手を下に下に降ろしていった。

「安定か……」

 握り締める拳は小さく頼りない。クレアスィオンはいつものクセでか、頭の方に手をやり、帽子の位置を正す仕草をした。

「あ、帽子! ……そっか、向こうで落としちゃったのかな。もう、きっとボロボロだよね……」

 彼女の被っていた、魔女のようなとんがり帽子。何か思い入れがあったのか、クレアスィオンは溜息を吐いた。

「あいつ居なかったなあ…」

 回廊の窓から外を見遣ると、そこには静かに輝く半月があった。クレアスィオンは、もう何度目か分からない溜息を吐いた。

「月より、太陽の方が好き」

 そう呟くと、クレアスィオンは少し痛む己の胸に手を当てた。少女らしからぬ、深い憂いに満ちた瞳をして。


 * * *


 彼女の無くしたとんがり帽子は、彼の手にあった。
 クレアスィオンの予想通り所々破れ、汚れていたが、彼はそれを大事そうに抱えていた。時折回転させてみたり、放り投げてみたりして、遊んでいる。彼の橙色の瞳と髪は、夜の景色には眩しすぎるのか、月光の柔らかな色がそれを一身に包んでいた。小さな部屋の中が、別世界の色に染まる。

「まさかね」

「独り言?」

 寝呆け眼で彼に声をかけたのはシャジャだった。欠伸をしながら、彼に歩み寄る。

「あれ? カイムさんは?」

「珍しく、寝てるよ。気分悪いんだって」

「うへえ!? あの人も体調崩したりするんスねえ」

「崩さない方が、おかしい生活してるもん。ところで、それどうしたの?」

「あ、ああ。落とし物みたいッス! 後で届けておかなきゃ」

 レイムはそう言うと、よそよそしく帽子を手から離し、近くにあった棚に置いてみせた。

「そういやさっきあんだけドタバタしてたのに二人とも何処にいたンスか?」

「谷に、調べもの。今さっき帰ってきたんだよ」

「あの短時間で往復はキツくなかったッスか?」

「キツイ、よ」

 シャジャは不機嫌そうに、背中の蝙羽根をぱたつかせた。それを見てレイムが明るく笑う。だが、シャジャはそんな彼の行動の裏を読んでか、無表情のままこう言った。

「誤魔化さなくて、いいよ」

「へ?」

 ギク、と音を立てる胸にレイムは汗を流した。

「な、何をッスか?」

 しらばっくれるレイムに、シャジャは心配そうな顔を見せた。その心底悲しそうな表情に、レイムは息を呑んだ。

「シャジャさん」

「いつまでも、戻らない人を想うのは辛く、ない?」

「な……」

「戻らないよあの人は。もう、旅人じゃない」

 鮮やかな笑顔。風に靡く薄紫の髪。自分を呼ぶ声。全て、思い出の中にのみ存在するあの人。
 もう戻らない。
 分かっていても、レイムは期待せずにはいられなかった。

 この、とんがり帽子を見つけてしまったから。

「クレアちゃん……」

 第十五話・終
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