神創系譜

橘伊鞠

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第9話「香る言葉は思い出に」

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 まどろみのひと時が、私にとっては何にも変えがたい時間だった。
 どこに行くでもなく、傍らにある貴方の、その強い瞳を見つめながら花を摘む。
 ただ見つめているだけで良かった。それこそが救いであった。

 なのに。貴方はいなくなってしまった。




 無機質な、石造りの城。だが、丸みを帯びた石肌には優しさが見える。
 そこは、大平原に佇む、悠然たるヴァイス王国の名もなき城。
 守るべき者、統べるべき者がいなくなったからと言って、城はまだ死んだわけではないのだ。

 それはまるで、誰かの帰りを待っているかのように、しっかりと平原の彼方を見つめている。
 遠くで、ゆっくりと歌う鳥の声が小さい。あれはきっと、どこかへ旅立つ鳥の声だ。
 地平線の彼方から伝わってくる、得も知れぬ切なさを見つめ、人々は目を細めた。
 吐く息が、まだ少しふんわりと白くなる。季節がすっかり変わってしまったことが分かった。
 先ほどの鳥も、春の季節を迎えたことに気付き、喜びに震えたのだろう。





 その日、ヴァイスの城は、いつもより少しだけ、夜明けの早さを感じていた。
 まだ火の入りきらない長い回廊を、忍び足で歩く影がひとつ。音に気を遣う足取りが、滑稽な音楽のように城に響いていた。
 星がまだ、夜に捉われたまま輝く東の空に、一番目の白い鳩が飛んでいく。鳴き声なく、朝を知らせる羽音に目を向ける見張りの兵士が、退屈そうに溜息を吐いた。
 兵士は、人影に気付いているのだろうか。ちら、と回廊の方を見つめたその兵士だったが、まるで何事もなかったかのように背伸びをすると、再び表情を引き締めた。
 調子をよくしたその人影は、速さを増して回廊を行く。曲がり角を滑るように走り、いくつかある扉の前で、申し訳程度に速さを緩めては一人笑う。
 そうやって、ある部屋の前にたどり着いた時に、影は諸手を上げて叫ぶのだった。

「おっはよーございマスー!! ヒィル君!!」

 レオンの高らかな声が、城中に響く。手に持っていた銀の鍵を扉に差し込んで回し、レオンは勢いよく部屋へと押し入った。
 部屋の中に置かれたベッドには、毛布にくるまって眠る男が一人。紅い髪を模様のように広げて、すやすやと眠っている。

「……おや」

 あれだけの大声と騒音の中、部屋の主であるヒルは、全くといっていいほど起きる気配がない。
 ベッド脇まで歩み寄ったレオンは、彼の顔を覗きこんで、口を尖らせた。

「ヒルくーん。朝デスよ朝。オーーイ」

 耳元で囁いてみるが、それでもヒルは寝息を立てたままだった。
 レオンは一考した後、近くに放ってある本を一冊手に取った。

「起きてクダサイ!」

 分厚い歴史書を、ヒルの頭上に振り下ろす。だが、ヒルは丁度寝返りをうち、反対側に向いてしまう。
「わざとらしい」と吐き捨てて、レオンは本の角でヒルを突いた。

「遅くまで仕事をしてくれた次の日で申し訳ないんデスけどね、今日はこの時間に起きてもらわないと困るんデスよ」

「ん……」

「君が起こせって言ったんデスよー。君が」

 そこまで言い切って、ヒルはやっと薄く目を開く。
 壁を虚ろに見つめた後、のっそりとした動きでレオンの方へと振り返った。

「レオンか……」

「なんて格好で寝てるんデスか。風邪引きマスよそれ」

 呆れ顔のレオンを、霞んだ視界の中で見つめながら、ヒルは笑った。

「昨日寝たのが、二時過ぎだった。さすがに眠いな」

「寝させてあげたいんデスけどね、困るデショ、君が」

 部屋の外は、まだ暗い。ひんやりとした空気が漂う窓の方に目を向けたレオンは、にっこりと笑った。

「行くんデショ。リーリエに」


   *  *  *


 ユア・ラムダに出発する日が決まる少し前、ヒルとレオンは、ヴァイスの周辺都市の整備を進めていた。人手も、資金源も足りない今の状況だが、せっかくの常春。今のうちに、蘇った都市を視察しておこうというわけだ。
 何しろ、とてつもなく長い時間を、氷の中に閉じ込められていたのだから、きっと建物は傷み放題の筈。これからの事を考えると頭が痛いと唸るレオンの横で、ライザーが鼻を鳴らした。

「東の要所か。なんか潮臭ぇ記憶しかねえな」

 日が出る前、談話室に用意された紅茶を飲みながら、ライザーは言った。
 深い薔薇色のソファーに腰を深く沈め、けだるげに目を細める。

「海に近いの? でも、地図にある、これは何」

 ライザーのすぐ傍のソファに座るリリスティアが、古びた地図を指差して言う。
 リーリエと記された都市の東側には、無数の黒点が記されていた。

「それは岩礁だな。海面より出ているこの岩のおかげで、海岸に船をつけることは難しい。海からの攻撃を防いでくれているこれは、いわば城壁代わりだな」

 リリスティアの肩の上から腕を伸ばし、ヒルが説明をする。
 ヒルを見上げ、リリスティアは不思議そうに目を丸くした。

「海からの攻撃が過去にあったの?」

「まあ、相手は人間ではなかったが」

「まあまあそれより、さっさとお茶を終わらせて出発してクダサイよ。日の出前に着きたいって言ってたじゃないデスか」

 話を遮るように、レオンが言う。

「そうだな。というわけでリリスティア、俺はリーリエに視察に行って来る。すまないが、城でちゃんと勉強をしていてくれよ」

「私が勉強嫌いみたいに言うな」

「嫌いだろ、実際。まあ分からないことがあれば、……俺がなんでも教えてやるから」

「い、いちいち耳元で言わなくても聞こえてる!」

 耳を押さえながら身をよじらせるリリスティアに、ヒルは機嫌の良い顔を見せる。満足げにリリスティアの頭を撫でると、部屋からさっと出て行った。
 既に出かける用意の整った服装と、腰に提げられた剣。それらが綺麗にまとまった様を見送りながら、リリスティアは密かに眉を下げた。

「気になるんならついていけよ」

 刺すような口調で、ライザーが呟く。視線は、地図に定めたままだ。

「別にヒルの事は気になんて……」

「あ? そうじゃなくてリーリエ。東の要所だろ。見てきてもいいんじゃねえか」

 かっと頬が熱くなるのを感じたリリスティアは、自分を叱咤するように咳払いをした。

「……行く予定は、ちゃんとレオンが組んでくれている。今日の私がすることは、勉強だ」

「そそ。陛下はまだまだひよこのひよちゃんなので、今日は俺とお勉強デス」

 紅茶を飲み干したレオンが、嬉しそうに言う。
 やるべきことだと分かってはいても、リリスティアは少々自信の無い顔を見せた。

「あの、レオン。私……午後から、昴と剣の」

「君が今鍛えるべきは頭の筋肉デス。よろしく」

 ぴしゃりと話を切るレオンを、リリスティアは恨めしく見つめた。
 そんなリリスティアを見ながら、ライザーは妙な懐かしさを感じていた。
 勉強を嫌がる相手に、毅然とした態度で臨むレオン。それを、ぼうっと見つめる自分というこの空間に、ライザーは覚えがあった。
 リリスティアに重なる、在りし日の妹の姿。今はもういない、家族の影を思い出し、苦くなった紅茶を啜った。


  *  *  *

 リリスティアとレオンが、勉強の為に執務室にこもったのは、あの後すぐだった。
 ミリアはにこにことして、良い香りの紅茶を運んでいく。すれ違いざまに、「懐かしいですね」と呟かれたライザーは、どういう顔をすればいいか分からなくなってしまった。
 ライザーの家族は、もういない。あの屋敷には、もうずっと前から、ライザーとミリアと、数人の侍従が住んでいるだけだった。
 厳しい氷の世界を生き抜く為、日々の生活は苦労も多かったが、それ以上に孤独を感じる機会が、圧倒的に多い。
 静かに燃える暖炉の火が、わざとらしく大きく響く大広間。飛び出してはすぐに消える火の粉を見ていると、まるで命のようだと、詩的な思いを持つこともあった。
 早起きをしすぎたかと、欠伸をひとつ。もう少しすれば必要のなくなる暖炉の灯りをぼうっと見つめながら、ライザーは瞼を閉じた。

「おっはよ~!! キンパツ! 朝だよ朝~!!」

 間延びした高い声に、瞳をきつく見開く。ライザーの、あからさまな機嫌の悪い顔など気にすることもなく、声の主は歩み寄ってきた。

「超早起きじゃ~ん。寝起きいいんだ?」

「朝っぱらからぎゃんぎゃんぎゃんぎゃんうっせえんだよお前は! 何か用か!」

「たまたま通りかかっただけじゃん。それとも、あたしはここに来ちゃいけないの~?」

 広い城の中、比較的人が集まりやすい此処は、兵士たちが腰を落ち着かせる場所でもある。
 特に扉で仕切られているわけでもなく、一段下がった場所に円形にくりぬかれており、様々な大きさのチェアが置かれている。
 大きく開かれた窓は、朝陽を呼び込む作りになっていて、真白い光が一番早く差し込む場所だ。
 呼べば、メイドたちが自慢の紅茶を用意してくれるので、城に務める者たちが、朝食後のちょっとしたお茶を楽しむ事も出来る。

「うーん良い香り。キンパツも何か飲まない? あたし頼んでくるよ!」

「何でお前と朝から茶を飲まなきゃいけねえんだよ」

「紅茶美味しいじゃん! あ、キンパツもしかして紅茶飲めない? レジレモの方がいい?」

「……なんだその、レジレモって」

「リュシアナで人気のお子様用のジュース」

「ふざけんなよ馬鹿女が!!」

 座ったまま、振り返り様に噛み付くように怒鳴るライザーから軽く身をかわしたベリーは、隣のチェアにいそいそと座った。
 ゆるく波打つ桃色の髪を器用に操り、スカートをきちんと整えてから座るその仕草を見ながら、ライザーは舌を打った。

「こんなやつをよくもまあ仲間にしたなあの眼鏡はよ……」

「本人目の前にしてそういうこと言う~?」

 むくれるベリーに、ライザーは苦い顔をする。

「お前ほんとにリュシアナの回しもんじゃねえだろな」

「勝手に想像すれば~? どうせ言ったって信じないんだし。あたしの行動見て決めればいいと思うよ~」

 あっさりとした口調でそう言われ、ライザーは居心地の悪さを感じた。
 もっと噛み付いてくるのかと、期待していたのだが。

「図太いやつ……。お前とあいつがなんで友達なんだよ」

「リリーは繊細だって言いたいの~?」

「繊細っつうか……考え込むように見えるけどな」

「昔はあんなんじゃなかったよ。だんだん難しく考えるようになっちゃっただけで」

 足先を少し伸ばし、陽の差し込む場所に当てながら、ベリーは言う。

「あたしも一人だったけど、リリーは違う。一人だけど、一人なんだけど、みんなからの目が合ったから」

 迷いながらも、前を見ようとする翡翠の瞳。だけど、周りの視線が常に彼女を追う。手を差し伸べるわけでもなく、寄り添うわけでもないのに、まるで籠の中の珍しい鳥を見るような遠い位置から、リリスティアを見ていた。

「あたしが最初に出会った時、もう既にリリーは一人だった」

 それは、数年前の出来事。桜が舞う、春の王国での出会い。
 鮮やかな花々が沿道を埋め尽くし、青い空を見上げては揺れる美しい光景の中での、彼女との出会い。
 白い花弁が踊るように景色の中を滑るそこには、人々の笑顔があった。
 何も心配はなく、何も恐れることはない、幸せの光景を切り取った、昼下がりの街角。
 王都アルフォンスは、優しさに守られていた。

 そんな中、ある花屋の店先には、今が盛りの季節の花々が所狭しと並べられていた。
 店主から受けた愛情たっぷりに輝く花の表面には、雫がきらきらと光っている。鉢植えの宿根草が、ようやく自分たちの季節だとも言いたげに、見事に咲き誇っていた。
 手入れが大変そうだと、客の一人が言う。店主は穏やかに「子供と同じです。楽しいですよ」と笑う。
 穏やかなやり取りが繰り返されるそこに、誘われたように足を運んだのは、まだ監査官に成り立てのベリーだった。

「可愛い~! これ、家の中に置いても大丈夫かな?」

 小さな花の群集を見つけたベリーは、手に持っていた杖を胸に抱きながらしゃがみこんだ。
 濃く、気高い紫に咲き誇るそれは、店先の花壇一面に植えられており、小さいながらも上品な佇まいを見せる。

「これって何ていう花ですか?」

「ブローディア……、クイーン・ファビオラという種類です。手入れをすれば、毎年増えていきますよ」

 店主は、手に持った如雨露を下げつつ答える。

「増えるの~!? じゃあじゃあ、家の中はあんまり良くないですか?」

「いいえ。日当たりと水はけに気をつければ大丈夫です。短く切って、テーブルに飾っても可愛いですよ」

 驚いたベリーをなだめるように、店主は答えた。優しい言葉に、ベリーはほっとする。

「そっか~。家の中でも大丈夫なんだ……」

「見たところ、お客様は魔導師さんですか?」

「えへへ、うん。でも、花は詳しくなくって。家にいる時間が短いから、育てられないかな~って諦めてたり……」

「なら、切花を買って飾るだけでも、花は楽しいですよ。朝起きた時に、水を代えてあげれば長く咲きます」

 そう言うと、店主は店の奥から満開の白い花を、バケツごと持ち出してきた。
 大きな白い花弁が、バケツからはみ出して揺れている。ベリーは、花の真似をするように頭を傾げた。

「これって百合ですか~?」

「これはクリスタル・ブランカです。百合の仲間ですが、植物専門の魔導師さんの研究により、こんなに豪華になりました」

 大きな花をもたげることなく、空を見上げて咲く様に、ベリーは頬を染めた。豪華で美しく、まるで御伽噺のお姫様に似合いそうな、清らかな白。これを持って、幸せの鐘を聞けば、きっと将来は明るいものになるに違いない。
 そんな華やかな想像を打ち砕くかのように、店主の前に黒い影が現われた。しゃがんでいるベリーを邪魔者とでも言いたげに、砂利を踏みしめるような足音がする。
 振り向くと、そこには、疲れ切った顔で佇む女性がいた。泥と灰に汚れた蒼い髪は、もつれて固まっている。
 その女性は、汚れたローブを引きずり、重そうに剣の鞘を握り締め、じっとこちらを見ていた。
 驚くベリーを内にもせず、女性は店主に語りかけた。

「いつもの、花を」

 見た目とは裏腹に、少し高い声だった。ベリーは立ち上がり、少し場所を譲る。
 ベリーの動きに気付いた女性は、怪訝な顔で一瞬だけ視線を合わせたが、すぐにそっぽを向いてしまった。
 よく見ると、女性の腕や脚には、何箇所も包帯が巻かれていた。血が滲んで、乾いてしまっているものがほとんどだった。
 率直に、ベリーは「嫌だな」と感じてしまった。職業柄、色んな人間を見てきたつもりだったが、目の前にいる彼女は、妙に鼻につく。
 こんな街を通るなら、もう少し身奇麗にすればいいのに、とか、花なんて似合わないのに、とか。どちらかというと、気分のいい休日を邪魔されたことに対するやっかみではあったのだが。
 しかし、そんな彼女に対して、店主はなんら態度を変えることなく、笑顔を見せた。

「ちょうど、今見せていたところです。クリスタル・ブランカ。少し待っていてくださいね」

 そう言って店主は、花を幾つか持ち、店の奥へと入っていった。
 ベリーの目の前に残されたのは、二本だけ。黙り込んでいると、女性が何か言いにくそうに口を開いた。

「もしかして、あの」

「え?」

「……これ」

 何を言っているのか分からず、ベリーは眉を寄せる。
 俯く女性に苛々としたベリーは、少々強い言葉で答えた。

「なんですか? なにが?」

 すると女性は、やっとベリーの顔を真正面から見つめた。頬を擦り、泥を気にするような仕草をしながら。
 髪に隠れて分からなかったが、女性の瞳は透き通る翡翠の色をしていた。そこに陽が入ると、まるでクリスタルのように輝く。

「花、……いつも、大体この時間に買ってるから」

「……だから?」

「買おうとする人が、私以外にいたとは思わなかった。……だから」

 女性は、酷く理解しがたい口調で言う。首を傾げていたベリーだったが、ようやくその意図に気付いた。
 彼女の視線の先には、残されたクリスタル・ブランカ。そして、申し訳なさそうな顔。
 ベリーは、「ああ」と手を叩くと、困ったように笑った。

「まだ見てただけだから大丈夫だよ~! 大きい花が綺麗だよね!」

 寂しげに、頭をもたげるクリスタル・ブランカ。ベリーは、その二本を取り出すと、鼻先に花弁を当て、瞳を閉じた。

「いい香りだね~この花が好きなの?」

「……うん」

「真っ白で、大きくて、そこにいるだけで憧れるよね。こんな種類の百合、あったんだね」

「…………うん」

「じゃあせっかくだし、あたしもこれ買って行こうかな~!」

「あ、お買い上げですか?」

 丁度、間もよく、店主が現われた。手には、紙にくるまれたクリスタル・ブランカ。大きなその花束を受け取った女性は、予め用意していた代金を渡す。

「いつもありがとうございます」

 腕いっぱいになる花を受け取った女性は、軽く頭を下げる。一瞬だけベリーを見たが、特に何を言うでもなく、さっさと立ち去ってしまった。

「あ、ちょっとちょっと!」

 ベリーは慌てて店主に代金を渡すと、クリスタル・ブランカを二本、わたわたとした様子で抱える。
 無造作に渡された代金を両手の上で見つめながら、店主はくすりと笑った。

 煉瓦の道に、花が舞う。鞘が擦れる音がリズムを取るかのように、小さく響いていた。
 木漏れ日の中、漂う芳香に誘われるように、ベリーは女性の後を追いかけていた。
 淡い、橙色の光は、秋のそれとは大分違う。温かくて、ゆっくりとしていて、それでなくとも、優しくて。
 見上げると、潤って光る緑の木々。真新しさにその身を誇り、空へ空へと伸びている。
 少しの距離を開けて歩く二人の足音は、そのタイミングも、強さも、違っていた。前を歩く女性の、ローブを纏う背中から、疲労の色が濃く滲み出ている。
 同じ年くらいだろうか? 剣を持っているということは、傭兵だろうか? 
 ――何故、美しい花を、大切そうに、抱えているのか。
 そんなことを考えながら、ベリーは後ろをずっと歩いていた。

「あの」

 ふと、女性が立ち止まる。横顔だけを見せるように、ベリーに視線を投げた。

「どこまで、ついてくるの」

「あ……」

 そういえば、なぜかずっと同じ方向に歩いてきてしまっていた。
 特にこちらに用があるわけではないのだが、自分でも驚いたように目を丸くするベリーに、女性は溜息を吐いた。

「……その服、聖騎士を管理してる……組合の」

「えっ」

 ベリーが身に着けているのは、白を基調とした、聖騎士管理組合の制服だった。

「だからついてきているの?」

 冷たさを帯びた言葉に、ベリーは口を結ぶ。すると、女性はおもむろに花を片手で持ち、自身のローブをめくった。
 治りかけの傷が生々しく見える腕は、少し陽に焼けている。女性は、そっと自分の二の腕を指差して言った。

「私は聖騎士だ」


  *  *  *


「……なんつうか、昔から愛想のないやつだったんだな?」

 ベリーの語りを止め、ライザーが息を吐く。苦笑いを浮かべたベリーは、懐かしそうに目を細めた。

「超無愛想なのに、あんな綺麗な花を持ってさ。なんか嬉しそうに歩いてんの。よろよろしてんのに、花だけはちゃんと大事そうに運ぶんだよね」

「あいつが花好きなんて、なんか似合わねえな」

「その時の花はね、自分の為に買ったんじゃなかったみたいだよ」

 湯気の上がる紅茶を見つめ、ベリーは指を組み合わせる。

「クリスタル・ブランカ。こっちじゃ咲かないみたいだけど……。なんでリリーがいつもあの花を買っていたのか、なんでそれが、決まって朝の時間なのか。色々と知ったのは、その後だったんだ」


   *  *  *


 今日は来るだろうか。
 まるで、想い人を待つような面持ちで、ベリーは街角のカフェで憩いのひと時を過ごす。
 路に面した花屋のはす向かいにある、ケーキが自慢の小さなカフェは、「ルネッタ」という。若い男女に人気がある名店だ。
 隣を見れば、午後の陽気に当てられて眠そうにする髪の長い少女と、それを甲斐甲斐しく気遣う金の髪の男性がいる。テーブルに突っ伏しそうになる彼女を気遣う優しい瞳を見ていると、ベリーは彼女の事を思い出した。

 “リリー・ウルビア”

 名前を聞いた時は、驚きを隠せなかった。
 噂と、そしてその経歴だけは知っていた。あの最高位聖騎士アストレイアの妹だということ。どこにも登録をしていない非登録聖騎士だということ。その割に、アルフレッド殿下と面識があるということ。

 ――実は、人間ではないということ。

 彼女が、実は人間ではないということは、組合の中でもベリーだけが知る事実だった。
 サウザンスロードという名前を捨て、この国に新たな「人間」として生きることを許された彼女は、その永い魔導師としての人生の中で、歴史の鍵を幾つも手に入れた。

 初めは、特に何も思ってはいなかった。
 敗戦国の遺児が此処にいる事に関しては、「政略上のよくある事」程度に受け止めていたからだ。戦勝国が戦敗国の世継ぎを取り込むなんて、どこの国でもやっている。
 それよりも、ベリーは自身が侵した罪の意識から逃げることに、必死になっていた。名前を変えれば、救われると思っていた。面が違えば、生まれ変われると信じていた。
 だが、まさかのこの機会で、図られたかのように、うららかな春の始まりに。
 彼女と出会うことになるとは、思ってもみなかったのだ。

「今日も包みますか」

 優しげな店主の声が、思考を遮断する。見上げた先に、リリー・ウルビアがいた。
 だが、今日はいつもとは違う。身に着けているのは、汚れたローブではなく、濃紺のマント。膝上まであるブーツに、すっきりとした前合わせの、黒い衣服。丈の短い金ボタンのジャケットが、まるで騎士のようだ。
 声をかける前に、ベリーは彼女をよく観察する。今日手に持っているのは、クリスタル・ブランカではなく、丸くてころんとした、鮮やかな花の束だった。
 店主が、いつもどおり花を持って出てくる。リリーはそれを受け取ると、用意していた代金を片手で渡す。笑顔で見送る店主に軽く会釈をしたリリーは、どこか落ち着いているように見えた。
 そのまま歩けば、ベリーが視界に入るだろう。だが、リリーは彼女を見つけるやいなや、わざとらしく立ち止まり、葛藤を始めた。

「おっはよ~リリー!」

 笑顔をで手を振るベリーを見て、リリーは落ち着きを失う。手に持った花で、顔を半分隠してしまった。
 ああ、警戒されているのか。彼女の心を察したベリーは、空いている椅子を指差した。

「座りなよ~! 時間あるでしょ」

「私は忙しい」

「今日の予定はなあんにも無い事、あたし知ってるんだよ~」

「職権乱用じゃないのか……」

 意地悪そうに笑うベリーを、リリーは睨(ね)め付けた。

 楽しげな恋人同士の語らい、気の抜いた友人たちの話し声。静かな小鳥の囁きにも似た音楽を聴きながら、ベリーとリリーは向かい合わせで座った。
 柔らかな木で出来た丸いテーブルに、白いカップがそっと出される。合わせて置かれたティーポットから漂う紅茶の香りを、緊張した面持ちで見るリリーに、ベリーは思わず噴き出してしまった。

「紅茶飲んだことないの~?」

「あるけど、……こんな出され方は知らない」

「そっか。此処のお店はコーヒーが自慢なんだけど、紅茶もなかなかのものですよ~?」

 じっくりと、茶葉が踊る時間を待ちながら、ベリーは言う。一緒に出された銀色の砂時計の砂が落ち切れば、注いで良いらしい。

「あなたは、こういうところによく来るの」

 リリーが問いかけると、ベリーはすぐに頷いた。

「リリーが花を買うのと同じくらいかな~」

「常連かと思った」

「実はあたしも最近ここを知ったんだよね~。いつもは仕事で通り抜けるだけなんだけど、ちょっと立ち止まって見ないと分からないものってあるよね~! 得しちゃったよ!」

 さらさらと落ちる砂時計。硝子の向こうで笑うベリーの顔を見て、リリーは深い溜息を吐いた。

「聖騎士管理組合の、監査官。……何か意図があるなら、聞くけど」

「まだ準監査だよ~。だから、リリーの私生活を見てどうこうとかする権限もないし、する気もないんでご安心~」

 そう言っても、まだ信用は出来ないらしいリリーに、ベリーは眉を下げた。

「もー! 大丈夫だって言ってんじゃん。それよりさ、今日は何の花買ってたの?」

 空いた椅子に置かれた花を、乗り出すように見つめながら言う。ちら、と視線を流し、リリーは答えた。

「……ラナンキュラス」

 茎にそっと手を伸ばし、持ち上げる。黄色やピンク、オレンジの丸い花が、光を受けて益々輝いていた。

「ラナンキュラスっていうの? なんか呪文みたい」

「貴方は、魔導師だったわね。花には詳しいんじゃ……」

「よく言われる。あたしさ~調合とか薬品ならまだ詳しいんだけど、花は苦手なんだよね」

「嫌い……なの?」

 顔を曇らせ、伺ってくるリリーに、ベリーは首を横に振った。

「ううん。好き! ほら、家にいることが少ないから、世話ができなくってさ~」

「ああ……そっか」

「リリーもそうでしょ? 切花だったら、水替えだけで済むもんね!」

「これは、人にあげようと思って」

「へえ~なんか意外かも~」

 そう言われてみると、今日の花はとても丁寧に包まれている。いつもはリュシアナの新聞でくるくると丸められていたのが、淡いオーガンジーとリボンで飾られていた。花を引き立てるような小さなリボンに趣味の良さが感じられる。

「誰にあげるの? もしかして……好きな人とか!」

 テーブルに身を乗り出して、ベリーはリリーを見つめる。
 間近に迫った銀の瞳から逃げつつ、リリーは答えた。

「……好きな人とか、そういうのじゃないけど。でも、喜びそうだと思ったから」

「なーんだ。でもそういうのいいと思うよ!」

「いいかな……」

「うんうん。そっかそっか~安心したよ」

「どういう意味?」

「気を悪くしないでね。ちょっと色々大丈夫かなって心配だったんだよね。セイレの事もあるし……色々話も耳に入るから。そういう人って、自分から一人になりがちだから」

 穏やかな笑顔を浮かべたベリーは、紅茶のポットを手に取る。いつの間にか、砂時計の砂は落ち切っていた。

「いや~最初はなんかやな感じだったけど、リリーってば可愛いよね」

「は?」

「へへ、任務の後、いっつも花買ってたでしょ。自分用に」

「…………見てたの」

「お仕事の内だよ~。あ、ほらほら。カップ貸して~。紅茶いれたげる!」

 貸してというと同時にカップを奪い取り、ベリーは紅茶を注ぐ。琥珀色の紅茶が、ハーブの香りを纏ってカップに揺らぐ。
 光る水面に映る自分の顔が、ぼんやりと滲む。

「家に、帰ると」

 ふと、リリーが口を開く。

「家に帰ると、部屋の中が朝陽で明るくて。姉さんがくれた食器や、クッションの色が鮮やかで綺麗なんだけど。……でも、何もなくて。歩くと、床の軋む音がうるさくて」

 指先を揃え、カップの傍に揃える。視線は、紅茶に向けたまま、リリーは続けた。

「あの花を飾っていると、なんだか姉さんみたいなんだ。真っ白で、大きくて綺麗で、そこにあるだけで……安心するから」

 少し気恥ずかしそうに言うリリーを、ベリーは目を細めて見つめていた。
 彼女が紡ぐ言葉のひとつひとつを、ゆっくりと飲み込んでいく。
 アストレイアの妹、変わり者聖騎士。そう呼ばれて、周りから固められてしまったこの人は、きっと今まで、一人であることを当たり前のものとして受け入れてきたのだろう。
 一人でいることを望んだ自分とは違い、そうならざるをえなかったのだ。
 けど、諦めることはなく、彼女は進んでいる。姉を探し、訪れる孤独に、決して心を汚してしまわないように、必死で生きている。
 自分とは、違って。

「そっか……。そうなんだね」

 ベリーは、救われたような、戒められたような、妙な気分になった。胸の中を、何かに軽く引っかかれたような、鈍い痛みが広がる。
 同時に、親近感も持っていた。自分よりも遥かに年下である彼女に、興味が沸いたのだ。
 無愛想かと思いきや、ひどく純粋で。冷たいのかと思ったら、胸の内に情熱を秘めている。だけど、不安定に迷う翡翠の瞳。それでも、与えられた運命に立ち向かう強さを持っている。
 もっと話を出来ないだろうか。もっと、色んな事を話せないだろうか。
 悪魔と呼ばれ続けていた、ヴァイスの民。その遺児が、こんなにも自分と違って、こんなにも、同じだから。

「――あの」

 外していた視線を戻して、リリーが口を開いた。
 紅茶を口に含んでいたベリーは、瞬きで返事をする。

「……なんでもない」

「なになに。遠慮しなくていいんだよ~!」

「いや、いい。今日はもう帰らないと」

「そうなの? じゃああたしも家に帰ろうかな~」

 身支度を始めるベリーに、リリーは何か言いたげだったが、結局最後まで言葉を発することはなかった。
 去り際に、軽く会釈をしながら、「じゃあまた」と言い残していった。

 “じゃあ、また”

 再会を約束するようなその言葉に、ベリーは笑顔で応えた。
 春の花咲くこの街角で、またゆっくりと、語り合おうと。

 それから、リリーとベリーは、よく二人で行動をするようになった。もちろん、聖騎士と監査官という立場の線は、お互いにわきまえたままで。
 街に新しい雑貨屋が出来たといえば、朝から出かけてみたり。女性に人気の店員がいるというカフェに、無理やり付き合わせて見たり。
 ――悲しいと思うことがあれば、お互い部屋の中で寄り添ってみたり。
 夏が来て、秋が来て。冬の静かさを喜び、互いを労わり。何気なく、気を遣うこともなく。他愛のない話を重ねて、時にはぶつかって。
 リリーが、「ベリー」と気兼ねなく呼び捨てるようになった時には、二人は、約束をすることなく、同じ時間を共有するようになっていった。


  *  *  *


「――そんで、何回も会うようになって、あたしとリリーは友達になったの~!」

「それお前が付きまとってただけじゃねえか」

 ぴしゃりと言い放つライザーに、ベリーは全力で抗議の態度を示した。

「違います~。あの後リリーだって、よくカフェに立ち寄ってくれたもん!」

「通り道にあったから寄っただけだろうが。あいつがそんなマメな女かよ」

 鬱陶しそうに頬杖を付き、ライザーは欠伸をする。
 そう言われるとそうかもしれないと、ベリーは不安を感じた。しかし、首を大きく横に振り、ライザーに向かって顔を近づける。

「リリーは意外と几帳面だもん!」

「どっこがだよ! あいつなんでもメイドにやらせっぱなしじゃねえか」

「仕方ないでしょ~。リリーの事よく知らないくせに、勝手な憶測やめてくれません~?」

「そうデスよお。よく知らないくせに勝手なこと言っちゃいけマセンよ~」

 一瞬、ライザーとベリーの間に沈黙が走る。
 いつの間にか二人の間に座っていたレオンが、しれっとした様子で紅茶を飲んでいた。

「うわっ!?」

 二人は同時に驚いて、逃げるようにチェアに座りこむ。ほのぼのとした笑顔を浮かべたレオンは、長く、気持ちの良さそうな息を吐いた。

「いやー、ミリアさんの紅茶は美味しいデスねえ。俺はコーヒー派なんデスけど、これだけは飲めマスね」

「急に出てくんなよ……リリーと勉強してたんじゃねえのか」

 ライザーが問いかけると、レオンは軽く頷いた。

「彼女どうやら、昨日も遅くまで勉強していたみたいデシてね。それに気付いたミリアさんが、さっきお風呂に連れていきマシた」

「風呂?」

「勉強してそのまま寝てたらしいデス」

 ほらやっぱり、と言いたげにライザーがベリーを見る。ベリーは眉根をきつく寄せて、舌を出した。

「で、二人して何の話をしてたんデス? 思い出話?」

「リリーとあたしのなれそめ~!」

「おやおやそれはそれはいいデスね。君と陛下は、気が合うデショ」

 レオンの意外な見解に、ライザーが目を丸くする。

「どう見たって合わなさそうだろ……」

「ライザー君、見たまんまで判断しちゃいけマセンよ」

「そうだそうだ~!」

 言葉に乗るように、ベリーが拳を上げる。苛ついたライザーが、紅茶のカップを乱暴に置き、言葉を荒げた。

「うっせえよ! ぎゃんぎゃん五月蝿いお前と、口下手なリリーのどこが気が合うってんだ!」

「ライザー君には友達がいないデスからね……」

「な、ば、俺の話に変えんなよ!」

「キンパツ、友達いないの? あたし友達になろうか?」

「お前ら俺のこと馬鹿にしてんだろ!!」

 くすくすと笑う二人に、ライザーはついにそっぽを向いてしまった。ソファの背を抱えるようにもたれかかり、ぶつぶつと文句を言う。
 拗ねた彼をかまうことなく、レオンは紅茶を美味しそうに飲み干している。そして、カップを置くと同時に、ベリーに視線を向けた。
 鋭さのある瞳が、今日はどこか優しさを帯びている。つられて目尻を下げたベリーは、彼の言葉を待った。

「――色々と、嫌味を言って悪かったデスね」

 それは、意外な言葉だった。構えていた心をゆるく解き、ベリーは手を膝に置く。

「なになに、どうしたの急に~」

「君や昴サンが来てからのリリスティア陛下は、随分楽しそうデス。心強いんデショーね」

「え、あはは。そうかな~?」

 おどけて言うベリーに、レオンは真剣な眼差しで続ける。

「俺たちは、彼女の居場所を作ってあげることは出来マスけど、それは彼女にとって「与えられたもの」でしかない。きっと今までも、「そうならざるをえない」状況で生きてきただろう彼女にとって……形は違えど、この国の王になることもまた、「与えられたもの」デス。自分が望んで、自分から発した言葉で手に入れたものじゃあない」

 嫌味ばかりを吐く筈の口から、穏やかな言葉が紡がれる。そのひとつひとつに、彼の温かい心が込められていた。

「でも、君は違う。彼女はきっと、自分から望んで君と友達になったんデショ。たった一人だった時間の中で、君がいることで、救われたんデショーね」

 あまりに優しい言葉を与えられ、ベリーは頬を紅くした。照れるように、長い髪を胸元でいじる。

「そ、そうかな……」

「だから俺は、これから彼女が望むものを手にする為には、なんだって協力しようと思ってマス。きっと、王としての責任の中でがっちがちになって悩むことが多いと思いマスが。まあそういう時は、よろしくお願いしマスね」

 笑顔で手を差し出され、少し警戒しつつもベリーは手を握り返す。細い文官の手の内は、とても温かかった。

「でもさ、どうして急にそんなこと言い出したの~?」

「ああ、それはデスね――」


  *  *  *


 濡れた髪を、メイドたちがゆっくりと乾かしていく。肩の下まで伸びてきた蒼い髪は、梳かせば梳かすほど美しく輝いた。
 香油を軽くつけると、艶やかになり、指を通す度に優しく香る。
 窓からそっと漏れる陽の光の中で、ミリアが手際よく髪を乾かしていく。鏡越しにそれを見つめながら、リリスティアは申し訳なさそうに言った。

「手間を、かけてしまって……」

「いいえ陛下。朝からお世話をさせて頂けるなんて嬉しいです」

 小瓶の蓋を閉めながら、ミリアが答える。
 にこにことしながら、化粧水の瓶や香水を並べるミリアは、心の底から楽しそうだった。

「でも、お風呂に入らずに眠ってしまうのは感心しません。疲れが取れませんから」

「……悪かった」

 笑顔の奥に潜む凄味のある彼女に怯え、リリスティアは軽く項垂れた。

「ああ、それとこちら。異国の香油ですが、今度使ってみませんか?」

 そう言ってミリアは、多面カットされた透明な硝子の瓶を取り出した。蓋には、小さな百合の花の硝子細工がついており、古びた紐で封がされている。

「西から取り寄せたものだったんです。ある花から作られた香油で、ライザー様のお母様がユティリア様に贈られたんですが……」

「これ……」

「ご存知ですか? クリスタル・ブランカという花の香油です」

 一瞬、あの輝く季節の中で笑う彼女が浮かぶ。
 小瓶を受け取ったリリスティアは、懐かしそうにそれを見つめた。光に照らすと、まるであの日の出来事が蘇るかのようだった。

「これ、貰ってもいい?」

「勿論! リリスティア陛下の物ですもの!」

 小瓶を手の中に握り締め、リリスティアは微笑んだ。


  *  *   


 慣れない石の回廊で、山肌を見つめる。遠くにそびえるアルゲオ山脈の向こう側は、かつて自分がいた場所だ。
 もう戻ることのないそこを、寂しい気持ちで見ることがない自分に、ベリーは我ながら呆れていた。
 言うなれば、根無し草のような人生だと思った。
 だが、今こうして、自らが一度は滅ぼそうとした国で、確かに立っている。それが望んだものなのか、与えられたものなのかは、理解に迷いながら。
 沈み始めた太陽が、全てを美しく包み込む時、人々の足音も消えていく。この城のことはまだよく分からないが、きっと夕食の準備を進めていることだろう。世話しなく動く人波と、ゆっくりと沈む太陽の軌跡。その間に佇みながら、ベリーは物憂げに考え込んでいた。

「こんなところにいた」

 人が消えた回廊の奥から、リリスティアが現われた。
 西日を眩しそうにしながら、ベリーに近づいてくる。

「リリー! おつかれさま~!」

「今日は勉強漬けだった。改めて、自分の知識の無さが情けなくなった」

 言いながら、外の景色に面した石壁にもたれかかる。腕を付くには丁度いいその縁に、ベリーと並んだ。

「王様ってどんな勉強するの? 帝王学ってやつ?」

「……基本からやらされているんだと、思う」

「ふう~ん。でもでも、意地悪眼鏡って、先生役が上手そうだよね~。ちょこっと嫌味だけどさ」

「ちょこっと? 相当だぞあれ」

「あはは! そうかも~!」

 会話が途切れた時、訪れる緩やかな静寂。彼方の雲が、青と橙の境界の中で、乱反射しながら動いていた。
 リリスティアは、体の疲れがすっと消えていくのを感じた。いつもにこにこと明るい彼女の横顔を見ると、どういうわけか気が落ち着くのだ。

「あ、そういえばヒル様帰ってきた?」

「……私がいちいちヒルの行動を把握しているとでも」

「あれ~? 聞いただけなんですけど~?」

 からかうような口調で、ベリーが言う。リリスティアは無言の睨みを返し、ベリーの肩を軽く押した。

「えっへへ。でも暗くなると心配じゃない? ちゃんと道分かるのかなあ」

「広いけど、大運河という目印があるから大丈夫だと思う。それに、馬が道を把握しているらしい」

「ここの馬そんなに賢いの?」

「……聞いた話だけど」

「いいな~。あたしも馬に乗ってみたい」

 縁に置いた自分の手に顎を乗せ、ベリーは頭をゆらゆらとさせる。表現豊かな彼女に、リリスティアは笑みを零した。

「ベリー」

「ん~?」

「貴方に渡したいものがある」

 そう言ってリリスティアは、上着のポケットから何かを取り出した。白い紙の小袋に、押し花が添えられている。

「なになに~?」

「今日貰ったんだ。貴方ならきっと喜ぶかと思って」

 リリスティアから小袋を受け取ったベリーは、瞳で確認をした後、その封を開けた。中から出てきたのは、あの時リリスティアがミリアから受け取った、香油の瓶だった。
 ベリーの手の平で行儀よく自立するそれは、夕陽に透けて幾重もの光を放つ。

「可愛い! 香水?」

「香油。……花の香油なんだけど」

「へ~! リリーってば乙女じゃーん!」

 慣れた様子で、ベリーは小瓶の蓋を開けた。鼻先に瓶を近付け、瞳を閉じた。
 そうして、思い出されるあの日の記憶。誇り高い芳香に、白い姿。受け取った二本の花の向こうで、無表情に佇む彼女。
 今は、笑顔でこちらを見ている。

「クリスタル・ブランカ……」

「覚えてたんだ。良かった」

「懐かしい香り。そっか……もうあれから、何年も経つんだね」

「うん。……何年も経った」

 それでも、変わる事のない笑顔に、リリスティアは安心していた。香油を受け取った時のベリーは、あの時と変わらず、気の置けない笑みを返してくれたのだ。

「何年も、貴方は秘密を守ってくれていたわね」

「え……」

「きっと、嫌に思うこともあったのに。私の出生を、守るように秘密にしてくれていた」

 最初から、違う者として出会った二人。どちらも異質で、一人だった。けれど、あの街角で出会った時に、二人は更に違う「二人」へと変わったのだ。
 ただ花を美しいと思い、同じ感動を持ち、そして近づいた。気持ちが同じ色に染まり、笑えば応えてくれるようになった。
 大きな秘密さえ、いつしか受け入れるように、認めたかのように心の中に持っていた。
 それが、彼女と過ごす障害になるなど、忘れてしまえるほどに。
 友としての時間は、尊いものであった。

「そして今、また私の傍に来てくれた。今度は、自分の秘密をさらけ出して。……どう、言えばいいのか分からないけど」

「リリー……」

「ありがとう。友達でいてくれて」

 言った瞬間、見る間に頬を紅くするリリスティアに、ベリーは涙より先に笑いが先行してしまった。
 小瓶を抱え、思わず口を塞ぐベリーに、リリスティアは八つ当たり気味に睨む。

「……っ、笑うこと……」

「ご、ごめん。だってリリーってばすんごい真っ赤! 普通に言えばいいのに~!」

「そんなに赤くない! ベリーだって赤い!」

「色白だから夕陽のせいだもん~!」

「都合のいいことばっかり言って……」

 笑いすぎた所為なのか、それとも別の理由からなのか。ベリーは目尻に溜まる涙を、指で何回も擦った。
 ぴりぴりと痛くなる皮膚を、それでも擦り、笑い声を上げる。
 指先についた涙を確認するようにしていると、リリスティアは呆れかえった顔でこう言った。

「――そういえば、レオンが今後のことで話があるって言っていた。後で声をかけてみて」

「は~い! がんばりま~す!」

 ベリーは、小瓶を高らかに掲げる。幾つもの表情を見せる小瓶の中で、クリスタル・ブランカが咲き誇っていた。
 あの日のまま、変わらない香りのままで。

 第9話・終
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