孤独な大賢

橘伊鞠

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他人の優しさが鬱陶しい。
他人の気遣いが鬱陶しい。
他人の、知ったかぶりが鬱陶しい。
そんな風にしか考えられない自分が、一番鬱陶しい。

皆仲良く頑張りましょうとでも言いたげに笑う他人を、下卑た言葉で徹底的になじりたくなる。

そんなことを言うなら、どうして俺がこの国の民ではないと言うことを最後まで隠していてくれなかったのか。

この込み上げてくる吐き気がどんなに気分の悪いものか、彼らが理解することは、永劫無いのだろう。
くそ。こんなこと言うだけ無駄なんだ。どうせ。

山入端に陽が揺らぐ。柱が連なる回廊は、人々の囁きを寂しげに響かせる。
真横から照らし出された陽に伸びていく影の先に、あの兄弟子たちの姿が見えた。彼が兄弟子と呼ぶ者は、二人ほど。結婚適齢期にあたる、上品な青年たちだ。
一見すると非常に穏やかで、知性溢れる文官にしか見えない彼らだが、レオンに気づくや否や瞳に嘲笑の色を浮かべた。
言葉を交わす気も起きないのは、お互い様で、姿を一瞬映してすぐにはね除けた。

御前会議に向かう人々が、後ろから現れてレオンの横を通りすぎていく。
人が通るごとに肩を撫でていく風に、心が枯れる。
気付くと、その足は御前会議の開かれる玉座の間ではなく、城を囲む城壁のすぐ前まで来ていた。
この城壁を出ると、兵舎や民家が立ち並ぶ場所に出る。そして、そこを守る更に強固な城壁を出れば、光蘭珠が咲き誇る大平原だ。
城壁の上で、兵士の鎧が夕日に煌めいている。日の暮れに追われるように、白鳩が空を横切った。
まだ、ここから向こうの世界を知らない。それどころか、この城の中の小さな社会のことさえ分からない。
この小さな社会の中でさえ上手く泳げずにいる自分がここから出たとき、一体どうなってしまうのか。
世界と向かい合う最高軍師など、果たしてなれるのだろうか。

――ふとレオンは、彼方からこちらを熱心に見つめてくる人物の存在に気がつき、気分を悪くした。
だが、視線の持ち主は、しつこいほどにレオンを見つめ続ける。
気づいていないふりをしようとしたレオンだったが、聞きなれた声が彼を呼んだ。

「そこにいるのはレオン準三級軍師ですね!?」

張りのある声だが、これはミリアだ。陰り始めた空間の中を、彼女の声はすうっと通って響く。
こんな格式張った言い方をする時の彼女は、大体がとあるやんごとなき御方の護衛をしている時だ。
それをよくわかっているレオンは、できるだけ視線を落としながら、振り返った。

「はい」

視線を合わせなくとも、そこにおわす方の存在感は、レオンを緊張させた。
そこには、薄いラベンダー色のドレスを身に纏った、ユティリア王妃がいた。
華奢な腰から豪華に膨らむドレスには、全体に細かな花の刺繍が施されている。幾重にも重ねられたレースの裾が、石畳の上を優雅に滑り、こちらに近づいてくる。その後ろを、女性の護衛官が粛々とした様子で歩く。
ミリアは何か言いたげに、困った笑みを浮かべていた。

「控えなさい。王妃殿下がお話があると」

護衛官らしい口調で、ミリアが言う。
レオンは地面に一度膝を付き、家臣らしく礼儀を通した。

「軍部準三級軍師レオン・ブラックロウザです。殿下よりお言葉を承れるこの幸運を……」

「まだ少年だったのね。でもラオフェンたちの子よりは大きいかしら」

少年、と言われ、レオンはが心が滑稽な音を立てて傾くのを感じた。
ユティリア王妃は美しいと言うよりも、どちらかと言えば「愛らしい」人物であった。外見も、少女かと見紛うほどに幼く、これでは世継ぎもまだまだ望めないだろうという噂がよく流れていた。
間近で見ると、どう見ても自分と同年代にしか見えない。王妃というよりも、童話にありがちな、悪い魔法使いにころりと騙されそうな「お姫様」だ。それでも額に輝く金のティアラの荘厳さに負けず、気品に溢れた所作は、若い軍師たちの視線を惹き付けてやまなかった。
聞くところによると、辺境の都市出身らしいが……。
何の後ろ楯もなく王妃としての揺るぎない地位を守るのは大変だろう。そんな推測をしていると、ミリアが大きく咳払いをした。

「リアンの水路、とても可愛く出来ていたわ。あれなら子供が落ちてしまうこともないでしょう」

そういえば、リアンの様子を見に行っていたと言っていたか。
軍師の中でも末席のレオンはそれに答えるのを憚り、頭を深く下げ、「勿体ないお言葉です」とだけ返した。こういうとき、特に女性には、礼儀を通してみたりするのだ。
ユティリアはレオンを嬉しそうに見つめた後、ミリアに声をかけた。

「ペリドット護衛官長、彼の勉学の環境はよく整ってるかしら」

「ヴァッサミューレ軍師宰相閣下の管理下ですので、不備はないかと」

「そう。いずれ彼には、次の世代を支える要となってもらわなければ。何か足りないものがあれば、遠慮なく言って頂戴ね」

社交辞令だろうが、心強い言葉だ。公然としてそう言われるのは、周囲に見せしめる意味でも悪くはない。
そんな計算高い心は知らず、ユティリアはレオンの働きを誉め続けた。自分がそのぐらいの年にはまだ他国の言語さえ覚えられなかったとか、建設や治水事業などはさっぱりだったとか。
あまりに褒めてくるので、何か裏があるのではないかと疑うレオンだったが、ふと、先程のジオリオの言葉を思い出した。
それを思うと、少しだけ素直に喜ぶことが出来た。

「……有難うござい、マス」

「本当はゆっくり話を聞きたいのだけど、勉強の邪魔をしてはいけないよと陛下にさっき言われたばかりなの」

ああ、紅茶が嫌いだと言ったからだ。そんな手回しまでしなくていいのに……。
レオンが気まずそうにしていると、いつの間にかの目の前にユテュイリア王妃の大きな眼があった。

「ブラックロウザ軍師」

「は、はいデス!?」

普段は大人ぶっているレオンも、その距離の近さには驚いたらしく、おかしな抑揚の声で答えてしまった。
ミリアが吹き出し、護衛の女性たちも密やかに笑う。

「ご……ごめんなさい、何か考えていたのかしら」

「い、いえ! 特になんでもない、デス!」

一度失った調子に加え、この国の王妃の至近距離での問いかけにレオンは軽く混乱状態に陥った。
頼むから離れてくれと言いたいが、ユティリアはレオンの顔を覗きこんで離れない。じっと見つめた後、あろうことか頬に手を添え、ある一点を見つめ倒した。
それは、レオンの瞳。灰色にほの暗く光る、切れ長の瞳だった。

「あなた、瞳が銀色なのね」

「灰色……です」

「ラオフェンの子たちもね、灰色なの。ディグの氏族も瞳は大体翡翠なのだけど、どういうわけかね」

「ディグ……、俺はまだお顔を拝見したことはありませんが……」

そんなことより離れてほしい。そう願うのだが、ユティリアは離れない。

「レオン、貴方とお話しするいい口実を思いついたわ」

ユティリア王妃は先程とは違う不敵な笑みを浮かべて、そう言った。
その日の御前会議は、見事に遅刻した。
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