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最終章 ステージ上の《Attract》
42 待っている人たち
しおりを挟む純嶺は夢と現実の狭間を漂っていた。
ふわふわと浮かび上がったり、下に引っ張られるように沈んだりを何度も繰り返している。
夢の中だとわかるのに、なぜだか瞼を開くことができない。周りにどんな光景が広がっているのか、確認することはできなかった。
覚醒は近い気はするのに、指先も自由に動かせない。
それなのに自分の傍に誰がいるのかだけは、不思議とわかった。
「……っ、なんでだよ」
空間に反響するように聞こえてきた声は、泣いているようだった。
ひどく嘆いて、自分を責めているのがわかる。
お前は悪くない――そう伝えたいのに、うまく声にすることができない。ぎゅっと相手が強く掴んでくる手を、握り返せないことがもどかしくてたまらなかった。
「……俺はまた、アンタを助けられないのか?」
違う。そんなことはない。
もう充分、助けてもらった。
ずっと立ち止まっていた純嶺の背中を一番強く押してくれたのだって、このあたたかい手の持ち主だ。
あのとき純嶺が自分の心を守れたのだって、あたたかく包み込むような支配の感覚を覚えていたからだ。
――染。
実際に声にすることが叶わなくても、純嶺は何度もその名前を呼んだ。
繰り返しているうちに、また触れている感覚が遠ざかり、夢の世界に沈んでいく。
再び意識が浮上しても、近くに染の気配を感じた。
あの耳に心地のいい声で、こちらに何かを話しかけてきている。
意味までは、わからなかった。
ただ嬉しくて、気持ちよくて、幸せで――これが自分の欲しかったものなのだということはわかる。
「…………純嶺」
名前を呼ぶ声だけは、はっきり聞こえた。
続く言葉はやはりわからない。
何か、大事なことを言われているような気がする。
ぷつり、とまた意識が途絶えた。
◇
目を開くと、真っ白な天井が広がっていた。
知らない天井と一緒に見えたのは、点滴のぶら下がっている台だ。垂れ下がるチューブは純嶺の腕へと繋がっている。
ここが、病院の一室であることは間違いなかった。
「よう。お目覚めか?」
「…………コウ?」
「ひっでえ声だな。ほら、水飲めよ」
ベッドの横からひょっこりと顔を出して、見下ろすようにこちらを覗き込んできたのはコウだった。
お忍びの格好ではなく、顔を普通に晒している。
なぜ、コウがこんなところにいるのだろう。
不思議に思いながら、差し出されたストロー付きのボトルを両手で受け取る。寝転がったまま身体を少し横に傾け、ぬるい水を喉へと流し込んだ。
「コウ、お前なんでここに」
「オレもいるよ」
「アキラ……どうして、お前まで」
部屋の中にいたのはコウだけでなく、アキラの姿もあった。
思いもよらない二人の登場に、純嶺の思考は完全に追いついていない。二人の顔を呆然と瞳に映しながら、自分がなぜ病院にいるのかを必死で思い出そうとした。
「そうだ……鎮静剤を使って」
すぐに記憶は繋がった。
蘭紗を監禁した犯人に追われ、山中で緊急用の鎮静剤を打ったのだ。
薬が効きすぎて、息がうまくできなくなったところまでしか覚えていなかったが、こうして病院にいるということは無事に助け出してもらえたのだろう。
「……蘭紗は?」
「ピンピンしてるよ。お前と違ってな」
「それなら、よかった」
「よくねえよ。バカ」
「痛ッ……」
「ちょっと、コウくん。純嶺ちゃんはケガ人なんだよ」
コウにいきなり平手で額を叩かれた。
慌てたアキラが二人の間に入ったが、今度はそのアキラの尻にコウの蹴りがヒットする。
「ちょっと、痛いじゃん。何すんだよ、コウくん」
「お前が邪魔するからだろ」
「コウくんが、純嶺ちゃんに乱暴するからじゃん」
「ぁあん?」
いつものように言い争う二人を横目で見ながら、純嶺はゆっくりと身体を起こした。
おそるおそる動いてみたが、どこも痛むところはなさそうだ。グーパーと手を動かしながら、ふと壁にかかった時計を見上げる。
「…………八時?」
これは一体、いつの八時だろう。
眠っていたせいで、時間の感覚がない。
窓のほうに視線を向けてみたが、少し開いたカーテンの隙間から太陽の光は見えなかった。
――夜の、八時か?
「どうした?」
「……時間がわからなくて」
「そりゃそうだろ。お前、一日以上寝てたし」
「…………え?」
「何度か目を開けてはいたんだけどね。やっぱり覚えてないんだ? 先生の言ってたとおり、トランス状態ってやつだったんだね」
アキラの言葉は、耳に入ってこなかった。
注射を打った時点から、丸一日以上が経った午後八時――それはすでに最終審査が終わってしまっているということを示している。
――うそ、だろ?
にわかには、信じられなかった。
呆然と自分の手を見つめる。
「純嶺ちゃん? 大丈夫?」
「あ、ああ……」
あの注射を使ったのだから、自分がステージに立てないことは覚悟していた。
でもまさか、眠っている間にすべてが終わってしまっているなんて。
あまりの動揺で、手の震えが止まらなくなる。
「おいこら、純嶺。一人でショック受けてんじゃねえぞ」
「ちょっと、コウくん。言い方」
「そんな顔してる時間はねえんだよ。こっからは一気に説明するから、耳の穴かっぽじって聞きやがれ」
――時間が、ない?
コウは一体、何を説明しようというのだろう。
今の状況では、何を言われても頭に入る気がしない。
「純嶺、まずは立て」
「え」
「立てって言ってんだよ!」
コウは相変わらず強引だった。
それが、ずっと眠っていた人間相手に言うことだろうか。
しかも、ただ眠っていたわけではない。強い弛緩作用のある鎮静剤を使った純嶺の身体は、どう考えても普通の状態ではなかった。
そんな相手に「立て」だなんて。
だが、なんと言い訳したところでコウは聞き入れてくれないだろう。ふらつかずに立てれば御の字だ――そう考えながら、純嶺はベッドから足を下ろす。
「え……?」
驚くほどスムーズに立ち上がれたことに、純嶺は思わず声を上げていた。
これは本当に丸一日、眠っていた身体だろうか。
血の流れが変わったことに一瞬目眩は感じたものの、それ以外の不調はない。
「なんで……」
「よし。ここまでは問題ないな。動けそうか?」
「……前にあの注射を使ったときは、全く動けなかったのに」
思い出したのは、前に同じ鎮静剤の注射を使ったときのことだった。
あのときは丸一日身体を動かすことができず、そこから数日は日常生活にも支障があったのに、今回はそのときの感覚と全く違う。
「あ、そうか。ずっと眠ってたから……?」
丸一日経って、すっかり薬の効果がなくなったのだろうか。
だがそれにしても、身体に痛みも違和感もないのは絶対におかしい。通常の睡眠の後でも身体には変化があって当然なのに、それがないなんて。
「そんな理由じゃねえよ。先生が必死でお前の身体から薬を抜いてくれたからだ。それに、あいつも寝てるお前を世話してくれたからな」
「……あいつって?」
「染くんだよ」
コウの言葉を聞き返した純嶺に、アキラが補足した。
「染が……おれの世話を?」
「その説明も後回しだ。身体は動くんだよな。踊れそうか?」
「え、っと」
「踊れるかって聞いてんだよ」
強い口調でコウに問われたが、その質問に頷くことはできなかった。
立って歩くことはできる――でも、それと踊ることは別だ。
ダンスは繊細な身体のコントロールが必要になる。さっきまで眠っていた身体で、いつものように踊ることなんてできそうになかった。
「ま、それはお前ならなんとかなるだろ」
「いや、コウ……お前、何言って」
「ずーっとお前のことを見てきた俺がそう言ってんだから、お前はただ信じときゃいいんだよ」
コウはにっと不敵に笑うと、純嶺の肩を強い力で叩く。
「でも……いくら踊れたとして、もう間に合わないんじゃ」
「間に合うっつったら?」
――間に合う?
もう一度、時計を見上げる。
最終審査は午後六時から、公演は全体で一時間半程度だと聞かされていた。
今は八時。
どう計算したって、終わっている時間だ。
「それも行ってみりゃわかるだろ」
「行ってみる、って……?」
「カーテン、開けてみ」
コウはいろいろと説明と足りなさすぎる。
でも聞き返したとして、さらに意味のわからないことを言われるのはわかっていた。
純嶺は言われたとおりカーテンに手を掛け、一気に開く。
窓の外に広がる光景を見て、動きを止めた。
「……あれって、もしかして」
「最終審査の会場だな」
病室の窓の外、病院から一区画離れたところに建っていたのは、最終審査の会場であるノルノッラホールだった。
見間違えるはずがない。
純嶺も何度か、足を運んだことのあるホールだ。まさか、病院の目の前にそのホールがあるだなんて。
放心したままホールを見下ろす純嶺の肩に、今度は優しくコウの手が触れた。
「あいつらは、あそこでお前が来るのを待ってんだよ」
「それって、どういう……」
「全部、自分の目で確かめてこいよ。俺に言えるのはそんだけだ」
◇
入院着の上にジャージを羽織った格好で、コウに病室から追い出される。アキラにも手を振って見送られた。
二人に背中を押された日のことを思い出す。
あれからまだ二ヶ月も経っていないのに、随分の前の日の出来事のことのように思えた。
ジャージから、嗅ぎ慣れた香りがする。
染が普段からつけていた香水の匂いだった。
どうやらこのジャージは染の持ち物のようだ。さっきまで不安でうるさかった心臓の音が、この匂いのおかげで少し落ち着いてきた気がする。
純嶺はエレベータを降りると、病院の正面玄関から外に出る。
病院前のロータリーを抜け、正面の横断歩道を渡ると、一区画向こうにあるコンサートホールの入り口を目視することできた。
ホールの向かいにある小さな公園に人だかりができている。中から出てきた観客だろうか。
コウはまだ間に合うと言ったが、やはり最終審査は終わってしまった後のようだった。
――どうしよう。
コウに言われるままここまで来てしまったが、ホールに入れてもらうことはできるのだろうか。純嶺の顔を知る関係者が入り口にいなければ、ただの不審者になってしまう。
純嶺は悩みながら、ホールのほうへと近づく。
「え……嘘。純嶺?」
公園にできた人だかりを通り過ぎようとしたとき、隣から知らない女性の声で名前を呼ばれた。振り返ると、二十代ぐらいの女性が純嶺の顔を見て目を丸くしている。
その女性が周りにも聞こえたのだろう。
公園から会場の入り口を眺めていた集団が、一斉にこちらを振り向いた。
「うそ、やだ……」
「えっ! 純嶺ちゃん……っ!」
純嶺の顔を見て、全員がざわついた。
突然泣き崩れる者や、声にならない悲鳴を上げる者までいる。
――この人たちは、いったい。
ぽかん、と呆気に取られる純嶺の肩に誰かの手が触れた。
「純嶺さん。ホールの入口はあちらです」
「ほらみんな、道開けて!」
そう声を上げたのも、知らない女性だった。
知らない人のはずなのに、そこにいる全員が純嶺を知っているようだ。純嶺のために道を開け、中には拍手で純嶺を出迎えてくれる者もいる。
この状況が全く理解できず、純嶺は視線を彷徨わせた。
「スミレちゃん!!」
今度は知っている声に名前を呼ばれた。
会場の外にいるとは思っていなかった人物だけに、純嶺は驚いて立ち止まる。
ジャージ姿のドラは純嶺の元に一直線に駆け寄ってくると、両手で純嶺の腕を掴んだ。そのまま全身を使って、純嶺のことをぐいぐいと引っ張る。
「来るって信じてたよ! 待ってたんだから!」
「ドラ……待ってたって、何を」
「スミレちゃんが来るのを、だよ!! 決まってるでしょ! ここにいる、みんなだってそうなんだから。みんな、待っててくれてありがとね!」
純嶺の手を引いてホールに向かいながら、ドラが周りの人々へ手を振る。「ほら、スミレちゃんも」と促されたが、純嶺は何もできなかった。
そのまま、ホールの中へと入る。
「あの人たちは……?」
「今日のチケットが取れなかったファンの子たちだよ。それでも応援したいって言って、スミレちゃんが来るのを外で待っててくれたんだ」
本当に、自分を待ってくれている人がいたなんて。
コウに聞いたときは上滑りしていた言葉が、じわじわと実感へと変わっていく。
「でも、もう審査は終わったんじゃ」
「終わってないよ。スミレちゃんが到着したこれからが本番!!」
「……終わって、ない?」
時間はとうに過ぎているのに、ドラもコウと同じことを言う。
あまりに訳のわからない状況の連続に、さっきは一度落ち着いたはずの心臓がまたドクドクとうるさく鳴り始めた。
頭までくらくらしてくる。
――……違う。これは混乱してるせいじゃない。
一気に不安感が増し、手が震え始める。
これはSub特有の不安発作に間違いなかった。
――そうか……薬の効果がなくなったから。
コウがさっき病室で話していたことを思い出した。
鎮静剤の副作用を抑えるために、純嶺の身体から薬を抜いたと。きっとそのせいで、グレアに対する耐性も前の状態に戻ってしまったのだろう。
さっきのファンの中に、Domがいたんだろうか。
相手がわざとやったことじゃないのは、わかっている。
Domが興奮したときに出る微量なグレアでも、純嶺の身体はこうなってしまうのだ。合宿の間は薬で完全に抑え込めていた体質が、またぶりかえしてしまった結果だった。
――これじゃ、間に合ったとしてもステージに立つことはできない。
それは純嶺が一番よくわかっていることだった。
これまでの状態に逆戻りしてしまった今、ステージに立つことは絶望的だ。
このステージに立つことはもう諦めていたはずなのに、自分を待ってくれている人の存在を確認したからだろうか。急に悔しさが込み上げてくる。
「スミレちゃん、大丈夫?」
その場から動けなくなってしまった純嶺の顔を、ドラが下から心配そうに覗き込んでくる。
何も答えられない純嶺の手を、ドラがぎゅっと力強く握った。
「――おい、お前ら。何ちんたらしてんだよ」
そんな二人の上から声がする。
顔を上げた先にいたのは、二階の柵から身を乗り出してこちらを見下ろす真栄倉だった。
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