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第5章 中間審査
18 深夜の異変
しおりを挟むチームでの練習を終え、食堂で夕食を取った後、純嶺はあらかじめ予約しておいた個人用のスタジオにいた。
少しの間、一人で踊りたい気分だったからだ。
「やっぱり、あの夜のようには踊れないな」
あの夜の後、度々こうして染の前で披露した即興ダンスを再現してみようと試みたが無理だった。
振りを完全に思い出すこともだが、何よりあの夜と同じところまで自分の感情を高めることができない。
「なんだったんだろうな……あれは」
あの不思議な感覚をもう一度味わいたい。そう思うのにできない。
純嶺はスタジオの床に、ごろりと寝転がる。
汗を拭うために、傍に置いてあったタオルを自分のほうへ引き寄せると、ころんと一緒に何かが転がった。
「あ……」
それは、ペン型の注射器だった。
城戸が検査に使っていた器具に似ているが、それよりも二回りほど小さい。中にアンプルが入ったそれは、使い捨ての緊急用鎮静剤だった。
『あくまで、お守り代わりですよ』
そう言ってこれを手渡してきたのは、医師である宮北だ。
中間審査を直前に控えた純嶺の不安を心配してのことだった。何かあってもこれを打てばすぐに治まる――そう思えるだけでも少しは安心できるだろうという、宮北の気遣いだった。
確かに、何も対処法がないよりはいい。
何かあったらどうしようと考えなくて済むのはよかったが、これを使う場面には遭遇したくないとも思う。
――昔、何度か使ったのと同じやつだな。
初めて酷い不安発作を起こした後も、純嶺はステージに上がることをすぐには諦められないでいた。
それこそ最初はそれがSubの不安発作だなんて考えたくもなくて、無理をしてステージに出ようとして、そのたび酷い発作に襲われた。
人前に立つと巨大な不安が纏わりつき、身動きが取れなくなる。身体が内側から凍りつくように冷たくなって、死の恐怖に震えが抑えられなくなってしまう。
そんなときに使われたのが、この緊急鎮静剤だった。
これを打てば、数分も経たないうちに不安発作は治まる。なんだったのかと思うぐらいあっさりと――ただ、そのあと丸一日は酷い脱力感で全く動けなくなってしまうのが、この薬の難点だった。
「……きっと、こんなものなくても大丈夫だ」
今はそう信じるしかない。
純嶺は自分にも言い聞かせるように、天井に向かって小さく呟いた。
◇
夜半過ぎ、純嶺は勢いよく飛び起きた。
悪夢を見ていたわけでも、何か災害が起こったわけでもない。それなのに、純嶺の身体は異常なまでに興奮状態に陥っていた。
心臓はドクンドクンと激しい脈動を響かせ、起きた瞬間から流れ出した汗は異様な量だ。
全身がガクガクと震えていた。
得体の知れない恐怖が襲いかかってくる。
理由のわからない不安感に叫び出してしまいそうだった。
――一体、何が。
不安発作の症状に似ている。
でも、ただ眠っていただけなのに――どうしてこんなことになってしまったのか、全く見当がつかない。
薬はきちんと飲んだ。
寝る前だって、いつもと変わりなかったのに。
審査への不安のせいなのか。
そんなことだけで、Subである自分の身体はこんな風になってしまうのか。
――ここにいちゃ、だめだ。
カーテンで仕切られた向こう側には、ドラがいる。起こしてしまっては、明日の審査に支障が出るだろう。
同室とはいえ、迷惑はかけられない。
震える身体をなんとか抑えながら、純嶺はゆっくりベッドから降り、部屋を出た。
廊下は驚くほど静かだった。
自分の心臓の音だけがやたらとうるさく感じる。何度も込み上げてくる吐き気を堪えながら純嶺が向かったのは、部屋のすぐ傍にあった非常階段だった。
「……くそ」
階段に腰を下ろし、上半身を壁に預ける。
気温は低くないのに、寒気が止まらない。
部屋を出る前、咄嗟に羽織った上着のファスナーを閉めながら、純嶺は震える息を吐き出した。
手に握りしめていたスマホの画面を覗き込む。時刻は午前二時前だった。
「なんなんだ……」
こんな発作が寝ている間に起こるなんて、初めてのことだった。震えの止まらない身体を己の両腕で掻き抱きながら、純嶺はなんとか発作が治まるように祈る。
薬は絶対に使いたくない――そう思っていたところなのに、まさかこんなことになってしまうなんて。
「く……は、ッ」
その祈りは虚しく、症状は治まるどころかどんどん強くなっていた。視界がぼやけ始めてようやく、純嶺は自分が泣いているのだと気づく。
不安で、心細くて、それだけでどうにかなってしまいそうだ。
一人でいたくない。
こわい。
たすけてほしい。
「…………っ」
でも、誰に助けを求めればいいのかわからない。
伸ばした手の先に、掴めるものはない。
空を切った指先を見つめる純嶺の瞳は、絶望に染まっていた。
「諦めるしか、ないのか……?」
偶然にも、純嶺が羽織ってきた上着のポケットには、宮北から渡された緊急鎮静剤が入っていた。
これを使えば、この症状はすぐに治まるだろう。
だが、その代償は大きい。
薬を使えば、動けなくなってしまう。踊ることなんてもってのほかだ。
オーディションの中間審査に参加することは、その瞬間に叶わなくなってしまうだろう。
「……ここまで、やってきたのに」
あれだけ練習してきたのに――きっと、同じチームのメンバーにも迷惑をかけてしまうだろう。
悔しい。やれるはずだったのに。
どうにかしたいという気持ちはまだあったが、もう気力だけでは耐えられそうにないのも事実だった。
ポケットを探り、緊急鎮静剤の注射器を取り出す。
震える指先でなんとかパッケージを破ると、純嶺は自分の太腿にペン先の部分を押しつけた。
――あとは、ボタンを押すだけ。
そうわかっていても、すぐに決断はできない。
これを打てば、純嶺のオーデションはここで終わってしまう。
――打ちたく、ない。
俯いて唇を強く噛み締めた、その瞬間だった。
「ん……ぁっ」
身体から力が抜けた。
持っていた注射器を落としてしまうほどの脱力感――何が起こったのか、全くわからない。
純嶺は、くたりと階段に倒れ込んでしまった。
「間に合った?」
「っ、あ」
階段上から声が聞こえたが、純嶺はそれに反応したわけではなかった。
――グレア、が。
声の聞こえたほうから、グレアを感じる。
強いものではないが、先ほどまでとは違う意味で震えが止まらなかった。
「やだ、嫌だ……やめろ……ッ」
必死にグレアから逃げようとするが、身体をうまく起こすことができない。それでも相手に背を向けて、少しでも離れようと必死で身体を動かす。
「あ……」
足がもつれた。
ずるりと落ちかけた純嶺の腕を、誰かの手が掴む。
「あっぶね」
「やめ……っ、離せ」
「おい、落ち着けって。いきなりグレアを当てたのは悪かったから」
今はこのDomから逃げることしか考えられなかった。
だって、このDomじゃない。
純嶺が待っていたのは――助けてほしかったのは。
――おれ、誰を待ってたんだ?
わからない。
でも、待っていた人がいた気がする。
この手を掴んでほしかった人が。
純嶺は混乱し続けていた。相手のほうを見る余裕もない。
自分の顔に向かって手を持ち上げ、頬を掻きむしるように爪を立てる。だが、その手が引っ掻いたのは違う誰かの手だった。
「――純嶺」
「っ」
名前を呼ばれた。咎めるような声色ではない。
優しく自分の名前を呼ぶその声を、純嶺は前にも聞いたことがあった。
「ほら、ゆっくり息をしろ。大丈夫――怖がんなくていい。アンタが嫌がることはしないって、あのときも言っただろ」
――あのとき? このDomは……誰だ?
気づけば、相手の胸に頭を押しつけられるように抱きしめられていた。
心臓の音がはっきり聞こえる。
どくどくと、相手の鼓動もどこか早い。
「……ちょっとは落ち着いたか?」
問いかけてくる声。
混乱が収まってきたからか、今ならそれが誰の声かわかる。
「……染」
「ああ。やっと俺のほうを見たな」
「……なんで、お前」
「んなことは、今はどうでもいいだろ。まだちょっと呼吸がつらそうだな。薬は打ってないんだろ?」
染がちらりと視線を向けた先に転がっていたのは、純嶺の手の中から落ちた注射器だった。
その問いに、純嶺はこくんと頷く。
はぁ、と安堵の息をついたのは染だった。
「……間に合わねえかと思ったわ。こんなの打ったらアンタ、明日出られねえだろ」
「お前は、どこまで……知って」
「うん? やっぱ、アンタまだ気づいてなかったんだな。わざと忘れたフリしてんのかと思ったけど」
「?」
不安発作がまだ続いてるせいか、思考がぼんやりとしていて定まらない。
染が話している内容がうまく理解できなかった。
「まだ、残ってんだぜ。あれ」
「あれって……?」
聞き返した純嶺の顔を見て、染がにやりと笑う。
「こーれ」
そう言って、自分のズボンの裾に手をかけた。
そのまま太腿が見えるところまで、一気にたくし上げる。
「ほら、アンタの噛んだ痕」
「……っ、え」
「もう、うっすらとしか残ってねえけどな。なんならまたつけるか? プレイしたほうが、アンタのその不安発作もすぐに治まるんじゃねえの?」
「待て、それって……お前」
――あの店で会った……Dom、なのか?
染の顔を見上げ、純嶺はパチパチとまばたきを繰り返す。
それでもその顔が、あの日プレイルームで出会ったDomと重なることはなかった。
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