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第四章
一、朔
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舞い散る桜の花びらの中に、上島は佇んでいた。酷く禍々しい巨大な桜。まるで桃源郷のように美しい花を咲かせるのに、何故こんなにも怖ろしく感じるのだろうか。
そこには、小さな子どもがいた。見事に咲き誇った桜の枝を手折ったのか、手に大事そうに抱えている。桜の木の近くに親しい人が居るようで、輝くような笑顔で、その人物に手を振っている。陽光眩しい、優しい季節だった。
しかし、子どもの瞳は次の瞬間、絶望に見開かれた。青空が広がっていた、うららかな春の日は、一瞬にして様変わりする。空はこの世の終わりのような夕焼けに変わり、夜の気配が忍び込み始めた。燃えるような朱色の空に、暗雲が立ちこめる。けれど、子どもの瞳は、そんなものは見てはいなかった。手から、握り締めていた桜の枝がぽとりと落ちる。
太い桜の木の枝に、女の人がぶら下がっていた。そこに居ることが当然のように、まるで桜が実をつけるとしたら、このようになるのだと言わんばかりに。だが実際は桜の実であるはずがなかった。枝にしっかりと括られた縄の輪で首を吊っているのだ。子どもはふらふらと立ち上がり、引き寄せられるように、木に近寄った。
薄桃色の花びらのはずのものは、今や夕陽を浴びて、血の色のようになってしまっていた。子どもが見つめていた女性は、既にぴくりとも動かない。ただ時折吹く風に従って、右へ左へと揺れるのみだ。子どもは、女性が何をしてしまったか、彼女がどうなったのか知る術はなかったが、何かとんでもないことが起きているということは理解出来た。――――それも、途轍もなく悪いことが。
ゴウ、と強く風が吹き、花びらが一斉に風に連れ去られていく。子どもは自らが風に飛ばされないようにすることも難しかった。風から己を守るために、腕で顔を覆いながらも、彼は必死で叫んでいた。風はまずます強くなり、花びらも、木も、周りのものも、全てのものを奪い去っていくようだ。首を吊った女性も、まるで紙細工のように、風に吹き上げられ、ただの物になってしまったかのように、はためいている。やがて、竜巻に似た風が起こり、木々も草木も、なにもかもを、この地からなくしていった。巨大な桜の木でさえも例外ではなかった。びしびしと枝が折れ、満開を迎えたその身を惜しげもなく風の前に差し出した。子どもは何か叫んでいる。必死の形相で何かを叫んでいた。
そして、その暴風に女性が攫われるのを目にすると、子どもは叫んだ。
――おかあさん!
上島はその桜の木の下に居た。異常に紅い桜だと思う。まるで血のようだ。木を見上げると、枝に何かが揺れている。――人だ。中年の男が、項垂れるようにして木で首を吊っていた。黒い死体。顔は見えない。死体全体が黒く、体型からしか年齢が判断出来なかった。上島は助けねば、と駆け寄ろうとするが、どうしても近くに行くことが出来ない。ただ少し遠くから、その木を傍観することしか出来なかった。影のような死体は、一つ、二つと桜の木に増えて行く。それは若い女性であったり、子どもであったり、また老人のようでもあった。やがて何十という死体が、木の方々の枝に揺れているのを見たとき、上島は絶叫した。
「止めてくれぇ――――――!!」
途端、四肢を引き裂くような激痛が走った。四方八方に手足が激しく引っ張られるようだ。このままでは引きちぎられてしまう。みしりと骨が鳴る。上島は耐えられず悲鳴を上げた。
「ぐああああぁぁぁぁぁ!!」
断末魔のようだ、と意識の端で思う。それでも痛みは治まらず、頭にも、脳味噌を無理矢理引きずり出されたかのような、割れるような痛みが走る。
「あああああぁぁ、ぐっ、ぐわぁぁぁぁあああああ!!!!」
上島は両手で頭を押えて、激しく転がった。こんな痛みは体験したことがない。こんな地獄のような責めを受けるなら、いっそ死んでしまったほうが、遥かにマシだと思った。
痛みが引いてくると、またあの幻覚を見る。女性が首を吊っている。子どもが叫ぶ。そして何十、何百の死体がぶら下がる桜の木。助けようとしても、どうしてもそこに行くことが出来ない。それが終わると、また激痛の繰り返しで、あたかも呪いのようだった。もう何度も何度も繰り返し、半ば死んだようになっていると、淡く光るものが見えた。
その光は段々大きくなって来る。上島が億劫そうに目を細めると、ついに光は上島を飲み込んだ。
「……朔」
「勇朔……」
聞き慣れた声だ……。けれど、これは、誰だ?
面倒だったが、意思の力を総動員して、重い瞼を押し上げた。薄く開けたところから刺さる光。眩しい陽の光だ。
「勇朔!!」
端整な顔立ちの男が見えた。細い銀縁の眼鏡をかけた、大層な美青年だ。
「誰だ……?」
上島が思わずそう口にすると、男は鈍器で殴られたような表情に変わる。
「勇朔……?」
「神楽さん、安心して下さい。記憶が混乱しとるんですわ」
木で出来た桶と、タオルを持って入ってきた青年が言う。こちらも眼鏡をかけてはいるが、異様な風体だった。長い金髪を後ろで一つに結い、服は着物だ。白い小袖に、濃紺の袴。巫女服の男版のようである。
「俺……」
「ええです。今は何も思い出さんでいい。もう一度寝てて下さい。暫くしたら思い出すでしょう。――――何もかもを……ね」
上島はその声に応えるように、圧し掛かってきた瞼を再び下ろす。瞼が落ちきる直前、勇朔、と呼んだ、名残惜しそうにした青年が見えた。
上島が寝付いたのを見届けて、神楽は表情を緊張させる。上島の前では、普通にしていたかった。しかし、尋常でないことが起こっているのは薄々感じている。それは華山家総本山全体の様子を見ているだけで感じ取れた。平生ひっそりとしている華山家ですら、今は慌しく、人々の囁き声がそこここに聞こえてくるような、そんな雑然とした雰囲気だ。玄天の表情にも、以前とは違う色が混じっている。人々の顔は、どこか鬱々として、しかし起こった事柄に対して非常に衝撃を受けているように見えた。それに、この家ですれ違う使用人などが、阿相玄天の顔をちらちらと、妙に注視しているのも気にかかる。
何故かは、まだ神楽にも判然としない。とにかく、霊媒をした後に急に激しく苦しみだした上島を、どうにかしてここまで運んだこと以外、神楽に分かることはなかった。運ぶ、と簡単に言ってはいるが、上島をここまで連れてくるのは、想像を絶する作業だった。断末魔のような悲鳴を上げ続け、神楽が羽交い絞めにでもしていないと、自分の喉を掻き切ろうとする上島の手足を縛り、首に手刀を落としてを意識を失わせた。縛る段階でも滅茶苦茶に暴れられ、神楽の腕や足は、上島が蹴ったり噛み付いたりした後が残っている。およそ正気とは思えない上島を後部座席に放り込み、まさに命からがら、華山家総本山まで連れてきたのだ。
「お師匠様」
千春が薬湯を持って廟に入って来る。上島が今寝かされている場所は、座敷でも応接室でもない。華山家総本山の廟に居るのだった。――――それも、今まで使うことが禁忌とされていた、開かずの廟だ。
「神楽さん……ちょっといいですか」
玄天はいつになく真剣な顔で神楽に問うた。玄天の後について、神楽は廟を出る。玄天は、裏山の方に向かって歩を進めていく。廟が小さく見えるようになったところで、玄天は足を止めてくるりと向き直った。
「神楽さん、貴方にだけはお話しておきます。今はまだうちの者に聞かれるわけには行きませんので、こんなところまで来て頂きました。出来るだけ、冷静に聞いて頂きたいと思ってます。――――上島さんのためにも…………」
神楽は、見えない風に正面から押されたような気がした。足元が僅かにふらつく。何か良くないものの前触れのような気がした。強風が窓を揺らすときの、あの不吉。夕焼けが異様なほどに朱く、世界が終わるかのような、あの不吉。誰もいない校舎に独り佇むときの、あの不吉だ。神楽はその身に全ての不吉を、丸めて投げられたかのように感じた。――聞くのが、怖い。上島について、何を告げられるのか。予想だに出来なかった。しかし、聞かなくてはならない。他ならぬ上島のことなのだ。上島の支えになれるのは、自分だけだという自負があった。
「聞きます。どうぞお話ください」
とろとろと夢を見ていた。まるでぬるま湯の中に浸かっているようだ。それは幸福な子ども時代というものかもしれなかった。世界の形はよく分からないけれど、見るものは美しく、謎に満ちていた。全てのものに金色の粉がかかっているようで、その光を、小さな瓶の中に閉じ込めたいと思った。けれど、彼らの美しいと思うものは、いつも瓶詰めには出来ないようなものばかりだった。例えば、草の上のまろい朝露だったり、プールの底にあたる陽の光の波紋だったり、ホースから出る水の中に見る虹だったりした。手に入らないものだからこそ、憧れ、手元に置きたいと思ったが、彼らは本能で知っていた。大人のように、何もかもを手中に収めてしまえば、その途端に、金色の粉は消えてなくなってしまうのだということ。自由に水田を飛びまわっていた蛍をとじこめた瞬間、その光が消えて死んでしまうように。手元に置いておくことが出来ないからこそ、人の中には幼年時代の記憶というものが、色濃く残っているのかもしれない。認識も出来ないほど、DNAの中に入り込んでいる。そして、それはときどき、ちらりと顔を覗かせるのだ。
上島は意識の川を、ゆっくりとたゆたっていた。酷く気持ちが良い。この不思議な温度は、何だろう。ここはどこだろう。上島は小さく丸まっていた。こんな気持ちのいい場所からは、もう出たくない。世間の荒波に揉まれるのは、もうたくさんだ。上島はずっとここに居る気だった。外に出れば何か恐ろしいことが待ち受けているのが解る。だのに、上島がここにずっと居ると思った瞬間から、周りの川が静かに波打ち始めた。それは段々と大きな波になり、やがて上島をも飲み込む津波になる。
――――やめろ、やめてくれ!! 俺はずっとここに居たいんだ!!
波は反対するように、ますます荒れ狂い始めた。最早上島はここに歓迎されるべきものではなくなった。上島はとうとう流された。このままどこに行くのか、一点に、波は迷わずに向かう。上島が目を凝らすと、トンネルの先は白かった。白い世界だと思った。何もないようで、全てを内包する世界。丸いものが見えた。丸くて白い。それは上島が見る最初のものだった。
――――朔。
外の世界で聞いた初めての言葉。欠けることのないもの。満腹と飢餓を併せ持つような、まるで真逆の物体。それは表裏一体で、決して離れることはない。
――――朔だわ。この子は、勇朔にしましょう。
天の恵みのような、満ち足りた声だった。女神のようなその手は、静かに上島を抱き上げた。白く柔らかな手が頬をくすぐり、淡く笑う。上島は外の世界を知った。受け入れようと、拒絶しようと、どちらにしても、この世界からは逃れられない。もう、あそこに帰ることは出来ないのだから。
そこには、小さな子どもがいた。見事に咲き誇った桜の枝を手折ったのか、手に大事そうに抱えている。桜の木の近くに親しい人が居るようで、輝くような笑顔で、その人物に手を振っている。陽光眩しい、優しい季節だった。
しかし、子どもの瞳は次の瞬間、絶望に見開かれた。青空が広がっていた、うららかな春の日は、一瞬にして様変わりする。空はこの世の終わりのような夕焼けに変わり、夜の気配が忍び込み始めた。燃えるような朱色の空に、暗雲が立ちこめる。けれど、子どもの瞳は、そんなものは見てはいなかった。手から、握り締めていた桜の枝がぽとりと落ちる。
太い桜の木の枝に、女の人がぶら下がっていた。そこに居ることが当然のように、まるで桜が実をつけるとしたら、このようになるのだと言わんばかりに。だが実際は桜の実であるはずがなかった。枝にしっかりと括られた縄の輪で首を吊っているのだ。子どもはふらふらと立ち上がり、引き寄せられるように、木に近寄った。
薄桃色の花びらのはずのものは、今や夕陽を浴びて、血の色のようになってしまっていた。子どもが見つめていた女性は、既にぴくりとも動かない。ただ時折吹く風に従って、右へ左へと揺れるのみだ。子どもは、女性が何をしてしまったか、彼女がどうなったのか知る術はなかったが、何かとんでもないことが起きているということは理解出来た。――――それも、途轍もなく悪いことが。
ゴウ、と強く風が吹き、花びらが一斉に風に連れ去られていく。子どもは自らが風に飛ばされないようにすることも難しかった。風から己を守るために、腕で顔を覆いながらも、彼は必死で叫んでいた。風はまずます強くなり、花びらも、木も、周りのものも、全てのものを奪い去っていくようだ。首を吊った女性も、まるで紙細工のように、風に吹き上げられ、ただの物になってしまったかのように、はためいている。やがて、竜巻に似た風が起こり、木々も草木も、なにもかもを、この地からなくしていった。巨大な桜の木でさえも例外ではなかった。びしびしと枝が折れ、満開を迎えたその身を惜しげもなく風の前に差し出した。子どもは何か叫んでいる。必死の形相で何かを叫んでいた。
そして、その暴風に女性が攫われるのを目にすると、子どもは叫んだ。
――おかあさん!
上島はその桜の木の下に居た。異常に紅い桜だと思う。まるで血のようだ。木を見上げると、枝に何かが揺れている。――人だ。中年の男が、項垂れるようにして木で首を吊っていた。黒い死体。顔は見えない。死体全体が黒く、体型からしか年齢が判断出来なかった。上島は助けねば、と駆け寄ろうとするが、どうしても近くに行くことが出来ない。ただ少し遠くから、その木を傍観することしか出来なかった。影のような死体は、一つ、二つと桜の木に増えて行く。それは若い女性であったり、子どもであったり、また老人のようでもあった。やがて何十という死体が、木の方々の枝に揺れているのを見たとき、上島は絶叫した。
「止めてくれぇ――――――!!」
途端、四肢を引き裂くような激痛が走った。四方八方に手足が激しく引っ張られるようだ。このままでは引きちぎられてしまう。みしりと骨が鳴る。上島は耐えられず悲鳴を上げた。
「ぐああああぁぁぁぁぁ!!」
断末魔のようだ、と意識の端で思う。それでも痛みは治まらず、頭にも、脳味噌を無理矢理引きずり出されたかのような、割れるような痛みが走る。
「あああああぁぁ、ぐっ、ぐわぁぁぁぁあああああ!!!!」
上島は両手で頭を押えて、激しく転がった。こんな痛みは体験したことがない。こんな地獄のような責めを受けるなら、いっそ死んでしまったほうが、遥かにマシだと思った。
痛みが引いてくると、またあの幻覚を見る。女性が首を吊っている。子どもが叫ぶ。そして何十、何百の死体がぶら下がる桜の木。助けようとしても、どうしてもそこに行くことが出来ない。それが終わると、また激痛の繰り返しで、あたかも呪いのようだった。もう何度も何度も繰り返し、半ば死んだようになっていると、淡く光るものが見えた。
その光は段々大きくなって来る。上島が億劫そうに目を細めると、ついに光は上島を飲み込んだ。
「……朔」
「勇朔……」
聞き慣れた声だ……。けれど、これは、誰だ?
面倒だったが、意思の力を総動員して、重い瞼を押し上げた。薄く開けたところから刺さる光。眩しい陽の光だ。
「勇朔!!」
端整な顔立ちの男が見えた。細い銀縁の眼鏡をかけた、大層な美青年だ。
「誰だ……?」
上島が思わずそう口にすると、男は鈍器で殴られたような表情に変わる。
「勇朔……?」
「神楽さん、安心して下さい。記憶が混乱しとるんですわ」
木で出来た桶と、タオルを持って入ってきた青年が言う。こちらも眼鏡をかけてはいるが、異様な風体だった。長い金髪を後ろで一つに結い、服は着物だ。白い小袖に、濃紺の袴。巫女服の男版のようである。
「俺……」
「ええです。今は何も思い出さんでいい。もう一度寝てて下さい。暫くしたら思い出すでしょう。――――何もかもを……ね」
上島はその声に応えるように、圧し掛かってきた瞼を再び下ろす。瞼が落ちきる直前、勇朔、と呼んだ、名残惜しそうにした青年が見えた。
上島が寝付いたのを見届けて、神楽は表情を緊張させる。上島の前では、普通にしていたかった。しかし、尋常でないことが起こっているのは薄々感じている。それは華山家総本山全体の様子を見ているだけで感じ取れた。平生ひっそりとしている華山家ですら、今は慌しく、人々の囁き声がそこここに聞こえてくるような、そんな雑然とした雰囲気だ。玄天の表情にも、以前とは違う色が混じっている。人々の顔は、どこか鬱々として、しかし起こった事柄に対して非常に衝撃を受けているように見えた。それに、この家ですれ違う使用人などが、阿相玄天の顔をちらちらと、妙に注視しているのも気にかかる。
何故かは、まだ神楽にも判然としない。とにかく、霊媒をした後に急に激しく苦しみだした上島を、どうにかしてここまで運んだこと以外、神楽に分かることはなかった。運ぶ、と簡単に言ってはいるが、上島をここまで連れてくるのは、想像を絶する作業だった。断末魔のような悲鳴を上げ続け、神楽が羽交い絞めにでもしていないと、自分の喉を掻き切ろうとする上島の手足を縛り、首に手刀を落としてを意識を失わせた。縛る段階でも滅茶苦茶に暴れられ、神楽の腕や足は、上島が蹴ったり噛み付いたりした後が残っている。およそ正気とは思えない上島を後部座席に放り込み、まさに命からがら、華山家総本山まで連れてきたのだ。
「お師匠様」
千春が薬湯を持って廟に入って来る。上島が今寝かされている場所は、座敷でも応接室でもない。華山家総本山の廟に居るのだった。――――それも、今まで使うことが禁忌とされていた、開かずの廟だ。
「神楽さん……ちょっといいですか」
玄天はいつになく真剣な顔で神楽に問うた。玄天の後について、神楽は廟を出る。玄天は、裏山の方に向かって歩を進めていく。廟が小さく見えるようになったところで、玄天は足を止めてくるりと向き直った。
「神楽さん、貴方にだけはお話しておきます。今はまだうちの者に聞かれるわけには行きませんので、こんなところまで来て頂きました。出来るだけ、冷静に聞いて頂きたいと思ってます。――――上島さんのためにも…………」
神楽は、見えない風に正面から押されたような気がした。足元が僅かにふらつく。何か良くないものの前触れのような気がした。強風が窓を揺らすときの、あの不吉。夕焼けが異様なほどに朱く、世界が終わるかのような、あの不吉。誰もいない校舎に独り佇むときの、あの不吉だ。神楽はその身に全ての不吉を、丸めて投げられたかのように感じた。――聞くのが、怖い。上島について、何を告げられるのか。予想だに出来なかった。しかし、聞かなくてはならない。他ならぬ上島のことなのだ。上島の支えになれるのは、自分だけだという自負があった。
「聞きます。どうぞお話ください」
とろとろと夢を見ていた。まるでぬるま湯の中に浸かっているようだ。それは幸福な子ども時代というものかもしれなかった。世界の形はよく分からないけれど、見るものは美しく、謎に満ちていた。全てのものに金色の粉がかかっているようで、その光を、小さな瓶の中に閉じ込めたいと思った。けれど、彼らの美しいと思うものは、いつも瓶詰めには出来ないようなものばかりだった。例えば、草の上のまろい朝露だったり、プールの底にあたる陽の光の波紋だったり、ホースから出る水の中に見る虹だったりした。手に入らないものだからこそ、憧れ、手元に置きたいと思ったが、彼らは本能で知っていた。大人のように、何もかもを手中に収めてしまえば、その途端に、金色の粉は消えてなくなってしまうのだということ。自由に水田を飛びまわっていた蛍をとじこめた瞬間、その光が消えて死んでしまうように。手元に置いておくことが出来ないからこそ、人の中には幼年時代の記憶というものが、色濃く残っているのかもしれない。認識も出来ないほど、DNAの中に入り込んでいる。そして、それはときどき、ちらりと顔を覗かせるのだ。
上島は意識の川を、ゆっくりとたゆたっていた。酷く気持ちが良い。この不思議な温度は、何だろう。ここはどこだろう。上島は小さく丸まっていた。こんな気持ちのいい場所からは、もう出たくない。世間の荒波に揉まれるのは、もうたくさんだ。上島はずっとここに居る気だった。外に出れば何か恐ろしいことが待ち受けているのが解る。だのに、上島がここにずっと居ると思った瞬間から、周りの川が静かに波打ち始めた。それは段々と大きな波になり、やがて上島をも飲み込む津波になる。
――――やめろ、やめてくれ!! 俺はずっとここに居たいんだ!!
波は反対するように、ますます荒れ狂い始めた。最早上島はここに歓迎されるべきものではなくなった。上島はとうとう流された。このままどこに行くのか、一点に、波は迷わずに向かう。上島が目を凝らすと、トンネルの先は白かった。白い世界だと思った。何もないようで、全てを内包する世界。丸いものが見えた。丸くて白い。それは上島が見る最初のものだった。
――――朔。
外の世界で聞いた初めての言葉。欠けることのないもの。満腹と飢餓を併せ持つような、まるで真逆の物体。それは表裏一体で、決して離れることはない。
――――朔だわ。この子は、勇朔にしましょう。
天の恵みのような、満ち足りた声だった。女神のようなその手は、静かに上島を抱き上げた。白く柔らかな手が頬をくすぐり、淡く笑う。上島は外の世界を知った。受け入れようと、拒絶しようと、どちらにしても、この世界からは逃れられない。もう、あそこに帰ることは出来ないのだから。
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