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第五章

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 吹く風に、湿り気を感じる。

 街往く人々は、上着の首元をしっかりと閉め、足早に歩いていた。

 その中を、イルティアも歩いていく。ただ、上着も着ずに邸を出てしまった。羽織るものすら持ってきていない。

 それでも、不思議と寒さを感じなかった。ひたすらに足を動かしていた。イルティアは、真っ直ぐリュクスの別邸を目指す。

 作りかけの宝飾品を見たかったのだ。あれには、自分の想いが詰まっている。見ればきっと、乱れた感情を落ち着かせてくれる気がした。

 だが、辿り着くより前に、ポツリと滴が頬へ当たった。それが呼び水になったかのように、後から後から雨が降ってくる。

 激しく雨粒が体へ叩きつけるようになる頃、イルティアは足を止めた。

 頭を冷やしたかった。だから、ちょうどいい。そんなことを思った。

「……」

 耳に入る雨音が心地いい。まるで、全てを流してくれているかのようだった。いまだ落ち着かない心の内の、その何もかもを。

 ただ、体温が徐々に奪われていくのも感じた。指先が氷のように冷え込んでいき、知らずに体が震える。

 だがそれでも、イルティアは動かなかった。どれだけ経っても……動けなかった。自分の感情すら、分からないままだったから。

 何に対して、自分が今、どう思っているのか。それすら見つけ出せない。

 見つける術すら、分からない……。

「……」

 どれくらい経ったのだろう。不意に、彼女のすぐ横をすれ違うようにして馬車が通る。それは、彼女の後ろでいきなり停まった。そこから人が顔を出す。

「ティア!」

 声に、振り返る。イルティアが首を傾げた。

「リュー……?」

 見知った相手の声に、反応を示す。その頃には、リュクスが馬車から降りてくるところだった。彼は、彼女の手を掴み抱き寄せると、守るように肩へ腕を回した。

「なんでこんなところに……とにかく馬車へ」

 半ば無理矢理連れていき、馬車に乗せる。中にいたフォンが、驚く声を上げる。

「まあ! 奥様、どうして……とにかく、こちらをおかけになって」

 彼女に手渡されたショールをイルティアに被せる。彼はそのまま、フォンへと指示を出す。

「すまない、今日の予定は別日にしてくれ」
「承知しました。先方にはそのように」

 その言葉に、イルティアが顔を上げる。

「これから商談だったのね。ごめんなさい、私、もう帰るから」
「そうはいかない。こんな状態で戻せるわけないだろう」
「大丈夫よ。邸まではすぐだから……」

 そう言った彼女の両肩を掴み、リュクスが真っ直ぐ見つめる。

「距離を言ってるんじゃない。そんな不安定な状態で、一人に出来ないと言ってるんだ」
「…………」

 瞬間、じわりと瞳が滲んだ。イルティアが、慌てて顔を伏せる。知らずに溢れそうになる涙を、必死で堪える。

 リュクスは、そんな彼女を強く抱き締めた。

 それはまるで、今にも消えそうな灯火を守るかのように。

*  *  *

 邸に戻ってきて、早々に彼女を侍女へ預けた。自身も着替えを済ませ、書類を手にして部下へ声をかける。

「フォン、さっきは助かった。先方からの返事はあったか?」
「ええ。ちょうど数日後に予定が空いていたので、そちらにして欲しいと仰られました」
「わかった。今日はもう、君も戻っていい」
「有難うございます」

 そうは言ったものの、彼女は動かない。リュクスが首を傾げる。

「どうした?」
「あ、いえ……あの、奥様は大丈夫でしょうか」

 問いに、彼は窓へ視線を向けた。外は変わらず、雨足が強かった。それを見ながら口を開く。

「そうだな……。医師には、休ませれば回復すると言われたが、ずいぶん憔悴しているようだった。ある程度、時間が必要かもしれない」
「……何があったのでしょう」
「さあな。ただ、ここにいる間は俺が見てるから、安心していい」

 返された言葉に、フォンが瞳を瞬かせる。そしてすぐ、クスリと笑った。

「オーナー、まるで恋人を守るような台詞ですね」
「そう聞こえたなら、光栄だ」

 軽く笑う彼に、フォンも柔らかい笑みを作る。間を置いて、彼女はその部屋を後にした。

「…………」

 しばらく書類を見ていたが、じきに落ち着かなくなり、彼も部屋を出ていく。真っ直ぐ向かったのは、イルティアがいる客間。医師に診せた後、彼女はそのまま帰ろうとした。それを引き留め、迎えが来るまでは、と強引に押し込んだのだ。

 扉を叩くが返事がない。不思議に思い、一言断りを入れて、中に入る。彼女はベッドで眠っていた。

 疲れていたのだろうか。そっと近づき、小さく声をかける。

「ティア……」

 だが、様子は変わらない。ただ、心無しか、先程以上に穏やかな表情に見える。ホッとして手を伸ばしかけて、止めた。

 けれど、一拍置いて、躊躇いがちに頬へ触れる。

 伝わる温もりに、指を滑らす。直後、部屋の扉が控えめに叩かれた。

 振り返ると、邸の使用人が頭を下げている。

「何かあったか?」
「シュヴァーユ公爵閣下が参られました」
「そうか。今行く」

 リュクスは、再度イルティアに目を向け、そしてすぐ、その場を後にした。

 
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