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第壱章

 四、お仕事

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 くだらない話が延々と続いている。
 話している本人はそんなつもりはないし寧ろ大切な内容なのだろうが、聞いている相手が悪かった。
 半分自慢話を上総は、欠伸を堪えるのに必死で殆ど聞いていない。右の耳から左の耳へ抜け出て、脳をぐるりと巡ることなく依頼人の声は外へポイッと押しやられてしまっていた。
 上総の目の前に座る中年の男は、恰幅が良いが、目の下に真っ黒い隈がしっかりと出来上がり、そのよく肥えた腹に似合わず頬骨が浮き彫りになっていた。
 ヘンテコな体格に頭部は禿げ上がり、側頭部に白髪が数える程度。
 歳は五十代だが、どうしてもそれ以上に見えてしまうのは気のせいではない。
 顔色も土気色で良ろしくない。
 汗も暑さのせいばかりではないだろう。
 彼にはそうなる原因があった。
 『絶対に俺には悪霊が取り憑いているんだ! 早く祓ってくれ!』
 と、いうのが彼の依頼内容。
 確かに陰陽師の上総の眼には依頼人の男の回りに、どす黒いモヤモヤしたものが付き纏っている。それは上総には見えるが、依頼人は見えていない。大抵の人間は見えないであろう。
 見えていないが悪寒があるのか気配を感じるのか、頻りに後ろを振り向いている。
 上総の後ろでは、白い犬のような妖怪のが震えていた。
 このすねこすり、妖怪のくせに怖がりで、怖がりのくせに怖いもの見たさに上総の足元にちょこちょこ着いて来ては、こうして震えている。はたして依頼人の男に震えているのか、その後ろの怨念の塊に震えているのか。
 そんなすねこすりを苦笑して、上総は依頼人の話を止めた。
 『それで……具体的に、どのようなことが起きているのですか?』
 男は嫌な顔をした。
 きっと散々話していたのだろうが、要領を得ないし、陰陽師は聞いてもいない。
 『は? いや、あの、だから……』
 汗が出る。
 額に光る汗を拭く。
 暑い。
 夏だから暑い。
 当たり前だ。
 外では五月蝿く蝉が大合唱している。
 暑さで苛々してくる。
 明らかに男は苛立っていた。
 『金融会社の社長をしているのだが、最近めっきり運が悪い。社員は自殺するわ、行方不明になるわ、事故を起こすわ……仕舞いは社内でも問題も起きる。社員は怪奇現象が起きていると云っているが、儂が目撃したことは一度足りとて無い』
 『改善策は?』
 『は? 何を云っている。改善策も何もあったもんじゃないだろ? 自殺も姿を消すも事故を起こすも社員個人の問題だ、会社がどうこうのするものじゃない』
 憤慨している。
 『自殺は何が原因ですか? 事故は? 何故行方不明になったのですか? 連絡はしましたか? ここより先に警察に行くべきなのでは?』
 上総の畳み掛ける質問に男の顔はみるみるうちに茹で蛸になっていった。
 『お前、会社が悪いとでも云いたいのか?』
 『会社は悪くない、と思います』
 『フン。そうだ、会社は悪くない』
 『そう。悪くないですが、悪いのはです』
 悪意は勿論無い。
 男はあんぐりと口を開け、まじまじと信じられないものを見るかのように上総を見た。
 『ふ、ふ、ふざけるなっ、あいつらが仕事が出来ない頭も悪い使えない奴等ばっかりで、商売が上がったりなんだ。被害者はこっちだ!』
 怒鳴りテーブルを力任せに叩いた。
 湯呑みが倒れ、お茶が流れる。
 『そう云いますが、社員さん達に限らず、貴方はお客様に対しても心無い言葉を浴びせているのではありませんか?』
 背後のどす黒い靄は次第と輪郭を露にし、ユラユラと揺れながら生前の姿を取り戻していく。
 この地の霊力がの者達に力を与えているのだろう。
 男の背後の無数の人が上総に訴えている。
 ユラユラ、ユラユラ。
 言葉は無い。
 ユラユラ、ユラユラ。
 無いが、苦悶の表情。
 ユラユラ、ユラユラ。
 無いが、悔し涙。
 ユラユラ、ユラユラ。
 無いが、怨んでいる。
 ユラユラ、ユラユラ。
 それらが成仏を拒み、男を呪おうと躍起になっていた。
 しかし、それでも儚げで風がひと度吹いてしまえば、甲高い悲鳴を上げて吹き飛ばされてしまいそうだ。
 それが上総は哀しかった。
 哀しくて寂しくて、どうにかしてやりたい。
 『お前……』
 彼等ばかり気を取られ、生身の人間を気にしていなかったせいか、男の怒りが頂点に達したらしい。
 茹で蛸のように顔を真っ赤にさせ、身体を震わせ今にも上総に飛び掛かり胸ぐらを掴みそうだ。
 『人が下手したてに出てやってるからイイ気になりやがってっ!』
 男が勢いよく立ち上がると恐怖で混乱したすねこすりが、きゅぅぅ、と哭くや否や男の脛に向かって突進した。
 『あ、すねちゃん?』
 脛に頭突きを思いきり喰らった男は体勢を崩し、テーブルに顔面を打ち付けながら倒れてしまった。
 普段モフモフなのだが、混乱すると硬化してしまうのがだ。相当痛かったであろう、脛が。
 『ああ……』
 上総は見ていられず手で目を覆った。
 『いたた……な、なんだ? 何かがぶつかって来たぞ?』
 涙目で脛を擦りながら足許を見るが、男の目では目の前のすねこすりの姿を見ることは出来ない。
 申し訳なさそうに啼いているすねこすりは、短い足をせかせかと動かして上総の後ろに隠れた。
 『大丈夫ですか? ずっと座っていたので、足が痺れてしまったのでは?』
 顔面を打ったからか、先程の激怒は急速に沈下して不思議そうに脛を擦っている。
 『もういい、こんなガキに身の上相談なんかすべきじゃなかったんだ。もっとまともな所に行く』
 もう一度立ち上がると、ブツブツ何事かを呟きながらさっさと襖を開けて客室を出て行ってしまった。
 『あぁららぁ、お客さん逃がしちゃったの?』
 男が出て行った襖とは反対の襖で、声の低い女が開けながら上総に声を掛けた。
 桃色の現代風の色合いの着物を着た、おかっぱ頭がよく似合う女だ。
 化粧もバッチリと施し肌も綺麗で手入れに事欠かさないのだろう、美人の類いだ。
 しかし、耳が通常の人間より尖っているのは、人間ではない証拠である。それ以外はどこからどう見ても人間としか見えない。
 『右京、盗み聞き?』
 『あら嫌だ、アタシはカズちゃんに危険が及ばないようお客人の監視をしてただけよ』
 腰をクネクネくねらせ、上総に抱き付いた。
 『物怖じしないカズちゃんって素敵だけど、もうちょっと家計を考えてあげて頂戴。綾乃さん大変よ、遣り繰り』
 『そうは云うけど、苦手なんだよ。占術なら良いけど、霊を祓うのは』
 依頼人に憑いていた霊は少なからず、依頼人に非がある。それを考えると、どうにも生きた人間にではなく霊側に肩入れしたくなってしまうのだ。宜しくない考えであるのも理解しているが、物心付いたときから妖怪や幽霊に慣れ親しんで来た上総にとって、何を考えているのか分からない生きた人間よりも、より親しみを感じてしまう。
 『もう、適当に祓う真似事して、あとはアタシ達に命令をすれば済むじゃない。結果的に解決するんだから』
 『おお、その手があったか!』
 右京の提案に感心した上総だったが、そんな二人の頭を激しく叩く人物によって盛り上がった会話が一撃で沈下してしまった。
 『依頼人を騙すなど、もっての他よ! 恭仁京の名に泥を塗るつもり?』
 上総のスケジュール一切を仕切る藤堂美嘉もまた着物を着ているが、右京とは違って薄い緑に申し訳程度の花模様が描かれた生地は、まだ二十代と若い美嘉には大分渋い。
 黒髪を後頭部で一つに纏め、化粧も申し訳程度。
 誠実さが求められるこの場に於いて、最も信頼の置ける人物に見えるであろう。事実、美嘉は誰よりも恭仁京を重んじている。
 それは当主である上総には特に厳しい人物となった。
 『それに依頼主を怒らせて帰すなんて、上総、当主としての自覚が足りないようね?』
 『自覚――ならありますよ。あるけど……』
 そう云うなら、恭仁京家当主としての仕事をさせて欲しい、が上総の本音なのだ。
 仕事の内容に優劣を付けたくはないし、それは依頼主に対して失礼に当たるのは重々承知しているのだが、昨今の大老會の動きは上総から見ても明らかに怪しい。
 それで多少なりとも上総は苛立ちを覚えているのは確かで、八つ当たりではないが、たまたま依頼してきた人間に雑な対応をしてしまったのは自身も反省はしている。
 勿論その態度が矛盾しているのも分かっているのだ。
 『左京、そこにいる?』
 くうに向かって上総は声を発した。
 気配はあるが、普段は姿を見せない存在。
 はい――と低い落ち着いた声が何もない空間から聞こえると、そこに上総は続けた。
 『左京、悪いんだけどさっきの依頼人の護衛をお願いしたい』
 『――……』
 黙ってしまうことは承知している。
 眉間に皺を寄せる姿も想像に難しくない。
 烏天狗の左京は恭仁京が誕生した時から人間の一族である恭仁京に仕える、珍しい妖怪なのだ。
 彼は恭仁京の当主には忠実ではあるが、他者を決して受け入れない。ましてや、護衛なんてもっての他であろう。
 『嫌なのは分かっているよ』
 何故左京は恭仁京家に忠誠を誓ったのか、彼は頑なに口にすることはない。大老會もきっと理由を知らないであろうが、脈々と受け継がれる歴史を唯一その二つのまなこに刻んでいるのが、左京なのだ。
 大老會も一目を置いている。
 そんな左京を上総も信頼しているし心強いと思って、何かと頼ってしまうのだ。
 恭仁京のため、と言の葉にしてしまえば左京が否と云えないことも知っている。狡いとは思うが、人一人の人間のため、上総は左京に頼んだ。
 どんな人物であろうと、恭仁京を頼って来たのだから応えなくてはならない。
 万が一間に合わない事態に発展してしまったら、寝覚めも悪い。
 左京は渋々、自解して気配を消した。
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