上 下
106 / 127
【第十六章、空を飛ぶ獣鬼】

16-2

しおりを挟む
 次の生徒会の日、部屋にいたのは二人だけだった。
 すなわち、皇女フェリシアと、その従者クラリサだ。
「他のみなさんは?」
「今日は出払っておりますわ」
 そう言った声が、弾んで聞こえたのは、気のせいではなかった。
「ここ最近、人生における一大事とか、ございましたか?」
 何が楽しいのか、笑いをこらえながらそう言ったのだ。
 そばで直立するクラリサを見たが、呼吸すら感じられない。もはや、よく出来た人形だ。
「色々謎なんですけど――。もし良ければ、理由を教えてもらうことってできますか?」
「何のでしょう」
「婚約の破棄を指示した理由です」
 すると彼女は大仰に両手を広げた。
「人聞きが悪いですわ。そのような他人の込み入った事情に、わたくしが関与できるはずございませんわ。テューダーのご令嬢が、自ら申し出たのです。ねえ、クラリサ」
 ねえ、と同意を求めたはずだが、呼ばれたほうは微動だにせず、言った本人もすぐに次の言葉をつないだ。
「とはいえ、婚約を破棄されたことはお気の毒でしたわ」
 言葉とは裏腹に、いたわる気配がまるで感じられない。
 彼女はソファの中央あたりに座っていたが、腰を上げて、一人分端に寄り、今までの場所をそっと叩いた。
「よろしければ、こちらにどうぞ」
「いえ、オレは平民ですから――」
 ただの社交辞令だろうと、すぐにそう返すと、相手からは、それまでの笑顔が消えた。
「座りなさい。これは命令――いえ、お願いですわ」
 いったい、何を怒ることがあっただろうか。
 仕方なく、長椅子の端に浅く腰かける。外観からそうだろうと思っていたが、座面の座り心地に驚いた。
 生地の肌触りを確かめていると、いつの間にか、皇女の顔がすぐ近くにあって、ぎょっとした。
「あの――」
「今、どういうご気分なのですか」
「気分、ですか?」
「婚約を破棄したことについてです」
「そうですね――残念、です」
 それが正直な気持ちだった。
 だが、彼女はその答えに、再び口元を緩める。笑顔になったというより、愉悦に打ち震えているようだ。
「やはり、アンナリーズが罪を犯した人間だから、でしょうか」
「何のことです?」
「その、今回の処分というか、何というか」
「まさか。刃物もろくに使ったことない娘の、可愛らしい悪ふざけくらい、何でもありません。現に、あなた方お二人が会うことには、何の制約もつけておりません」
 それは確かに、奇妙に感じていた。
「大公家のご息女と同室になったのは偶然なのでしょうか」
 どうせはぐらかすのだろうと、あまり期待せずに尋ねたが、今度の返事に、椅子から落ちそうになった。
「それについては、あの二人双方に対する嫌がらせに決まっていますわ」
 何だって?!
 聞き間違いだろうか。
 そもそも、アンナリーズはともかく、アクスレイ家にどんな恨みがあるというのか。
 そして、フェリシアは聞いてもいない答えを返してきた。
「アクスレイのご令嬢とは、りが合いませんの。あの方は、ひと言、田舎貴族なのです。スカートをこれ見よがしに短くして、服も香水のセンスも下品で、それでいていつも尊大で不機嫌。それですのに、帝国に金銭的に依存するきらいがあるのです」
 その言い様は、女子生徒同士がいがみ合うというレベルではなかった。
 ただ、これまで、彼女に見え隠れしていた奇妙な感覚の、理由の一つが明確になった気がする。
 普段は制服に惑わされてしまいがちだが、フェリシアの中には、次期皇帝という一面が、血の一滴にも刻まれていて、それが無意識のうちに、瞬きや呼吸の中に表現されているのだと思う。
 皇女もなめられたものです、と言ったことも、アンナリーズと会うことに制約はつけていない、という発言も。学生の間は対等に接したいという願望とは真逆の、支配者の考えだ。
「わたくしのこと、見そこないましたか?」
 まるでレーヴを試すかのように、軽やかにそう言った。
「いえ……。正直だな、というより、びっくりするくらい、裏表がないんだなって思いました」
 アンナリーズもその意味では同類だが、向こうはあどけなさが残り、フェリシアは、いわばむき身の刃物だ。
「いい答えです。あなたも同じように胸の中にあることを吐き出してほしいものです」
 数々の嫌がらせは、アンナリーズを婚約破棄へと導くためだったのかもしれない。ただ、その最終目的地に、皇女にとってどんな得があるのか、今も不明だ。
「彼女に恨みはない、さっきそう言われたのだと思うんですけど――。だったら、今回の決定にはどういう意味があるんでしょう」
 できればこの機会に彼女に付随する疑問を可能な限り解消したい。そんな単純な希望だったが、相手は罠にかかった獲物を見るような輝きを、その鴇色の目の中に宿した。
「聞きたいですか?」
「え、ええ、可能であれば」
「いいでしょう。では、その対価としてわたくしにキスなさい」
「え――。今、何と」
 だが、それ以上、言うことはできなかった。
 彼女が座ったまま、滑るようにそばに寄ったかと思うと、レーヴの背中とソファの隙間に手を入れ、覆い被さるように顔を近づけたのだ。
 拒否する間もなかった。
 そばにクラリサがいるはずなのに、まるでそれが当然とばかりに、唇を合わせた。
 アンナリーズと違っていたのは、今回は、口の中で何か軟体動物のような感覚があったことだ。
 息が苦しいと感じ、ずっと呼吸を止めていたことに気づいたとき、すでに視界は開けていて、フェリシアは、すぐ隣で顔を上気させ、姿勢を正していた。
 はっとして、そばにいたはずの従者を探すと、クラリサはいつの間にか、窓際でレースのカーテンを閉めているところだった。
「テューダーの娘とは、こういうこと、したことはあるのですか?」
 意識が混濁している。今ならすべての指示に無条件に従ってしまいそうだ。
「はい、つい最近ありました」
 危うくそう答えそうになったところで、わずかに理性が戻った。
「そ、そんなことより――。いったいどういうつもりなんですか?オレなんかと――」
「それは平民、という意味ですか?」
「それも……あります」
「でしたら、何の問題もございません。あなたが望めば、準男爵にする程度、造作もないことなのですから。あのとき、恩赦を言い出さなければ、そうなっていたはずでした」
 その言葉には、なぜか悔しさがにじんでるように聞こえた。
「だとしても、もっと高位の貴族の方たちが――」
「やめてくださいっ」
 これまでになく、激しい口調で、その表情は、心から嫌悪感を示していた。
「わたくしは、生まれついたときから、この身を国に捧げることを定められているのです」
 フェリシアは再び体を寄せると、皇室の印が刻まれた、華やかな装飾の懐剣かいけんを手にした。
「このナイフの意味をご存じですか?」
「ええ――。何となくですが」
「皇女としての存在価値の半分以上は、国を安定させるため、近隣諸侯と姻戚になることにあります。相手がどれほど醜悪な人間であっても、わたくしは笑顔で相手を迎え入れることができますわ。それがルーシャの狂人であったとしても、です」
「――お覚悟に深く敬意を表します」
「心から自由に、感情のおもむくままに過ごせるのは、学園にいる、この四年間だけなのです。せめて今だけ、気になるお相手に、多少のわがままをぶつけることは、それほど罪でしょうか」
「オレなんかにそんな価値があるとは――」
「どうしてそんなに謙遜するのですか。シルバーオークに襲われたとき、絶望の淵にいたわたくしを救ってくれたのは、紛うかたなき、あなたではないですか。それだけではない。他の生徒たちが、打算でわたくしに近づく中、なぜかあなたはわたくしに心を開こうとしない。そんな男子に心惹かれることは、年頃の女子として、自然ではないですか?」
 面と向かって、好意をぶつけられることには慣れていなかった。
「ええと。オレを部下にしたいってことなんでしょうか」
 どうにか事務的な話題にしたかったが、相手の答えは想定より歪んでいた。
「それは理想的ですわ。わたくしの望むままになって下さる、ということでしょうか」
「いや、そういうわけでは……。そ、そうだ。オークとの対戦の秘密を知りたいのでは――」
 そこまで言ったところで、彼女は、顔をそれまでより赤くして目線をそらせた。
「あのときの失言を持ち出して、恥をかかせたいのですか?」
「ち、違います。アンナリーズとの関係は、これまで通り続けても構わないとか、色々とわからないことだらけで――」
 その問いかけへの答えに、フェリシアがもはや普通の人間とは違う次元にいることを思い知らされる。
「それについては簡単ですわ。恋仲にある男を振り向かせる背徳感ほど甘美な状況は、この世界に存在しないのですから」
 目を見据えてそう言ったのだ。
 婚約を破棄させたのは、仮にも国を治める者として、大っぴらに法を破るわけにはいかないから、という程度の理由だという。
 頬を紅潮させている彼女は、再び、その体温を感じさせるほどに体を寄せた。
「ちょ、ちょっと待って下さい」
 この部屋には、三人目の人間がいることを忘れているのではないか。
 離れた場所にいた従者に目をやると、フェリシアは事もなげにこう答えた。
「クラリサには、信頼の証として、わたくしのすべてをさらけ出しています。自慰や、排泄でさえも、です」
 ただの変態じゃないか!
 人の上に立つ人間は、失うものが多すぎる。ほとんど新興宗教だ。
 特殊な教義を前に、胸の中には恐怖心しかなかった。
 どうにかこの場から逃れなければ――。
 だが、ほんの数日前、初めて恋愛の真似事をしたような子供が、女の側を怒らせないような方便など、持ち合わせているはずもない。
「オレはアンナリーズを裏切ることはできません」
 それしか道がなく、直球を投げる。
 その言葉が相手にさらなる力を与えてしまうなどと、誰が想像できただろう。
「素晴らしいですわ。そうでなくては」
 目を潤ませて答えたあと、何かに陶酔しているかのように続けた。
「あなたの人生に、素晴らしい格言を授けて差し上げますわ。事象は、他人に伝達されたとき、始めて事実となるのです。語られない出来事は、存在しないことに同義なのです」
 つまり、黙っていれば何をしてもいいと?
 皇女の前では、善悪の概念すら希薄になる。
 視界の端で、クラリサが入り口へと移動し、扉の前でまるで門衛のように背中に手を当て、直立するのが見えた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

辺境伯家ののんびり発明家 ~異世界でマイペースに魔道具開発を楽しむ日々~

Lunaire
ファンタジー
壮年まで生きた前世の記憶を持ちながら、気がつくと辺境伯家の三男坊として5歳の姿で異世界に転生していたエルヴィン。彼はもともと物作りが大好きな性格で、前世の知識とこの世界の魔道具技術を組み合わせて、次々とユニークな発明を生み出していく。 辺境の地で、家族や使用人たちに役立つ便利な道具や、妹のための可愛いおもちゃ、さらには人々の生活を豊かにする新しい魔道具を作り上げていくエルヴィン。やがてその才能は周囲の人々にも認められ、彼は王都や商会での取引を通じて新しい人々と出会い、仲間とともに成長していく。 しかし、彼の心にはただの「発明家」以上の夢があった。この世界で、誰も見たことがないような道具を作り、貴族としての責任を果たしながら、人々に笑顔と便利さを届けたい——そんな野望が、彼を新たな冒険へと誘う。 他作品の詳細はこちら: 『転生特典:錬金術師スキルを習得しました!』 【https://www.alphapolis.co.jp/novel/297545791/906915890】 『テイマーのんびり生活!スライムと始めるVRMMOスローライフ』 【https://www.alphapolis.co.jp/novel/297545791/515916186】 『ゆるり冒険VR日和 ~のんびり異世界と現実のあいだで~』 【https://www.alphapolis.co.jp/novel/297545791/166917524】

祝・定年退職!? 10歳からの異世界生活

空の雲
ファンタジー
中田 祐一郎(なかたゆういちろう)60歳。長年勤めた会社を退職。 最後の勤めを終え、通い慣れた電車で帰宅途中、突然の衝撃をうける。 ――気付けば、幼い子供の姿で見覚えのない森の中に…… どうすればいいのか困惑する中、冒険者バルトジャンと出会う。 顔はいかついが気のいいバルトジャンは、行き場のない子供――中田祐一郎(ユーチ)の保護を申し出る。 魔法や魔物の存在する、この世界の知識がないユーチは、迷いながらもその言葉に甘えることにした。 こうして始まったユーチの異世界生活は、愛用の腕時計から、なぜか地球の道具が取り出せたり、彼の使う魔法が他人とちょっと違っていたりと、出会った人たちを驚かせつつ、ゆっくり動き出す―― ※2月25日、書籍部分がレンタルになりました。

母親に家を追い出されたので、勝手に生きる!!(泣きついて来ても、助けてやらない)

いくみ
ファンタジー
実母に家を追い出された。 全く親父の奴!勝手に消えやがって! 親父が帰ってこなくなったから、実母が再婚したが……。その再婚相手は働きもせずに好き勝手する男だった。 俺は消えた親父から母と頼むと、言われて。 母を守ったつもりだったが……出て行けと言われた……。 なんだこれ!俺よりもその男とできた子供の味方なんだな? なら、出ていくよ! 俺が居なくても食って行けるなら勝手にしろよ! これは、のんびり気ままに冒険をする男の話です。 カクヨム様にて先行掲載中です。 不定期更新です。

チート幼女とSSSランク冒険者

紅 蓮也
ファンタジー
【更新休止中】 三十歳の誕生日に通り魔に刺され人生を終えた小鳥遊葵が 過去にも失敗しまくりの神様から異世界転生を頼まれる。 神様は自分が長々と語っていたからなのに、ある程度は魔法が使える体にしとく、無限収納もあげるといい、時間があまり無いからさっさと転生しちゃおっかと言いだし、転生のため光に包まれ意識が無くなる直前、神様から不安を感じさせる言葉が聞こえたが、どうする事もできない私はそのまま転生された。 目を開けると日本人の男女の顔があった。 転生から四年がたったある日、神様が現れ、異世界じゃなくて地球に転生させちゃったと・・・ 他の人を新たに異世界に転生させるのは無理だからと本来行くはずだった異世界に転移することに・・・ 転移するとそこは森の中でした。見たこともない魔獣に襲われているところを冒険者に助けられる。 そして転移により家族がいない葵は、冒険者になり助けてくれた冒険者たちと冒険したり、しなかったりする物語 ※この作品は小説家になろう様、カクヨム様、ノベルバ様、エブリスタ様でも掲載しています。

全能で楽しく公爵家!!

山椒
ファンタジー
平凡な人生であることを自負し、それを受け入れていた二十四歳の男性が交通事故で若くして死んでしまった。 未練はあれど死を受け入れた男性は、転生できるのであれば二度目の人生も平凡でモブキャラのような人生を送りたいと思ったところ、魔神によって全能の力を与えられてしまう! 転生した先は望んだ地位とは程遠い公爵家の長男、アーサー・ランスロットとして生まれてしまった。 スローライフをしようにも公爵家でできるかどうかも怪しいが、のんびりと全能の力を発揮していく転生者の物語。 ※少しだけ設定を変えているため、書き直し、設定を加えているリメイク版になっています。 ※リメイク前まで投稿しているところまで書き直せたので、二章はかなりの速度で投稿していきます。

【完結】【勇者】の称号が無かった美少年は王宮を追放されたのでのんびり異世界を謳歌する

雪雪ノ雪
ファンタジー
ある日、突然学校にいた人全員が【勇者】として召喚された。 その召喚に巻き込まれた少年柊茜は、1人だけ【勇者】の称号がなかった。 代わりにあったのは【ラグナロク】という【固有exスキル】。 それを見た柊茜は 「あー....このスキルのせいで【勇者】の称号がなかったのかー。まぁ、ス・ラ・イ・厶・に【勇者】って称号とか合わないからなぁ…」 【勇者】の称号が無かった柊茜は、王宮を追放されてしまう。 追放されてしまった柊茜は、特に慌てる事もなくのんびり異世界を謳歌する..........たぶん….... 主人公は男の娘です 基本主人公が自分を表す時は「私」と表現します

貴族に生まれたのに誘拐され1歳で死にかけた

佐藤醤油
ファンタジー
 貴族に生まれ、のんびりと赤ちゃん生活を満喫していたのに、気がついたら世界が変わっていた。  僕は、盗賊に誘拐され魔力を吸われながら生きる日々を過ごす。  魔力枯渇に陥ると死ぬ確率が高いにも関わらず年に1回は魔力枯渇になり死にかけている。  言葉が通じる様になって気がついたが、僕は他の人が持っていないステータスを見る力を持ち、さらに異世界と思われる世界の知識を覗ける力を持っている。  この力を使って、いつか脱出し母親の元へと戻ることを夢見て過ごす。  小さい体でチートな力は使えない中、どうにか生きる知恵を出し生活する。 ------------------------------------------------------------------  お知らせ   「転生者はめぐりあう」 始めました。 ------------------------------------------------------------------ 注意  作者の暇つぶし、気分転換中の自己満足で公開する作品です。  感想は受け付けていません。  誤字脱字、文面等気になる方はお気に入りを削除で対応してください。

全校転移!異能で異世界を巡る!?

小説愛好家
ファンタジー
全校集会中に地震に襲われ、魔法陣が出現し、眩い光が体育館全体を呑み込み俺は気絶した。 目覚めるとそこは大聖堂みたいな場所。 周りを見渡すとほとんどの人がまだ気絶をしていてる。 取り敢えず異世界転移だと仮定してステータスを開こうと試みる。 「ステータスオープン」と唱えるとステータスが表示された。「『異能』?なにこれ?まぁいいか」 取り敢えず異世界に転移したってことで間違いなさそうだな、テンプレ通り行くなら魔王討伐やらなんやらでめんどくさそうだし早々にここを出たいけどまぁ成り行きでなんとかなるだろ。 そんな感じで異世界転移を果たした主人公が圧倒的力『異能』を使いながら世界を旅する物語。

処理中です...