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【第一章、コベロス村】

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 彼女が再び姿を見せて間もなく、馬車はコベロス村を離れた。
 後席近くに寝かされていたジルドを避け、乗客の多くは前方に陣取った。
 その曹長は、痛み止めの薬を飲んだらしく、決して寝心地が良さそうには思えない、板の上で深い寝息を立てている。
 彼のそばにカトリアとレーヴが座り、その近くで、行商人とおぼしき人間が二人、煙草をくゆらせながら、今の戦争について真剣な表情で意見を交わしていた。
 どうやら、王都が陥落したことは、まだ伝わっていないようだ。
 カトリアは、しばらく彼らの議論に耳をすませていたが、やがて車内を確認して、レーヴの耳元に口を寄せた。
「キミの連れ合いはどうした」
「あー……。あの人とは、村の入り口で会っただけの仲なんですよね」
「そう、か」
 もっとましな言い訳ができなかったのかと、発想の貧困さに嫌気が差したが、彼女はそれっきり、その話題を持ち出すことはなかった。
「ところで、キミの腕前はただ者ではなかったな。いったいどこで学んだんだ。もしよければ師の名前を教えてもらえないだろうか」
「師、ですか……。実は、あの夜は、ただ必死だったんですよ。剣術を習ったことはありませんし、次に同じ場面になったら、きっと、あっさりやられてしまうと思います」
 霊石の効力で、今は重力制御を使うことができず、すなわち、あの剣技は再現できない。
 ひと言も嘘はなかったにも関わらず、相手は不満げな表情に変わる。
「さっきもそうだが――つまり、私は信用されていない、ということか。ただ必死なだけで、何の技術もない人間が、シルバーオークを倒すことなど、できるはずないじゃないか。それでは、足がすくみ、冷静さを失った私の立場がない」
 そう言って、口を尖らせた。
 部屋からもほとんど出ることのなかったレーヴだ。獣鬼と対峙したことはもちろん、模擬戦闘の経験もなかっただろう。恐怖心が起きる下地がなかった、というのは、理由の一つかもしれない。
 偶然とはいえ、一度オークと戦闘していたことや、ルノアの言った通り、スタイルが他人と違っていたことも、功を奏したのだと思う。
 いくつかの幸運が重なった結果だ。
「少尉は十分に勇敢でした。無条件に背中を預けられますよ」
 長い時間ではないが、これまで目にした彼女の言動を見ても、それは明らかだ。若くして小隊長になれたのは、血筋というよりは、本人の努力の結果に違いない。
「ウソでも、そう言ってくれることはありがたいものだな」
 本心であることが相手にも伝わったのだろう、ほっとしたように頬を緩めた。
 それから、カトリアは身の上話を始めた。
 家は代々辺境伯で、王国に隣接する場所を任地としているらしい。
 ここ十年ほどは落ち着いた関係が続いているが、国境を長く接する隣国だ。長い歴史の中で、二つの国は何度も紛争を起こしていた。
「今、王国を侵略しているのは、どこの国か、ご存知だったりしますか?」
 そう言うと、彼女は申し訳なさそうに、首を二度振った。
「戦闘に特化したソーサラーの数だけでも、ゆうに百人を超える。戦を仕掛けるとなれば、それがたとえ帝国であっても、国家の存亡を代償とする決断になる。そんな大陸一の強国に、挑む国も、その勝算の根拠もまるでわからない」
 帝国が得ている情報によれば、侵略者は軍旗を掲げていないそうだ。すなわち、本国を知られることを恐れているか、あるいは傭兵部隊の可能性もあるとのことだった。
 簡単に撃退されると、誰もがそう考えていたが、実際には半年を超える長い戦いになった。
 敵がソーサラーを壊滅させたのは、間違いなく、アンテマジックを入手したあとだ。ただ、それまでは、通常戦力だけで王国に挑んでいたことになる。
 帝国の軍事力をもってしても困難な作戦をいったいどうやって遂行していたのか。
 待てよ。通常戦力――?
 何かの違和感を覚え、幸運にも、それを解消できそうな手がかりがすぐに与えられた。
「不気味なのは敵国だけじゃない。コベロス村に獣鬼が頻出するようになったことだって異常事態だ。まるで王国の戦力を分散させようとしているかのようだ」
 カトリア自身は、その答えを持っていないらしく、表情を曇らせた。
「それは――説得力がありますね」
 獣鬼は、特にオークあたりは、普通に暮らしている人間が遭遇することは、一生に一度あるかどうかというのが通念だ。
「黒灰石は、在り処が偏在しているらしく、地域によっては頻繁に遭遇することも珍しくないと聞くが――。あのあたりがそうであったことは、かつてなかったはずなのに」
 もし、この状況が人為的に作られたのだとしたら?多数の獣鬼を集め、王国に解き放てば、どうなるだろう。
「カトリアさんを前にして言うのも何ですけど、矢面に立っていたのが傭兵だったとしても、黒幕は帝国ということはありませんか?歴史的な経緯を考えるまでもなく、潜在的な敵国ですし、戦力を考えても、それしか解を導けないんです。軍旗を隠していることへの説明にもなりますよね」
「それはないな。エトルリア併合のあと、かれこれ二十年、衝突がない。それに、越境するには父の領地を通ることになるが、そんな大部隊を見たという報告がない――」
 彼女はそこまで言ったところで、何かに気づいたように、レーヴをじっと見つめた。
「何かおかしなことを言いましたか?」
「いや、逆だ。その理路整然とした思索や物言い。剣の腕前もそうだが、キミはどこかで立派な教育を受けてきたのではないか?」
「いやー……学校に通ったことはないですね」
 それはウソではない。王宮内にいたのは家庭教師だ。
「そうか――。王国では、かなりの家柄でなければ就学できないと聞くからな」
 彼女はと口元に手をやり、しばらく思案していたが、やがてレーヴに向かって座る向きを変えた。
「優秀な人間を、ただ放置しておくのは、国としての損失だ。どうだろう、もしキミがその気なら、父経由で、口利きしてやれると思うが」
 それから彼女に勧められたのは、帝立の士官学校への入学だった。
「ありがたいお話ですけど、さすがに難しいと思います。孤児の上に無一文です」
「我が国では、身分や資格は不問だ。費用はかかるが、入学金くらいは、例の石を売れば足りる。あとは、そうだな、授業の時間以外は、うちの屋敷で働く、というのはどうだろうか。ちょうど従者が一人、いなくなったところなんだ」
「それは、渡りに舟ですけど――。でも、帝都って、カトリアさんの実家から、結構な距離があるんじゃないですか?通えるんでしょうか」
「キミが入学するのは、我が領地にある分校だ。だが、成績が良ければ、本校に転学することだってできる。卒業すれば、優先的に帝国軍に採用されるし、キミの腕前なら、将来、佐官も夢じゃないはずだ」
「入学試験とか、ないんですか?」
「だから、口利きと言った。父が身元引受け人になれば、孤児であっても受け入れられるだろう」
 住まいや身分といった懸案事項が一度に解決するのは、ルノアとの再会を待つ身として、願ってもないことだった。
 僻地とはいえ、爵位を持つ貴族の庇護を受けられるのだ。
「で、どうする?」
 カトリアが差し出した右手を、ほとんど迷うことなく握り返した。
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