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22、出立(後)
しおりを挟む「プハッ!」
「ハッ、ゼイ、ゼイ……。」
鳥居を潜った私たちが出てきたのは、当然の如く図書館ではなかった。いつもならば、紅い鳥居を潜った瞬間に広がるのは、銀砂の星々が煌めく、闇のカーテンに覆われた世界。しかし今宵ばかりはそんなものは目の前にはなかった。私たちを迎えたのは、ただ、静かな静かな—————井戸の底。
「……ふう。……私たちがいた井戸の底に戻っちゃうなんてね。しかも、なんか息が出来なくなってたし。」
「フン。このくらいは想定内だ。」
バシャン!
そんな効果音と共に水を被った私は、一瞬どうしたら良いのか分からなくなった。けれども、サラーダはそうではなかったようだった。水色の視界。周囲に揺蕩う透明な海藻。そこにはまだ、私が作った花輪がふゆふゆ浮かんでいた。それらを視界に認めるや否や、彼は私の腕を掴んで上へ上へと泳ぎ出した。
顔さえ出せば、後はこちらのもの。
井戸から這い出て、大きく息を吐く。
濡れた服を絞りながら改めて周囲を観察すれば、私たちは本当にただ戻ってきただけのようだった。秋カカシの森のただ中。井戸の側。鐘の音を聞く前の出発点に、私たちはいるようだった。
「それにしても……どうしよう。」
辺りには薮があり、青臭い植物の群れがざわりざわりとさざめいている。四方どちらを向いても、景色に変わりはないように思える。向かうべき先が、わからない。
「……知るか。少しは自分の脳味噌を使う努力をしろ。」
「そんな!サラーダくんこそ無責任じゃない?」
「……俺は。」
「ん?」
サラーダが、中々言い返して来ない。ぐ、っと詰まったような音が聞こえただけだった。私が不思議に思って彼の方を振り向くと、どこか様子がおかしかった。顔色が青い。薄茶色だった肌に血の気がなくなって、すうっと白っぽくなっている。
私は慌ててサラーダの顔を覗き込んだ。
「だ、大丈夫?!」
「……問題ない。」
「嘘だよね?明らかに顔色がひどいよ!どうしたの?!」
「本当に大丈夫だ。ただ、単純に、十二時を超えて外へ出ることはオバケの本能の根本問題として規制がかかっているだけだ。」
「全然意味分かんないよ!お願いだから一言で説明して!」
サラーダは、グッと詰まって視線を逸らした。そして数秒ほど躊躇うと、ほとんど聞き取れないほどの消え入りそうな声で呟いた。
「…………怖い。」
「へ?嘘でしょ?」
「っだから!オバケの精神構造は人間と違う!神の許可を得ずに俺たちが十二時を超えて外へ出ると、文字通り自分の命が端から溶けていく生々しい実感の波に襲われるんだ!他人を馬鹿にする前に、自分でそれを味わってみたら良い!」
「ご、ごめん。」
私は、慌てて謝った。
しかし良くない状況だな、と思う。サラーダが実際にこうなるまで自分に話してくれなかったのはきっと、羞恥心によるものだろう。または、根性で何とかなると思っていたのか。
なるほど恐怖心は、より強い感情で誤魔化すことが出来る。そして夜のエレーの神の世を守っていたものが恐怖心ならば、それを克服することは非常に重要なことだ。
「一応聞くけど、それ、本当に命が溶けてるわけじゃないんだよね?」
「……そんなことは有り得るものか。」
「それなら、良かった。糸を繋いでるし、いざとなったら私が守ることが出来る。でも……うーんと。」
どっちへ進もう。
私はぐるりと辺りを見渡した。前、薮。右、薮。後ろ、薮。左、…やっぱり薮。青々とざわめく草や樹木の影は、太陽の沈んだ薄闇には少し不気味だった。
しかし、決めなくては進めない。迷った挙句、私はある一点を指さす。
「あっちに……。」
刹那、私の背筋に凍りつくような悪寒が走って、私は背後を振り向いた。
「影……!」
ゆうらり。ゆらり。ざわあり。ざわり。草木だと思って安心していたら、これらはみんな敵だったようだ。
————キャラキャラ!
————クスクスッ!
————アハハハハッ!
不気味な笑い声を上げる影たち。真っ暗闇へと堕ちてゆく夜の世界で、それは不思議に美しかった。
影には色がない。そう思っていたのに、それは全くの誤解だった。紅葉の舞い散るように飛び出したのは、色とりどりのシャボンの泡。揚羽の蝶か吸血蝙蝠か、何とも変容し難い奇妙な生物。それから、鈴色の軍服に身を溶かした兵士の泥人形。
何なんだ、これは。
陳腐な感想になってしまうが、脳に浮かんだのはそれだけだった。
私は即座に、硬直するサラーダの前に踊り出て、化け物たちを散らした。彼が武器にと渡してくれた刺草の魔女のすりこぎ棒は、確かに強かった。やたらめったら振り回すだけで、影をやっつけることが出来る。的に向かって突き出せば、触れるか触れないかといったところで、既に向こうは崩壊を始める。ドッと鈍い手応えが腕に伝わった時には、もうぐしゃりと地面に潰れているのだ。
サラーダも状況を理解したのだろう。一拍遅れたが、私と同じように戦い始めていた。ダイヤモンドの透明な煌めきを武器に、腕全体を振り回して斬り捨てる。しかし、やはり顔色が青かった。今に膝が崩れ折れて嘔吐するのではと思うほどに追い詰められた顔をしている。
(やっぱり、夜の世界に飛び出るのは無茶だったかな。)
私はそう思った。そして同時に、(それぐらいの無茶が出来ないようなら、世界を救うことなど夢のまた夢だよね。)とも。
つまり、と私は結論付けた。外に出るなと言った雪の警告は本物だったけれど、きっとそれに反抗することこそが乗り越えるべき壁なのだ。
「サラーダ!」
「……っ!」
私は振り向きざまに大喝。一瞬怯んだカラフルな影たちを薙ぎ払うと、そこに立っていたサラーダを掬い上げた。幸い、彼の体自体は六歳の少年だ。そして私は人間。お姫様抱っこの要領で腕に抱き、そのまま戦線を離脱した。邪魔をする影は全部飛び越える。どうしても避けられないものはすりこぎ棒で倒す。
そして私は、走り出す。
獲物を追う狼のように。舞う土煙。靡く草。
途中で私はサラーダを背に背負った。どんどんと駆けてゆくと、風がびゅうびゅう頰を切る。涼しくて、心地良かった。もはや私は地を這う獣の脚では追い付けない程の速さだ。疾きこと鳥の如く。楽しきこと風の如く。そうして私は駆けてゆく。
「ねえ、大丈夫?サラーダくん。」
「あぁ。」
声すらも置き去りにする。
そのぐらい疾く、私たちは走る。
不思議だ。どうして私たちには、お互いの言葉が聞こえたのだろう。
「まっすぐ行くよ。」
「お前の好きなところへ行ったらいい。」
「ありがとう。」
私は見上げる。天を見上げる。
周囲のはもはや、里の景色ではない。とっくに離脱し、私たちは未知の場所を駆けている。
さやさやと揺れる黄緑色の草原。
どこまでもどこまでも。地平の果てまでエメラルド色の煌めきが小さな赤や黄の花と共に靡いている。波のように。しかし、もっと静かに。
「月が、出ているね。」
「……あぁ。人生で初めて見た。」
私は微笑む。そして見つける。駆けて駆けて駆け続けた先。うっすらと闇の中に浮かび上がる影を。
この世界に意図せずして足を踏み入れた、大元のキッカケ。記憶にあるそれよりも、グニョンと縦に引き伸ばされたシルエットが歪だが、間違いはない。
『エレー神殿』
私はほほえむ。やっぱり、あった。雪はないと断言したけれど、やはりこの世界にだって、これはあった。私が人間界からエレーの神の世に飛んだキッカケ。夜の帳も、そこにものあるという事実、すなわち存在自体を消せる訳ではないのだ。
私たちを待ち伏せしているのか。たまに、思い出したように影の残兵が襲って来る。地下にもぐら穴の秘密基地でもあるのかと思うような、突発的な不意打ちの奇襲だが問題はない。地面から降って湧いた飴玉や糸束の怪奇などに、遅れを取るような道理はない。
私は聳え立つ建物に、まっすぐに向かって行った。
「絶望の闇にこそ—————」
もうここは、エレー神殿の庭だ。何百キロも遠くの景色は、瞬きする間に目の前へと近づいてくる。私が勢い任せて神殿の壁をぶち破ることのないようにと配慮の心を抱き、走る速度を多少緩めた、その時。
またしても地面から影が湧いてきた。何か喋っているようだが、聞こえない。煩わしい。影でしかない、無力な虫め。そんな感情のままに私はすりこぎ棒を振るって対処しようとし。
「—————希望の光が宿るものだ。悪く思うな。」
その正体に気付いてぎょっとする。
油断した。
そう思った時には背後を取られていた。大事な武器のすりこぎ棒は掠め取られ、闇雲に突き出した蹴りは難なく躱される。ぐるん、と視界が回ってバンと大地に叩き付けられる。尋常でない速度で駆けていた私たちは、同じように尋常でない勢いで地面に激突することになった。
うっと呻いた途端に首根っこを押さえ付けられ、私はうつ伏せの姿勢で固定された。
ハッと気付いた時には、もう手遅れだった。渾身の力を振り絞っても一ミリと動けない。風よりも疾く走り、鳥も顔負けにジャンプした私が、全く歯が立たないのだ。そうこうしているうちに、さらに悪いことが起こった。
「サ、サラーダ……くんっ!」
サラーダが抵抗して暴れる気配が、ぷっつりと途切れたのだ。さっと青ざめ、私が無理やり頭だけ動かしそちらを見ると。片腕で私を拘束した黒マントの影が、サラーダの首に覆い被さるようにして、静かに吸血していた。
唇を付けられた途端、ギャッと小さく叫んだサラーダ。彼の体からは、見る間にだらんと力が抜けてゆく。彼の首に吸い付く黒マントは、どんなにサラーダが暴れても決して容赦をしない。とうとう意識を手放した、と見た時、その影はようやくサラーダの首から口を離した。
そして、フードを目深に被った頭がぐるりとこちらへ向いた。
「ひ……!」
「そう不安がるな。俺では人間に危害を加えることが出来ない。気絶させることすらもな。」
夜だからだろう。以前見た蝙蝠傘はその手にない。しかし状況としては、これ以上がないほど明白なものだった。分厚い黒マント。目深に被ったフード。高身長。武芸の達人。そして……吸血する習性。
私は、私たちは。
虎視眈々と私たちを捕える機会を狙って待ち伏せていたらしい最悪の障壁—————処刑人の闇笠に捕まったのだ。
どうすればいい。どうやって切り抜ける。どうしたら彼の拘束から抜け出せる。私が必死に頭を巡らせ始めた時だった。
闇笠が、私をきっちり抑え付けながら頭を低く下げた。
彼の背後に、もう一つの影が差したのだ。
「完了致しました。管理者殿。」
あくまで事務的な口調。しかしそこには、絶対的な権威への服従が滲み現れていた。
柔らかに、ひやりと涼しげな風が吹く。煽られて捲れた闇笠のマントが、バタバタとはためいた。
現れた影の主は、相変わらずの美貌だった。歌舞伎役者か、人形か。魔性の美しさを白粉で塗り固めた彼女は、薄水色の紗綾形の着物の袂を持ち上げてフフフと口元を隠し、狐の如くニイッと笑う。しかしその口が紡ぐのは、あくまでも普通の、どこにでもいるような少女の口調。
「あら、もう済んじゃったなんて。仕事が早くて助かるわ。」
「……それが数少ない私の取り柄ですので。」
「もー、どうして謙遜するのかしらね。あなたはとっても優秀なんだから、もっと誇って良いのに。」
優しく。いたわりと慈しみを込めて。
どこまでも自然な少女を演じる彼女は、今日も狂おしく笑うのだ。
「あと、敬語もいらないのよ。……ま、この頼みは、ほとんどみんな無視しちゃうんだけどね。悲しいわ。」
私は、絶望のどん底に突き落とされたような気分で、彼女を見上げた。
『氷魔女の雪』
彼女こそは、私がエレーの神の世で生き延びることが出来た立役者であり、最も感謝すべき恩人。そして、どんな手段を持ってしても殺さなければならないと決意したばかりの—————この世の最上位に君臨するオバケなのだった。
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