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6 ラスト~10イヤーズ・レイター
しおりを挟む厳重なセキュリティで守られた、複数の棟に分かれたタワーマンションの一室。
ピンポーンというオーソドックスなチャイムの後、玄関のドアを開けて入ってきたのは、黒の総レースのパーティードレスに身を包んだ、二十代後半くらいのスレンダーな美女だった。
「や、綺麗だね~、陽菜乃さん」
かぎ尻尾の三毛猫と一緒に自分の部屋から出てきた航は、玄関ホールの照明の下、フェイクファー素材の白いボレロを脱いだ、自分と一つ違いの女性を眩しそうに見つめた。
「ありがとう」
グレーのスウェットの上下姿で裸足の航は、玄関の三和土にヒールで立つ彼女とほぼ同じ目の高さだ。
アップしたヘア、首筋にかかる少しほつれた髪の毛が真珠のネックレスとともに女性の華奢で美しいデコルテを強調していた。
「はい、これお土産」
手渡されたのは黒地に金箔の英字の入った紙の手提げ袋。
「おお~! あれね、錦糸町のフルーツタルト」
「ホールよ。食べきれるの?」
「え? 陽菜乃さん、寄ってくよね?」
「いや、だから、今日はダメなの。姉さんとビデオ通話するって言ったでしょ」
「ああ、カナダの……」
「祐介さん、明日帰ってくるんでしょ? 明日一緒に食べれば?」
「まーそうだけどね~。いいや、ニャン相手に食べるか」
「一人でホールを?」
「残しとくって。お茶する時間もなし?」
「うん、あと十分」
「一階下でもさすがにキツイね」
「また今度ね」
ボレロを小脇にバッグを片手に、女性はひらひらと手を振りながら玄関を出て行った。
今夜、赤坂のホテルで行われた、ある映画の完成記念パーティーに出席した彼女は、帰りに土産品として渡されたフルーツタルトを航のためにわざわざ持ってきてくれたのだ。
以前、航がこの店のは美味しいと絶賛しつつも、現在は人気のため品薄で二度と食べることはできなさそうだとぼやいていたのを覚えていてくれていて……。
三年前、祐介と結婚した陽菜乃は、祐介と航が同居するマンションの一フロア下に一人で住んでいる。
上背のある大人びた美貌と少女のような可憐な声音がアンバランスな魅力ともいえる彼女は、十代の頃からドラマや映画で活躍している名の知られた女優だ。
年は航一つ下だが、俳優としてのキャリアは彼よりずっと長い。
デビュー時から“優等生タイプ”と言われ続け、実際に仕事を続けながら私立大学の文学部を四年で卒業し、三十歳になった現在は“お嬢様役”を緩やかに脱しつつある。
結婚してもそのクリーンなイメージは変わらなかった。
それは結婚相手が“一般人”であることも影響していると言われている。
マスコミや世間に『レストランのオーナーシェフ』とだけ発表された“一般人”の祐介は、長く続いた父親からの結婚への圧力もどこ吹く風と己の道を歩み続け、現在は都内に二軒のレストランを順調に繁盛させていた。
あの新宿の夜から───航と出会ってから十年。当時はまだあった青年特有の線の細さは消え、祐介は、評判のいいフレンチレストランのシェフとして、経営者として───決してウエイトは増えてはいないが───佇まいの重厚さを増した、働き盛りの男性となっていた。
とはいえ、当時から(「いやいや学生の時から!」友人談)老成したところはあったので、実際はあまり変わっていないといえば変わっていなかった。
祐介の異母妹で、航の大学の同級生だったあやは、卒業後、保育士として公立の保育園に就職した。
忙しい両親に代わって子どもを預かるという、現代社会のひずみが溜まりやすい場所での仕事は苦労が絶えなかったが、幸い先輩保育士に恵まれて、ずっと同じ園で仕事を続けている。───今は自分にも後輩がいる身だ。
大学生の時は航に憧れていたあやだったが、社会人になり恋愛も含めて多様な経験を経た末、三十路に足を踏み入れた今は、「結婚は考えられない」心境だそう。
彼女はいつの間にか祐介と航の関係に気がついていた。
しかし、そのこと自体に自然体で触れても(大学卒業後、殺人的な忙しさの航を見かねて祐介に「一緒に住んであげたら?」と言ったことがあったらしい)、気づいた経緯やその時の感情を口にしたことはなかった。
それなりに連絡を取り合う間柄の祐介や航は、あやに対しては「仕事も結婚もして、(本人が望むなら)子どもも産んで、幸せになってほしい」という考えが根底にあったが、その手の話題を会話に上らせることはなかった。
祐介の大学時代の友人で、航にそれまで無縁だった芸能界を紹介したファッションカメラマンの加賀見は、十年前の当時も今も全く変わっていなかった。
本人曰く、「浮き沈みの激しいこの業界で、仕事が引きも切らずに続くだけでラッキー! やっぱオレの腕がいいからよ」だそうだ。
そういった意味では、現在まで最も“浮き沈み”が激しかったのは航だ。
大学在学中に児童心理学の分野を深掘りしてみたいと思った彼は、教育課程を履修して幼稚園教諭の免許状を取得し、その後、大学とは別の系列の大学院に入学した。
発達障害児を専門とする教授の研究室に入り、修士課程を学びながら、これからの研究には実際に幼児と接する生身の経験が必要だと考えた彼は、系列の幼稚園に週二日の実習に出た。
と同時に、幼い頃に父親が亡くなって母子家庭で育ち、母親の収入に頼るのは大学までと決めていたので、それまで世話になっていた芸能事務所に事情を話して改めて契約し直し、ポツリポツリとモデルの仕事を続け、さらには、スケジュール的に可能なものがあれば端役の俳優業にもチャレンジしていった。
芸能界に興味はなかったが、仕事の単価の高さに惹かれたのだ。
その間ずっと、母と祖母と三人で暮らす都内の実家に住み続けていた。
一人暮らしは経済的に効率が悪いのだ。
その甲斐あってか、三年後の博士課程に進む頃にはある程度の蓄えもでき、芸能の仕事はあっさりとほぼ完全に辞めた。
そんな中でも、航は月に二、三回は祐介のマンションを訪れていた。
あの冬の夜以来、祐介との付き合いは不思議と切れることなく続いていた。
若い航にとって、研究と実習と芸能の仕事で忙しい毎日をさらに忙しくする恋人との逢瀬は、『忙しい』に入らない、癒やしと励みとストレス解消の時間だった。
そしてアルバイトを辞めた頃に、別のマンションに引っ越すという祐介に誘われ、タワーマンションの彼の部屋、三LDKの一室を借りることになった。
誰にも知らせない同居だったが、唯一の例外であるあやは、「同棲するんだ~」と訳知り顔で頷いた。
ちなみに友人が動物愛護ボランティアをやっていて、「一匹飼ってくれない?」と言って、可愛らしい、一、二歳程度の三毛猫を連れてきたのはあやだ。
祐介も航もそこそこの猫好き、犬好きではあったが、忙しい、あるいは不規則な生活の中で動物を飼うことは難しいと思っていて、話の上ではうんと言わない彼らに、あやは真面目な口調で「奥の手を出すよ?」と切り出した。その瞬間、彼らは思わず、彼女をきっかけに(しかも彼女がまだ航に片想いしていた頃に)自分たちが付き合い出したことを言い出すのかと思ったが、彼女の「奥の手」とは、実際に猫を新居に連れてくることだった。
祐介だけでなく、航もあやには弱い。
彼女が繰り出した滅多にない強攻策と、連れてこられた可愛らしい猫の様子に、二人は珍しく自分たちの方が折れて、二人と一匹の生活が始まった。
それまでに比べて、航の生活は特に時間的に随分楽になった。
「出世払い」ということで航が負担する賃料は免除、生活費を最低額祐介に渡すだけで、経済的には実家暮らしとほぼ変わらぬまま、新しいマンションは実家よりずっと大学院に通うのに便利な場所にあったからだ。
それでも研究や論文、実習など、目の回るような忙しさに追いかけられていた博士課程一年目のある日、彼は実習先の幼稚園の保護者から───若いシングルマザーから、「関係を持ったので結婚して欲しい」と迫られた。
「関係を持つ」どころか、全く接点のない相手だった。
実は面接を終え、実習が決定した直後に航は幼稚園の園長と先輩教諭から、「若い女性が多く集まる閉鎖的な場所だから、あなたのような若くてハンサムな男性はかなり高い確率でトラブルになる可能性がある。本気でできる限りの対策を。こちらも協力するので」と言われていた。
そのため幼稚園では、航は常に他の職員と二人以上で行動し、決して保護者や幼児と二人きりにならないように気をつけた。
ありがたいことに大学付属の施設である幼稚園は設備が充実していて、トイレと職員室以外は全て防犯カメラが設置されていた。
そこまでは、航にとっては予想の範囲内だった。しかし、わざわざ園長たちに注意喚起されたことから、彼は念のためと思い、小型の録音機を常に携帯していた。
結果───。レコーダーには、登園時間など、他の職員がほんの数メートル離れた隙を狙って彼に話しかけ、「男女の関係」どころか盛んに彼を口説こうとする相手の言葉が記録されていた。
幼稚園の外で会っていたと主張されればさらに事態は複雑になっただろうが、つい最近の録音でもなびかない彼をしつこく誘う内容であったため、園長と大学院の担当教授立ち会いのもと、それらの証拠を前に相手は不承不承引き下がった。
彼女の子どもはほかの幼稚園を紹介され、転園した。
大事に至らずには済んだが、航にとって、それは決して些細な出来事ではなかった。
有資格者であっても未経験な若者が懸命に子どもたちの世話をする中で起きた、心をそぐような事件であり、航だけでなく関係者も確実に迷惑を被った。
それでも、考えられる悪手の中でかなり平穏に短期間で事態を収めることができたのは不幸中の幸いだった。
ところが、数カ月後にまた同じことが起きた。
今度は既婚の女性で、経緯と結果も前回とほぼ同じだったとはいえ、航はさすがに考えを改めなくてはならなくなった。
大学院生として研究を続けつつ、数年間は現場経験を両立させる───という彼のキャリアプランはこの時点で頓挫した。
教授に相談の上───園長や他の職員は引き留めてくれたが───幼稚園での実習は辞めざるを得なかった。
実習がなくなり、その分研究に打ち込む───それなりに落ち込みながら───の彼の慰めとなったのは祐介であり、励みとなったのは、祐介をはじめ、今は社会に出て、それぞれ試行錯誤をしつつ前に進んでいる大学の時の友人───あやのような───の姿だった。
受験の面接時から関係が良好である指導教授から、研究者らしく冷静に「おまえさんは男前だからこれからも同じことが続くだろう」と言われたのは身に染みた。
周囲にはどう見えようと、航は常に自分の手で情報を集めて計画を立て、努力をして成果を積み上げてきた。
決して運やルックスに頼って近道をしてきたわけではない。
彼は、せめてこの状況を経済的に役立てようと───できるだけ早く祐介と同等の家賃負担ができるように───思い切って芸能活動を再開することにした。
大学や大学周辺で知らない人間と接する機会はもうない。ちょうど以前の芸能事務所からの誘いがあったこともあり、彼は教授と話して了解と理解を取った。
祐介にも話したが……───なぜか彼の反応は微妙だった。積極的な反対というのでもなく、「おまえに合ってると思う……」という言葉が、唯一引き出せた彼の考えだった。
皮肉にも再開した芸能活動は順調で、深夜ドラマの主役の話がすぐにやってきた。
そこで陽菜乃と知り合ったのだ。
航にとっては『撮影中はうまくやっていくに越したことはない』共演者の一人に過ぎなかったが、撮影後、しばらくしてデートに誘われ、プロポーズされた。
夫も恋人もいらないが、結婚したいのだという。
お互いに“既婚者”のラベルを手に入れようという……。
当時、彼女には十代の終わり頃から付き合いの始まったパトロンがいた。
経済援助などを目的に自ら近づいたのではなく、経済界の大物の目に“ちょっとしたデート相手”として留まったのがきっかけだった。
高価なドレスやアクセサリーを贈られ、それを身につけての、海外の社交界での振る舞い方を教えられたり、合格は保証されなかったが、クローズドのオーディション情報がもたらされたり……。
彼女もさすがにそんなことをすぐ航に明かした訳ではない。
しかし、プロポーズを断りつつも、彼女に興味を示した航とプラトニックなデートを重ねるうちに───彼女も彼の人柄を観察しつつ───徐々に自分側の事情を話していったのだ。
要はそのパトロンと別れたいのだが、高齢に差し掛かった相手の考えは「結婚したら別れる」の一点張りで、『当分結婚も恋愛も、それ以外の関係でも男性と付き合う気はなく、ただ仕事に集中したい』という彼女の考えが理解されることはなかった。
かといって無理矢理別れ、トラブルになってスキャンダルとして世に出ることや(相手は地位も金もある人間なので、その可能性は低かったが)、相手を傷つけたり、自分が傷ついたり、関係者に迷惑をかけたりすることは避けたいというのが彼女の本音だった。
そんな時、彼女は航と知り合い、決して自分を性的な意味で見ない彼をゲイだと思い込み───もしかしたら自分と同様“既婚者”の肩書きがあったら便利だと思っているのではないかと……───一足飛びに期待してしまったのだという。
後々彼女は、
「───ごめんなさい。たまたま私があなたのタイプじゃないって可能性があること、その時は思いつきもしなかったのよ」
と苦笑いしつつ謝った。
彼女は決して自分の美しさを過信する性格ではないが、それでも仕事現場にいる多くの男性陣の露骨な視線を一身に浴びることに慣れてしまっていたのだろう。
そんな二人は、ベッドを共にしないこと以外、ごく普通の男女交際を楽しく───密かに───続けた。
航は祐介に、仕事先で気の合うガールフレンドができたことを告げ、それからしばらく経ってから、彼女との馴れ初めを話した。
陽菜乃は彼が自分を見極める期間として、二、三カ月は要すると思っていたらしい。
しかし実際、二人の付き合いは一年近くに及び、その間、航は大学院で学んだ───今回の相手は成人だが───人間の観察ポイントや方法をきっちり活用し、彼女の性格や素性、俳優業への思いなどを知っていった。
どうやら彼女は仕事一筋に生きたい人間らしい。
───どこかの誰かのように。
そこで航は、自分の恋人である祐介と陽菜乃を引き合わせることにした。
元から彼女は自分のことをゲイだと思っている(本当は男性も女性も愛せるバイセクシャルだが、そのことは話さなかった)。誤解させたまま、パートナーがいるともいないとも言わなかった航だが、その時初めて、自分よりパートナーの方に結婚する理由があることを告げたのだ。
あとは二人の相性次第と結論付けた航だったが、それでも一抹の不安の中、初めて相対した彼らは実に礼儀正しく互いの状況を述べ、条件を決め、結婚した。
航が拍子抜けするくらい、呆気なく───。
祐介は何も言わなかったが、陽菜乃は「あなたの大事な人なら安心だと思って」と言い、仲介役となった航への信用が理由の一つだったことを明かした。
そして、現在に至る。
マスコミから“スキャンダル処女”と言われてきた美人女優の妻は、葛城家及び関係者にすこぶる評判がいいらしい。
実際は陽菜乃は祐介たちの部屋の一階下に住んでいるのだが、祐介の実家も陽菜乃の事務所もそのことは知らない。
「政治家一家の一般人の次男の妻───なんてやりがいがある役だわ。あちらに顔を出すのは年に一回か二回だし……。楽勝楽勝」
たおやかな外見に似合わず、案外、豪胆な女性だった。
生き馬の目を抜くような芸能界を主戦場とする人間は、女性であれ男性であれ、基本タフでなければやっていけないのだろう。
同じ世界の先輩として、学ぶものが多い───知り合いになれて良かったと思った航だった。
「───オレ、陽菜乃さんを紹介するためにあんたと巡り会ったのかねぇ……」
『錦糸町のフルーツタルト』を平らげてから一週間後。
たとえ年に数える程しか会わないとしても、夫婦関係は良好らしい祐介に航は呆れたようにしみじみと言った。
「頼んだわけでもないのに勝手に紹介してきたのはおまえだろ」
「まあ、そうだけど。……でも……ちょっとつまんないなぁ……。前みたいに人妻とはデートできないし……」
「家の中で遊んでもらえ。せっかく下に住んでんだから」
「いや、いないんじゃねー? 昨日辺りから映画の海外ロケだってメール来てたような」
「そうなのか?」
「……前も今もオレの方があんたより仲いいみたい」
「問題ないだろ」
「あやちゃんはいつ気づくかねぇ……」
航は足元に寄ってきた人なつっこい三毛猫をやさしく撫でた。
彼女は抱っこは嫌いなのだ。
「……人が悪いな。楽しんでるなよ。おまえの人間関係でもあるんだからな」
「しばらくはなんでも楽しむよ。テレビの仕事もね。もうオレ、院じゃ出世できないだろうし……」
航は猫の喉の下を人差し指で繊細に撫でながら言った。
博士号を取得した後、彼は大学院に残ったままポストドクターという身分で細々と研究を続けていた。
ドラマ出演などがあれば不定期に休まざるを得ない。教授の理解と好意があってこそ成り立つマイペースな立場を得ていたが、当然だがそれでは食べていけない。
この先、論文が注目されたり、どこかの大学の教職に就けたりして、本格的な研究者としての生活に戻れるかもしれない───あるいは、このままずっと芸能界との二足のわらじを履き続けていくのか……。
将来のことはわからないが、芸能界の仕事のおかげで金銭的な苦労もなく、研究は続けられているし、今となっては俳優業も決して嫌ではない(さすがに陽菜乃には言えない台詞だが)。
そんな風に「今は今で楽しもう」という境地に至ったのは、やはり隣に祐介がいてくれたから……。
決して、二人きりの閉じた世界にいるわけではないが、必要な時に傍にいてくれる存在に出会えたことは───その後決して手放さなかったことは───幸運と、自分の(そして相手の)たゆまぬ努力の賜なのだろう。
「───まあやっぱり、オレがオレのために、巡り会ったんだろうな……」
「ああ、そうだな」
「……───前にはなかった癖だよね? 相手の話聞いてもいないのに、相づちを打つ」
「それが一番簡単だ」
「……あんたって人は……」
猫はいつの間にか昼寝のために部屋を出て行った。
二人の午後は始まったばかり───。
貴重な休日の一幕だった。
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