セダクティヴ・キス

百瀬圭井子

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 一月三日の箱根は、電車など交通機関はさすがに混んでいたが、目的の駅に到着して駅舎の外に出ると、辺りは拍子抜けするくらい人影は疎らだった。
 土産物が並んでいるような店も想像していたよりはずっと少なくて、初めてこの地を訪れた航は、予想外の光景に思わず周囲をぐるりと見回していた。
 もっとも今いる駅自体は、大きな観光スポットがすぐ近くにあるわけではないから、それはそれで当たり前なのかもしれない。
 駅前の広場から一歩離れると、辺りは少し鄙びた感じのする、ごく普通の田舎町だった。中には瀟洒な建物もあったが、別荘地といった趣もあまりない。
 しかし、気づくとスーパーマーケットやコンビニは見かけず、飲食店やレストラン、小規模な美術館があったり、何よりケーブルカーが通っているところなど、さすがに東京やその周辺のホームタウンとは若干雰囲気は異なっていた。
 なにより、谷を隔て、こちらの高台から見通す向かいの山には大きな「大」の字の跡がくっきり見えて、そのようなものの意味や由来に疎い彼は、ただ京都の送り火を連想すると、ようやく観光気分の一端を味わった。
 三日の今日、祐介と会えないのは始めから承知していた。
 それでも昼過ぎにここへ来たのは、ついでに観光でもと思っていたからなのだが、どうやら目的の別荘があるこの駅周辺には時間を過ごせるような場所はあまりないようだった。
 そう判断した彼は、せっかくここまで来たのだからと、あまり荷物にもなっていないナップサックを一端置いてから少し遠くまで足を伸ばそうと、今夜泊まる予定の祐介の知り合いの別荘を探すことにした。
 きれいに除雪された坂道を、インターネットからプリントアウトした地図を見ながらのんびりと歩く。
 さすがに温泉地───と関係あるのか、道の端の排水溝からは湯気が立っていた。
 暖冬のせいか東京育ちの航がぎょっとするような積雪はない。だが、道路や建物の周辺以外は───特に日陰は───電線や木の枝など、どこも微に入り細に入りうっすらと雪が積もっていた。
 当初の予定では、観光目的のキャピキャピした女の子たちか、別荘地に来ているようなお嬢様たちを目の保養にするつもりだったが、たまにすれ違うのは老夫婦か、カップルか、あるいは祖父母と孫といった組み合わせが多かった。
 女子校の前を通っても、当たり前だが人っ子一人見かけない。
 向かいの山に雄大に描かれた大文字を眺めながら、やはりただの住宅地としか思えない、手入れの行き届いた生け垣に囲まれた閑静な大通りをしばらく歩くと、ごくあっさりとした外見の、白い二階建ての一軒家を見つけた。
 表札を確認すると、前もって聞かされていた名字だった。
 管理は地元の不動産屋が行っていて、今日からしばらく利用者がいることは連絡が行っているという。
 門は数字錠で、玄関はテンキーロックだったから、鍵のやり取りは必要なかった。
 不動産屋も正月に呼び出されたくはないだろう。
 門も玄関アプローチも手入れがきちんとされていたし、玄関の中もチリ一つ落ちていなかった。
 航は荷物を玄関の上がり口に置くと、すぐに踵を返した。
 元来た道を引き返して、駅に戻る。
 彼は今度こそ典型的な観光スポットを訪れて、本格的な観光気分を満喫するつもりだった。

 広大な敷地を有する有名な美術館を手始めに、航は特に目的もなく、集合時間もなく、連れもいない、のんびりとした時間を楽しんだ。
 駅前の印象と違って、観光スポット周辺に足を踏み入れると、若いカップルや女同士のグループも多く見かけ、気分は一気に華やぐ。
 一人の彼に声を掛けてくるフレンドリーなグループもいたが、彼は少しの間だけ会話を楽しむと、一人の気ままさをことさら装って、長くは同道しなかった。
 また向こうも複数いるせいで、そうそう意見の統一もできないのか、積極的に追いすがってはこない。
 彼はそうやってその日の午後を退屈もせずに過ごした。
 ただカップルの楽しそうな様子が目の端に入った瞬間、彼はぼんやり、明日以降、自分はどうやって祐介と過ごすのだろう、と疑問には思った。
 あんな恋人同士みたいに……?
 とは、想像もつかない。
 そもそも今日、相手は見合いをしているのだ。
 それも成立する可能性が大の……。
 とうに昼食の時間も終わり、今頃は何をしているのだろう?
 足湯に入れるカフェで外の通りを眺めながら、彼は温かくもほろ苦いコーヒーを口にした。
 観光地の賑やかな雰囲気を忘れて、今いる自分の立場を見つめ直すと、なんだかだんだんおかしくなってくる。
 相手に会うために別行動を取るなんて、まるで世間を憚っているかのようだ。───悪いことは何もしていないのに。
 航はつい口に上った笑みをカップで隠した。
 最初の夜の時の軽口ではないが、悲観的に考えればいくらでも惨めな気分になれる。しかし、今正直に心の底を浚ってみても、暗く澱んだものは見つからず、むしろ逆に気持ちは不思議と満たされていた。
 この感情を何というのだろう……。
 知っているような気もしたが、彼はあえて名付けなかった。

「キャーハハハ───ッ!」
 黒のダウンベストを着た小学年低学年くらいの子が、歓声を上げて道を駆けていった。



*   *       *   *



 拓かれた山間の田舎町。
 その一角に建つ別荘の二階の寝室は、溢れんばかりの朝の光に満ちていた。
 普通、この眩しさの中で寝続けられる人はいないだろうから、健康的な朝の時間に目覚めたいのであれば、目覚まし時計はまず必要ないようだった。
 しかし、まだ睡郷をさまよっていたい航は、室内が程よく暖房が効いているのをいいことに、寝惚け眼のまま毛布と枕を、掃除の行き届いたフローリングの床に落とし、木製の重厚なベッドの影に隠れて、なんとも気持ちの良い微睡みを貪っていた。
 公私にわたる用事が途切れた(途切らせた)、この時期だけの五日間の休み。
 もう一日消化したが、まだ四日もある。
 ───人生でこれほど幸せな瞬間はない。

 「……なにやってんだ、おまえ……」
 低い男の声も心地好く……。
「───え……!?」
 驚いた航が慌てて上体を起こすと、祐介が呆れたような表情で、白いTシャツ姿の彼を見下ろしていた。
 カーキ色のロングコートを羽織った男は冷たい外気をまとわりつかせていた。 
「───驚いた」
 航は床の上で胡座に脚を組み替えながら、毛布をたぐり寄せつつ呆然と呟いた。
「早かったか」
「昼前とかじゃなかったっけ?」
  何時何分と決めていたわけではないが、少し予想外だった。
「チャイム、鳴らそうかとも思ったんだが、その方が驚かせるんじゃないかと思ってな」
 相も変わらず生真面目な調子で答えると、祐介はコートを脱ぎだした。
 それを目で追いながら、
「……気ィ使ってくれたんだ……」
 航は呟くように言った。
「まあな」
「でもオレ、そんな気ィ小さくないよ?」
 ようやく眠気が薄れてきたのか、いつもの口調に戻った航はニヤリと笑って言った。
「誰が来てもちゃんと応対するけど」
 余所様の家───それも別荘───にお邪魔している立場であることはきちんと自覚している。
「───そうだな、おまえなら……」
 脱いだコートを壁の洋服掛けに引っかけた祐介は振り返った。
 するとTシャツに淡いブルーのスエットのズボンといった姿の航がすぐ後ろに立っていた。
「航───」
「久しぶり」
「………」
「会いたかった……」
 感情を込めて囁くと、航はごく自然な仕草で祐介を抱き締めた。
「───そんなに久しぶりでもないけどな」
 祐介はされるがままを許しながら、冷静に答えた。
 慌ただしい年末だったが、大晦日の夜には会っていたはずだ。
「暑くないの?」
 航は相手の胸元を見ながら尋ねた。
「ああ……」
 そういえばと素直に首肯した祐介は、黒のカーディガンのボタンに手を掛けその場で脱いだ。下は黒のウールのハイネックシャツだ。
「意外に寒がりなんだね」
「そうでもないけどな」
 脱いだカーディガンをどこに置こうかと視線を巡らせながら、祐介はどことなく心外そうな口振りで答えた。
 航はそれを引き取ると、
「?」
 といった表情の相手にチュッと口づけた。
 カーディガンを手にしたまま、航は祐介の背中に腕を回すと、今度はちゃんとしたキスを求めた。
 祐介の腕も航の背後に回り、肩胛骨から背骨のラインを丁寧に辿る。
 そのままどちらともなくベッドへもつれるようにして倒れ込んだ。
 特に脱がせるでもなく、啄むような口づけを繰り返し、衣服の上から、布の下から、互いの体をまさぐり合う。
 情熱的な愛撫ではあったが、透明で清々しい朝の光に満ちた部屋の中ではそれ以上の行為には発展しそうになかった。
 互いにそんな気持ちだったのか、二人はそのまましばらく、ただ戯れるように抱き合った。



 「───で、見合いは上手くいったの?」
「普通だよ」
「普通ってなに」
「おまえは昨日から来てたんだ」
「うん。昼過ぎに着いた」
「ずいぶん早く来たんだな」
「昨日から休みだし、夜来たって意味ないしね」
「なにしてたんだ?」
「メシ食って、美術館行って、足湯のある喫茶店入って、観光してた」
「それは……ずいぶん楽しんだんだな」
「ああ。せっかく観光地に来たんだから、いろいろ観るとこあるし。オレ、一人でも全然平気だし」
「楽しかったか?」
「ああ。んで、そっちは?」
「……?」
「“楽しかった”?」
「まさか……」
 祐介は苦笑して首を振った。
 それでその話は終わりにする意向だったが、
「見合い、どこでやったの? いいもん食べた?」
 航は興味津々といった様子で率直に聞いてくる。
 まるで含みがないのがいかにも彼らしかった。
「オレはあいにくなんでも楽しめるような性格じゃないんでな」
「なに食べたの?」
「さあ?」
 料理人とは思えない返事だ。
「でもいいもん出たんだろ」
「いや……値段の割にイマイチだっ……まー、いいんだが」
「お父さん、来たの?」
 話しがポンポンと飛ぶ。
「ああ。みんな昨日のうちに帰った」
 もう慣れた祐介は平然と答えた。
「そうなんだ。……あれ? 昨夜はどこに泊まったの?」
「一人でそのホテルだよ。遅くまで人と飲んでたんでな。とりあえず泊まったけど、特に用事もないからさっさとチェックアウトしてきた」
 来慣れているらしい別荘がすぐ近くにあるのだ。その『人』とやらがいなかったら、そこに泊まる必要もなかっただろう。
 誰と飲んでいたのか、その人物は一緒に泊まったのか……。航は聞かなかった。
「ここは久しぶりだけど……変わらないな」
 体を離し、そのまま仰向けに並んで寝ていた祐介は肘を付いて上体を起こすと、どこか懐かしそうに室内を見回した。
「綺麗な家だけど……でも普通の家だよね。つーか、ここら辺はなんか箱根って感じがしないんだけど」
「観光地から離れてるからな。もともと箱根は湯治場だし。でも駅から近くて便利だろ」
「そうだね」
「それにここは……あ、風呂入ったか?」
「いやぁ? そーいや、昨日から風呂入ってないや。足湯は入ったけど」
「ここの風呂も天然温泉だぞ」
「へ……え?」
「入ってないんなら……朝風呂でも入るか?」
「一緒に? いいけど……男二人で狭くない?」
「見てないんだな。二人くらいなら楽に入れるよ」
「へー!」
 さすがに興味を引かれたように、航も体を起こした。
 すると先に立ち上がった祐介が彼を振り返った。
「寝てたんなら腹減ったろ。先にメシでも食いに行くか?」
「大きなキッチンに食料たくさん置いてあったよ。風呂場はまだ見てなかった。見てくる」
 航はベッドから飛び降りると、ドアに向かって歩き出した。
 その背に、
「……オレにメシを作らせる気か……」
 祐介は思わず呟いた。
「え!?───いや、べつにそーゆーつもりじゃ……。オレが作っても、食いに行ってもいいんだけどね……」
 航は考える素振りで頭を振りながら、率先して部屋を出て行った。



 浴槽に湯を溜める間、冷蔵庫や棚にあった食料を物色し、何を作るか決めると、二人は天然温泉を贅沢に湛えた乳白色の湯船にゆっくりと浸かった。
 広い造りの風呂場は住宅街ながらも調光に拘り、解放感に溢れていた。
 真っ昼間からの風呂、それも温泉独特の肌触りと香りは、ただ「風呂に入る」だけとはいえ、二人にとってはあまりにも普段の日常とかけ離れていた。
 航はそこでも他愛のないキスを仕掛けたが、祐介はのぼせるから、と言って相手にしなかった。
「もしかして熱いの苦手?」
「ああ。普段は長風呂もしないし」
「つか風呂入る?」
「そうだな、シャワーだけだ」
「オレもだよ。お湯、熱くない? もっとぬるめない?」
「ああ……」
 湯船に並んで浸かり、白い窓に顔を向けていた祐介は、腕を伸ばして自分の近くにある蛇口に手を伸ばした。
「こんな熱くしなくていいのに」
「よく分かんなかったんだ」
 正直な答えに航は笑った。
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