セダクティヴ・キス

百瀬圭井子

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2 妹の恋人(2)

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 「!───」
 二人は思わずピクリと体を震わせると、反射的に離れた。
 祐介は───いや、航までも、たった今まで夢の中にいたかのような表情をしていて……。
「そういえば……誰が来る予定だった?」
 それには答えず、祐介はリビングの入り口にあるインターフォンに手を伸ばした。
「……はい?」
『あ、オレ』
「───今、開ける」
 エントランスの玄関ロックを解除した祐介は振り返りもせずに、
「友人が来るんだ」
 とだけ言った。
「心配しなくたって───」
 航は大人びた様子で苦笑した。
「ここで女とかち合ったって、変なコト言い出しやしないって」
「女じゃない、男だ」
「そう? オレ、会わない方がいい?」
「べつに。普通でいい」
「でも……」
 玄関に向かいかけた航が振り返った時、再びチャイムが鳴り、祐介はインターフォンから玄関のロックを解除した。
 ガチャリ───とドアが開く。
 廊下の途中にいた航、それよりも室内側にいた祐介の二人は、玄関が開くのを無言で見守った。
「ちーっす。……あれ?」
 黒縁の眼鏡、口ひげを薄く蓄えた男はすぐに航に気がつき、目を丸くした。
 今夜二人目の訪問者は、ジーンズにTシャツ、その上に白い半袖シャツを羽織った男だった。
 祐介より年上に見えるが、もしかしたら同じくらいかもしれない。
「お客さん? 誰?」
 航は自分では答えずに、体をずらして背後の祐介を見た。
「……ま、入れよ」
 祐介は相手を上がらせると、中途半端な位置にいた航に向けても顎をしゃくり、二人をリビングに通した。
「航って言うんだ。……あやのボーイフレンド」
 その言葉に驚いたのは航だが、一番無難でわかりやすい説明だと即座に納得して、素知らぬ顔で頷いた。
「え? あやちゃん、いるの?」
 男は部屋の中を見回す仕草を見せた。
「いや。彼一人」
「へぇ~。ボーイフレンドくんとも仲いいんだ。ずいぶんフレンドリーなんだねぇ」
 男は祐介の学生時代からの友人で、薄々祐介の複雑な家庭環境は承知している。だが屈託のない声を上げると、その場の空気の停滞感をあっさりと波が浚うように消し去っていった。
「こんばんは」
 もういいか、と航は口を開くとペコリと頭を下げた。
「あ、オレ、加賀見久。祐介の大学ん時のダチね」
「大学の時から? 仲いいんですね」
「いやぁ? たま~に飲みに行く程度よ。でも最近はちょくちょく会ってるよな」
 と久は意味ありげに、部屋の入り口に立つ祐介に視線を返した。
 つられて航も振り返ったが、仏頂面の祐介は何も答えない。
 が、特に止めようとする素振りも見せなかったので、
「なんでですか?」
 と航は久に視線を戻して尋ねた。
「オレ、しがないフリーのカメラマンなのよ。ファッション雑誌から盆栽までなんでもござれの」
 と言いながら、久はドサリとソファに腰を下ろした。
「へぇ~」
「んで、こいつはそこそこ見た目のいい、フレンチ・レストランのオーナーシェフじゃん? オーナーよ、オーナー。女性向けの雑誌がほっとかなくてねぇ」
「オーナーシェフ……ってことは、自分のお店を持ってるってことですか?」
 航は少し驚いたように祐介を見た。
 彼はもちろん答えなかった。
 どうやらあやはそこまでは話していなかったらしい。
 もっとも彼の年で店を持つとなると、実家は金持ち?という流れにもなりかねないので、あやとしてもその辺は無意識に避けたのかもしれない。
「そうそ。あれ? 知らなかった?」
「信濃町にお店があるっていうのは聞いてて。それで今度二人で行ってみようかっていう話はしてたんですけど」
 その瞬間、祐介は『死んでもよせ』という表情になりかけた。それをグッと堪えた彼を見て、航はお見通しと言わんばかりの人の悪い笑みを浮かべた。
 それは祐介の目にはどこか悪魔じみて映ったが、と同時にひどく魅力的なものであることも認めざるを得なかった。
 ジャンルは違えど、『美』に疎いようではプロの料理人はやっていけない。
 だが、
 …あやが深入りしなければいいが───…
 祐介はその点だけが気がかりだった。
 航という青年は、多分、か弱い女の子を積極的に、あるいは無神経に傷つけるようなタイプではないとは思うのだが………。
 …───なにを信じてんだろうな、オレは。こんなヤツ───…
 そこまで考えて、祐介はふっと我に返った。
「───じゃあ、雑誌の取材、受けるんですね?」
「そうそう。取材は来月だけどね。だから記事が載るのはもっと先だけど」
「なんて雑誌ですか。チェックしとこっと」
「ホント? オレが担当する写真も楽しみにしててよ」
「もちろん!」
 初対面にも関わらず、社交家らしい二人の間では会話が弾んでいた。
 こうやって見ると、二人は祐介とはまるで違うタイプだ。
 久は大学時代に知り合って友人になったというきっかけがあるが、航とはそもそも接点すら皆無で、これからもつき合いが継続するとは考えにくく……。
 ───それにしても、やはり取材の話は断ればよかったなと、彼は二人の話を聞きながら、何度も悩んだ問題をまた頭の中で蒸し返していた。
 雑誌で大々的に紹介されるだなんて、商売をしている身としては願ってもないプロモーションのチャンスなのだが、そういった媒体に頼ること自体、己の主義に反するし、そもそも、とてもそういうのに適した性格ではなかった。
 それでも『飲食店は味が勝負だ。宣伝なんて必要はない』などと言える立場では……───ましてや時代でもない。
 三年前にオープンしたばかりの、若い祐介がオーナーを務める店ではなおのこと……。
 幸い、彼の店『シャグリ』は開店当時から辛うじて赤字になったことはなかったが、景気から自身のことまで、この先なにがあるかわからないことを思えば、とても満足できる現状とは言い難かった。
 ずっと夢に見ていて、初めて持った自分の店。
 理想は理想として、今現在は多少目を瞑って、夢を持続させるためにもコネは最大限に利用すべきだ───と彼は、何度も達した結論を改めて自分に言い聞かせると、訪問者たちに注意を戻した。
 すると二人の会話は……。
「───キミ、グラビアとか興味ある? ずいぶんカッコいーじゃん。もしかしてモデルとかやってる?」
「まさか。中学とか高校の時にはよくスカウトにも声かけられましたけど、最近は全然。年食ったってことですかね?」
「何言ってんの。キミ、面白いねぇ。今からでもどお?」
「ダメでしょー。オレ、タッパないし」
「年、いくつなの?」
「二十です。もうすぐ一」
「背は……百七十くらい?」
「なんとか」
 航は苦笑いしつつサラリと受け流した。
 そんな気配は微塵も表に出さないが、もしかしたら彼も人並みに男としてのコンプレックスのようなものはあるのかもしれない。
 彼より五、六センチ高い程度の祐介も、フランスでの修業時代、もっと上にも横にも身体が大きかったらと思ったことは何度もあった。
 久はさらに高く、百八十センチは越えているだろうが、欧米ではそれでやっと標準くらいだ。
 もっとも若い頃ならばともかく、自分も久も今さら身だしなみ以上に外見を気にするような年齢ではない(久は異論があるかもしれないが)。
 一方、航はくっきりとした大きな目や整った顔立ちが何より人目を引き、いわゆる“美少年”と形容されても不思議ではないルックスだ。
 二十歳代の男がそういった言葉で賞賛されても嬉しくはないだろうが、航にはその辺の拘りがあまりあるようには見えなかった。
 基本的に他人に興味のない祐介は、そこまで深く航のことを分析していたわけではないが……───ただ一つ言えることは、航がその外見から来る印象に似つかわしい“可愛い”性格でないことは、今となっては身に染みて理解していた。
「───でも雑誌とかなら全然OKだよ。あ、オレ、ティーン向けの雑誌とかもやってて。そーゆーの、キミ、人気出そう」
「いいバイトになります?」
 本気か付き合いか、航が興味をそそられたような声を出した。
 その途端、
「おい、いい加減にしろよ」
 祐介は割って入った。
「なに?」
「真っ当な大学生を変な話に引きずり込むなよ」
「なんだよ、人聞き悪いな。今時モデルくらいフツーのバイトだって。それどころか羨ましがられるぜー。女にモテるし、割りはいいし」
「とにかく勉強の邪魔はするな」
 祐介はわずかに眉を顰めるようにして友人を窘めた。
 もともとシリアスな雰囲気を持つ男だ。それだけで十分様になっている。
 教育学部に通う真面目な妹を持つ彼は、理工学部で教育課程も取っているという航がそこそこ真面目に本分に専念しなければいけない状況であることを知っていた。
「はいはい」
 久は反論はせず、ただ肩を竦めた。
 堅物の友人の扱いには慣れているのだ。
「……ビールでいいか?」
 祐介が話を変えるように尋ねると、
「ああ。───きみは?」
 と久は、航に視線をパスした。
「いえ、オレは帰るとこでしたから」
「あれぇ、オレが来たから?」
「違う。ちょうど帰るところで玄関で見送ろうとしていたら、おまえがインターフォン鳴ったんだ」
「祐介、おまえ、日本語ヘン」
「うるさい。下まで送ろう」
 祐介は航を玄関へ促しながら言った。
「祐介、ビール」
「自分で勝手に取れ」
「僕の方はお構いなく。こっちこそ急にお邪魔してすみませんでした」
 先に立って歩き出しながら、航は祐介を振り返ると無邪気な笑みを見せた。
「いや……」
「悪いね~」
 なぜか久までついてきたので、大の大人三人が、そう広くもない廊下を詰めて歩く羽目になった。
「航くん、モデルの話、マジで考えない?」
「は?」
 久は祐介を追い越すと、航に向かっていつの間に用意したのか名刺を差し出した。
「おい」
「撮影は大抵土日だから、学業にさわんないよ。高校生とかでやってるコもいるし。融通利くし」
「はあ」
 航は曖昧に頷くと、手の中に滑り込まされた名刺を見た。
 祐介は、彼がミーハーじみた反応を見せないことに内心安堵したが、逆に自分の知り合いだから気を遣って話を合わせているのかもしれないとも思い、
「気にしなくていーから」
 と二人の間を遮るようにして言った。
「おい、仕事の邪魔すんな」
「仕事ってなんだよ。……じゃあ、航くん」
「あ、はい。お邪魔しました。祐介さん───加賀見さん」
「じゃねー。連絡待ってるよ」
 祐介の背後から、久はヒラヒラと呑気そうに手を振った。
 航はそれを笑顔で見返してから祐介に視線を移すと、小さく頷くようにしてドアの向こうに消えた。
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