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第4章1「箱根湯本」

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 午前中に東京からリムジンで出発すると、約一時間半後には箱根湯本の高級ホテルに到着した。
 正月休みにはまだ早い十二月の平日。
 温泉リゾートや避暑地として有名なこの辺りは、少し寂れた感じの、紅葉の終わりと冬の始まりを迎えていた。
 今回の滞在先は国内外の要人の宿泊客も珍しくはない老舗ホテルだ。とはいえ、さすがに首都・東京の一流ホテルに比べると、設備や部屋、そしてセキュリティ・レベルの多少の低下は否めなかった。
 それでもこの辺りには都会にはない景観と、冴えて澄んだ空気と静かな日常がある。
 ホテルの広い敷地内には、宿泊施設だけでなく、レストランやショップ、室内の温泉プールからサウナ、ジム、露天風呂まで揃っていたが、この時期人影は疎らだった。

 賓客専用の別館のひとつ、古めかしくも清艶な西洋風の建物の玄関に、一行を乗せたリムジンは到着した。
 待ち構えていたホテルの最高責任者の挨拶を受けつつ、一行は早速五階最上階のスイート・ルームへ案内された。
 リビングに入ると王子は、ボディーガードも含めた随行員全員に向けて、これから夕食の時間までは自由に過ごすようにと宣言した。
 もともと昨日までの公式日程とは違い、箱根ここはいわば“遊び”の目的で来ているような場所だった。
 明日はもう帰国だし、王子の警護には日本の警察セキュリティ・ポリスがいる。
 すでにお付きの者たちの間には、昨日まではなかった開放的な空気が流れているのは確かだった。
 王子もそれを読んだのだろう。あるいは、彼自身も一人で落ち着いた時間を過ごしたかったのかもしれない。
 とはいえ、彼は部屋にこもって仕事をする予定で、夕方までホテルを出るつもりはないとも付け加えた。
 何人かは王子の側を離れたくないようだったが、「あなたたちだけで行動した方が目立たない」という王子の言葉に、その意を汲んだようだ。
 大柄で、日本人とは違う髪の色、瞳の色をしている随行員たちが一緒だと───たとえ本人が部屋の外に出る気になったとしても───逆に衆目を集めてしまうのは明らかだった。
 王子は日本人といた方が目立たないだろう。観光地では随行員たちだけで行動しても目立たないだろう………。
 王子の許可が出たあと、ホテル側の説明を一通り耳に収めた彼らは、ドイツ語と日本語を解す在日スイス大使館員を同行し、皆一様に明るい雰囲気でフロアから出て行った。



 高村たち三人のSPセキュリティ・ポリスにとっては、警護対象者が公務中であろうとプライヴェートであろうと責務に変わりはない。
 彼らは交代で、一人は彼ら用の部屋で待機、一人は宿泊フロアの専用エレベーター前、一人は王子が使うスイート・ルームのドアの前で警護に当たった。
 昨日までとは違い、いわゆる“お忍び”だったから、ワンフロア全てを貸し切ることはしなかったが、ホテル側からは最もランクの高いスイート・ルームと周囲の数部屋が提供されていた。
 その一角の廊下は同じフロアでも別室の客は通り抜けられない構造になっている。
 ホテルの広大な敷地の中で高台の方に建っているこの建物は眺望に恵まれていて、それをどの部屋からで見られるように広めのバルコニーがついていた。
 建物の端───ちょうど王子の滞在するスイート・ルーム側にあるバルコニーには、非常ドアと非常階段が設置されていて、高村はそれが外からは開けられない仕組みになっていることを、先乗りした部下にあらかじめ確認させていた。
 バルコニーだけでなく廊下の窓からも、ホテルの由緒ある佳麗な建物が鬱蒼とした木々に囲まれている様子や、終わりかけの紅葉に彩られた日本庭園などを一望できた。
 しばらくすると交代の時間が来て、高村は王子の部屋の前にいた部下と申し送りの打ち合わせを済ませた後、部屋のドアをノックした。
 特に重要な用事はないが、高村はホテル側からゲストに要望や不満などがないか尋ねるよう頼まれていた。
 部屋から返事はない。
 寝ているのかとも思ったが───今はまだ昼過ぎだ───彼は念のため、ドアを開けて中に入った。
 その時ふと、彼はデジャヴを感じた。
 …あれは───…
「失礼します」
 昨日まで滞在していたホテルより、かなりこじんまりとした印象を与えるロッジ風の室内は、先ほど皆が集合したリビングと寝室の二部屋にわかれていた。
 しかし、リビングに人はいなかった。
 彼は反射的に外のバルコニーに設置された非常ドアを気にしたが、まず最初に寝室の方を───ノックしてから───開けた。
 そこももぬけの殻で………。
 キングサイズのベッドには、先刻まで王子が着ていたカシミヤのジャケットやシャツが散らばっていた。
 高村は駆け足でバルコニーに出たが、非常ドアは閉まっていた。
「………」
 鼓動が自動的に早まる。
 無意識に彼は五階下の地上に目を転じた。
 拓けた本館の方ではなく、裏手の森へと続く小道の、木々の間に見え隠れしている人影は───…。
「!」
 彼は非常口から飛び出した。



 「うわぁっ───!」
 森の小道の脇から突然伸びた腕に、いきなりヘッドロックをかけられた男は思わず叫んだ。
「室田さん!」
 前を行く人物が驚いて振り返った。
 しかし、
「!!」
 その人物は、室田のこめかみに突きつけられた、鈍く光るピストルの銃口に言葉を失った。
「殿下───ご無事ですか?」
 高村は男の自由を奪いながら、前方で立ち尽くす人物に向かって呼びかけた。
「───違う」
 王子は凍りついた表情のまま、高村に向かって乾いた声で言った。
「その人を放してあげて下さい。───銃をしまって下さい」
「………」
 高村は自分が抱える男の顔を背後から覗き込んだ。
 三、四十くらいの痩せた男だった。背は高村よりほんの少し低い程度か。
 男は慌てふためきながら両手を挙げている。
「………」
 高村は黙って室田と呼ばれた男を放すと、手にしたH&K P2000をスーツ下のショルダーホルスターに戻した。
「なっ………!」
 室田は体の力が抜けたようにフラつきながらも慌てて高村から離れたが、王子の側に寄るのも避けた方がいいと咄嗟に判断したのか、正三角形を描くように二人の青年から等分に距離を取った。
 王子はライトグレイのタートルネックのシャツに、焦げ茶のブルゾンを羽織っていた。
 それは高村が初めて目にする、年相応の、カジュアルな出で立ちだった。
「殿下───スケジュールにない行動をなさりたいのでしたら、我々の警護は断ってください」
 高村の、いつもの高めの───緊張感が張り詰めた勤務中ですら、若々しさを消しきれない───甘い声色にははっきりと怒気がこもっていた。
「………すみません」
 低い声が王子の口から漏れた。
 彼は肩を落とし、傍目から見てもはっきりと項垂れていた。
 彼らから距離を取りつつも、その中間に立っていた男は、息を詰めて二人のやり取りを見守っていた。
 王子から室田と呼ばれた三、四十の男は、今時の若いビジネスマンが着るようなカジュアルなコートを羽織り、その下は、ノーネクタイでワイシャツとスラックスを身につけていた。
 とても観光客には見えない。せいぜい昼休み中の会社員、といったところだろうか。
「───時間がないんですが」
 上擦ってはいるが、男は切実な様子で王子に訴えた。
 まだ緊張が抜けきっていない硬い表情だが、案外冷静さは失っていないようだ。
 それをきっかけに、王子は思い切ったように高村を見つめ返して言った。
「責任は私が持ちますので、見なかったことにしてもらえませんか?」
 咄嗟に高村が口を開こうとするのを、
「───それは無理か」
 と先に言葉を重ねた。
「だったら、ここは私が自分の地位を笠に着て、押し切って出て行ったことにして下さい」
「その場合は私はただちに随行の方々にお知らせしなければなりませんが」
「それは───」
「大騒ぎになります」
 男が口を曲げて高村を見ていた。まるで非難しているようだ。
「すぐに戻ります。迷惑はかけません。だから───…!」
 そこで王子は言葉を切った。
 端整な顔立ちに浮かぶ焦燥感。
 もう隠す余裕もないようで………。
「………どちらにおいでになるおつもりですか?」
 知りたくはなかったが、聞かざるを得なかった。行く先を知らずして、話は進められない。
 答えるとは思わなかったが、
「近くにある老人ホームです」
 と王子は素早く告げた。
「───母の父が入居しているので」
「!」
 さすがに高村は驚いた。
「だったら───」
「………亡くなった私の母が日本人であることは、もちろん国では知られています。けれどそのことを口にする人はいません。───できないのです。当然、私が身内を訪ねることも許されません」
「おじいさまがお会いになりたいと?」
「いえ。おそらく私の存在すら知らないでしょう。私も名乗るつもりはありません。───ただ、生前の母が祖父に会いたがっていたので………」
 そこで高村はチラリと、二人の間に所在なげに立つ男に視線を投げかけた。
 気づいた王子は、
「私が個人的に依頼した弁護士事務所の方です。───室田さんとおっしゃいます」
 先ほど自分が不用意に名前を口にしてしまったことに気づいていたのだろう。王子は付け加えた。
「日本に来る前に、祖父の居場所を調べてもらったんです」
「昨日の電話はそれですか」
「はい」
「………」
 そこで今度は高村が言葉に詰まった。
 いずれにせよ時間がない。
 何事もなかったとしても、部下との定期連絡の時刻は近づいていた。
 そこで何もないと答えれば………───そうでなくても、自分の今の担当場所である部屋の前に誰かが来れば………。
「───死ぬまで日本に戻らなかった母にとって、祖父は精神的な支えでした。幼い頃から父子家庭だったから余計に………。でも結婚してからはずっと連絡すら取れなかった。母はずっと祖父に会いたいと、理想の父だったと、おまえも父みたいな男になりなさいと………僕はずっと言われて育ったんです」
 「僕」と王子は口にした。
 「私」と「僕」のニュアンスの違いさえ理解している。イントネーションは微かに不自然なところもあったが、彼の日本語はほぼ完璧だった。
 室田が少し驚いた顔をしている。それは王子の言葉に見える切迫した響きにか、それとも、容易に他人───高村にプライバシーを明かしたことにだろうか。
「………最後まで………。………最期はもう───夢見るように」
「………」
 王子の母親は十四、五年前に病死したとデータにはあった。
 今回の日本滞在中、常に落ち着いた様子を崩さなかった王子の深刻な様子に深い事情が窺い知れた。
 …───そんなこと言っても。他にもっとうまい手はなかったのか…
 高村は内心嘆息した。
 相手に引きずられて感情を乱したりはしないが───彼は、王子と室田の顔を交互に眺めた。
 どこまで信用できる男なのか、確かめる余裕は今はなかった。
「───どのくらいでお戻りになれますか?」
 二人は同時に目を見開いたが、王子より男の方が大きく感情が動いたようだった。
 意外と普通の感覚を持つ男なのかもしれない。
「一時間で」
 緊張した面持ちのまま王子は素早く告げた。
「どこの老人ホームですか」
「西風園です」
 その名に高村は見覚えがあった。
 東京からの道中、車窓から看板を見かけたのだ。
 それから十数分でホテルに到着したことや、看板には「ここより六キロ先」などと表示があったことを考えると、面会の時間も含めてそれくらいかかるだろうということは理解できた。
 むしろ、面会時間をぎりぎりまで削った計算だ。
「───車は」
「この先にある」
 室田は咳き込むような勢いで口を開くと、森の木々に囲まれた細い道の先を指差した。
 この辺りも一応ホテルの敷地内ではあったが、整備された道はもちろん、けもの道ですら見つけにくい、普段は人気のない場所のようだった。
 しかし方角的には、この森を抜けた敷地の外に国道が通っていた。
 二人は───この件に関与しているのはこの二人だけなのか、現時点では分からなかったが───よく調べた上で計画を立てたのだろう。
「必ず一時間以内に戻ってきてください」
 高村は素早く言った。
 自分が部屋の前の担当であるうちに。
 他の者に交代した後、このことが発覚した場合、累は部下にまで及びかねない。
「ありがとう」
 王子はあからさまに喜ぶことはしなかった。
 だが、高村を見つめるその瞳には、このことが明るみに出た際、自分が全ての責任を取る決意が見て取れた。
 それは決して嘘ではないだろう。それでも、日本の警察機構内部の、暗黙の賞罰にまでは口は出せまいが───…。
「行ってください」
 高村は言った。
「戻ってきたとき、私のスマホを鳴らしてください。ここまで迎えに来ます」
「わかった」
 頷くと、王子は踵を返して駆け出した。
 室田が慌てて続く。
 彼はチラッと高村を振り返ると、一瞬、頭を下げる素振りを見せ、それから全力で王子の後を追っていった。
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