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暗雲

第27話 小さな不安

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 人払いを任せていた騎士に呼ばれてサンドロが戻ってきたのは、結局五時間後のこととなった。

 幾つもの白い水溜まりができていた机や床は、一応綺麗になっている。
 匂いも……俺の鼻だと問題ないんだけど、魔族は嗅覚が信じられないくらい鋭い種族もいるし。どうだろうか。
 まだ服を着せられるほど体が収まっていなかった旭陽は、俺が後処理をしている間に失神から熟睡に移行してしまった。

 片付けるのに一時間近くかかった……
 この国の掃除は魔法だが、繊細な力加減が苦手な俺はうっかり物を破壊しては再生させるという行程が必ず付き纏う。

 後処理なんて一切しない旭陽は全身を覆う巨大な布団を被り、何人も座れる大きなソファを独り占めして静かな寝息を立てている。
 いや、毎回何の余力も残らないほど俺が貪るのが原因なんだけどな。

 魔王が呼んでいると聞いて戻ってきたサンドロは、ちらちらとソファの白い塊を気にしながら部屋に入ってきた。
 手に新たな紙の束が握られている。

「魔王様、お呼びと聞きましたが……」
「うん、あれ忘れ物じゃないかと思って」

 サンドロの机に残された包みを指す。はっと息を飲んで、照れたように笑った。

「あ、……申し訳ありません。そうです、私のものです。助かりました」

 旭陽を起こさないためだろうか。
 空気すら揺らすまいとばかりの慎重な動きで机に近付き、包みを懐に仕舞っている。

「それ、何か聞いても良いやつか?」

 ただの好奇心で尋ねてみると、サンドロがきりっと表情を引き締めた。

 最初の頃は侮蔑くらいしか読み取れなかったトカゲ顔も、今では問題なく表情が読み取れる。
 サンドロ自身も変わったし、俺も魔族たちの顔をしっかり見るようになったってことかもしれない。

「魔王様に興味を持って頂いて、嫌がる魔族など居りません。お心のままに」

 わざわざ伺いを立ててくるな馬鹿王、ってところか。
 いや、流石にもっと柔らかい言葉だろうけど。

 駄目だ、旭陽の訳し方に毒されてる……!

「魔王様をお待ちしていた時、贄様から見合いなら花の一つでも持って行けば良いんじゃないかと教えて頂きまして」
「へえ、旭陽が…………、んん?」

 今、なんか不思議な単語が聞こえなかったか?

「みっ、見合い?」
「はい、今日ですので! 私も早く番を得られるよう、頑張って参ります」

 えっ? は、初耳……
 動揺している俺に、明るい宣言が向けられる。
 そ、そっか……
 いや、悪いことじゃないんだけど。これだけ一緒にいる時間が長いのに、事前に一言教えてくれても良かったんじゃないかとか……うん。
 ちょっと思うけど、言わないでおこう。

「よく眠っておられますね……」

 微妙にもやもやする気持ちを宥めていると、声を潜めたサンドロがソファに視線をやった。

「あー、うん。俺がつい止まらなくなっちゃうんだよな」

 俺も釣られて白い塊に顔を向ける。
 旭陽の頑丈さや体力は増す一方だが、毎回最中に意識を飛ばさせてしまう。
 ヤってる間中何度も気絶しては快感で叩き起こされるものだから、行為後の旭陽は必ず失神してしまっている。

 やがて起き出してはくるが、暫くは意識も戻らないだろう。
 いや、そろそろ目だけは醒めるか?
 まだ動けはしないだろうが。

「魔王様。以前から気になっていたのですが、もしや毎度噛んでいるのですか?」

 ぴくりともしない白を眺めていると、何処か気遣わしげな声がかけられた。

「え、お……おお。駄目か?」

 性的な話題が得意じゃない相手からの思わぬ質問に、答える声が思わず上擦る。

「そんな! 魔王様のなさることにそのような! ……駄目、ではないのですが……」

 困ったような物言いが気になって、サンドロに視線だけ向けた。

「……毎日怪我をさせる趣味はないから、いつも噛んでるんだが。そのことで何か気になる点があるなら、言ってくれ。
 ――前も言ったが、俺は旭陽以外の贄を持つ気はないんだ」

 俺の性器が大きすぎて、普通に慣らしただけじゃ裂けてしまう。
 なんて申告は流石にする気になれず、とにかく口篭っている内容を尋ねた。

 代によってある程度変わるのですが、とサンドロが前置きする。

「吸血の快感は、強度の陶酔と中毒性が伴います。特に『魔王』陛下の吸血は別格で、加減しないと一度で対象を廃人にしかねません。
 無論、魔王様は加減をなさっていると理解しております! ただ毎日同じ相手となると……いえ、贄様に不調が見られないので問題ないとは思いますが」

 加減。そんなもの――したこと、ない。

 思わず勢いよく旭陽に顔を向ける。
 同時、白い塊がもぞりと動いた。黒髪が現れ、気怠げな顔が布団から覗く。

「……ンだよ、晃……」

 ぐわ、と大きな口が開く。
 のんびりと大欠伸をしている男に大股で歩み寄って、首筋に引っ掛かっている布団を引っ張った。
 はらりと白が下に落ち、褐色の胸板までが晒け出された。

「ああ?」

 旭陽にとっては突然の行動に、不可解だと言いたげな声が向けられた。
 でもそれどころじゃない俺は、噛み跡とキスマーク塗れの裸体に視線を走らせる。

 肌が不自然に蒼褪めていることも、逆に最中を思わせるほど紅潮している様子もない。
 しっとりと淡い色付きを残している、いつも通りの事後の姿。
 目付きも声もおかしくない。目尻が少し赤いのは、一時間ほど前まで泣いていた所為だ。

「旭陽……何処か、おかしなところはないか」
「んなこと言われてもな……腰が痛えとか、晃が噛んだ跡がまだ疼くとか?」
「疼くのか!?」

 慌てて肩を掴めば、旭陽が鋭く息を飲んだ。
 双眸がぐっと眇められ、唇が微かに震える。

「っ……」
「わ、悪い」

 そういえば今日、肩は吸血こそしていないが何度も噛んだり舐めたりした覚えがある。
 咄嗟に手を離して、じっと幾重にも重なった歯型を見つめた。

「だから、何だよ」
「……旭陽、前と比べて何か体の変調とか出てないか?」

 真剣な俺を見て、旭陽が首を傾げる。

「あったら言ってる」
「そ…………れもそうか」

 そんなことで我慢するタイプじゃなかった。
 平然としている態度からして、本当に何の問題も感じていないようだ。

 少し安堵したが、不安は残る。噛む頻度は控えたほうが良いかもしれない。
 毎晩無理矢理引き裂いて受け入れさせるほうが、まだマシなんだろうか……
 悩んでいる俺を他所に、ソファの端に頭を乗せた旭陽がサンドロへ声をかけている。

「あん? 居たのかよ。見合いは良いのか」
「はい、贄様! 魔王様が私の忘れ物を教えて下さって……もう行くところです」
「へえ。まあ頑張ってくりゃイイんじゃねえの」
「はい、ありがとうございます!」

 違うぞ、サンドロ。今のは応援じゃなくて、面白い話仕入れて来いよっていう命令だ。
 相変わらず好意的に受け止められる男の発言に、考え込んでいた思考が脇に逸れた。

「その手のモンは何だ」
「こちらへ運ばれていた新たな報告書です。ついでですので、私が受け取ってきました」

 仕事の話まで出れば、答えの出ない考えは中断するしかない。

「渡してくれ。サンドロはもう上がって良いよ」
「はっ。お疲れ様です、魔王様、贄様! ……あの、これだけ経ってまだ何も変調がないなら、恐らく問題ないと思われますので……」

 手を出せば、サンドロの手の中にあった書類が手渡された。
 かと思えば、難しい顔をしていた俺にフォローを入れてくる。

 心配そうな顔をしながら、サンドロが部屋から出て行った。
 また、二人きりに戻った。
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