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拾われた猫1
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大正十二年、春。
文明開化の進んだここ東京市に、西洋文化に馴染めぬ乙女が一人。早乙女ハナ、十六歳。
女学校が終わり家路につく彼女は、桜が咲き乱れる並木道を一人歩いていた。赤い矢絣模様の着物に、紫の袴。髪の上半分を編み込みにし大きなリボンで留め、足元には黒の編み上げブーツ。典型的な女学生の格好であったが、制服を起用する女学校が増えた昨今では、些か流行遅れであった。
すれ違う若者の殆どが洋装であり、自身の和装が恥ずかしくなったハナは俯いたまま足早に自宅に入っていった。
「ただいま戻りました。」
ハナは玄関の引き戸を開け、声をかけた。すると廊下の奥からパタパタと小さな足音が聞こえてきた。
「おかえりなさいませ、ハナお嬢様。お早いお帰りでしたね。」
「ただいま、婆や。授業が終われば特に用事もないもの。真っ直ぐ帰ってきたのよ。」
「そうでございますか。」
「油の匂いがする。今日のお夕飯はなあに?私も手伝うわ。」
「茄子の揚げ浸しを作ろうかと思って準備していたところだったんですよ。いつもお嬢様にお手伝いしていただいて、申し訳ないです。」
「良いのよ、好きでやっている事だから。それに婆やももう歳でしょ、無理はいけないわ。あなたがいなくなったら、この家は回らないのだから。」
「お気遣いありがとうございます。ですが婆やはまだまだ現役ですよ、年寄り扱いしないでください。」
「ふふ。そうだったわね。着替えてくるから、ちょっと待っていてね。」
「では台所におりますね。」
ハナは自室に入ると、襖を閉めた。するする袴を脱ぎ、簡素な着物に着替えると、髪を留めていたリボンを外し、簡単に髪をまとめ上げるとそれを簪で留めた。部屋を出て台所に行くと、婆やが用意していた襷と前掛けを着用し、コンロの前に立った。
「じゃあ私は茄子を揚げるわね。」
「気をつけてくださいね。火傷の跡でも残ったら奥様に顔向けできませんよ。」
「分かっているわ。」
そうして二人でのんびりと夕食の支度をし、日が暮れる頃、食卓には茄子の煮浸しや焼魚などの和食を中心とした料理が並んだ。
「さあさあ、お米が炊けましたよ。」
「では、いただきましょう。」
二人は手を合わせ、箸を手にした。いつもと同じ光景だったが、婆やはふと申し訳なさそうな顔で呟いた。
「本当に良いんですかねえ…婆やが同じ食卓についても。」
「何度も言っているでしょ、一人で食べるなんて寂しいわ。お願い、一緒に食べて頂戴。」
「分かりましたよ。でもこれは旦那様にはとてもお見せできませんね。」
「良いのよ、お父様は月に一回、決まった日にしか来ないのだから。その日だけ別々に食べていればバレないわ。」
「そうでしょうがねえ。」
昨年ハナの母親が亡くなった事で、この家にはハナと婆やしかいなくなった。使用人を遊ばせておく余裕はこの家にはなく、母親の世話をしていた使用人達には紹介状と共に暇を言い渡した。ハナと婆やだけで住むには些か広すぎるこの家を、二人でなんとか管理しているのが現状だった。
「旦那様に言えば使用人を増やしてもらえるのでは?」
「良いのよ、知らない人が家にいるのが落ち着かないの。お母様が亡くなったのはとても悲しいけど、婆やと二人きりの今の生活が一番落ち着くわ。この家が広すぎるならもっと小さな家に引っ越そうかしら?」
「これ以上質素な暮らしをされるのはきっと旦那様がお許しになりませんよ。」
「そうよねえ…。」
その後は他愛もない会話を時折挟みながら、二人は食事を終えた。
「後片付けくらいは婆やにやらせてくださいね。お嬢様はゆっくりなさっていてください。」
「じゃあお願いするわね。私は庭に出てるわ。」
「今宵は綺麗な満月でしたからね。お庭を散歩なさるのなら肩掛けを持って行ってくださいよ、まだまだ夜は冷えますよ。」
「そうするわ。」
ハナは自室に戻り、毛織の肩掛けを手に取るとそのまま庭に出た。小さな池と、綺麗に剪定された木々が月明かりに照らし出されているのを眺めながら、ハナはゆっくりと庭の小道を進んだ。
「…?何かしら。」
小さな声が聞こえた気がして、ハナは耳をすませた。その声は庭の端に建てられた蔵の中から聞こえているようだった。
「猫が蔵に迷い込んだのかしら。出してあげないと。」
蔵には通気の為の小さな窓がいくつかあり、そこから小動物が迷い込むことは偶にあった。殆どの動物は元来た道を戻り外に出るが、子猫などが迷い込むと出口が分からず、閉じ込められてしまう。そうなると直ぐに死んでしまう為、ハナは焦った。
蔵の鍵を取りに行くと、頑丈に施錠された扉を開き、入り口付近にあったランタンに火を灯した。そのまま耳をすませていると、ニーニーと小さな鳴き声が二階から聞こえてきた。ハナはランタンで足元を照らしながら階段を上がった。ギシギシと階段が軋む音と共に、猫の鳴き声がハナの耳に鮮明に届いた。
「こっちね。」
ハナは乱雑に木箱が積み重ねられた一角に足を運んだ。ランタンで床を照らすと、黒い甲冑が落ちているのに気がついた。
「西洋の鎧かしら?お父様のコレクションね。どこから落ちたのかしら。」
ハナはしゃがみこみその黒い甲冑を触ろうとしたが、手が触れる前にそれはモゾモゾと動き出した。小さな悲鳴をあげ思わず後ずさりしたハナであったが、甲冑の下から覗く二つの金色の光に気がつき、ホッと息を吐いた。
「ここにいたのね。鎧の下敷きになって動けないのかしら。駄目よ、お父様のコレクションを勝手に弄っては。」
「フーッ!」
ハナは甲冑を持ち上げ、中を覗き込んだ。そこには一匹の黒猫が弱った身体で精一杯の威嚇を見せており、その金色の瞳がランタンの火をキラキラと反射していた。ハナはそっと黒猫に手を伸ばすと、それを鼻の先に近づけた。警戒しながらもフンフンと鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ黒猫。野良猫と仲良くなるには、まず匂いを嗅がせ警戒心を解くことから始めると聞いたことがあった。実践してみると、確かに黒猫は警戒を若干ではあったが解いたようだ。
「怪我をして動けないの?待っててね、助けてあげるから。」
「にゃお」
返事をしたかのように鳴き声を返した黒猫を見て、ハナは微笑んだ。両手を黒猫の脇に差し込みするりと抱き上げると、支えを失った黒い甲冑がガシャンと音を立てた。ハナは甲冑を片付けようか一瞬悩んだが、猫の手当てを優先する事に決めると、階段を降りていった。
月明かりの届かない暗い蔵の中で、蠢く闇が潜んでいたのを、ハナは最後まで気づくことはなかった。
文明開化の進んだここ東京市に、西洋文化に馴染めぬ乙女が一人。早乙女ハナ、十六歳。
女学校が終わり家路につく彼女は、桜が咲き乱れる並木道を一人歩いていた。赤い矢絣模様の着物に、紫の袴。髪の上半分を編み込みにし大きなリボンで留め、足元には黒の編み上げブーツ。典型的な女学生の格好であったが、制服を起用する女学校が増えた昨今では、些か流行遅れであった。
すれ違う若者の殆どが洋装であり、自身の和装が恥ずかしくなったハナは俯いたまま足早に自宅に入っていった。
「ただいま戻りました。」
ハナは玄関の引き戸を開け、声をかけた。すると廊下の奥からパタパタと小さな足音が聞こえてきた。
「おかえりなさいませ、ハナお嬢様。お早いお帰りでしたね。」
「ただいま、婆や。授業が終われば特に用事もないもの。真っ直ぐ帰ってきたのよ。」
「そうでございますか。」
「油の匂いがする。今日のお夕飯はなあに?私も手伝うわ。」
「茄子の揚げ浸しを作ろうかと思って準備していたところだったんですよ。いつもお嬢様にお手伝いしていただいて、申し訳ないです。」
「良いのよ、好きでやっている事だから。それに婆やももう歳でしょ、無理はいけないわ。あなたがいなくなったら、この家は回らないのだから。」
「お気遣いありがとうございます。ですが婆やはまだまだ現役ですよ、年寄り扱いしないでください。」
「ふふ。そうだったわね。着替えてくるから、ちょっと待っていてね。」
「では台所におりますね。」
ハナは自室に入ると、襖を閉めた。するする袴を脱ぎ、簡素な着物に着替えると、髪を留めていたリボンを外し、簡単に髪をまとめ上げるとそれを簪で留めた。部屋を出て台所に行くと、婆やが用意していた襷と前掛けを着用し、コンロの前に立った。
「じゃあ私は茄子を揚げるわね。」
「気をつけてくださいね。火傷の跡でも残ったら奥様に顔向けできませんよ。」
「分かっているわ。」
そうして二人でのんびりと夕食の支度をし、日が暮れる頃、食卓には茄子の煮浸しや焼魚などの和食を中心とした料理が並んだ。
「さあさあ、お米が炊けましたよ。」
「では、いただきましょう。」
二人は手を合わせ、箸を手にした。いつもと同じ光景だったが、婆やはふと申し訳なさそうな顔で呟いた。
「本当に良いんですかねえ…婆やが同じ食卓についても。」
「何度も言っているでしょ、一人で食べるなんて寂しいわ。お願い、一緒に食べて頂戴。」
「分かりましたよ。でもこれは旦那様にはとてもお見せできませんね。」
「良いのよ、お父様は月に一回、決まった日にしか来ないのだから。その日だけ別々に食べていればバレないわ。」
「そうでしょうがねえ。」
昨年ハナの母親が亡くなった事で、この家にはハナと婆やしかいなくなった。使用人を遊ばせておく余裕はこの家にはなく、母親の世話をしていた使用人達には紹介状と共に暇を言い渡した。ハナと婆やだけで住むには些か広すぎるこの家を、二人でなんとか管理しているのが現状だった。
「旦那様に言えば使用人を増やしてもらえるのでは?」
「良いのよ、知らない人が家にいるのが落ち着かないの。お母様が亡くなったのはとても悲しいけど、婆やと二人きりの今の生活が一番落ち着くわ。この家が広すぎるならもっと小さな家に引っ越そうかしら?」
「これ以上質素な暮らしをされるのはきっと旦那様がお許しになりませんよ。」
「そうよねえ…。」
その後は他愛もない会話を時折挟みながら、二人は食事を終えた。
「後片付けくらいは婆やにやらせてくださいね。お嬢様はゆっくりなさっていてください。」
「じゃあお願いするわね。私は庭に出てるわ。」
「今宵は綺麗な満月でしたからね。お庭を散歩なさるのなら肩掛けを持って行ってくださいよ、まだまだ夜は冷えますよ。」
「そうするわ。」
ハナは自室に戻り、毛織の肩掛けを手に取るとそのまま庭に出た。小さな池と、綺麗に剪定された木々が月明かりに照らし出されているのを眺めながら、ハナはゆっくりと庭の小道を進んだ。
「…?何かしら。」
小さな声が聞こえた気がして、ハナは耳をすませた。その声は庭の端に建てられた蔵の中から聞こえているようだった。
「猫が蔵に迷い込んだのかしら。出してあげないと。」
蔵には通気の為の小さな窓がいくつかあり、そこから小動物が迷い込むことは偶にあった。殆どの動物は元来た道を戻り外に出るが、子猫などが迷い込むと出口が分からず、閉じ込められてしまう。そうなると直ぐに死んでしまう為、ハナは焦った。
蔵の鍵を取りに行くと、頑丈に施錠された扉を開き、入り口付近にあったランタンに火を灯した。そのまま耳をすませていると、ニーニーと小さな鳴き声が二階から聞こえてきた。ハナはランタンで足元を照らしながら階段を上がった。ギシギシと階段が軋む音と共に、猫の鳴き声がハナの耳に鮮明に届いた。
「こっちね。」
ハナは乱雑に木箱が積み重ねられた一角に足を運んだ。ランタンで床を照らすと、黒い甲冑が落ちているのに気がついた。
「西洋の鎧かしら?お父様のコレクションね。どこから落ちたのかしら。」
ハナはしゃがみこみその黒い甲冑を触ろうとしたが、手が触れる前にそれはモゾモゾと動き出した。小さな悲鳴をあげ思わず後ずさりしたハナであったが、甲冑の下から覗く二つの金色の光に気がつき、ホッと息を吐いた。
「ここにいたのね。鎧の下敷きになって動けないのかしら。駄目よ、お父様のコレクションを勝手に弄っては。」
「フーッ!」
ハナは甲冑を持ち上げ、中を覗き込んだ。そこには一匹の黒猫が弱った身体で精一杯の威嚇を見せており、その金色の瞳がランタンの火をキラキラと反射していた。ハナはそっと黒猫に手を伸ばすと、それを鼻の先に近づけた。警戒しながらもフンフンと鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ黒猫。野良猫と仲良くなるには、まず匂いを嗅がせ警戒心を解くことから始めると聞いたことがあった。実践してみると、確かに黒猫は警戒を若干ではあったが解いたようだ。
「怪我をして動けないの?待っててね、助けてあげるから。」
「にゃお」
返事をしたかのように鳴き声を返した黒猫を見て、ハナは微笑んだ。両手を黒猫の脇に差し込みするりと抱き上げると、支えを失った黒い甲冑がガシャンと音を立てた。ハナは甲冑を片付けようか一瞬悩んだが、猫の手当てを優先する事に決めると、階段を降りていった。
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