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【前日譚】都筑家の事情
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「…あまりとやかく言いたくはないのだがね。…私も親にうるさく言われて育った」
ついに本題に入るのか。息子はキャビアが散らばるソースの上のアワビの前菜に手を付けようとしたフォークを下ろした。
「お前は今年で何歳になった」
「29です」今は晩秋である。窓の外はビル群…秋の深い闇に覆われている。
「…そうだな。私がお前の年にはもう結婚していた」
「はい」
まあそうくるだろうな。覚悟とまではいかないが、頭の隅で構えてはいた。
「そろそろ真剣に考えないか。自分で相手を見つけられないなら、親が干渉するのは当たり前だろう」
「ええ」
「子供さえできればいい…とは言わないが、跡取りを残すのは義務なんだよ。相手に好意を持てそうか真剣に考えなくてもいい」
「そのあたりはお父さんと違いますね」
「ああ、そうだ」
父は大きく頷いた。
「私の話はいい。好みの相手がいないのなら割り切るという選択肢も考えてみてはどうだね。お前が苦々しく感じているのだとしたら結婚して子供さえできてしまえばほぼその感情からは解放されるのだよ」
「はい。それは…わかります」
「30歳。それが期限とは言わないが、もしもその歳を越えて同じ状況だったら…私はもっと踏み込んだ話をするだろう」
「来年ということですか」
「そうだねえ。…それとね」
父は姿勢を崩し横向きに脚を組んだ。贅肉のないすらっとした体形で背は170少々、視線は鋭く、あごひげを耳まで伸ばした風貌は科学者ぽくもあり、常に高級スーツに包まれ演出めいた動作とセリフ回しのせいかダンディな俳優のようでもある。
「そろそろ現場に顔を出すのは止めなさい」
少しテーブルに乗り出して、言った。
それについては返答に困った。
やはり父の耳にも届いているのか。
別にしてもしなくてもいい現場視察。
「ええ、そのつもりです」
やっと言葉にした。外の闇の中心は旧財閥所有の古い洋館と芝の庭であり、明治初期に建てられた石造りの館が照明に照らされ浮かび上がる。
「お前がわざわざ出向いて交渉の場など見ることはない。一番、どうでもいいところだ」
諭すような父の言葉に無表情で応じた。
特に後ろのフレーズはゆっくりと力を込めて、まさに俳優のように目を見据えて、父は言った。
「よいな」
「はい」
自分もそろそろ顔を出すのは止めようと思っていたところだ。
現場の熱量を感じてみたい、ただ気まぐれのような思い付きだった。
「そのための優秀な人材だ。専任の者に任せておけばいいのだよ」
「ええ」
「まあ、母親の血を継いでいるのだろうな、お前のそういうところは」
父は含みを持たせ、窓の外に視線を移す。
庭を取り囲む摩天楼の窓の明かり、あの一つ一つに人の存在があり、ドラマが続いているのだ。
無数の小さな光。
「義務さえ果たせば何をやってもいいのだよ」
「はい」
「お前は忘れられた時代を探るのが好きだったなあ。間違いなく玲子の影響だ」
幼いころ…母はよく絵本を読んでくれた。
そして自らも憧れていた地中海沿岸~中東~アジアの神殿、遺跡の話をしてくれた。
模型を作りこんな建物に住んでみたい、とも言っていた。
そして家を離れ自由になり、別のかたちで夢をかなえた。
母は名の知れた建築家だ。
空気の緊張がとれ、ディナーが再開した。
「どうだい、うまいかい」
「はい」
「それはよかった。わざわざ持ち込んだ甲斐があった」
父はガラッと口調を変え、にやりと閉じた口元の端を大きく動かした。
「持ち込み?」
「そのキャビアのようなもの、実は海苔とオイルをポリフェノールで固めたものなんだよ」
「えっ」
そういえばソースにえらくキャビアが散らばっているなと思ったら。
「いや~、内臓料理の好きな奴が尿酸値に悩んでいてね、それらをやめてキャビアとイクラに代替してはどうかと提案したら、コクがなくて飽きると言ってきてね。それでこしらえてみたのだが」
驚いた。やっぱり来たか。
「お父さん、僕を実験台にしないでください」
基本、いじくりまわした人工食は嫌いなのだが。
「ビーガンが肉が恋しくて大豆をミートに見立てて食べるようものじゃないですか」
「これは違うよ、別にキャビアに見立ててるわけじゃない。お前が食べたものはキャビア風味だが」
「ややこしいです」
「その例えで言うとあん肝やフォアグラに見立てたもどき料理を作りたかったのだがうまく固まらなくてね」
市販の代替品はまずい、と父は笑う。
「それこそプロの料理人に任せればいいじゃないですか」
「急に言ってくるから。東京に戻るのは半年ぶりだ」
「そこまでして食べたいものですかね」
呆れて大声を出した。
「はははは、私も同じことを彼に言ったんだがね。間に赤ワインと芋のソテーでもはさんで優雅に嗜んではどうかね、と」
「代替物よりもクエン酸で中和したらどうですか。その方が早いでしょう。他の食材で似た味を再現するのはどうかと…」
だから痛風なんかになるんだ。そうではないか?
ついに本題に入るのか。息子はキャビアが散らばるソースの上のアワビの前菜に手を付けようとしたフォークを下ろした。
「お前は今年で何歳になった」
「29です」今は晩秋である。窓の外はビル群…秋の深い闇に覆われている。
「…そうだな。私がお前の年にはもう結婚していた」
「はい」
まあそうくるだろうな。覚悟とまではいかないが、頭の隅で構えてはいた。
「そろそろ真剣に考えないか。自分で相手を見つけられないなら、親が干渉するのは当たり前だろう」
「ええ」
「子供さえできればいい…とは言わないが、跡取りを残すのは義務なんだよ。相手に好意を持てそうか真剣に考えなくてもいい」
「そのあたりはお父さんと違いますね」
「ああ、そうだ」
父は大きく頷いた。
「私の話はいい。好みの相手がいないのなら割り切るという選択肢も考えてみてはどうだね。お前が苦々しく感じているのだとしたら結婚して子供さえできてしまえばほぼその感情からは解放されるのだよ」
「はい。それは…わかります」
「30歳。それが期限とは言わないが、もしもその歳を越えて同じ状況だったら…私はもっと踏み込んだ話をするだろう」
「来年ということですか」
「そうだねえ。…それとね」
父は姿勢を崩し横向きに脚を組んだ。贅肉のないすらっとした体形で背は170少々、視線は鋭く、あごひげを耳まで伸ばした風貌は科学者ぽくもあり、常に高級スーツに包まれ演出めいた動作とセリフ回しのせいかダンディな俳優のようでもある。
「そろそろ現場に顔を出すのは止めなさい」
少しテーブルに乗り出して、言った。
それについては返答に困った。
やはり父の耳にも届いているのか。
別にしてもしなくてもいい現場視察。
「ええ、そのつもりです」
やっと言葉にした。外の闇の中心は旧財閥所有の古い洋館と芝の庭であり、明治初期に建てられた石造りの館が照明に照らされ浮かび上がる。
「お前がわざわざ出向いて交渉の場など見ることはない。一番、どうでもいいところだ」
諭すような父の言葉に無表情で応じた。
特に後ろのフレーズはゆっくりと力を込めて、まさに俳優のように目を見据えて、父は言った。
「よいな」
「はい」
自分もそろそろ顔を出すのは止めようと思っていたところだ。
現場の熱量を感じてみたい、ただ気まぐれのような思い付きだった。
「そのための優秀な人材だ。専任の者に任せておけばいいのだよ」
「ええ」
「まあ、母親の血を継いでいるのだろうな、お前のそういうところは」
父は含みを持たせ、窓の外に視線を移す。
庭を取り囲む摩天楼の窓の明かり、あの一つ一つに人の存在があり、ドラマが続いているのだ。
無数の小さな光。
「義務さえ果たせば何をやってもいいのだよ」
「はい」
「お前は忘れられた時代を探るのが好きだったなあ。間違いなく玲子の影響だ」
幼いころ…母はよく絵本を読んでくれた。
そして自らも憧れていた地中海沿岸~中東~アジアの神殿、遺跡の話をしてくれた。
模型を作りこんな建物に住んでみたい、とも言っていた。
そして家を離れ自由になり、別のかたちで夢をかなえた。
母は名の知れた建築家だ。
空気の緊張がとれ、ディナーが再開した。
「どうだい、うまいかい」
「はい」
「それはよかった。わざわざ持ち込んだ甲斐があった」
父はガラッと口調を変え、にやりと閉じた口元の端を大きく動かした。
「持ち込み?」
「そのキャビアのようなもの、実は海苔とオイルをポリフェノールで固めたものなんだよ」
「えっ」
そういえばソースにえらくキャビアが散らばっているなと思ったら。
「いや~、内臓料理の好きな奴が尿酸値に悩んでいてね、それらをやめてキャビアとイクラに代替してはどうかと提案したら、コクがなくて飽きると言ってきてね。それでこしらえてみたのだが」
驚いた。やっぱり来たか。
「お父さん、僕を実験台にしないでください」
基本、いじくりまわした人工食は嫌いなのだが。
「ビーガンが肉が恋しくて大豆をミートに見立てて食べるようものじゃないですか」
「これは違うよ、別にキャビアに見立ててるわけじゃない。お前が食べたものはキャビア風味だが」
「ややこしいです」
「その例えで言うとあん肝やフォアグラに見立てたもどき料理を作りたかったのだがうまく固まらなくてね」
市販の代替品はまずい、と父は笑う。
「それこそプロの料理人に任せればいいじゃないですか」
「急に言ってくるから。東京に戻るのは半年ぶりだ」
「そこまでして食べたいものですかね」
呆れて大声を出した。
「はははは、私も同じことを彼に言ったんだがね。間に赤ワインと芋のソテーでもはさんで優雅に嗜んではどうかね、と」
「代替物よりもクエン酸で中和したらどうですか。その方が早いでしょう。他の食材で似た味を再現するのはどうかと…」
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