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1話
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ヘルシーメニュー。
その言葉から連想するのはやっぱ和食、だろうか。
甘い和惣菜はダメ、と言われたけど寿司系はオッケーみたいなので、朝イチのエスプレッソ出した後張り切って茶そばの巻き寿司を巻く。
これって初めて大阪に遊びに行った時駅で買った思い出の一品でもある。こういう食べ物ってあるんだ、と素直に感動したのを覚えている。お米が蕎麦に替わっただけの発想の転換なのだが。
それをお昼にまたまた自前のお茶とともに並べて。効くかどうかわかんないサプリも添えて。
少しして会長に呼ばれた。
「ご馳走様。――そういえば言ってなかったが私は蕎麦が苦手で食べないんだった」
「え?」
ひやっとした。問題発言。早く言ってよ! しかしお皿は綺麗に片付いている。
「……食べた後で思い出したんだ。美味かったよ」
「は、はあ……」
会長は首をかしげた。
「あ、なら別に言う必要なかったか。何を言ってるのかな、私は。気にしないでくれ」
「は、はい」
? 意味不明。どっかおじさんちっくなんだから。ぷぷっと一人受けする私。
「それと、市川くん」
「はい」
「給料について君はどうもはっきりしないからとりあえず特別賞与扱いにして振り込ませておいたよ。明細を渡しておこう」
「はい?」
私は手渡されたものを見てびっくりした。
「な、なんですか、これ」
「賞与の明細だ。経理に調べさせた金額なんだがね、それが業種の最低のラインらしい」
最低って。20万以上ありますけど?
「こ、これ、賞与って」
「材料費プラスαだな」
固まってしまう私と対照的に会長はあっさりと言い放つ。
「言っておくがとりあえず臨時の賞与であって基本給はまた別だよ。偶然秘書の給与とほぼ同じだそうだからまあ妥当な所だろう。また不都合でもあれば言いなさい」
「は、はあ」
有無も言わさんって雰囲気に尻込みし、予備室に引っ込んで呆然と給与明細を見つめる私。
えーー。ってまじ? これに給料が加算されるの? 30万プラスαって私せいぜい5000円……よくて数万そこらだと思ってた。そんなもんじゃん? 住宅手当とか教育手当てとかと一緒じゃないの? それが20万って……。もしかして来月の給料50万あるってこと? 秘書並み? ウソ―――……。ウチのお父さんより多いかもしれない。
貧乏性の私はしまいには手が震え、かなりの時間そこに篭っていたらしい。
「市川くん」
―――は。
「市川くん。ちょっと来なさい」
「は、はい!」
何度も呼ばれてはっと気付き、あせって部屋を出る私。――出て、更に慌てた。
――や、やば!
お初の『来客』だったのだ!
「や、すみません、私、お茶もお出ししないで」
それに確かこのお方は……。わわわ。
「いや。いいよ、お茶ならもう飲んだ。君もこっちへ来て頂きなさい」
「え?」
何のことかわからず二人を見つめる私。会長の机の上には小さな紙の包みがのっかっていた。
「姫島副社長だ。わかるかな?」
うわー、そう。副社長だ。副社長が来られてるってのに、私ったら!
よく見ると副社長は会長のすぐそばでみすぼらしい補助椅子みたいなのにちょこんと腰掛けていた。
――ちょっと会長、副社長がいらしてるのに補助椅子なんかに座らせちゃっていいの!?
なんか情けない図だ。私に気前よく給料振り込むくらいならソファセット買えばいいのに、会長。
「あ、あの、椅子をお持ちしましょうか」
せめて私は遠く離れた秘書席の椅子を持ってこようとする。そもそも会長が部屋にいるときはここに座って来客の応対とかしないといけないのだろうに……。いくら特殊な業務だからって。
「いやいや」
笑いながら副社長は首を横に振った。気のよさそうなおじさん。50代半ばというところか。
「いいんですよ、いらない、いらない、すぐに退散しますから」
「ふ。腰掛けるものはあったんだが取り払ってしまったんだよ」
と、会長。は。さようで。
「そうそう、今では私の部屋にそれが来てましてね。だから副社長室には応接セットがふたつあるんですよ」
笑い話かい、それ。会長の人嫌いも困ったものだ。
人嫌い……。だけど何だか今は様子が違う。空気がぴんと張り詰めていないような。副社長の優しい笑顔がそう物語っている。
「副社長が君にこれを持ってきてくれたんだよ」
と、私の目の前にすっと寄せられた包み。
え? これって……。
―――ガトーショコラフォンデュ……。
うっすらと中身が透けて。手をかざすと熱い。そのせいでパラフィン紙の包み紙がふわっと膨らんでいる。きゅっとピンクとブラウンのリボンで結ばれて、可愛いラッピングだ。
「なじみの店に言って作ってもらったんですよ。お皿もフォークも入ってますからどうぞそのまま召し上がって。―――今年のバレンタインに品物と一緒にこれを配ったら秘書の方に喜ばれてね。市川さんはその頃いなかったでしょう? だからどうかなと思いまして。差し入れに来ました」
「あ、は、はい、え、そんな、すみません、じゃ、私だけ?―――え、バレンタインに??」
配ったって。普通女の社員が男の上司とかにあげるんじゃないの? いわゆる義理チョコってヤツだ。
きょとんとした顔をしただろう私に、会長と副社長はふふっと軽い笑みを浮かべた。
「……いい年をした男が真冬の時分にチョコレートの類をもらって喜ぶと思うか?」
ぐさりと胸に突き刺さる会長のお言葉。
……でも真夏にわたすとドロドロに溶けちゃうじゃん? 無声で意味のない反論をする私。確かにバレンタインに男にチョコあげるより貰った方が嬉しいなって思ったことはあるけれども。チョコ好きなのは圧倒的に女の方だからさ。しかしそう冷たく斬り捨てるのもどうかと。
微笑みながら副社長がちゃんと説明を施してくれた。
「毎年毎年女性も気を使って大変でしょう。正直私らも年だしねえ。ウチの会社は基本的に義理チョコはなしってことにしてるんですよ。まあ判断は各職場に任せてはいるんですけどね。全然もらわないって訳じゃないんですよ。得意先の秘書の方から結構な数頂いてますし、そちらの方はお断りするわけにいかないんで、せめて内部では義理は辞めておこうとそうしてるんです。逆にいつもお世話になっている秘書室の方々に希望を聞いて毎年ささやかな贈り物をしてるんですよ。菓子を添えてね。ふふふ、スポンサーは会長ですが」
「……副社長の目利きのお陰で今の所秘書の連中の不満はないようだが」
会長は皮肉っぽく笑った。ささやかなって……。どうせブランド物か何かでは? 秘書室の人全員に? やっぱこの会社ってばすごいな。
「まあ、食べなさい。冷めないうちに」
「は、はい。すみません、頂きます」
食べろと言われて、何故かコーヒーまで入れてあって、私は遠慮なく会長の広い机の端っこで包みを開けた。補助椅子に腰掛けて。ちなみに補助椅子と言ってもフラワーベースか何かを飾るスツールのようなシロモノだ。
途端に広がる甘いカカオの香り。ああ、幸せ~。フォークを入れて更に幸せ……。今度は目で味わう。とろーりと中からチョコレートが溶け出して下に敷いたアングレーズソースと混ざる。
オイシソ―――!!
これ嫌いな女の子っていないんじゃないかな、マジで。
「いただきまーーす」
勢いよくほおばった。
おいしいっっっ――!!
チョコレート生地の中からチョコレートが溶け出し、更にバニラ風味のソースと粉砂糖がこれでもかって甘味攻撃をかける。
パフェにも勝るスイーツオンスイーツだ。しかもちょっと大人のほろにが系。こればっかりは出来たてじゃないとね。ショコラフォンデュ。お店でもあんまし置いてない。あったとしてもできあいを温めて出してる所が殆どだからこんなトロトロのソースはお目にかかれない。作りたて。副社長の行きつけってフランス料理のお店なんだろうな多分。この深み、匂い、味、まろやかさ、超高級生チョコ使用に違いない。超ラッキ――――ッ。
「すみません、コーヒーも入れていただいて。私が入れないといけないのに」
「たまにはいいじゃないですか」
「これ、誰が?」
そろっときくと、副社長さんが会長を見て数回小さく頭を振った。
――ええ、会長に入れてもらっちゃったの? やだ―――。
「す、すみません」
「コーヒーメーカーなら私も入れられるんですけどね。この部屋にはないんですよ」
と、低姿勢な副社長さん。そんな、めっそうもない。
「あれは音がうるさい。味もすぐに落ちるし」
……会長。変な所にこだわるなって。それじゃエスプレッソマシンは何なんですか。
「ふふふ。ま、喜んでもらえてよかった。それじゃ私はこの辺で」
私の幸せ顔を見て安心したのか副社長さんは部屋を出て行った。
甘い香りが充満するお部屋にいつもの静けさが戻っていく。
「―――あ、すみません、会長、すぐに食べますんで」
今更だが私は会長の机でものをほおばっていることを恥じてそう言った。
「いいよ、別に。ゆっくり食べなさい」
と、お仕事モードに戻っていく会長。私のすぐそばでPCに向かい合う。
驚くほど切り替えの出来る人だ、この人は。もう私なんて眼中にない。多分。私は食べながらそのオシゴト顔をちらちら眺めた。
―――仕事人間にも心を許せる部下がいたのかな。
なんかそんなこと思った。あの姫島さんて多分そんなお人なんだろう。年齢がかなり逆転しちゃってるけど。
「あ、あの優しい方なんですね。副社長さんって」
喋っちゃいけないと思いつつ……私は口を開いた。
「ああ。父の直接の部下だった人間でね。社内で一番人望が厚い。君はウチの社長の名前が言えるか?」
無視されずに言葉が返ってきた。と思ったらまた説教か……。
「は、はあ。渋澤社長さん、ですか」
確かそんな名前。HP見ておいてよかった。
「そう……。渋澤氏は日本では指折りの金融のプロだ。副社長もそうだが。あの2人のお陰でウチの財務部門は他社をかなりリードしていると言える」
「はあ」
こういう話は仕事しながらでもできるんだな。それにしても菓子食べながらする話じゃないような。できたらソファかなんかに座って食べれるとサロン気分なんだけど。
って私がくつろいでどうする。
「ご馳走になりました」
「ん。君は美味そうに食べるな」
「はあ」
こんなもの気取って食べられるかっての。
思いっきりタナボタ――…。しかし思いがけずご立派なスイーツを出されて私はその後会長に自作のデザートを出すのがかなり恥ずかしかった。
――無事食べてはもらえたのだが。
ちょっとこの職、金額妥当なんだろうか。せめて明日からもっと原価をかけないと。マジでそう思った。
いつものように「先に帰っていい」と言われて秘書室ヘ戻ると、秘書の人に声をかけられた。会長は今日も会食だ。
「ね、市川さん、あなた会長にお出しする軽食も作ってるんですって?」
と、社長秘書さん。会長らの車の手配をして下に降りるところだったらしい。
「は、はあ」
「どうしてまた……。どう? 何かキツク言われたりはしない?」
「は、いや、特には……」
毎度毎度、何て答えていいかわからない、この手の質問。副社長さんと結構和んでいたんだけどな。そういう所はこの人たちにはあまり伝わらないのだろうか。
「会長って日中のお出かけがあまりお好きでないでしょ? だからお昼を抜いてしまうこともしょっちゅうだったけど。そう……。とうとう閉じこもってしまわれたのね」
と深いため息を漏らす秘書さん。ていうか元々は私が言い出したんだけども。
「大変ねえ」
とまた眉間にしわ寄せ顔で言われる。だから全然大変じゃないんだけど。どうも本当のことが言いにくい、この雰囲気。
「ああ、でも明日はあなたも息抜きができるわよ」
「え?」
息抜き?
「明日のお昼は会長、コンラッド東京であるHISのレセプションパーティに行かれるから。お食事はいらないはずよ。言ってらっしゃらなかった?」
「はい。知りませんでした」
「そう。やっぱり教えてもらってないのね、会長のスケジュール。……ま、いつものことだから。気にしないでね、市川さん」
「はあ……」
ってもそんなに悲観的に捉えてないのだが。多分明日の朝言われるんじゃないかな。別にそれでも気にしない私。
「でも……。あなたも会長のスケジュール知っておいた方がいいかもしれないわね。この後室長に言って送っておくわね。よかったら参考にして」
「はい」
スケジュール……。会食とかの?
「今日も会食なんですよね、会長さん」
「ええ、社長、副社長もご一緒にね。アメリカのグループ企業の方がいらっしゃるの」
「そうなんですか。どちらで?」
「久兵衛よ」
えーー、銀座の? 超有名なお寿司屋さんだよね? すご。そういうところで毎日食べてるんだ……。お昼に寿司もどきなんて出すんじゃなかったと後悔する私。しっぱーい! 会食のスケジュール表必要だわ、こりゃ。
何となく打撃を食らって、社長秘書さんについて下に降りる。そのまま帰らず、会長らを見送る秘書さんと話をしていた
やがて会長ら3人が現れる。私たちも続く。
広いエントランスに並んだ社用車はピッカピカ……。会長、社長、副社長が2台に別れて乗車するらしい。部屋からスーツ姿のままで出てきた会長に引き換え社長ら2人はコートの襟を立てていた。実際かなり寒くて、私でも寒い、と呟いてしまいそうだ。
と、突然、社長の大きな声が聞こえる。
「会長。寒くないですか、コートもなしで」
「……いや。別に平気です」
「はははは、さすがにお若いですな。私も見習ってマフラーくらいは取ろうか」
社長さんは笑いながら襟元に手をかける。高そうなマフラーがちらりと覗いて。
「――いやいや、社長。無理はなさらん方がいいですよ。私は逆に女房から『着込めるだけ着込め』と言われております」
副社長が間を取る。
「ほう」
「やせ我慢をして薄着でいるのはかえってみっともないからやめてくれってね。それで倒れでもしたら目も当てられん、もうお互い年なんだから無理するな……と、それにはじまっていつの間にかウチの話になりましてな。どこそこのお宅のようにウチも全室なるべく同じ温度にしておいたほうがいいと言い出しまして。私が頷いて聞いているのをいいことに、結局家の空調を新調させられましたよ。……わははは、うまいことのせられました」
「はは、そうですか。どこも女性が強いですな。倒れるのはたいがい男の方ですし」
「ククク、そうそう」
「マフラーやっぱりしておこうか。血管切れちゃいかん」
オヤジトーク炸裂――…。
寒いんなら話してないでさっさと乗っちゃえば?
初めて現物見たけど気さくな感じの社長さんだ。
渋澤京一社長、姫島基樹副社長、そしてウチの会長。さしずめウチの社の三本柱って所だろうか。
寒空に消えるオヤジ三人衆。会長以外はなんか人当たりよさそうなおじさんで。ちょっと意外だった。
その言葉から連想するのはやっぱ和食、だろうか。
甘い和惣菜はダメ、と言われたけど寿司系はオッケーみたいなので、朝イチのエスプレッソ出した後張り切って茶そばの巻き寿司を巻く。
これって初めて大阪に遊びに行った時駅で買った思い出の一品でもある。こういう食べ物ってあるんだ、と素直に感動したのを覚えている。お米が蕎麦に替わっただけの発想の転換なのだが。
それをお昼にまたまた自前のお茶とともに並べて。効くかどうかわかんないサプリも添えて。
少しして会長に呼ばれた。
「ご馳走様。――そういえば言ってなかったが私は蕎麦が苦手で食べないんだった」
「え?」
ひやっとした。問題発言。早く言ってよ! しかしお皿は綺麗に片付いている。
「……食べた後で思い出したんだ。美味かったよ」
「は、はあ……」
会長は首をかしげた。
「あ、なら別に言う必要なかったか。何を言ってるのかな、私は。気にしないでくれ」
「は、はい」
? 意味不明。どっかおじさんちっくなんだから。ぷぷっと一人受けする私。
「それと、市川くん」
「はい」
「給料について君はどうもはっきりしないからとりあえず特別賞与扱いにして振り込ませておいたよ。明細を渡しておこう」
「はい?」
私は手渡されたものを見てびっくりした。
「な、なんですか、これ」
「賞与の明細だ。経理に調べさせた金額なんだがね、それが業種の最低のラインらしい」
最低って。20万以上ありますけど?
「こ、これ、賞与って」
「材料費プラスαだな」
固まってしまう私と対照的に会長はあっさりと言い放つ。
「言っておくがとりあえず臨時の賞与であって基本給はまた別だよ。偶然秘書の給与とほぼ同じだそうだからまあ妥当な所だろう。また不都合でもあれば言いなさい」
「は、はあ」
有無も言わさんって雰囲気に尻込みし、予備室に引っ込んで呆然と給与明細を見つめる私。
えーー。ってまじ? これに給料が加算されるの? 30万プラスαって私せいぜい5000円……よくて数万そこらだと思ってた。そんなもんじゃん? 住宅手当とか教育手当てとかと一緒じゃないの? それが20万って……。もしかして来月の給料50万あるってこと? 秘書並み? ウソ―――……。ウチのお父さんより多いかもしれない。
貧乏性の私はしまいには手が震え、かなりの時間そこに篭っていたらしい。
「市川くん」
―――は。
「市川くん。ちょっと来なさい」
「は、はい!」
何度も呼ばれてはっと気付き、あせって部屋を出る私。――出て、更に慌てた。
――や、やば!
お初の『来客』だったのだ!
「や、すみません、私、お茶もお出ししないで」
それに確かこのお方は……。わわわ。
「いや。いいよ、お茶ならもう飲んだ。君もこっちへ来て頂きなさい」
「え?」
何のことかわからず二人を見つめる私。会長の机の上には小さな紙の包みがのっかっていた。
「姫島副社長だ。わかるかな?」
うわー、そう。副社長だ。副社長が来られてるってのに、私ったら!
よく見ると副社長は会長のすぐそばでみすぼらしい補助椅子みたいなのにちょこんと腰掛けていた。
――ちょっと会長、副社長がいらしてるのに補助椅子なんかに座らせちゃっていいの!?
なんか情けない図だ。私に気前よく給料振り込むくらいならソファセット買えばいいのに、会長。
「あ、あの、椅子をお持ちしましょうか」
せめて私は遠く離れた秘書席の椅子を持ってこようとする。そもそも会長が部屋にいるときはここに座って来客の応対とかしないといけないのだろうに……。いくら特殊な業務だからって。
「いやいや」
笑いながら副社長は首を横に振った。気のよさそうなおじさん。50代半ばというところか。
「いいんですよ、いらない、いらない、すぐに退散しますから」
「ふ。腰掛けるものはあったんだが取り払ってしまったんだよ」
と、会長。は。さようで。
「そうそう、今では私の部屋にそれが来てましてね。だから副社長室には応接セットがふたつあるんですよ」
笑い話かい、それ。会長の人嫌いも困ったものだ。
人嫌い……。だけど何だか今は様子が違う。空気がぴんと張り詰めていないような。副社長の優しい笑顔がそう物語っている。
「副社長が君にこれを持ってきてくれたんだよ」
と、私の目の前にすっと寄せられた包み。
え? これって……。
―――ガトーショコラフォンデュ……。
うっすらと中身が透けて。手をかざすと熱い。そのせいでパラフィン紙の包み紙がふわっと膨らんでいる。きゅっとピンクとブラウンのリボンで結ばれて、可愛いラッピングだ。
「なじみの店に言って作ってもらったんですよ。お皿もフォークも入ってますからどうぞそのまま召し上がって。―――今年のバレンタインに品物と一緒にこれを配ったら秘書の方に喜ばれてね。市川さんはその頃いなかったでしょう? だからどうかなと思いまして。差し入れに来ました」
「あ、は、はい、え、そんな、すみません、じゃ、私だけ?―――え、バレンタインに??」
配ったって。普通女の社員が男の上司とかにあげるんじゃないの? いわゆる義理チョコってヤツだ。
きょとんとした顔をしただろう私に、会長と副社長はふふっと軽い笑みを浮かべた。
「……いい年をした男が真冬の時分にチョコレートの類をもらって喜ぶと思うか?」
ぐさりと胸に突き刺さる会長のお言葉。
……でも真夏にわたすとドロドロに溶けちゃうじゃん? 無声で意味のない反論をする私。確かにバレンタインに男にチョコあげるより貰った方が嬉しいなって思ったことはあるけれども。チョコ好きなのは圧倒的に女の方だからさ。しかしそう冷たく斬り捨てるのもどうかと。
微笑みながら副社長がちゃんと説明を施してくれた。
「毎年毎年女性も気を使って大変でしょう。正直私らも年だしねえ。ウチの会社は基本的に義理チョコはなしってことにしてるんですよ。まあ判断は各職場に任せてはいるんですけどね。全然もらわないって訳じゃないんですよ。得意先の秘書の方から結構な数頂いてますし、そちらの方はお断りするわけにいかないんで、せめて内部では義理は辞めておこうとそうしてるんです。逆にいつもお世話になっている秘書室の方々に希望を聞いて毎年ささやかな贈り物をしてるんですよ。菓子を添えてね。ふふふ、スポンサーは会長ですが」
「……副社長の目利きのお陰で今の所秘書の連中の不満はないようだが」
会長は皮肉っぽく笑った。ささやかなって……。どうせブランド物か何かでは? 秘書室の人全員に? やっぱこの会社ってばすごいな。
「まあ、食べなさい。冷めないうちに」
「は、はい。すみません、頂きます」
食べろと言われて、何故かコーヒーまで入れてあって、私は遠慮なく会長の広い机の端っこで包みを開けた。補助椅子に腰掛けて。ちなみに補助椅子と言ってもフラワーベースか何かを飾るスツールのようなシロモノだ。
途端に広がる甘いカカオの香り。ああ、幸せ~。フォークを入れて更に幸せ……。今度は目で味わう。とろーりと中からチョコレートが溶け出して下に敷いたアングレーズソースと混ざる。
オイシソ―――!!
これ嫌いな女の子っていないんじゃないかな、マジで。
「いただきまーーす」
勢いよくほおばった。
おいしいっっっ――!!
チョコレート生地の中からチョコレートが溶け出し、更にバニラ風味のソースと粉砂糖がこれでもかって甘味攻撃をかける。
パフェにも勝るスイーツオンスイーツだ。しかもちょっと大人のほろにが系。こればっかりは出来たてじゃないとね。ショコラフォンデュ。お店でもあんまし置いてない。あったとしてもできあいを温めて出してる所が殆どだからこんなトロトロのソースはお目にかかれない。作りたて。副社長の行きつけってフランス料理のお店なんだろうな多分。この深み、匂い、味、まろやかさ、超高級生チョコ使用に違いない。超ラッキ――――ッ。
「すみません、コーヒーも入れていただいて。私が入れないといけないのに」
「たまにはいいじゃないですか」
「これ、誰が?」
そろっときくと、副社長さんが会長を見て数回小さく頭を振った。
――ええ、会長に入れてもらっちゃったの? やだ―――。
「す、すみません」
「コーヒーメーカーなら私も入れられるんですけどね。この部屋にはないんですよ」
と、低姿勢な副社長さん。そんな、めっそうもない。
「あれは音がうるさい。味もすぐに落ちるし」
……会長。変な所にこだわるなって。それじゃエスプレッソマシンは何なんですか。
「ふふふ。ま、喜んでもらえてよかった。それじゃ私はこの辺で」
私の幸せ顔を見て安心したのか副社長さんは部屋を出て行った。
甘い香りが充満するお部屋にいつもの静けさが戻っていく。
「―――あ、すみません、会長、すぐに食べますんで」
今更だが私は会長の机でものをほおばっていることを恥じてそう言った。
「いいよ、別に。ゆっくり食べなさい」
と、お仕事モードに戻っていく会長。私のすぐそばでPCに向かい合う。
驚くほど切り替えの出来る人だ、この人は。もう私なんて眼中にない。多分。私は食べながらそのオシゴト顔をちらちら眺めた。
―――仕事人間にも心を許せる部下がいたのかな。
なんかそんなこと思った。あの姫島さんて多分そんなお人なんだろう。年齢がかなり逆転しちゃってるけど。
「あ、あの優しい方なんですね。副社長さんって」
喋っちゃいけないと思いつつ……私は口を開いた。
「ああ。父の直接の部下だった人間でね。社内で一番人望が厚い。君はウチの社長の名前が言えるか?」
無視されずに言葉が返ってきた。と思ったらまた説教か……。
「は、はあ。渋澤社長さん、ですか」
確かそんな名前。HP見ておいてよかった。
「そう……。渋澤氏は日本では指折りの金融のプロだ。副社長もそうだが。あの2人のお陰でウチの財務部門は他社をかなりリードしていると言える」
「はあ」
こういう話は仕事しながらでもできるんだな。それにしても菓子食べながらする話じゃないような。できたらソファかなんかに座って食べれるとサロン気分なんだけど。
って私がくつろいでどうする。
「ご馳走になりました」
「ん。君は美味そうに食べるな」
「はあ」
こんなもの気取って食べられるかっての。
思いっきりタナボタ――…。しかし思いがけずご立派なスイーツを出されて私はその後会長に自作のデザートを出すのがかなり恥ずかしかった。
――無事食べてはもらえたのだが。
ちょっとこの職、金額妥当なんだろうか。せめて明日からもっと原価をかけないと。マジでそう思った。
いつものように「先に帰っていい」と言われて秘書室ヘ戻ると、秘書の人に声をかけられた。会長は今日も会食だ。
「ね、市川さん、あなた会長にお出しする軽食も作ってるんですって?」
と、社長秘書さん。会長らの車の手配をして下に降りるところだったらしい。
「は、はあ」
「どうしてまた……。どう? 何かキツク言われたりはしない?」
「は、いや、特には……」
毎度毎度、何て答えていいかわからない、この手の質問。副社長さんと結構和んでいたんだけどな。そういう所はこの人たちにはあまり伝わらないのだろうか。
「会長って日中のお出かけがあまりお好きでないでしょ? だからお昼を抜いてしまうこともしょっちゅうだったけど。そう……。とうとう閉じこもってしまわれたのね」
と深いため息を漏らす秘書さん。ていうか元々は私が言い出したんだけども。
「大変ねえ」
とまた眉間にしわ寄せ顔で言われる。だから全然大変じゃないんだけど。どうも本当のことが言いにくい、この雰囲気。
「ああ、でも明日はあなたも息抜きができるわよ」
「え?」
息抜き?
「明日のお昼は会長、コンラッド東京であるHISのレセプションパーティに行かれるから。お食事はいらないはずよ。言ってらっしゃらなかった?」
「はい。知りませんでした」
「そう。やっぱり教えてもらってないのね、会長のスケジュール。……ま、いつものことだから。気にしないでね、市川さん」
「はあ……」
ってもそんなに悲観的に捉えてないのだが。多分明日の朝言われるんじゃないかな。別にそれでも気にしない私。
「でも……。あなたも会長のスケジュール知っておいた方がいいかもしれないわね。この後室長に言って送っておくわね。よかったら参考にして」
「はい」
スケジュール……。会食とかの?
「今日も会食なんですよね、会長さん」
「ええ、社長、副社長もご一緒にね。アメリカのグループ企業の方がいらっしゃるの」
「そうなんですか。どちらで?」
「久兵衛よ」
えーー、銀座の? 超有名なお寿司屋さんだよね? すご。そういうところで毎日食べてるんだ……。お昼に寿司もどきなんて出すんじゃなかったと後悔する私。しっぱーい! 会食のスケジュール表必要だわ、こりゃ。
何となく打撃を食らって、社長秘書さんについて下に降りる。そのまま帰らず、会長らを見送る秘書さんと話をしていた
やがて会長ら3人が現れる。私たちも続く。
広いエントランスに並んだ社用車はピッカピカ……。会長、社長、副社長が2台に別れて乗車するらしい。部屋からスーツ姿のままで出てきた会長に引き換え社長ら2人はコートの襟を立てていた。実際かなり寒くて、私でも寒い、と呟いてしまいそうだ。
と、突然、社長の大きな声が聞こえる。
「会長。寒くないですか、コートもなしで」
「……いや。別に平気です」
「はははは、さすがにお若いですな。私も見習ってマフラーくらいは取ろうか」
社長さんは笑いながら襟元に手をかける。高そうなマフラーがちらりと覗いて。
「――いやいや、社長。無理はなさらん方がいいですよ。私は逆に女房から『着込めるだけ着込め』と言われております」
副社長が間を取る。
「ほう」
「やせ我慢をして薄着でいるのはかえってみっともないからやめてくれってね。それで倒れでもしたら目も当てられん、もうお互い年なんだから無理するな……と、それにはじまっていつの間にかウチの話になりましてな。どこそこのお宅のようにウチも全室なるべく同じ温度にしておいたほうがいいと言い出しまして。私が頷いて聞いているのをいいことに、結局家の空調を新調させられましたよ。……わははは、うまいことのせられました」
「はは、そうですか。どこも女性が強いですな。倒れるのはたいがい男の方ですし」
「ククク、そうそう」
「マフラーやっぱりしておこうか。血管切れちゃいかん」
オヤジトーク炸裂――…。
寒いんなら話してないでさっさと乗っちゃえば?
初めて現物見たけど気さくな感じの社長さんだ。
渋澤京一社長、姫島基樹副社長、そしてウチの会長。さしずめウチの社の三本柱って所だろうか。
寒空に消えるオヤジ三人衆。会長以外はなんか人当たりよさそうなおじさんで。ちょっと意外だった。
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皇帝のお渡りもないし、既に皇后に一番近い妃もいる。
縁付くには程遠い私が、ある日を境に平穏だった日常を壊される羽目になる。
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多分…
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